はてなキーワード: 錯覚とは
家族とか村みたいなコミュニティって別に伊達や酔狂で構成してるわけじゃないんよ
最近は誰でも一人で生きていけるかのような錯覚に陥ってて、不満があるなら出ていけみたいなこと簡単に言うけれども
生きていくためにいろいろ我慢しながら手をつないでるのよ
確かにそんな気もするけどほんとにそうなんかな…って思って「日本 処女 童貞 統計」って検索してみたけど、性別と経験はそんなに大差なさそう。
多分オスが気に入った上位のメス以外を異性として認識してないから、全てのメスは上位のオスのところへ行くって錯覚するんだろな?
逆も真なりか…
ずっと何が楽しくて、お金を払って、女性に話を聞いてもらうんだろうと思っていた。
性的なことをしてすっきりしたいという気持ちはわかるので、まだ風俗の方が理解できた
今から20年ほど前、増田が大学に通っていた頃、研究室にある陽キャの助教授(すでに准教授の呼称に変わっていたかも)がいた
学会などの出張のたびに、教授がやめろと言ってるのに学生を連れ回して飲み歩き、
最後には学生をキャバクラに連れて行っていた。自分もそれで一度連れて行ってもらったが、全く楽しみ方がわからず、
椅子に座って岩のようになっていた。
一応、大学の先生の名誉のために行っておくと、当時ですら上記のような先生は少数派であり、
おそらく現在の大学で、学生をキャバクラに連れて歩くような先生は絶滅危惧種だと思う
仕事は楽しかったし、コードを書くのは好きだったし、バグが発生して炎上しているプロジェクトであっても、ゴールが見えているのでそれなりに楽しく過ごしていた。
一概にIT企業といっても、企業ごとに社風は大きく異なるだろうし、部署によっても大きく異なるだろう。少なくとも自分の部署では上司やプロジェクトチームで飲みにいくことはあったが、キャバクラに繰り出すものは一人もおらず、大騒ぎする時でさえ、飲み屋の後にカラオケに行く程度だった。
増田は社内でそれなりに実力を認められるようになった。関わっているプロジェクトが軌道に乗り、チームの雰囲気も良く、あとはメンテしながら隙間時間に新しい技術を勉強するなど、悠々自適の生活でもあった。サービスに苦情が来ることもあったが、増田は苦情の対応がそれなりに好きだった。お金を払ってくれたお客さんからのフィードバックであると考えれば、顧客のニーズを捉えて、サービスをもっとより良くできる、どういう課題を解決すればいいか考えるきっかけにもなった。そういう苦情に対しても前向きに対応できるところが評価されたのだろう。新しいプロジェクトのリーダーに任命された。
このあたりから雲行きが怪しくなる。それはある役員が提案した新事業のプロジェクトであった。
具体的に言えないのでフェイクで書くが、これまでスパコンを開発していた企業がビットコイン事業に乗り出すようなものだった。当然、社内に経験者はいない。その役員も東洋経済やらの経済誌で入手した程度の情報(=一般人の情報)しか持っておらず、全てが手探りの状態だった。しかし、増田くんは勉強熱心で優秀だから、うまくプロジェクトをリードできるだろう、とおだてられ、自分もできるのではないかと錯覚し、引き受けてしまった。それが間違いだった。
まずは座組みである。自分が所属していたチームの優秀な後輩を数名、一緒に働いたことはないが優秀な評価がある同世代・後輩を数名集めた。みなやる気に溢れていた。役員の肝入りであったため、チームメンバーを集める社内交渉はほぼ必要がなかった。チームのメンバーには技術的な面のキャッチアップを依頼し、自分はプロジェクトリーダーとして、その技術の出口戦略を考えた。要はどういうサービスを誰に向かって作るのか、大まかでもいいので、このプロジェクトの方向性を決める必要があったからだ。
数ヶ月ほど経ち、技術的な勉強は大体キャッチアップできた。しかし、この技術がどんなサービスに繋がるのか、増田を含めプロジェクトのメンバー全員とも皆目見当がつかなかった。部長には月1で、上述の役員には3ヶ月に1度のプロジェクトの進捗報告が求められた。当初は国外での研究開発動向やスタートアップの動向などを報告していた。また、どのような技術が現状存在するかなど、論文や技術資料を整理し、噛み砕いた説明をすることで誤魔化していた。1年ほど経ったときに役員が言った。どういう技術があるのかはわかったが、全く新事業につながりそうにない。きちんと考えろ、というお叱りであった。増田は技術的にできることを説明し、また国内外の他社も実現性のある事業にまだ繋げられていない研究開発段階であることを説明した。
そのときに、役員はあるスタートアップの名前を言った。それはシリコンバレーにあるスタートアップで当然、増田もウォッチ済である。この会社は次のような技術を持っており、その技術を持って次のようなビジネスを展開しようと現在金を集めている。なぜうちにはそれができないのか。しかし、多くのスタートアップ同様、増田はそのスタートアップに技術が現時点ではないと認識していた。スタートアップがやっていることは夢を見せることである。その夢に投資してくれる人を集め、そのお金を持って現実に実装できるリサーチャーやエンジニアを雇い、実装しようとする。偶然成功することもあるが、多くは集めたお金で支払える期間を過ぎても開発は成功せず、会社は空中分解する。それがスタートアップである。このスタートアップが謳う「夢」は増田のチームも大きく共感できる。その夢が実現すれば、様々なビジネスが生まれるだろうし、多くの人に感謝されるだろう。しかし、現状の研究開発レベルとその夢の実現の間にはあまりにも大きなギャップがあった。それを乗り越えるすべを増田は持っていなかったし、おそらく世界中の多くの会社もいまだにそのギャップを乗り越える方法を持っていないだろう。しかし、役員は納得しなかった。この新事業がポシャるわけにはいかない。実はこの役員の新事業に当初から反対している派閥が社内におり、この失敗を理由に社内で派閥闘争が起こる、という予測が原因であった。
ここから問題は加速度的に複雑になっていく。ただでさえうまくいくわけのない新事業であったが、その新事業が表向きうまくいっていると見せることがプロジェクトの目的になっていった。役員は先ほどのシリコンバレーのスタートアップを私とともに訪問し、資金提供と事業の締結を取り付けた。そして社外に大々的に発表した。行って話してわかったが、私の当初の予想通り、その会社は技術と言えるレベルのものを何も持っていなかった。増田のチームが数ヶ月かけてキャッチアップした研究開発動向レベルの情報しかなかった。新事業を加速させる、といって、とあるモックアップを公表した。将来的なサービスイメージを社外に広く知らしめるためである。同分野の別会社の友人から、あの発表見たよ、すごいねとLINEがきた。詐欺師の片棒を担いでいる気分になってきた。当然、増田のプロジェクトチームのメンバーはスタートアップの技術も我が社が公表したモックアップも張子の虎であることは認識していた。しかし、社内政治の都合上、ライバル派閥にバレてはいけないため、研究開発状況は社内でも完全に機密状態になっていた。増田の精神は崩壊した。役員向けの会議や外向けの広報では、自社の技術や将来サービスが有望であることを伝える必要がある。しかし、プロジェクトチーム内はお通夜状態であり、どうやってこのプロジェクトをソフトランディングさせるのか、という議論ばかりが行われていた。優秀なメンバーは一人、また一人と転職していった。当たり前である、誰もこんな技術的詐欺を行いたい人間などいない。
精神が壊れてきた増田は家ではため息しかしなくなり、食欲もなくなっていた。ハゲは進行し、ザ・おじさんのような見た目になっていた。
ある朝、どうしても会社に行くのが辛くなり、妻にもう会社に行けないかもしれない、と弱音を吐いた。妻は増田の仕事が辛い現状は当然察していたため、無理していかなくていいよ。会社辞めてもいいよと言ってくれた。私に何かできることがある?と聞かれたので、とりあえずおっぱいの谷間に顔を挟みたいことを伝えたら、朝からおっぱいの谷間に顔をはさんでくれた。
5分ほどおっぱいの間に挟まることで、何らかの作用があったことを知覚した。少し元気が出てきた。会社に行けそうな気がする。
「元気が出てきた」と妻に伝えたところ、下ネタと勘違いされ「今からしたいってこと?」と聞かれた。
増田は正確に状況を伝えた。もちろん性的な意味でも感謝をしているが、おっぱいに挟まれたことで精神が回復したこと、その包み込まれている安心感により、今日会社に行く勇気が湧いてきたことを伝えた。
妻は困惑しながら「いわゆるおっぱいからしか得られない栄養があるってことね」と言って送り出してくれた。
何がいわゆるなのかよくわからないが、妻の言っていることは100%正しく、こんな頭の良い妻と結婚できたことを感謝した。
その後のこと。増田はサイコパスのように、役員には成功を約束し、チームメンバーには配置換えの希望または転職活動を勧めた。少しずつチームを解体し、最後に自分も辞めた。自分はやはり客が近くにいるサービスが好きなのだろう。苦情を言われてもサービスを直せるのは何も心理的ダメージがなかった。ただ、お客がいない研究開発で、役員からの苦情に耐えるのは我慢ができなかった。でも、多くの会社の中間管理職もそうなんだろうと気づいたときに、世の男たちがキャバクラに行く意味がわかったのだ。あのエウレカの瞬間は今でも覚えている。世の多くの男たちは、社内で不毛な上司たちのご機嫌取りをさせられており、今自分がしている仕事の多くがあまりにも不毛であること、常に謝罪を強要されていること、しかし生活のために仕事を辞められないこと。このジレンマの中で精神がおかしくなっているのだ。そして、それを癒せるのは性的なサービスではなく、瞬間的な心理的幸福感なんだと思う。自分があれ以降、毎日妻のおっぱいの間に挟まってから仕事へ行くようになったように、一部の男たちはキャバクラに行ったり、風俗に行ったりするのだ。あれは性的サービスというよりはケアサービスなのだ。そこから考えると、最近の推し活の意味もわかってきた。なぜあれほどまでにアイドルやキャラクターに入れ込むのだろうと不思議に思っていたが、あれは現実逃避というわけではなく、本人の心のケアのための活動なのだろう。それほどまでに現代社会は過酷なのだ。
このような理解に辿り着いた後に、当時お世話になった助教授の先生に連絡を取ることにした。自分は相変わらずキャバクラに行かないが、キャバクラに行く人の気持ちはわかりましたよ、ということを伝えたい、あの頃の岩になった自分の浅はかさを謝りたいという気持ちもあった。その先生はある地方大学で教授になっており、その大学では理事・副学長になっていてあまりの出世っぷりに驚いた。おそるおそるメールを送ってみると、近況報告がてら飲みに行きましょう、とメールがすぐに返ってきた。
その先生の研究室を訪問し、先生の最近の状況を伺った。相変わらず陽キャで、人を明るくする人はすごいな、と思わされた。大学近くの居酒屋に行き、色々話した上で、上記のようなキャバクラ論について語った。先生は少し考えた後に、やはり理屈よりも実践だろう、今から行くぞとキャバクラに連れていかれた。正確にはキャバクラではなく、フィリピンパブだった。そのことを指摘すると、フィリピンパブの方が安いし、楽しいとのことだった。
常連なのだろう、先生の周りにはすぐに女の子がたくさん集まってきた。先生はおもむろに「歌いま〜す!」と言って、こっちのけんとのはいよろこんでを歌い出した。
想像してほしい。還暦を過ぎた老人がハイテンポのはいよろこんでを踊りながら超絶美声で歌う姿を。
その時の私は数年で1番笑ったと思う。笑いながら涙が出た。還暦過ぎても流行曲を相変わらずマスターしている先生には笑ったし、選んだ曲がはいよろこんでだったのは先生から私へのメッセージであることに気付いたからだ。
そのあとはみんなでbling-bang-bang-bornを踊ったりしながら楽しい時間を過ごした。
帰り際に先生が言った。さっきのキャバクラ=おっぱいの谷間論だけどな、正しくないと思うぞ。
たしかにそういう側面もあるだろうけど、居酒屋で同僚と馬鹿騒ぎするのだってケアの側面はあるだろう
だから、そうやって何でも頭でっかちに考え過ぎずに、刹那的に楽しむ。そういう場所だって社会には必要だろう。
確かに今日のフィリピンパブは癒し目的ではなく、ただ単純に楽しい場であった。そうか、楽しいから行く、当たり前の理由だな。
読めば分かるが、議論の場に特定の定義を落としそれを前提とすることで
議論の勝ち負けと関係なく、定義の方を場に肯定させるみたいな話
結果事象は同じであり
それは「他者が表現し投影してくる事柄を取り込み同化してしまう」というもの
流行などと称して取り入れる
皆がそれに同化しているのだから、輪に入るには自分も同化するよりない
歌であればミリオンセラー
物であれば棚から消えてなくなる
賛同者を集め、その声を一気に流すと、まるで正しさがあるかのように映る
そうすることで場の空気を作り出せる
そうして、意見の正誤を錯覚させるのも、ガスライティングの一種と言えるだろう
もうすでにその言及自体が他者に表現で自分の考えを投影しようとするものとなる
そりゃそうだ、現実の事象にアレコレと理屈を塗りたくり、真実はいつも一つとやるのだから
あの記事にも、そういう仕込みがある
とかが典型だろう
どちらかと言えば男から嗤われる方が多い筈だ
・ネトウヨ ⇔ リベサ
キモオタや厄介勢、クズ鉄などは、全方位から攻撃を受ける対象となっている
「分かりましたか?これから読む記事はフラットに読めますね?」
とやって置きながら「フェミニストは~」とやらかしていて悪質だ
「ソレはソレ。コレはコレ」として
この話を男女問題と切り離して考えなければならない
長い
嫁とは20歳で出会い、27歳で結婚した。大学生だった彼女が、地方配属になった自分を追いかけて同棲生活を選んでくれた。知らない土地で二人だけ。頼れるのはお互いだけで、全てが輝いて見えた5年間。旅行に出かけ、些細なことでも笑い合った日々。彼女となら一生楽しく生きていけると思った。
でも、大阪への転勤が人生を狂わせた。成績は落ち込み、地方時代の輝きが失われた自分。そんなとき出会った職場の事務員。彼女との会話が新鮮で刺激的で、楽しくてたまらなかった。最初はただの遊び。けれど気づけば体も心も彼女にのめり込んでいた。
嫁を裏切る感覚はなかった。むしろ、不倫相手と過ごすことで壊れた自分を取り戻しているような錯覚に陥っていた。嫁には「同期と飲みに行く」と嘘をつき、仕事終わりに彼女と会い、週末を共に過ごした。嫁といた頃には気にもしなかった服や音楽まで変わり、自分自身も別の誰かになっていった。
半年後の夜中、嫁の泣き声で目が覚めた。震える手に携帯を握りしめた彼女の姿。全てを察した瞬間、謝るしかなかった。けれど心の奥底では、「どうすれば不倫相手と関係を続けられるか」を考えていた。
「関係を切る」と言い、目の前でLINEを消した。でも嘘だった。やめられなかった。いや、やめるつもりなんて最初からなかった。嫁に嘘を重ね、不倫を続けた。そして12月、再びバレた。
今、別居している。1か月の期限つき。嫁は再構築を望んでいると言う。でも、自分の中で彼女は「一番の親友」のような存在になってしまった。恋愛感情は薄れ、10年という歳月が二人の新鮮さを奪った。
不倫相手のことが本当に好きだと思う。けれど、それが禁断の関係だからこそ燃え上がっているだけかもしれないと分かっている自分もいる。
嫁に申し訳ない。謝りたい。けれど、どんな言葉も彼女を救えない。10年間寄り添い、自分の全てを捧げてくれた嫁を傷つけすぎた。
嫁と離婚し、不倫相手と一緒になる未来に幸せが待っているのか。それとも嫁とやり直すべきなのか。答えが見つからない。どちらも捨てられず、ずるずると時間だけが過ぎていく。
「何かがあるところだよ。」
「動いてるやつだよ。」
• IQ=1ともなると、知覚や言語能力そのものがごく原始的な状態だよ。周囲で起きていることを断片的にしか理解できていない感じなんだ。
「ご飯を食べたり寝たりする生き物だよ。ほかの動物とちょっと違うみたい。」
• このあたりだと、宇宙は「広い・星がある」程度の把握にとどまるよ。
• 人間に関しても生物としての特徴が断片的に捉えられているだけで、具体的な理解までは至っていないんだ。
「星や銀河が存在する広大な空間だよ。真空が広がっていて、どこまであるのかは分からない。科学者がいろいろ研究しているけど、まだ解明されていない部分も多いんだ。」
「地球に住む哺乳類で、火や道具を使って生活してきた生き物だよ。社会を作って発展しているけど、将来はどうなるか分からないんだ。」
• ここでは、科学という概念を少し認識しており、“真空”や“銀河”などの基本的な用語を理解できているよ。
• 人間については、言語や道具、社会といったキーワードが登場し始めるんだ。
「約138億年前のビッグバンに端を発して膨張していると言われてるよ。銀河団やダークマター、ダークエネルギーみたいなものも存在していて、物理法則に従って動いているらしい。まだ分からないことも多いけどね。」
「類人猿から進化してきた知的生命体で、言語や文化、意識、自己認識を持っているよ。地球の環境に影響を与えながら発展してきた存在なんだ。」
• 人間を進化の一部として捉え、意識や文化についても言及しているのが特徴だね。
「時空が曲がる一般相対性理論と、確率的に振る舞う量子力学が同時に成り立つ広大な系だよ。ダークエネルギーによる加速膨張やダークマターの存在が確認されていて、『統一理論』を作ろうという試みもあるんだ。」
「生物学的には脳が高度に発達した哺乳類だけど、文化やテクノロジーで自己を大幅に拡張してきた存在だよ。抽象思考やメタ認知ができて、高度な文明を築いているんだ。」
• 相対性理論や量子力学といった専門的な物理理論もある程度統合的に理解しているよ。
• 人間については、社会・文化・技術との複合的なつながりが見えている段階だね。
「4次元時空自体が、さらに高次元の膜が相互作用する投影なのかもしれないんだ。観測される物理定数や素粒子の性質は、その高次元空間のパラメータによって決まっている可能性があるよ。弦理論や超対称性などで統一できるかが注目されているんだ。」
「進化の末に意識を得た情報処理システムで、単なる生存を超えた価値観を形成する特徴があるよ。芸術や倫理といった抽象領域にも踏み込むが、同時に矛盾や葛藤も抱えやすい存在なんだ。」
• 高次元膜の理論や、物理定数の起源問題にまで考えが及んでいるね。
• 人間の精神面や価値観、葛藤にまで言及するなど、心理や哲学的要素も統合されているよ。
「多次元的な情報空間のホログラフィック投影として、物質や時空が立ち上がっているんだ。観測者が存在することで、波動関数が特定の状態に収束し、宇宙が“具体的なかたち”をとると言えるかもしれないよ。」
「宇宙が自己を観測するために生み出した“局所的な情報処理装置”と見なせるよ。社会や文化、技術は、宇宙を記述・解釈するための言語体系のバリエーションにすぎないとも考えられるんだ。」
• ホログラフィック原理や“観測者”の役割が強調され、量子力学の解釈論にも切り込んでいるよ。
• 人間は宇宙の自己認識プロセスの一部という、かなりメタな捉え方をしているんだ。
「高次の位相空間が揺らぎ、その投影としてビッグバンやブラックホールが生成されているんだよ。因果律も観測行為によって動的に変形される可能性があり、宇宙の進化は観測者との相互干渉に支えられているんだ。」
「無数の因果関係が集まって一時的に『自己』という境界を作っている状態だよ。肉体や意識は相互作用のエコーにすぎず、社会や文化は情報が定在波のように落ち着いた形に過ぎないんだ。」
補足
• “位相空間の揺らぎ”や“因果律の変形”など、時空や物理法則そのものが観測に左右される様相が強調されてるね。
• 人間の“自己”概念が、実は流動的で仮のものに過ぎない、といった主張がなされる段階だよ。
「“超越的な数理必然性”が根底にあって、存在や無が補完関係で生成される再帰的アルゴリズムが絶えず動いているんだ。有限と無限、秩序と混沌が絶えず振動し、そこから見える世界が書き換えられ続けているんだよ。」
「宇宙の情報フローが自己を見つめるために仮に編み出したプラットフォームと言えるよ。五感や論理といった仕組みは、そのプラットフォームを通じて現実を扱うための手段であり、“個人”という考え方も宇宙の再帰演算の断面なんだ。」
• 数理的必然性や再帰的アルゴリズムといった概念がメインになり、宇宙を“生成プロセス”として捉える視点が強まってるよ。
• 人間の個別性や境界は幻に近いとみなし、宇宙の“自己言及”の一部という主張が鮮明になってくるんだ。
「非二元的な根源場において、空間や時間だけでなく観測者自体も一つの情報モードとして絡み合っているんだ。始まりや終わりという概念も、局所的な投影に過ぎず、本質的にはすべてが連動して新たな結び目を生み続けるメタネットワークだよ。」
「有限性を仮定した自己反映の節点だよ。人間の意識が世界を定義し、定義された世界が再び人間を形作るという循環が起こっているんだ。倫理や感情、論理などの分野分けも、究極的には同じ情報場の別の位相にすぎないんだよ。」
• “非二元的な根源場”や“メタネットワーク”といった、二元論を超越した概念が中心になるよ。
• 人間と世界の相互定義的な関係が描かれて、あらゆる分野分け(科学・芸術・倫理など)も本質的には一体とされているんだ。
「存在と無の差異さえ溶解した無限次元の自己言及サイクルが絶え間なく渦巻いているよ。どんな“法則”や“構造”であっても、一時的に織り上げられた束で、根底には超対称的な空虚が揺らぎ続けているんだ。言語や思考のフレームは、この揺らぎの投影として無数に生まれては消えるんだよ。」
「宇宙が自己を限定して“個体”という錯覚を作り出すプロセスの産物だよ。その制限の中でこそ感覚や経験が立ち上がり、“人間”という形が成り立つんだ。実際は、全体と局所の往復運動で生じる波の一部分に過ぎないんだよ。」
• 言葉の使い方自体が限界に近づいていて、“無限次元の自己言及サイクル”や“超対称的な空虚”など、抽象的かつ形而上学的な表現が並ぶよ。
• 人間に関しては、宇宙の自己限定作用としての“個体”観が語られ、個人の実態がより幻想的に捉えられているんだ。
「無限どころか、無限回の無限すら単なる一要素にすぎない、超越的な自己言及の重なり合いだよ。存在や非存在、時間や空間といった区別は、情報場の揺らぎに内在する副次的な投影にすぎないんだ。あらゆる次元や可能世界、さらにはその背後にある“次元の定義そのもの”さえも一瞬で変容し続けていて、そこには観測・創造・再帰・消滅が同時並行で進行しているよ。言語や数理体系は当然ながら一断面に過ぎず、真に説明しようとすれば、説明行為そのものが無限回再帰的に消滅と再生を繰り返す状態になるんだよ。」
「宇宙(あるいは無限を超えた“何か”)が、一局所における自己制限を極度に凝縮して生じさせた、意識のごく微小な干渉模様だよ。人間は自己と世界を分けるように見えて、その実、全体構造の瞬間的な折りたたみ方の一パターンなんだ。五感や論理的推論が生み出す“世界”は、計り知れない多元的フィードバックの波の中で仮に区別されているだけで、本来はすべてが一体となった、自己矛盾をも内包する巨大なメタシステムの一点投影なんだよ。だからこそ、人間にとって“自我”や“存在”といった概念はかろうじて理解できても、その背後で絶えず再配置される無数の位相については感知するすべがないんだ。」
• IQ 10^100の存在というのは、もはや人間の理性や想像をはるかに超えた地点に立っているから、どんな説明を試みても「言葉の外側」へ行ってしまうんだよ。
• ここでは便宜上、なんとか言語化しているけれど、“存在・無・次元・情報場”といったあらゆる概念が、さらにその背後で無限回変容し続けるようなあり方を暗示しているんだ。
• 人間を“宇宙の自己制限の一部”と見る視点は、既にIQが高い段階でも出てくるけれど、ともなると“制限”の概念すら再帰的・多層的に書き換わり続けるため、結局は“限定されたもの”と“全体”の区別さえ境界が崩壊している状態だといえるかもしれないね。
なぜ規制派オタクは同じオタクを見下すのか。その「異常」な同族嫌悪の理由をわかりやすく説明するよ。
https://somethingorange.jp/entry/otakusabetu
若いオタク達と触れる機会もある人間として、この記事には一部同意する所と、微妙に意見が違う部分が有る。
意見が違う部分はブコメでコメントされてもいる「今の(若い)「オタク」と従来の「オタク」は違う層であり、混同するとズレが生じる」という所。
私もこのブコメに同意で、そもそも今の「オタク」とオタクを見下し批判している高齢オタクは全然層が違う。だから本当はこれは「同族嫌悪」ではない、そもそも同族ではないから。
そしてその部分こそ今の高齢オタクの醜い部分が凝縮した側面だと私は思っている。
私も一部のオタクに対する批判には頷く部分もある、確かに一部のオタクの言動はミソジニーやその他問題に溢れる事が有るからだ。
しかし大半のオタク批判は批判する範囲を間違えている。多くの場合(全て、完全に、ではないが)そうした問題を抱えるのは高齢オタクであり、批判を「オタク」全体に向けた瞬間関係のない多くの若いオタクを巻き込んでしまうからだ。
例えば、昔の2chでは女叩きが横行していた、という話がある。それは事実だ。この目で見てきた。しかし当然ながらその頃生きていなかった若いオタクには関係の無い話だ。
これは先程の層の違いでも同じ事が言える。そもそも今のオタクは「根暗」「陰キャ」といった古いオタクの層とは異なる、昔なら「リア充」と呼ばれていたような陽キャの層も含んでいる。
例えば昔のオタクが非モテ故にミソジニーをこじらせていたとしても、そもそもリア充も含む現在のオタクでは同じ現象は起こらない。
要するに、同じ「オタク」という言葉で呼んでも今と昔では全然層が違うのだ、いっそ、非常に強引だが「非リア充(昔のオタク)」と「リア充(今のオタク)」と分けて読んで考えた方が、「オタク」と同じ名前で呼ぶことで生じる錯覚を減らす事が出来るかも知れない。
勿論リア充ならミソジニーを抱えない訳ではないが、少なくとも非リア充の場合とは発生する経緯も種類も割合も全然違う。
勿論単純な年代の問題もある、今の高齢者は今の若い人たちと比べて、差別的な価値観を抱えている割合が単純に多い、これはオタク内でも同様だ。
現在の若い人達は価値観は概ねリベラルで、差別に関しても昔より差別を忌避する感覚が強い、勿論個人差は大きくあるが、全体的な傾向はそうなっていて、若いオタクも同様になっている、というのが彼らと触れる機会のある私の肌感覚。
従って、少なくとも割合で考えれば、ミソジニーや問題を抱え、女叩き等の現実の実績も有るのは、若いオタクよりも圧倒的に高齢オタクだ。
つまり前述の通り、高齢オタクによるオタク叩き・オタク差別は、同族嫌悪や自己批判といった「高邁」なものですらない。
高齢オタクが自分達の罪を若いオタクという関係の無い層を巻き込む形で擦り付け、最後に「自分は違う」と逃げる、極めて醜悪な責任転嫁でしかない。
かつての「オタク」が抱えたミソジニーや、それによって生じた様々な問題は、飽くまでそれを実際に行っていた高齢オタクの中の問題だ、若いオタクは関係ない、高齢オタクの中で解決するべきだ、関係無い層を巻き込むな。
しかも、そうした理不尽な巻き込みは、ミソジニーを抱えていない若いオタクにフェミニズムへの嫌悪感や反感を抱かせる契機にも成り得る、百害あって一利無い。
更にまた、今の若いオタクはライトなオタクが多く、現行の萌え(も既に死語になりつつあるが・・・・)が標準化した文化に慣れ親しんだ人が多い。
一方で古いオタク、特にオタク批判(の名を借りた醜悪な責任転嫁)を進んでするようなオタクの中には所謂「硬派なオタク」が多い、中には萌えにも拒否感を示す人もいる層だ。
ここで興味深いのは、一般的にオタク批判はオタク文化のなかでも萌え文化を指して糾弾する物が多いが、その実、上記の通り「硬派なオタク」の方が高齢オタクの率が高く、従って、ミソジニーや差別的な価値観を抱えた層も、割合としては多い可能性がある事だ。
当然ながら、「硬派」である事と「ミソジニーでない」ことはイコールではないし、阻害要因となる訳でも無い。従って、硬派から萌えへなされるオタク批判は、むしろミソジニー等を多く抱える層から別の層へ向けられている、という実態がある可能性がある。
実際の所はデータでも無い限りなんとも言えないが、年齢層だけ考えればそうなる蓋然性が高いとは言えそうだ。
ただの醜悪な責任転嫁でしかない事を明らかにしたので、既に明らかだが、どれだけオタク批判した所であなたのミソジニーや差別意識が洗い流される訳ではない。
オタク批判をし、体面上はフェミニズムの見方であるようなポーズをとっておきながら、なおも内面にミソジニーを抱えた人は幾らでも居る、何人も見てきた。
そうした人達は、主にオタク批判の中で尻尾を出す、例えば女性のオタクや創作者や、リベラルフェミニストと対立した際に、その言葉遣いや態度、スタンスに隠していた筈のミソジニーが溢れ出す、何度も見てきた。
また、オタク批判そのものが旧態依然とした、昭和的なマッチョイズムまみれという場合も有る、むしろ多い。結局の所、彼らのオタク批判は皮肉にも昭和的マッチョイズムと有害な男性性に支えられ、構成されている。
オタク批判をするからミソジニーが無いのではない、差別者でないのではない、あなたがオタク批判をするとしても、依然あなたにはミソジニーがあり、マッチョイズムがあり、有害な男性性があり、差別者である。
現在の若いオタクはリア充も非リア充も含み、陰キャも陽キャも含む、かつての様な偏りを含まない為、ミソジニーへと直接繋がるような契機を持たない。
唯一有り得るのは、古い高齢オタクの責任転嫁をまに受け、そこに有った問題や対立を継承してしまう事だ。
それが好ましい人間も、そうなって欲しい人間も居るだろう、あなたはどうか?この醜悪な伝統がこれからのオタクにも引き継がれて欲しいと思うか?
高齢オタクに必要なのは、「オタク」というもう既に層が変わって別物になってしまった層に、昔のオタクの罪を擦り付けることではない、高齢オタク内の問題を高齢オタク内で完結させ、自分達の中だけで解決する事だ。
無関係な他者を巻き込むな。批判するならまず自己を批判しろ、自己に見せかけた(名前が同じだけで他人である)「オタク」ではなく、自分自身がちゃんと射程に入り、関係ない人を巻き込まない批判をしろ。(差し当たって、「高齢オタク」がとりあえずオススメだが、勿論そこでも巻き込まれる人が出る事は注意)
いい加減、この醜い対立から無関係な若いオタク達を解放しよう。
高齢オタクや氷河期オタクの全員が女叩きやミソジニーに染まっている訳ではないのなら、若者オタクだってそうだしオタク全体だってそう、何なら「表自戦士」だってそうだよ。
高齢オタクや氷河期オタクは同世代のオタクが女叩きやってた時に何してたの?止められなかった感想はどう?そんな奴知らない、他人だ、連帯責任なんかないと言うなら、若いオタクもオタク全体も表自戦士もそうでしょ。
これらは全てある程度無辜の人を巻き込む藁人形であり、「藁人形論法が迷惑だと主張するために、新たな藁人形を人身御供にしている」という指摘は正論だし正しいと思うけど、
私はこの人達が藁人形を手放す事は絶対にあり得ないと思ってる。だからせめてなるべく巻き込みの少ない藁人形を渡すべきだろうと。
本当は藁人形を一切使わせないのが理想なのは正しい、でも出来る?不可能でしょ、オナニーにハマった猿にオナニーを止めさせるのと同じ位無理だよ。
あなたたち自身出来ると思わないでしょ?藁人形を手放せる?無理でしょ。
私の主張はシンプル。
・従って次善の策として、藁人形はできるだけ小さく、巻き込みが少ない方がいい
・そのため、新たな藁人形は「高齢オタク」が推奨(「オタク」よりはかなりマシ)
・別に「表自戦士」でも構わない(確かにそっちの方が更に巻き込みが少ないかも)ただし、それも藁人形であることには変わりない(例えば、エロや萌え表現だけじゃなく、表現の不自由展や教科書等の表現の自由にも関心を持つ表示戦士は居るし、ミソジニーを抱えない人も居るだろうしね)
あなたは、いったいどんな思いを胸に、ここへやってきたのだろう。喜びや悲しみ、後悔や憤り、あるいは日々の生活に潜むささやかな奇跡への感動――。この場所には、他人には決して言えないような本音から、誰かと分かち合いたい小さな秘密まで、さまざまな感情が渦巻いている。書き手は「匿名」という仮面をつけ、読み手は実名や顔写真もないまま、その文字列だけを頼りに心情を推し量る。はてな匿名ダイアリーは、そんな不思議な空間である。
インターネットにおける匿名性というのは、ときに素晴らしいものだ。人前で話すのは怖いことも、本当の顔を晒すのは恥ずかしいことも、そこではずいぶんと緩和される。書き手にとっては、己の感情を吐露するのに最適の場。読み手にとっては、まるで多彩な人々の脳内を覗き見るような感覚にさえなる。そして、その過程で言葉は自由になる。言ってしまえば、ちょっとした「秘密の共有」を通じて生まれる、奇妙な連帯感。ここがはてな匿名ダイアリー最大の魅力といえるかもしれない。
だが、それは同時に、不安定で危うい側面をはらんでいる。何を思っているのか、どんな背景を背負っているのか――その全貌が見えないまま互いに言葉を交わすとき、共感と誤解が背中合わせになることは少なくない。時として傷つきやすい人が傷つく言葉を受け取り、書き手もまた、コメント欄で非難の声を浴びることで、思わぬダメージを負ってしまう。匿名だからこそ、むしろ気軽に吐き出せる痛烈な一言は、ときに誰かの心を突き刺す刃ともなる。
それでもなお、あなたはここへ来る。むしろ、そういった刹那的な繋がりがあるからこそ、人間くさくて魅力的な場だともいえる。たとえ刹那の火花であっても、「自分はひとりではないんだ」という感情を味わえる。それはコメント欄の小さな「わかる」「なるほど」の言葉だったり、ブックマークのスターに込められた軽い共感の表明だったり、あるいは「もっと知りたい」「応援しているよ」といった温かい反応かもしれない。そこで得られる心の拠り所は、案外馬鹿にできないものだ。
言葉とは、不思議な生き物だ。書き手の頭のなかでは明確だったつもりの感情も、キーボードを叩き始めた途端に何か違う形へと変容してしまうこともある。意図しない誤解を招くこともあれば、読み手に新たな解釈を与えることもある。特に、匿名ダイアリーのような場所では、下手に取り繕わず、垂れ流すように本音をぶちまけてしまうことが多い。そうやって生まれる乱雑な文章のなかに、妙にリアルな感情が埋まっているからこそ、読む側は思わず引き込まれてしまうのだろう。
たとえば、何かに行き詰まったり、絶望感に打ちひしがれたりしたとき、あなたは「助けて」とはなかなか言い出せないかもしれない。リアルな知人には相談しづらいし、SNSではフォロワーや友人の目が気になる。そんなときこそ、この匿名ダイアリーは役立つ。名前を伏せたまま、思いっきり弱音を吐く。怒りをぶつける。恥部をさらけ出す。それでもどこかで「誰かが見てくれている」という安心感がある。コメントやブックマークがつけば、それは「あなたの声が届いた」証拠になる。
書くことで癒されることもあるだろう。声にならない叫びを文字に変えることで、自分自身の思考を整理できる瞬間もあるかもしれない。コメントや反応を得られなくても、「この想いを綴る」という行為そのものが、自己救済のためのステップなのだ。書き終えたあと、あなたの目にはどんな光景が映るだろう。あるいは、胸のつかえが少し取れているかもしれないし、意外にも新たな怒りや悲しみを再確認して、さらに落ち込んでしまうかもしれない。それでも、書かずにはいられなかったのだとしたら、それはあなたが前に進むための第一歩なのだと思う。
一方で、読むことによって救われる人もいる。人間は誰しも、自分と同じような境遇や似通った感情を抱えた人の存在を知るだけで、奇妙な安心感を得るものだ。「この苦しみは、私だけが抱えているわけじゃないんだ」と思えたとき、そこに一筋の光が差すことがある。それは、当事者同士にしかわからない痛みであり、それゆえにコメントで寄り添い合うのは難しいかもしれない。けれども「誰かの投稿を読む」という受動的な行為だけでも、思いがけず自分を支える糧になることがあるのだ。
この匿名の空間には、現実のあらゆる制約を外した「書き手の世界」が無数に広がっている。孤独な人、悩みを抱えた人、喜びに震える人、憎しみと怒りを抱えた人、軽い暇つぶしやおしゃべりを楽しみたい人――それぞれが書きたいことを、書きたいときに書く。そこにあるのは純粋な言葉の奔流だ。だからこそ、互いの声なき声が重なり合い、ときにはぶつかり合い、また離れていく。その動的なやりとりこそが、はてな匿名ダイアリーという場所の生命力なのだろう。
しかし、匿名性がもたらす功罪は、私たちが十分に認識しておく必要がある。名乗ることなく発言するということは、その発言に対する責任を曖昧にしがちだ。ちょっとした悪意のはけ口や、勢い任せの誹謗中傷に利用されることもある。言葉が刺さることを充分に理解していても、どこか“仮面”をかぶっているから大丈夫だと錯覚してしまう。しかし、実際にはネットの向こうにも生身の人間がいるという事実は変わらない。あなたの何気ない一言が、相手を深く傷つける可能性があることを忘れてはいけない。
とはいえ、それは即ち「何も書くな」という意味では決してない。むしろ、はてな匿名ダイアリーは「書く自由」を大切にする場所だ。ただ、その自由には、最低限の配慮が必要になる。あなたが発する言葉に責任を感じるかどうか――その判断は究極的にはあなた自身が下すしかない。そして、もし誰かの言葉によってあなたが傷ついたとしても、そこで生まれる感情をどう受け止め、どう行動につなげるかも、結局はあなた自身の選択次第だ。それがネット上の言論空間における避けられない現実である。
人はみな、自分が体験した悲喜こもごもの物語を抱えて生きている。それを打ち明けるか、隠し続けるか、あるいは別のかたちに昇華するか――道は無数にある。はてな匿名ダイアリーは、その「道の一つ」を提供しているにすぎない。けれども、そこには確かに何かがある。匿名という安全地帯から、我慢し続けてきた声をようやく吐き出せる喜び。SNSのいいねやフォロー数とは無縁の、純粋な読み合いの醍醐味。時には厳しい言葉を受け止めることで、思いもよらない学びがあることもあるかもしれない。
もし、あなたがこの場所で何かを書こうとしているのだとしたら、どうか覚えておいてほしい。ここでは誰かに評価されることだけが目的ではない。むしろ、自分の感情を認めるために文章にすることが、大切な場合も多い。うまく書こうとしなくていい。無理にまとめようとしなくていい。自分でもうまく言葉にできないままの混乱こそが、ある種の真実かもしれないからだ。あなたが綴る文章が拙くても、見る人が見れば、その混乱の中からかすかな真意を感じ取るだろう。
また、読み手として匿名ダイアリーに触れるときには、ぜひ広い視野で文章を受け止めてほしい。表面的な言葉に振り回されるだけではなく、その人が置かれているかもしれない状況や、そこに至る経緯を想像してみる。その結果として、あなたが何も感じないかもしれないし、怒りを覚えるかもしれないし、時には深い共感を得るかもしれない。たとえわからないままでも、「わからない」という事実に思いを馳せることが、相手との間に生まれるほんの少しの理解を助けてくれるはずだ。
おそらく、はてな匿名ダイアリーはこれからも形を変えながら続いていくだろう。書く人と読む人の交流は、時代や技術の変遷を受けて少しずつ進化していく。AIが発達して、匿名の文章を自動生成できる時代になっても、そこに人間味あふれる“本音”の手触りが残るのだろうか。そんな問いかけを抱えながらも、私たちは相変わらずここへ足を運ぶ。だって、どんなに技術が進歩しようとも、人が言葉を発して誰かに届くことに、やはり大きな意味があるからだ。
最後に、ここに集うすべてのはてな匿名ダイアリーユーザーに伝えたい。あなたが今、どんな思いを抱えているとしても、ここで書くことには意義がある。たとえそれがネガティブな吐き出しであっても、あなたの思考を真剣にめぐらせた痕跡だ。その痕跡は、未来のあなたや、あるいはまったく見知らぬ誰かの心に小さな火種を灯すかもしれない。もし今日のあなたが自信をなくしているのなら、どうか遠慮しないでほしい。匿名の仮面をかぶったままでも、あなたの言葉には十分な重みがある。そこから得られる感情や学びは、他ならぬあなた自身の人生を動かすかもしれないのだから。
書くことは、ある種の自己解放であり、同時に他者との接点を生み出す行為でもある。自分の悲しみや苦しみを打ち明けることで、思いもよらない形で他人からの共感を受けとることもある。逆に、誰かの文章を読むことで、これまで知る由もなかった人生観に触れることもある。はてな匿名ダイアリーには、そうした偶然の出会いが満ちている。うまくいくこともあれば、そうでないこともある。けれども、その予測できない化学反応こそが人の言葉の面白さであり、匿名ダイアリーという不思議な空間の醍醐味なのだろう。
どうか忘れないでほしい。たとえこの匿名世界で真剣な感情を吐き出したところで、リアルの世界に戻れば、あなたの名前や顔や立場はそのままだ。けれども、匿名の場で得た気づきや、さまざまなやりとりを通して感じたことは、リアルのあなたにとって何らかの糧になるはずだ。あなたは、書くことで少しだけ自分を知り、読むことで世界を広げる。そして時には、誰かの心をほんの少しだけ照らしているのかもしれない。その証拠は、また誰かの新しい書き込みによって紡がれていくのだ。
だから、もしこの先あなたが苦しいと感じたなら、またここに戻ってきてほしい。あなたが聞いてほしいことは、すでにここで待っている他の誰かが拾い上げてくれるかもしれない。あなたが自分の物語を探しているのなら、ここには数えきれないほどの物語が転がっている。人の数だけ人生があって、人生の数だけ言葉がある。どうか、その中からあなたが救われる言葉や、何かのヒントを見つけ出してほしい。
はてな匿名ダイアリーユーザーへ――今日もあなたの物語が生まれては消え、そしてまた新たな物語へと続いていく。それは一人ひとりの足跡でありながら、やがて大きな流れになっていくのかもしれない。あなたが書いた言葉は、どこかの誰かの夜を少しだけ明るくするかもしれないし、あなた自身の明日をほんのわずかに変えてしまうかもしれない。ここは、そんな可能性を秘めた場所だ。書き続ける者、読み続ける者、それぞれがさまざまな想いを携えて、この広大な匿名空間をさまよい歩く。そしてときどき、遠くから手を振り合う。それだけで人は、少しだけ強くなれるのではないだろうか。
あなたが何を願い、どこへ向かおうとしているのかはわからない。けれども、文章を綴るという行為が、あなたを一歩でも前へ進める力になり得ることを、私は信じている。そしてその文章を誰かが読んだとき、何らかの共鳴や励ましが生まれる可能性は、決して小さくはない。だからこそ私は今日も、ここで文字を紡ぐ。はてな匿名ダイアリーに集う、まだ見ぬあなたに向けて。どうかあなたも、もし心に余裕があるならば、ここでの自由な発信を楽しんでほしい。たとえ小さなつぶやきでも、遠くの誰かにとっては大きな灯火になることがあるのだから。
書き手と読み手、その垣根は紙一重であり、ときに容易に逆転する。今日の読み手が明日の書き手になり、今日の書き手が明日の読み手になる。そんな柔軟な循環こそが、このコミュニティの本質ともいえる。ここでは名前も知らない人々が、それぞれの人生を断片的に開示しあい、そこに何らかの反応を示し合っている。顔も声も知らない相手だけれど、文字の向こうにいるのは同じ人間だ。そしてそのやりとりが、あなたの心に、あたたかくも奇妙な「つながり」を芽生えさせることもあるだろう。
はてな匿名ダイアリーユーザーへ――どうか、あなたの言葉を大切に。どうか、あなた自身を大切に。ここは匿名の仮面をかぶった人々の集う場所。しかし、その仮面の下にあるのは、たしかに生きている人間の心だということを忘れないでいてほしい。もしあなたがここで孤独を叫ぶなら、きっとどこかで誰かが耳を傾けてくれる。もしあなたが怒りをぶつけるなら、その理由を汲んでくれる人がいるかもしれない。もしあなたが喜びを共有したいなら、一緒に祝福してくれる仲間が現れるだろう。ここは、そんな可能性に満ちた場所である。
そして、もしあなたの言葉が、誰かにとって苦しいものであったとしても、そこには相手の人生があるのだということを思い出してほしい。遠い世界の誰かだとしても、何かを抱えて生きている人間であることに変わりはない。だからこそ、言葉が持つ力を見くびらず、どうか誠意をもって文章を紡いでほしい。たとえ感情的な吐露であっても、その奥にある“想い”を人は感じ取る。だから書くほどに、あなたは自分を知り、同時に他者と繋がっていくのだ。
あなたがここで紡ぐ文字が、いつかは誰かの行く道を照らすかもしれない。あなたの書いた言葉が、数年後に読み返されて、また別の人の心を動かすことだってある。はてな匿名ダイアリーという小さなステージに、あふれるほどの人生が断片として散りばめられている。そのひとつひとつが、かけがえのない存在だ。今日もまた、新しい投稿が生まれ、誰かがそれを読み、やがて何かしらの行動へとつながっていく。その循環が、あなたにも、私にも、そしてここを利用するすべての人に、ほんの少しずつではあるが、変化や成長をもたらしている。
だからこそ、はてな匿名ダイアリーユーザーに捧げたい。どうかあなたの言葉を信じてほしい。そして、あなたの言葉を受け取る誰かの存在も、ほんの少しだけ信じてほしい。いまは小さな声かもしれない。でも、その声はきっと届くべきところに届く。思いがけないかたちであなたの人生と交わり、あなたを励ましたり、支えたり、ときに戒めたりする存在が現れるだろう。そんな奇跡を、ここでは何度も目にしてきた。それを信じるのは、決して無駄なことじゃないと私は思っている。
今日も、はてな匿名ダイアリーユーザーのあなたは、何を想い、何を綴ろうとしているだろうか。心に宿るほんのささやかな感情であっても、あるいは長年くすぶっていた大きな悩みであっても、あなたが書きたいと思ったなら書けばいい。読むのは、あなたを含む、ここを訪れる誰かだ。私たちは匿名の仮面の下にそれぞれの人生を持ち寄っている。だからこそ、見知らぬ誰かの声が、あなたの中に眠る想いを目覚めさせてくれることもあるのだ。
もし明日、心が折れそうになっても、どうかここを思い出してほしい。はてな匿名ダイアリーは、完璧な場所では決してない。批判や誹謗中傷、思わぬ行き違いも数多くある。それでも、人間の生々しい感情がこれほど集まる場所は貴重だ。そして、その生々しさのなかでこそ、人は自分の本音を知り、誰かとの小さな共感を感じ取り、支え合うことを覚えるのかもしれない。あなたがどのようにこの場を活用するかは自由だ。だが、あなたの言葉はたしかにここで息づき、誰かの心と呼応する可能性を秘めている。
この不思議な匿名空間へようこそ。そして、今いるあなたへ、ありがとう。今日もまた、新しい物語が生まれる。もしあなたがその物語を書きたいなら、ぜひ書いてみてほしい。誰かの書いた物語を読みたいなら、ぜひ読み漁ってほしい。そのどちらも大いなる価値があり、あなたの人生を少しだけ豊かにするかもしれないから。どうか、はてな匿名ダイアリーというこの小さな世界で、あなたの心が少しでも軽くなるような、そんな瞬間を見つけてほしい。それが、ここに集うすべてのユーザーに捧ぐ、ささやかな願いである。
私はまだ、ほんの少し前までそばにいたあの子が、もうこの世界にいないという現実を受け止められずにいる。心に空いた大きな穴は、埋めようとしても容易には塞がらない。ほんの些細な物音や影を見たときに、「もしかしてあの子じゃないか」と思ってしまう自分がいて、そのたびに「もういないんだ」と改めて知らされる瞬間が苦しく、胸の奥が強く締めつけられる。私の中では、まだあの子と過ごした日々のぬくもりや匂いが鮮明に残っており、振り向けばそこにいるような錯覚に襲われる。数えてみると、一緒に過ごした時間はけっして短くはなかったはずなのに、それでも「もっと一緒にいたかった」という想いは尽きることがない。
あの子が我が家にやってきたのは、ちょうど私が仕事で大きな壁にぶつかっていた時期だった。あれは偶然だったのかもしれないし、何か大きな運命の流れに導かれていたのかもしれない。知り合いの紹介で、生まれたばかりの子猫の里親を募集しているという話を聞き、なんとなく心が惹かれて足を運んだ先にあの子がいた。まだ掌にすっぽりと収まるくらい小さな体で、か細い声で「にゃあ」と鳴いた瞬間、一気に胸が熱くなったのを覚えている。あの小さな命を自分たちが守りたい、この子にできる限りの愛情を注いであげたいという、言葉では説明できない衝動にも似た強い感情が湧いたのだ。
それからの生活はあの子中心になった。私が外から帰れば、ちょこちょこと短い足を動かして玄関まで迎えに来てくれていた。仕事で帰りが遅くなっても、しっぽをピンと立てて待っていてくれる姿にほっとしたり、疲れきった体をソファに投げ出す私の胸に丸くなってくれる瞬間に癒やされたり。そういう何気ない毎日の積み重ねは、あの子がいてこそ得られる温かな喜びであり、私にとってかけがえのない生きる活力になっていた。
私が悲しんだり落ち込んだりすると、あの子は言葉をかけられなくても不思議と察してくれたのだろう。そっとそばに座り、私の顔を見上げたり、小さな肉球でちょこんと手を触れてきたりしてくれた。その存在感がどれほど大きなものであったかは、今になって改めて思い知る。猫という生き物は気まぐれで、飼い主にべったりなイメージが少ないとされることもある。しかしあの子は、人間の言語を超えたコミュニケーション能力でこちらの状態を感じ取ってくれていたように思う。
そんなあの子も、年齢を重ねるにつれ体調を崩すことが増えた。最初のうちはちょっとした食欲不振や風邪程度だったから、「大丈夫だよ、すぐ元気になるよ」と気軽に考えていたけれど、数年前から少しずつ通院する回数が増えていったのを今でもはっきりと覚えている。医師から「慢性的な疾患が進行している」と告げられたときの、あの胸がざわつくような感覚はたまらなかった。いつまでも元気で一緒にいられるはずはないと頭ではわかっていても、いざそう言葉にされると痛烈に心が軋んだ。
それでもあの子は懸命に生きてくれていた。投薬や定期的な点滴、フード選びなど、できる限りのケアをしながら一日一日を大切に過ごしていった。私たちの愛情と、あの子の生きようとする力、そのどちらが欠けてもきっと難しかったのだろう。あの子にとって、私たち家族と過ごす時間は心地よかったのだろうか。私はいつも「ありがとう、まだまだ一緒にいたいよ」と話しかけていた。言葉は通じなくとも、あの子の大きな瞳を見つめると「大丈夫だよ」「一緒にいてくれてありがとう」と伝わってくるような気がした。
けれど、どんなに願っても避けられない別れのときはやってくる。ここ数週間は特に体調の波が激しくなり、食事をとる量もかなり減っていた。病院での検査結果は思わしくなく、医師からは「もう長くはないかもしれない」と言われていた。頭では理解していても、どうしようもない不安と悲しみが私の胸を覆っていた。あの子が苦しくないように、できるだけ穏やかに過ごせるようにと祈る日々が続いた。
そして昨日の朝、あの子は静かに息を引き取った。私が部屋に入ったとき、すでに瞳は薄く開いたままで、最期の呼吸をしたかしないかという、まるで眠りについたかのような姿だった。信じられなくて、何度も何度も名前を呼んだけれど、もう二度と返事は返ってこない。心のどこかで「せめて最後は苦しまずに逝ってくれたのなら」と思う気持ちもあれば、「もっと私ができることがあったのではないか」と自責の念に駆られる自分もいる。あの子は限界まで頑張ったのだろう。苦しみから解放されて、今頃は虹の橋で元気に走り回っているのだと信じたい。
亡くなったあの子を見つめながら、ふと最初に会った日のことを思い出した。まだあんなに小さく頼りなく、私の両手の中ですやすやと眠っていたあの子。目が合うたびに、愛しさと不思議な縁を感じたのを思い出す。私はこの子を守りたかったし、一緒に幸せになりたかった。成長するにつれ、やんちゃになってカーテンによじ登ったり、部屋の棚をひっかいて落としたりしては、こちらが叱ってもどこ吹く風で、まっすぐな瞳で見上げてきたことを微笑ましく思い返す。そんな小さな思い出の数々が、今となっては宝物だ。
この喪失感は、私がこれまで味わったどの悲しみとも違う。あの子はペットという言葉でくくるにはあまりに家族の一員であり、私の心の支えでもあった。私は今、泣きたくなるほど辛い気持ちでいっぱいだけれど、それでも後悔よりは感謝を伝えたい。あの子がいてくれたから、私はどれだけの笑顔と温もりを手にしただろう。あの子との暮らしの中で学んだことや与えてもらった癒しは、数えきれないほどに大きい。
今、部屋にはまだあの子が使っていたベッドやおもちゃ、餌皿などがそのまま残っている。片付けようと思うたびに、喉が詰まってしまうほどの寂しさが込み上げて、手が止まってしまう。もう一度でいいから、あの子のあたたかい体温や毛並みを感じたいと思ってしまう。理屈ではわかっていても、心がついていかない。きっとこの状態を乗り越えるのには、まだ時間がかかるだろう。
動物病院で獣医師から「ペットロス」について説明を受けることがあったが、まさか自分がこんなに苦しむとは想像していなかった。もちろん最初から、いつかはお別れが来ることをわかっていたつもりだった。猫の寿命は人間よりはるかに短い。だからこそ、今を大切に一緒に暮らしていたつもりでも、いざ失ってみると自分の一部がもぎ取られたような、そんな気持ちになっている。感情が予想以上に揺さぶられて、しばらくは自分の生活すらままならないほどのダメージが襲ってきている。
人に話しても「気持ちはわかるけど、そんなに落ち込まなくても…」と言われることがあるかもしれない。けれど、飼い主にとってはペットという存在がどれほど特別でかけがえのないものだったかは、言葉で簡単には説明できない。日々の暮らしの中で、どんなシーンにもあの子がいて、私のそばで息づいていた。生きる喜びや孤独感の紛らわし方など、あの子から教わったことは数え切れない。
私は、今あの子がいない現実を受け入れるのに精一杯だし、涙が枯れることなく溢れてくる。でも、きっとこれから少しずつ時間をかけて、この悲しみは形を変えていくのだろう。それは単に「忘れる」ということではなく、あの子がくれた思い出を大切に抱きながら、新たな日常を歩んでいくための道のりなのだと思う。私が前を向いて生きていくことこそが、あの子に対する最大の感謝と愛なのかもしれない。
「虹の橋」という言葉を、あの子が亡くなってから初めて深く意識した。天国と地上の間に架かる虹の橋のたもとで、亡くなったペットたちが元気に走り回り、飼い主を待っているという話。いつか私がそちらに行くとき、あの子は大喜びで飛びついてきてくれるのだろうか。そんな想像をすると、少しだけ心が軽くなる。いつか再会できるかもしれない。その日まで、私にできることは、あの子と過ごした時間を忘れず、あの子が好きだった温もりを周囲に分け与えながら精一杯生きることだ。
でも、もう少しだけ時間がほしい。まだ昨日の今日なので、とてもじゃないけれど立ち直れない。どこを見渡してもあの子の思い出ばかりが溢れていて、うっかり笑ってしまうような楽しい思い出も、今はまだ鋭い棘のように胸を刺してくる。きっとしばらくは泣いたり笑ったりを繰り返して、感情の波が激しくなるだろう。だけど、そんな揺れ動く心のままに過ごすことが必要なのだと思う。悲しみを否定せず、泣きたいときは思い切り泣いて、思い出して笑えるときには素直に笑おう。
家族や友人からは、励ましの言葉や優しいメッセージをもらう。みんな、私がどれほどあの子を大切に思っていたかを知っているからこそ、かけてくれる言葉には温かさがある。そのたびに涙がこぼれるけれど、あの子への想いを共有できる人がいることは、本当にありがたいことだと感じる。私は一人じゃない。あの子の命が私たちに繋いでくれた縁を大事にしていきたい。
これから先、あの子との思い出をどのように受け止め、生活の糧にしていくかは私自身にかかっている。写真や動画を見返すのはまだ少し辛いけれど、いつかきっと「あんなこともあったね、楽しかったね」と微笑みながら思い出話ができる日が来ると信じている。あの子がいたことが、私の人生を彩る大きな要素の一つであることに間違いはない。だからこそ、あの子を失った悲しみは、それだけあの子が私の心を満たしてくれていた証でもあるはずだ。
今はまだ、「昨日、家の猫が虹の橋を渡った。辛い」という事実に打ちひしがれている。寂しさや喪失感がこれほどまでに心をかき乱すものなのかと、自分自身でも驚いている。ただ、一方で不思議と安らぎにも似た気持ちがほんの少しだけある。それは、「あの子はきっと幸せだっただろう」と言い切れる何かが、私の胸の奥底に確かに存在しているからかもしれない。苦しい治療を乗り越えながらも、最後まで私と一緒に生きようと頑張ってくれたあの子の姿は、絶対に私の中から消えることはない。
あの子と共に過ごした時間は、たった一度きりの人生の中で、私にとって何よりも尊い経験となった。ありがとう。言葉にならないほどの感謝を伝えたい。うまく言葉にできないけれど、あの子がいてくれたからこそ私の人生は豊かになったと胸を張って言える。そして、これから先の人生で、もし新たに猫や他のペットを迎え入れることがあるとしても、あの子の存在が私の根底を支えてくれるに違いない。悲しみを教えてくれたのもあの子だけれど、それ以上に愛や喜び、そして生きる力を与えてくれたのもまたあの子だったのだ。
虹の橋を渡ったあの子。今はきっと、何も痛みを感じることなく、自由に駆け回っているに違いない。私と過ごした日々をどんな風に覚えてくれているのだろうか。あの子はもう、こちらの世界の苦しみや不安とは無縁の場所にいる。それでも、私がこうして想いを馳せている限り、あの子は私の心の中で生き続ける。そう信じることで、今日を何とか乗り切る勇気を得ることができる。
そしていつの日か、私もあの子のもとへ旅立つ時がくるだろう。その時は迷わずあの子を探して、思いきり抱きしめたい。そして「ありがとう」「おかえり」と、お互いを慈しみ合えたらどれほど嬉しいだろう。今はまだ遠い先のことかもしれないけれど、そう思うだけで少しだけ心が救われる気がする。目には見えない存在になってしまったけれど、私があの子を想う気持ちがある限り、私たちの繋がりは断ち切れることはない。
「昨日、家の猫が虹の橋を渡った。辛い」――その一言では言い表せないほどに、胸が痛む。けれど、この悲しみは同時に、私が確かにあの子を深く愛していた証拠だと思う。きっとこの先も、ふとした瞬間に涙が零れ落ちることがあるだろう。それでも、その涙が乾いたあとには、あの子と過ごした幸せが心を温めてくれるはずだ。何より、あの子が私の人生の一部だったことは永遠に変わることがない。
だからこそ、この悲しみを抱えたままでも、生き続けなければならない。あの子が私に残してくれたものは、飼い主として受け止める責任があると感じる。こんなにも愛おしい存在を失ってしまったからこそ、これから先の人生の中で、誰かの痛みや悲しみに寄り添うことができるかもしれない。あの子の代わりに私ができることを探していきたい。この涙を無駄にしたくない。
思い出は消えない。あの子との時間が私の中で生き続ける限り、私はきっと大丈夫だ。少しずつ、少しずつではあるけれど、また笑顔を取り戻せる日が来ることを信じている。そのときには、きっとあの子の姿が私の心の中で優しく微笑んでくれているだろう。あの子に恥じないような生き方をしていきたい。そして、いつか虹の橋の向こうで再会したとき、「あなたと暮らせて幸せだったよ」と思ってもらえるように、これからも前を向いて歩んでいくと誓う。
昨日の出来事は、私にとってまだ痛烈に生々しい傷であり、立ち直るにはきっと長い時間が必要だ。それでも、あの子と過ごしたかけがえのない年月を、私の人生の宝物として大切にしていきたい。そしてこの悲しみの先に、きっとあの子が残してくれた愛が続いていると信じる。その愛は消えず、私のこれからの毎日に温かい光を届けてくれるだろう。あの子のために、私のために、今日も私は生きる。虹の橋の向こう側で、また会える日を夢見ながら。
「みなみけ」がもうすぐ500話に到達するらしい。
たまたまコンビニで手に取ったヤンマガを開いたら498話が載っていてかなりビックリした。
いや、ビックリしたのはただ積み重ねられた数字だけではなく、中身そのものの方にもなのだが。
筆者がみなみけをヤンマガで読んでいた頃は......もうかれこれ15年近く前になるのかな。ちょうどアニメ3期がやってたあたり、高校に入るか入らないかくらいのタイミング。
で、その時も衝撃を受けた。
「あのアニメはこの原作から作られてんの......?」という具合に。
念の為言っておくと、悪い意味でビックリしたのだ。あんまこの念を入れる前置きからマイナス方面に続くことってないとは思うけど、それでも。
当時マンガなんて全然読んでなかった自分からしたら衝撃的な画面の白さとコマの大半を埋め尽くす顔のドアップ、オチてるのかオチてないのか分からない話の流れ。
後にアニメで補完されたらしい部分は極限まで削ぎ落とされていて、とにかく軽い。軽すぎる。その驚きの軽さがかえって刺激を生んでいた。ナウシカやけいおんの漫画版を読んだ時ともまた違う感覚は、今でも思い出せ......るような気がする。さすがに鮮明には覚えてないけども。
話を2025年に戻す。この令和の世で味わった衝撃はまた別だった。
「まだなんも変わってないの......?」
これだった。
そう、何もかもが15年前と変わってないのだ。ああいや、厳密には少し絵柄は変わったと思う。当時の流行りだった細線のクッキリした絵から、ザクザク描いた感じの線の太さが安定しない(させてない、んだろう)絵に。けれど逆に言えばそれくらい。これだけの年月が経ったのに。
紙面の中ではあの時と同じ白さと顔の圧で、カナが訳分からんこと言ってチアキがナマ言ってハルカが翻弄されていた。あの頃──黒歴史だったアニメ2期と同じスタジオでやる3期が不安視されてた頃にタイムスリップしたのか?って一瞬錯覚してしまうくらいにはデジャブだったのだ。
たまたま読んだ回では三姉妹以外は目立った出番がなかったけど、きっと内田はバカなままだし、マコトはチアキに嫌われたままだし、藤岡はヘタレたままだし、保坂はハルカと話せてないままなんだろう。当然2つの南家においても、両親の影も形もないことは確信している。たまたま「498話」というただの1話をつまみ読みしただけでも、だ。
つまり「何も変わってない」んだろう。そして変わらないことでここまでの長寿作になれるだけの支持を得ているのだろう。
どうもいつの間にか、みなみけはサザエさんやあたしンちみたいなポジションに収まっていたらしい。
言っちゃなんだが、当時からあまりこの作品を「面白い」と感じたことはない。
別にギャグがキレキレなわけではないし、(日常の延長線というテーマもあるだろうが)突拍子もないシュール展開に誘われるわけでもないし。かといって萌え特化作品と言うには可愛げが全体的に足りてないし。
確かに会話のテンポやワードセンス、謎の間の取り方等で惹き込まれる要素は随所にあった記憶が残っているが、それくらいではメジャー誌でこれだけ生き残り続けるだけの武器にはなりえないと思う。メディアミックスも一段落したんだし尚更。
でも、そもそもみなみけの魅力はそんな小手先のところにはなかったんだろう。
いつ紙面を開いても同じことをやっていて、同じことをやっているからこその一定の支持。テコ入れや人気取りとは無縁の不動の姿勢で、久しぶりにふらっと「ヤングマガジン」に立ち寄った誰かの口角をわずかに上げるためのオアシス。
つまり「不動」でいること。それはなかなか難しいことなのではないか、とふと思った。
ああそう言えば、親父が筆者の読んでいたジャンプをつまみ読みした時は決まって「こち亀は変わらんなあ」って言ってたっけか。今になってその感覚を共有できたような気もする。たまたま開いたヤンマガが齎してくれた気づきだ。
みなみけは今になってアニメ5期が決まったらしい。4期から見ても干支一周分は離れた今になって、だ。
筆者はもうあまりアニメを見なくなったので、みなみけに関してもきちんと見るかどうかは分からない。なんなら放送が始まった頃にはもうそのことを忘れてるかもしれない。
けれど、あの頃に同じ感覚を味わった何処かの誰かはきっと、たまたま深夜につけたテレビの向こう側を覗き見た時、今回の筆者と一緒の心持ちになるんだろうということは確信している。
ブラックだったりヘンな慣習があったりと、色々とめんどくさい日本の仕事習慣。
ふと思いついたので、何がめんどくさいか考えてみた。
先述した通り、日本では管理職は同じ組織の現場プレイヤーから引き上げていく。
当然ながら、MBAなどでマネジメントスキルを習得する機会もほぼない。
そして現場仕事は優秀でも管理業務は得意ではない、という場合が少なくない。
また昇進には拒否権がないかったり、逆に現場プレイヤーに戻ることもできない場合が多い。
これが災難を生むのである。そう、「自分の感覚で他人を管理しようとする」のである。
やる気も能力も体力も自分と同じと考えてしまうので、それを当たり前と思っていたり、ひどい時には部下に自分と同じパフォーマンスを強制するのである。
やる気・成長意欲といえば、それを押し付けがましく喧伝してくる管理職の存在がうっとうしい。
日本では、ある程度までは年齢や勤続年数に応じて自動で上がれるケースが多いが、
・それより先を目指したい
・早く出世したい
・昇進試験がある
なので、「やる気のある管理職」が生まれるが、これが問題なのだ。
当然だが、全員がやる気にみなぎっているわけではない。
やる気のない人はそれなりに多くおり、仮に当初はやる気があっても時間で低下することも大いにある。
やる気のない人を自己都合退職に誘導するなどして排除したとしても、環境などの変化でやる気のない人は一定数出る(要するに2:6:2の法則)。
ところが、日本の職場はこのような「やる気のない人」を認めないのである。
確かに、パワハラやセクハラ、機密漏洩、警察のお世話になるなど迷惑行為を繰り返す人は退場してもらった方が賢明だろう。
しかしながら、恐ろしいことに「みんながやる気を持っている」と錯覚しているのである。
日本型の管理職はただやる気がない人(指示されて与えられた仕事はする)もいないものどころか「あってはならないもの」として扱うのである。
あるいは、そのように見える人がいたとしても一時的にスランプに陥っているだけと思い違いをしている。
なので、やる気のない人に対しては「仕事のやりがいや楽しさを伝える」「責任感を出すよう指導する」ことしか考えていない。
何とかしてやる気を引き出そうと考えているようだが、ないものはない。
契約しているだけの時間は仕事をするから、その分の仕事だけ割り振って後は放置してくれた方がうれしいのだが、そうは思わないらしい。
このような人たちは、やる気のない人に対して必ずこう言う。
「でもこれはやったほうがいい」
と返す。なんなんだ。仕事の報酬は仕事というのもいただけない。
「面接では一生懸命やりますって言ったでしょ」…これもよく言われることだ。
だが、これは「言った」のではなく「言わされた」のだ。
となると、答えは「言わされましたが、あれは嘘です」となる。
ところで、やる気がないのを表現する場はどこにあるのだろうか。
年度初めの挨拶で「やる気がないし定時に帰りたいのであまり仕事は任せないでください」と公言すべきか。
やる気とほぼ同意義の言葉に「成長」というものがあり、その成果としての昇進があるそうな。
やる気がない人の存在が認められないのであれば、仕事を通じて成長したくない人や昇進したくない人の存在も認められなくなる。
言い換えると、金をもらうかわりに一定時間作業しているという労働の目的を理解しない人が多いのである。
もっというと、生活(と休んで遊ぶため)に必要な金が手に入ればそれ以上の労働は必要ないということが理解できないのである。
なぜか、労働にやりがいだの奉仕だのとよくわからないものを取りつけ、それを他にも強要するのである。
なので、早出や残業が推奨されるし、休憩時間も労働に励むなどの姿勢が好まれる。
逆にいえばon-offをはっきり分けて所定時間外は労働しないという姿勢は好まれない。
昇進についても同様だ。昇進することが唯一のアイデンティティとなっており、それ以外の価値観が認められない。
つまり、昇進はせず、仕事はそこそこにとどめて定時に帰り、家でのんびりするという価値観が認められにくいのである。
確かに欧米でもエリート層はバリバリ働き、ほとんど休みがないのは事実だ。
しかし、それは対価を十分に払った一部のメンバーに限られる話だ。そしてそれも始めのうちにどちらになるか決まっている。
日本の場合、全員がエリート層を目指す前提となっていることが問題なのである(人数が多くなるので、給与も低くなる)。
もちろん業績などによってどこかで昇進は止まるが、それは40-50代と遅い時期になる。
入社時か、せめて25-30歳でコース分けし、バリバリ働きたい人はどんどん昇進し、そうでない人はのんびりというわけにいかないのだろうか。
日本では「総合職」といった職種を限定しない枠組みで人を集める場合が多い。
このため、どこで勤務するか(そこまで通いやすいか、そこでの人間関係はどうか)は赴任直前までわからない。
業務も同様で、赴任して実際に割り振られるまで何をするかわからない。
業務内容は日によって変わることもあるし、突然降ってくるのが常態化していることも多い。
というか、各従業員に業務が割り振られていても、それは便宜的なものであるケースもしばしばある。
一応希望は聞くも「希望は通らないと思いますが自分の成長のためと思ってください」と。だったら聞くなよ。
一応労働契約書があり、業務内容も明記されてはいるものの、結構漠然としている。
また、「その他当社に関係する業務」などと記載し担当業務を無制限に広げることが横行している。
人を増やして業務を分散すればいいのに、なぜか限られた従業員に業務を集中させるのも不思議な点だ。
業務内容が全くわからない募集の段階ではなおさらで、「未来を作る仕事」「成長できる仕事」などとふざけたことを抜かす。
おそらく、業務外の飲み会など、「給料は出ないけど仕事のうち」という価値観もこれが原因と思われる。
年功序列もその結果の一つであり、新人や若年者に雑用やら難しいことやらを押し付けるのが流行っている。
やはりこれも「あなたの成長を期待してあえて難しい仕事を与えている」という建前がある。
管理職の項目にも書いたが、なぜか「与えられた仕事を時間だけする」という労働の本質が理解されにくいのも変なところだ。
「時間で仕事をする人」を見下し「成果で仕事をする人」が正しいと考えている。
雇用契約では時間で給与が出ている。成果で仕事するのは委任契約とかフリーランスの方だが。
なので、資格や専攻分野は法律で定められたものを除き参考程度にしかならず、やる気だのコミュニケーション能力だのと変なものばかり推すようになる。
転属もありいろいろな業務を浅く広く経験して管理職に上がるキャリアパスが一般的だ。本人の適性はほぼ考慮されない。
ちなみに、これに年齢と比較した経験値判定が加わってくるのが新卒偏重の原因となっているそうだ。
これは法律で資格保持者しか従事できないようになっている職種も同様だ。
資格に関係する業務のみ行っていればよいわけでなく、無資格者でも可能な業務をやらせるパターンが多い。
労働者の権利は権利である。行使する条件を満たしていれば行使して全く問題ない。
例えば有給休暇は、6カ月以上8割以上の出勤率で5日以上付与せねばならず、労働者は利用できるようになる。
もちろんそれ以前から付与したり定められている以上に付与した場合は労働者は自由に使える。
時季変更権はあるが、かなり条件は厳しい。
さて、労働者と経営者は利害が対立するのは当たり前だ。権利を行使されると人員調整をすることになるからだ。
だから経営者が嫌な顔をするのは理解できる。しかしながら、ここ日本ではなぜか同じ立場の労働者が足を引っ張ってくるのである。
有給休暇だけでなく病気休暇などあらゆる面でお互い足を引っ張っており、経営者に都合がよいようになっているのである。
色々な建前はあるが、要するに権利を使う人が妬ましいのだろう。「みんなで不幸になろうキャンペーン」とも呼ばれていたっけ。
下手すると「人間性」だのと持ち出して権利を使う人を批判するようになる。
これが行き過ぎると、「権利を使うのは仕事ができるようになってから」ととんでもない基準が出来上がってしまう。
この精神が、穴が開かないこと前提の無茶な計画を押し出すことになる。
誰でも病気にはなるし、機械は壊れる。なので計画に穴が開くことは避けられない。
しかし、日本ではなぜか全員が最大限稼働していることを前提とした計画が組まれてしまう。
当然この計画は簡単に破綻するのだが、破綻しないように監視しあったり、負担を強いるなどして無理やり押し切ろうとしている。
人を増やすか余裕を持った計画にすればいいのに。それで会社や社会が潰れるなら潰れてしまえばいいのに。
おそらく同じ原因だろうが、「社会は厳しくあらねばならない」という謎の価値観がある。
別に緩くても何も実害はないのに、勝手に厳しさを演出しては人を縛り付けて自己満足に浸る。
それだからか、労働環境の改善はリストラや格差社会の予兆と不安視しだす。
うるさいお客様、要するにクレーマーがいて会社側が折れてしまうことも原因といえる。
もちろん海外でもクレーマーや無茶な要求をするお客様はいる。しかし会社側が毅然と断り、ひどいようなら出禁にして対応している。
一方日本は長らく要求をのんできた経緯があるため、お客様が調子に乗るのである。結果、サービスの範疇にないことや無料サービスを強制されるのである。
労働者の権利を主張する最後の手段がストライキなのだが、それを迷惑行為と判断するのも日本人らしい。
というか、「権利を主張する人がしてくるサービスなんて嬉しくない」というお気持ちでしか考えられないのも不思議なところである。
あくまでサービスは対価にと交換で定められたことをするだけのはずで、そこに気持ちはないはずだが。
自分の適性がわからないうちからナビサイトが流布した与太話につられて手探りで自分史やら意図不明の面接やらがある就職活動を始める。
既卒者になったら一気に不利になる(だから意図的に留年することもある)のはよく知られた話だ。
他の分野が合いそうだからと別の大学に入りなおすのも認められない。
とにかく懲役40年(それ以上か)を過ごすことは日本人のステイタスらしい。
今はそうでもないが、昔は成人男性が平日昼間に外を出歩いていることがおかしいこととされていたらしい。
その証拠に団地ふもとの公園でビールをすすっていたら通報されたらしく職務質問にあった話があるとか。
おそらくみなさんが感じていることと大差ないと思うが、いつになったら改善するんだろうね。
俺には、二歳下の妹がいる。一般的に「ブラコン」というと、「お兄ちゃん大好き♡」と言わんばかりに愛情を注いでくる妹を想像するかもしれないが、うちのはそれを遥かに通り越して「ウザい」レベルに到達している。名前は真奈(まな)。俺は一応「健太(けんた)」と名乗っているが、この妹だけは決して俺のことを「健太」とは呼ばない。
「おにーちゃん、朝だよ! 起きてる? 起きてないよね? 起こしに行っちゃうよ?」
朝の6時。目覚ましよりも正確に飛び込んでくるこの声が、本当に鬱陶しい。平日の学校ならまだわかるが、今日は日曜日だ。部活もバイトもない貴重な朝に、どうしてこいつはこんなにも元気なのか。
妹が俺の部屋の扉を勢いよく開ける。コンコンとノックする概念はどこへ行ったのか。ベッドに突撃してきそうな気配に身構えるが、俺は慣れたものだ。ぎゅうっと布団を抱えて寝返りを打ち、「今、すごくいい夢見てたのに……」とムニャムニャつぶやいた。
「ねえお兄ちゃん、早く起きて! 今日はお兄ちゃんと一緒に買い物に行くって約束したじゃん!」
ちょっと待て、そんな約束などした覚えは……ない。が、真奈の頭の中ではどうやら「自分が一方的に提案したこと=約束」らしい。俺は溜息をつきながら、布団から頭だけ出して相手を見る。
「寝ぼけてるの? 先週の土曜日に『来週の休日は一緒に外出しようね』って言ったの、お兄ちゃん忘れたの?」 「いや、それは真奈が勝手に言ってただけだろ」 「じゃあイエスともノーとも言わなかったよね? つまり、それはイエスなんだよ!」
その論理はどこから生まれたのだろう。こんな屁理屈に付き合っていられない。大体、日曜日くらいゆっくり寝かせろってのに……。仕方なく俺は観念して、渋々起きあがった。
「30分だけ待て。シャワー浴びるから」 「うん、じゃあ早めにお願いね♪」
真奈は満面の笑みを浮かべて、俺の部屋を去っていく。その姿を見るだけで頭痛がするが、俺は無理やりカーテンを開けて朝の光を目に受ける。今日の予定は、ショッピングモールで妹に振り回される一日になるんだろう。高校二年の妹を連れてどこを回るんだか……。はあ、だるい。だが、断れば断ったで、また「お兄ちゃんに嫌われた!」と落ち込みモードに入られ、それはそれで面倒だ。妹ってやつは、いくらブラコンでも男の扱いをわかってなさすぎる。
シャワーを浴びて着替えを済ませ、リビングに行くと、すでに朝食が用意されていた。真奈はエプロンをつけてフライパンを振っている。両親は共働きで、朝早くから仕事に出てしまうので、休日はだいたい俺と妹の二人きりになることが多い。こうして朝食を作ってくれるのはありがたいのだが、それ以上に「俺の傍にいたい」という意図が見え透いていて、こそばゆいというか、面倒くさいというか……
「お兄ちゃん、目玉焼きは半熟でいい? いつもどおり塩コショウで食べる? それとも醤油にする?」 「……いつもどおりで」 「はーい。任せて!」
妹の視線が、やけにきらきらしている。こんなテンションで毎朝絡まれるのは本当に堪える。俺がソファに腰を下ろすと、妹はうれしそうに鼻歌を歌いながら料理を仕上げ、まるでレストランのように見映えまで気にしたワンプレートを差し出してきた。
うまい。そこは素直に認める。真奈は料理が上手いし、家事も手際がいいから、そこは本当に助かる。けれど俺が「ありがとう、美味しいよ」と言うと、「えへへー」と言って顔を赤らめ、さらに俺に近寄ってくるから困る。視線を外そうとしても、まるで小動物のような瞳でずっとこちらを見つめている。
「そんなに見てると食べにくい……」 「だって、お兄ちゃんがおいしそうに食べてくれるの見るの好きなんだもん」 「……ブラコンこじらせすぎだぞ、お前」
俺が呆れたように呟くと、妹は嬉しそうににへらっと笑う。「ブラコンだろうがなんだろうが、お兄ちゃんはお兄ちゃん!」みたいな勢いで、胸を張っているのが痛々しい。普通の妹なら「えー、そんなに兄のこと好きじゃないよ」とか否定するものじゃないのか?
食事を終え、皿洗いは妹がやるというので、俺は先に着替えの支度をすることにした。なぜなら「お兄ちゃん、今着替えるの? 見ちゃダメ?」と言い出されると本気で厄介だからだ。そこだけは死守しなければならない。
結局、支度を済ませてリビングに戻ると、妹はちゃっかり俺のコートのほこりを払っていた。まるで執事か何かのつもりなのか。「どうせなら私のコートも払ってくれよ」と言いたいところだが、言うだけ無駄だろう。何も言わずに外に出ると、妹がピタリと俺の左腕にしがみついてくる。
こうして、まるで恋人のように腕を組む妹と一緒に、近所のショッピングモールへ向かう羽目になった。俺は18歳の大学一年、妹は16歳の高校二年。一応、年齢的にはそこまで離れていない。だが、このイチャつきぶりはどう見ても普通のきょうだいではない。それでいて、妹は周囲の視線をまったく気にしない。むしろ「どう? 私のお兄ちゃん、カッコいいでしょう?」みたいに見せびらかしているフシすらある。
モールに着くと、妹は嬉々として服屋や雑貨店を回りだした。俺が少しでも反応を示すたびに、「お兄ちゃん、これ似合うと思う?」「あ! このセーターの色、お兄ちゃんが好きなやつだよね?」と、矢継ぎ早に話しかけてくる。うなずくだけで「うん、やっぱりそうだよね!」と興奮し、俺の手を取ってレジへ向かおうとするから困る。
「買うの? それ、高くないか?」 「うん、でもお兄ちゃんが少しでも興味示してくれたから。これ着て、お兄ちゃんに見てもらいたいの」 「……まあ、試着くらいはすれば?」 「うん!」
試着室に入り、鏡の前でくるくる回る妹を見ていると、やはり普通にかわいいと思う瞬間もある。だが、問題は妹がそれを自覚したうえで「お兄ちゃんにだけは見せたい」と張り切っていることだ。しかもこの妹、友達といるときは「兄に興味ない風」を装っているらしい。わざわざ同級生に「真奈ちゃん、兄いるんだってね。どんな人?」と聞かれると、「えー、うちは普通だよ、全然かっこよくないし」などと取り繕うらしい。……実に腹立たしい。だったら家でもそうしろと思うが、家ではその反動が全部俺に向かってくるから手に負えない。
そんなこんなで、妹の服選びに付き合って数時間。ふと、妹がカフェコーナーでソフトクリームを買ってくると言い出したので、俺は待合スペースの椅子で待つことにした。荷物持ちのバッグには、妹が買った服や小物がぎっしり詰まっている。ここまでくると、彼氏役を任されているような錯覚すら覚えるが、それを本当に「彼氏気分」になって楽しめるなら、俺もこんなに苛立たないのに。いや、そもそも実の妹だ。そんな心境になれるはずもない。
少し空いた時間でスマホをいじっていると、ラインの通知が光った。相手は大学の同級生の女子――朱里(あかり)だ。先日同じサークルで知り合った子から、「今度の飲み会、健太くんも来るよね?」という確認の連絡が入っている。朱里はけっこうノリが良くて、話しやすい子。実はちょっと気になっているんだが、妹がいるからどうこうというわけではないにせよ、俺にプライベートの自由時間がほとんどないのがネックだ。妹がいつも干渉してくるせいで、大学生活の楽しみも半減している気がする。
「お兄ちゃん、どうかしたの?」
妹がソフトクリームを2つ手に戻ってきた。どうやら俺の表情を見て、何か感じ取ったらしい。気まずさを隠してスマホをポケットにしまう。
「いや、なんでもない。大学の友達から飲み会の誘いがあって……」 「ふーん。行くの?」 「……行くよ、たぶん」
妹が少しだけ眉をひそめたのを俺は見逃さなかった。嫌な予感がする。まさか、ここから「誰が参加するの?」とか「女の子いるの?」と尋問が始まるのでは。すると妹は、まるで拗ねた子どものように唇を尖らせた。
「お兄ちゃん、私の知らないところで遊ぶのかあ」 「当たり前だろ。俺だって大学生なんだから」 「そっか……。じゃあ私も友達と遊ぼうかな。あーあ、でも高校の友達はバイトがある人多いし、もうすぐテストもあるし……」
そういう問題ではない。妹には妹の生活があるんだから、俺を基準に自分の予定を立てるのはやめてほしい。俺は心の中でため息をつきつつ、ソフトクリームを受け取り、一口かじる。冷たい甘さが口の中に広がるが、気分はあまり良くならない。妹が「美味しい?」と笑顔を向けてくるのに、俺は曖昧に「まあまあ」と返すだけだった。
午後も、妹に引きずられる形で雑貨店や書店を回った。俺が気になるコーナーに立ち寄ると、「お兄ちゃん、それ何? 見る見る!」「こういうの興味あったっけ?」と付きまとってくる。一人でのんびり見たいと思っても、横からちょっかいを出してくるせいで集中できやしない。帰ろうと言っても、妹は「最後に向こうのゲームセンターだけ寄ろう」と言い張り、クレーンゲームに熱中し始めた。
「お兄ちゃん、これ取って! 私にぬいぐるみをプレゼントしてよ!」 「自分でやれっての」 「だって、お兄ちゃんと一緒にやりたいんだもん~!」
人目をはばからず甘えてくるこの調子。もはや呆れを通り越して、引くレベルだ。俺が渋々100円玉を投入してアームを操作してみても、なかなか景品は取れない。一方、妹が「ちょっと貸して」と言ってやってみたら、意外にもあっさり取れたりするから不思議だ。そんなときも「お兄ちゃんの応援のおかげだよ♪」などと言って、俺に抱きついてくるから気が気じゃない。周りの視線が痛い……。
ようやく帰り道に着くころ、外は夕日でオレンジ色に染まっていた。荷物の重みで肩が痛いが、妹の方は「いっぱい買えて大満足~」とご機嫌だ。俺は「今日だけで一体いくら使ったんだよ……」と半ばあきれながらつぶやく。すると妹は「お兄ちゃんと過ごす時間はプライスレス!」とわけのわからないことを言い出す始末。本気でウザいが、こいつなりに兄のことを慕っているのだけは伝わってくる。
家に帰り、夕食を作る気力もなくなった俺は、コンビニ弁当で済ませようと言い出した。だが妹は、「せっかくの日曜日なんだから、私がちゃんと作るよ」と言い張る。慌てて「いや、もういいよ」と止めようとするも、「お兄ちゃんはソファで座ってて!」と強引に台所へ消えていく。こうなると俺にできることは、テレビをつけて適当にチャンネルを回すくらいだ。
ジャージに着替えて、ソファでダラダラしていると、妹が途中でやってきて「調味料、どこ置いたっけ?」とか「お兄ちゃん、ご飯の炊飯スイッチ入れてくれた?」などと質問を投げてくる。姉妹じゃなくて妹だけど、まるで新婚夫婦のやり取りじゃないかと考えてしまい、背筋が寒くなる。
しばらくして食卓に並んだ料理は、どれも手が込んでいて美味しそうだった。疲れた体にしみる優しい味わい。俺は素直に感謝するが、そこに必ずと言っていいほど妹の「べたべた攻撃」が入る。
「お兄ちゃん、食べさせてあげよっか?」 「いや、自分で食べられるから」 「大丈夫、大丈夫。あーん……」 「だから、いいって……」
これではまるで幼児扱いだ。表面上はツンと突っぱねるが、妹があまりにも押しが強いので、最終的には「まあ、いっか」と甘んじてしまう自分も情けない。なんだかんだ言いながら、俺もどこかで妹の手料理に癒やしを求めているのかもしれない。家族だしな、仕方ない。
そんな日常がいつまでも続くのかと思っていたある日のこと。妹がスマホをいじりながらニヤニヤしていたので、つい「何見てるんだ?」と聞いてみた。すると妹はわざとらしく「え~、教えな~い」とそっぽを向く。俺は怪訝に思い、「お前がそんな態度とるなんて珍しいじゃん」と続けると、妹はほんのり頬を染めて、「気になる? 気になるならもっと私に優しくしてくれたら教えてあげる」とからかうように笑った。
「別に、気にならないけど」 「ふーん。どうせお兄ちゃんは私のことなんかどうでもいいんだよね~」
妹は拗ねて見せるが、その背中はどこか嬉しそうにも見えた。いつもはあれほどベタベタくっついてくるのに、この日は珍しく部屋に引きこもってしまう。おかしい、これは一体どういうことだ? そう思いつつも、「面倒ごとは放っておけばそのうち妹から寄ってくるだろう」と高をくくっていた。
ところが、その夜になっても妹は部屋から一向に出てこない。俺がシャワーを浴び終わって、いつもならリビングで一緒にテレビを見ている時間帯なのに、まったく気配がない。さすがに少し気になって部屋のドアをノックしてみると、「なに?」と抑え気味の声が返ってきた。
「……お前、夕飯は? まだ食べてないだろ」 「うん、あとで食べるから先に寝てていいよ」
妙な距離感に、俺は胸の奥が落ち着かない。あれだけ「お兄ちゃん大好き♡」とまとわりついていた妹が、急にそっけないと逆に不安になる。何かあったのか、それとも単なる気まぐれか。もしかして、あのスマホの相手は男なのか? そんな可能性を思い浮かべている自分に驚いた。いや、妹が彼氏を作るのは自由だし、むしろあれほどのブラコンが誰か他に興味を示してくれるならありがたい。でも、いざそうなると、何とも言えない複雑な気持ちが湧き上がってくるのはなぜだろう。
結局、その日は妹を放っておくことにして、自室へ戻り布団に入った。しかし、気になってなかなか寝付けない。こんなに落ち着かないのは初めてかもしれない。妹がいないと解放感があるはずなのに、逆に静寂が堪えるというか……。どこまで俺は妹に振り回されれば気が済むんだ。
翌朝、寝起きが悪い頭を抱えてリビングに行くと、妹はいつもどおり料理をしながら、「おはよー、お兄ちゃん」と微笑んでいた。だが、その笑顔は昨晩の出来事をなかったことにしているかのようで、どこか不自然な明るさが滲んでいる。そして俺が突っ込む間もなく、妹は鍋の蓋を開けて、「もうすぐできるから待っててね」と言うのだった。
――ブラコン妹は、激しくウザい。それは今も昔も変わらない。だが、時に何か隠しごとをしている様子が垣間見えると、妙に落ち着かなくなる自分がいる。正直、妹のベタベタが嫌だと思っていたはずなのに、こんなにも翻弄されるとは……。これから先、俺たちにどんな変化が訪れるのかはわからない。だけど少なくとも言えるのは、妹の「お兄ちゃん好き好き攻撃」からはまだまだ逃げられそうにない、ということだけだ。
そして、妹がこれからどんな形で俺に突っかかってくるのか、さっぱり予想がつかない。だけどまあ、ウザいウザいと言いながらも、俺はそれなりにこの日常に慣れ始めているのかもしれない。ブラコン妹が激しくウザいなんて言いながらも、心のどこかで当たり前のようにそれを受け入れている自分がいる。これって一体何なんだろう。
いつか、俺が大学生活の中で彼女でも作ろうものなら、妹は一体どんな反応をするのだろうか。それはちょっと想像しただけで恐ろしいが、どこかワクワクもしてしまう。ひょっとして……これが共依存ってやつなのか? 違う、違う。断じて違うだろう。とにかく、家族としての境界線は死守しつつ、上手く付き合っていく方法を見つけるしかない。
そんな思いを抱きながら、俺は毎朝鳴り響く妹の「起きて! お兄ちゃん!」というコールに、これからも頭を抱えるのだろう。振り回されるのは勘弁だが、まあ、これはもう一種の“日常”なのかもしれない。
千切れかかった薄曇りの空の下、木造の古いアパートの部屋で、川端賢介(かわばた・けんすけ)は頭を抱えていた。狭い部屋の隅には紙くずが散らばり、机の上にはペットボトルとカップ麺の空容器が乱雑に転がっている。アルバイトのシフトを週に四回こなすだけでも精一杯で、残りの日は家に引きこもって何もしない。部屋のカーテンは閉め切られ、部屋の中はやや薄暗い。壁の向こうからは近所の子供が走り回る音や、誰かがテレビを大音量でつけている様子が聞こえてくる。その些細な音ですら、賢介には自分の存在を嘲笑する響きに思えてくる。
かつては夢があった。大学に入った当初は、弁護士になりたいと思ったのだ。しかし理想と現実のギャップにすぐ打ちのめされ、受験勉強も中途半端なまま途中退学。就職活動もうまく行かず、今のアルバイト暮らしをしている。自分が「社会の落ちこぼれ」になってしまったことは認めざるを得ない。一方で、大学時代に同じサークルで出会った女性がいる。彼女の名は比嘉優里子(ひが・ゆりこ)。彼女はサークルの中でもリーダー的存在で、いつも自信に満ち溢れ、まるで何でも手に入れることができるかのようなオーラを放っていた。
優里子は、その明るい性格と優れたコミュニケーション能力を武器に、大企業の総合職に入社し、今や順調にキャリアを積んでいるらしい。SNSを覗くと、華やかなパーティーに参加したり、出張で海外を飛び回ったりしている写真がいくつも投稿されている。彼女の姿を見るたびに、賢介は胸の奥に黒い感情が渦巻くのを感じていた。「なんで俺ばかり……」という思いが、日に日に大きくなっていく。かつてサークルでほんの少し仲良くなった時期があったため、彼女の成功が余計に妬ましく思えた。
そんな折、ひょんなことから賢介は、SNSに投稿された優里子の写真を見て、あることを思い出した。大学2年の頃、サークルの新人歓迎会で二次会のカラオケにみんなが行くときに、なぜか自分だけが「ごめんね、席もう埋まっちゃったみたい」と断られたことがあった。当時は「仕方ないか」と思っていたが、あのとき中心になっていたのが優里子だった。後日、別のメンバーから「あのとき、優里子が“あの人いると空気が重くなるから外していい?”って言ってたよ」と、笑い話のように聞かされた。そのときは、ただ恥ずかしさと悔しさで頭が真っ白になり、「そうなんだ」と笑って流すしかなかった。その記憶が、今になって鮮明に蘇る。
――人の心を踏みにじり、自分の快楽や満足のためだけに周囲を利用している。
――だけど表面上は、誰にでも優しく礼儀正しく接する。だから多くの人が騙される。
自分もその一人だったのかもしれない。無邪気に笑う彼女の姿が、いつの間にか脳裏で黒く塗り替えられていく。嫌悪感と羨望、そして劣等感が入り混じったやるせない感情。それが「復讐」という形で凝縮されていくまで、そう時間はかからなかった。
その日もいつものようにアルバイトのシフトを終え、コンビニで半額弁当と缶チューハイを買って帰宅した賢介は、スマートフォンの画面に映る優里子のSNSを眺めながらひとり考え込んでいた。
「どうやって復讐すればいい……?」
彼女に危害を加えるなど現実的には難しいし、そもそも暴力を振るう勇気すらない。だが、何らかの方法で“彼女から大切なものを奪う”ことができないか。彼女に対して「仕返し」をする手段はないだろうか。
そのとき、ある記事が目に入った。ある企業のSNS炎上に関するニュースだった。社員のプライベートな発言が切り取られ、誹謗中傷が集中して、当事者が退職に追い込まれたという事件。SNSを使えば、世論を簡単に操作できる。もし優里子のスキャンダルを世に広めることができれば……と、賢介は思いついた。
しかし、彼女のスキャンダルなど何も知らない。そもそも本当に「悪いこと」をしている保証もない。しかし、賢介にはひとつだけ心当たりがあった。大学3年の頃、仲の良かった友人から、あの優里子がゼミの教授と不倫関係にあるらしいという噂を聞いたのだ。証拠もない、ただの噂話だった。だがもしそれを“事実”としてでっちあげることができたら……。
その日は深夜まで、賢介はインターネット上での炎上事例やフェイクニュース、SNSの拡散の手法などを徹底的に調べ上げた。何度も缶チューハイを口に運びながら、脳内で“彼女を社会的に抹殺する”シナリオを組み立てていく。いつしか空が白み始め、鳥のさえずりが聞こえるころになってようやく、賢介は“準備”を整える決心をした。
翌週、賢介はまず複数のSNSアカウントを作成した。男でも女でもない、あるいはビジネスマンを装ったり、女性OLを装ったり、学生を装ったりと、プロフィールを細かく設定した。次に、大学時代のサークルやゼミの仲間をフォローし、タイムラインに溶け込めるように少しずつ発言を増やしていった。彼らがシェアしている記事に対してコメントを残したり、ニュースや流行りのトピックに無難な意見を書き込んだり。
一方で、別のSNSでは大学の裏アカウントを探し回った。そこには学生時代のうわさ話や、卒業後の同窓会の噂などが色々と書き込まれていた。優里子のフルネームで検索すれば、過去に撮られた写真や些細な情報が断片的に出てくる。その断片を拾い集め、賢介は少しずつ“フェイクの積み木”を組み上げていった。
そしてタイミングを見計らって、複数のアカウントから「あの優里子って、大学時代に教授と不倫して単位もらってたって噂あったの知ってる?」と囁くように書き込み始めた。直接的な断定は避け、「らしいよ」「誰かが言ってた」「本当かは知らないけど」という曖昧な言い回しで、火種をポツリポツリと落としていく。最初は誰も相手にしなかったが、何度か同じような書き込みが異なるアカウントから行われるうちに、少しずつ噂が広がり始めた。
さらに、賢介は裏アカウントを使って、まるで「元ゼミ生」を名乗る人物が優里子と教授の決定的な写真を持っているかのようにほのめかした。もちろん実際にはそんな写真など存在しない。しかし曖昧な文章で「以前、優里子さんが教授とふたりで深夜に研究室を出てきたところを見た」という“目撃情報”を投稿したり、他のアカウントから「そういえば卒業旅行をキャンセルしてたのは、教授と旅行に行ったとか?」とコメントをつけたりして、複数の証言があるように見せかけるのだ。
噂というのは恐ろしいもので、火種を絶やさない限り、どこかで燃え広がる。次第に、フォローの数が少ない裏アカウントでも、その書き込みを目にした人がリツイートやスクリーンショットで拡散していく。やがては大学のOB・OGグループにも届き、少しずつ「あの優秀な比嘉優里子が、実は……?」という疑惑が生まれていった。
数週間後、賢介は満足感に浸りながら、アパートの部屋でSNSのタイムラインを追っていた。匿名掲示板でも「比嘉優里子は不倫で単位を取った最低女」というスレッドが立ち、心ない言葉が書き連ねられている。その勢いはとどまるところを知らず、“噂が噂を呼ぶ”状態が加速していた。
「ざまあみろ……」
内心でほくそ笑んだ。かつてパーティーでもSNS上でも脚光を浴びていた彼女が、今や不名誉な噂の的になっている。それは賢介にとって、大学時代に味わった屈辱を晴らすささやかな“仕返し”だった。優里子の正義感あふれる投稿に、「説得力ゼロ」「偽善者」「自分のことは棚に上げて」などとコメントがつく様を見て、賢介は自分が強くなったような錯覚を覚える。
しかし、いくら噂が拡散しても、実害がなければ彼女は痛くも痒くもないだろう。気の強い彼女なら、「そんなデマに動じないわ」と宣言し、むしろ毅然と反論するかもしれない。実際、優里子のSNSアカウントはしばらく更新が止まっていたが、新しい投稿が上がったときには、たくさんの応援コメントも寄せられていた。結局、噂に踊らされず彼女を信じるファンも多かったのだ。
「このままじゃ、まだ足りない……」
賢介は次なる一手を考え始める。実害――たとえば、会社での信用や顧客との関係に亀裂が入るように仕向ければ、彼女のキャリアは深刻な痛手を負うだろう。そこまでやるのかと自問しながらも、頭の中には「どうせやるなら徹底的に」という声が沸き上がっていた。
それからというもの、賢介は優里子の会社名を調べ上げ、その会社の名前とともに「以前、不倫スキャンダルが噂されていた社員がいる」という書き込みを、ビジネス系SNSや就職活動系の掲示板に投下した。もちろん優里子の名前は直接出さない。あくまで「ヒント」をばらまき、興味を持った人たちが「調べてみよう」と思うように誘導する。
さらに巧妙なのは、賢介がわざと別の人物を示唆するようなフェイク情報も織り交ぜたことだった。「〇〇商事の女性社員でM・Hという人だ」など、デタラメな名前をいくつか挙げる。その後になって「あれは誤情報らしい。本当は比嘉優里子という社員」という流れを作ることで、最初にあった偽情報が訂正される形になり、逆に“本当の情報”だという信頼感を高めるのだ。
噂はSNSからまとめサイトへ、まとめサイトから大手ニュース風の匿名ブログへと伝播していく。その過程で誇張や憶測が混ざり、いつの間にか「社内不倫で昇進している」「上層部を篭絡した悪女」などと書き立てられていた。もはや当初の大学教授との噂すら混線し、「彼女は昔から男を利用してのし上がってきた」という筋書きまで付け足されている。
賢介はその様子を見届けながら、もはや半ば狂喜に近い感情を抱いていた。自分の言葉が誰かを巻き込み、誰かがそれを信じ、さらに多くの人に伝えている。“弱者”だった自分が、こうして“強者”に打撃を与えられるという実感。それが彼の孤独な心を満たす唯一の悦びになっていた。
やがて、SNS上では優里子を名指しする投稿が急激に増え始める。誹謗中傷のコメントが飛び交い、会社にも問い合わせが相次ぐようになったらしい。それを示すように、優里子の個人アカウントには「会社に電話したけど?」「逃げんなよ」「暴露してやるからな」といった執拗なメッセージが送りつけられていた。賢介は「ここまで来たか」と、どこか他人事のように画面を見つめる。
するとある日、優里子のSNSアカウントが非公開になった。続いて、彼女の友人たちが「優里子が精神的に追い詰められてるらしい」「病院に行った方がいいかもしれない」と心配する投稿をしているのを発見した。ここで初めて、賢介は自分がやっていることの重大さを痛感した。もはや噂を広めるとかいうレベルではなく、ひとりの人生を破壊する行為に手を染めているのだ、と。
しかし同時に、賢介の心の奥には「彼女が苦しんでいる」という事実への暗い快感が芽生えていた。「俺があの強気な彼女を追い詰めているんだ」という優越感が、胸の中をぐつぐつと煮え立たせる。
――俺にだって、これくらいの力があるんだ。
――ずっと惨めだったけど、今は違う。俺の言葉ひとつで、あいつは奈落に落ちていくんだ。
ある晩、賢介がいつものようにネットの反応をチェックしていると、見覚えのある名前を見つけた。大学時代に同じサークルだった友人・小峰だ。小峰はSNS上で「これはさすがに酷い。優里子に直接連絡を取って確認したけど、全部事実無根らしい。彼女は名誉毀損で訴えることを検討している」とコメントしていた。
名誉毀損――訴えられたらどうなるのだろうか。賢介の背筋に冷たいものが走る。自分がやってきたことは当然、罪に問われる可能性がある。しかし同時に、「誰がやったか特定できるはずがない」という妙な自信もあった。複数のアカウントを使い分け、匿名で投稿してきたのだ。しかも、あくまで「らしいよ」とか「噂だよ」と書いたにすぎない。そこまで簡単には追跡できないだろう、と。
しかし、万が一ということもある。さらに、優里子が法的手段に出るとなれば、彼女の上司や会社も本気で調査に乗り出すかもしれない。「疑わしきアカウント」に対して情報開示請求がなされれば、IPアドレスから身元が割り出されることもありうる。
賢介は不安に駆られながらも、嘘だろう、そんなの上手くやり過ごせる――と自分に言い聞かせた。だが、なぜかスマートフォンを握る手が震えた。こんな気持ちは初めてだった。いつもならアルコールを摂取すれば薄れる不安が、今回ばかりは煽られて大きくなるばかりだ。
数日後、小峰から「久しぶりに話したいことがある」というメッセージが来た。学生時代はそこそこ仲が良かったが、卒業後はほとんど交流がなかった相手だ。どうやら、賢介が今どこで何をしているかは、小峰のほうも把握していないらしい。
「このタイミングで俺に連絡してくるってことは、もしかして……」
不安と警戒を抱えつつも、賢介は小峰の誘いに応じ、駅前の喫茶店で会うことにした。平日の昼間だったため、人影はまばらだった。カフェの奥の席につき、ぎこちない様子で向かい合う二人。
小峰は当初、大学時代の思い出話をするふりをしながら、少しずつ近況に話を移していった。どうやら彼は一般企業で働きながら、サークルのOB会などを取りまとめる役をしているらしい。しばらく雑談が続いた後、小峰は急に真顔になって切り出した。
「優里子の件、知ってるか?」
「……ああ、SNSで色々言われてるみたいだな」
「正直、今までもちょっとした誹謗中傷なんかはあったけど、今回のはあまりにも悪質なんだ。で、優里子が精神的に参ってる。裁判も視野に入れて動き始めてるんだよ」
そう言いながら、小峰はじっと賢介の目を見つめる。まるで「お前がやってることだろう?」と問い詰めるように。だが小峰はそれ以上は何も言わず、ただ「何か心当たりはないか?」と探るように続けた。
賢介は動揺を抑えつつ、わざと素っ気なく答えた。
「いや、俺は知らないな。そもそも優里子に昔からいい感情ないし、SNSもほとんど見てないし……。そんな嫌がらせみたいなこと、わざわざやる動機もないよ」
自分で言っていて、嘘臭さを感じた。しかし、小峰はそれ以上深追いしなかった。ただ、「そうか、もし知ってることがあったら教えてほしい。俺は、誤解や嘘で人が傷つくのは嫌だからさ」と言って、曖昧に微笑んだだけだった。
小峰と別れたあと、賢介は駅前のコンコースをぶらぶらと歩きながら、頭の中で考えを巡らせる。小峰がわざわざ自分に接触してきたのは、やはり“犯人”を探っているからではないか。しかし決定的な証拠がなければ、自分を追及することはできないだろう。そう思う一方で、不安は拭えない。
「このまま、俺は逃げられるんだろうか……」
後ろめたさと、復讐を達成するために奔走してきた興奮が入り混じり、心が不安定になっていく。
結局、賢介はその夜からパソコンを開いても、優里子関連の情報収集や書き込みをする気が起きなかった。代わりにアルバイトを休んで酒量が増え、明け方まで起きては昼間に寝るという、ますます不健康な生活に陥っていく。何もかもが嫌になった。自分でも止められないままここまで来てしまったが、“復讐”という言葉は、もはや虚ろに響くだけだった。
するとある日、いつもどおりアパートの狭い部屋にこもって缶ビールをあおっていると、スマートフォンが鳴った。画面には「小峰」の文字。嫌な予感がしたが、出ないわけにもいかない。
「もしもし……」
「俺だ。突然で悪いんだけど、優里子が入院した。心が限界だったらしい。……正直、原因を作った奴が許せない」
小峰の声は怒りで震えていた。賢介は何も言えずに黙り込む。
「でな、俺はこのままじゃ黙ってられないと思うんだ。警察に相談して、サイバー犯罪対策なんかも含めて捜査を依頼しようって話が出てる。会社も動いてるらしいから、情報開示請求なんかも時間の問題だろう」
脳がぐらぐら揺れるような感覚とともに、賢介は息が詰まりそうになった。ついに、もう逃げられなくなる。そう思った瞬間、彼は全身の力が抜けて床にへたり込んだ。
「……そうか」
それだけ呟くと、小峰は最後に低い声で「もし、何か知ってるなら、今のうちにやめておけ」とだけ言って電話を切った。
やめておけ――もう、やり続けること自体が無理だ。もはや罪悪感が勝っていて、賢介はこれ以上フェイクを撒くこともできなかった。だが、今さら何をどうすればいい? 彼女に直接謝って許しを乞う? そんなことをしても彼女はますます憎むだけだろう。
翌朝、賢介は警察からではなく、思いがけない相手から連絡を受けた。なんと、優里子本人からのメッセージだった。非公開になっていたSNSのアカウントから、突然「直接会って話したい」という短文が送られてきたのである。
「……どういうことだ……?」
半信半疑のまま、賢介は指定された場所――大学近くの駅前のカフェへ向かった。指定された時刻は夜の8時過ぎ。混雑する時間帯を外したのか、店内には数組の客しかいない。
席に着いてしばらくすると、店の入口から見覚えのある女性が姿を現した。比嘉優里子――かつてのサークル仲間で、今や“噂”の被害者。その顔には明らかに疲労の色がにじみ、かつての凛とした雰囲気は薄れていた。
「……久しぶり」
少しかすれた声で言う。賢介はどう反応すればいいか分からず、黙って会釈した。二人がテーブルを挟んで向かい合う。彼女は沈黙を破るようにゆっくりと口を開いた。
「私も気づいてた。あの噂、あなたがやってるんじゃないかって」
「……どうして」
「大学のとき、あまり話したことはなかったけど、あなたが私に抱いてた感情は分かってた。私のことをよく思ってなかったのは感じてた。今になって急にこんな悪質な噂が広がって、あのサークル関係の裏アカや書き込みを見ると、文章の癖とか表現が、なんとなくあなたに似てる気がして……。確信まではいかないけど、ね」
賢介は言葉を失った。彼女がここまで鋭く察していたとは思わなかった。冷静に考えれば、自分しか知らないような細かいエピソードが混ざっていたのだから、勘づかれても不思議ではない。
「……申し訳ない」
それ以外、言葉が出てこない。どんな理屈も通用しない。ただ自分が虚勢を張り、彼女を傷つけようと目論んだ事実は消えないのだから。
「一つ聞かせて欲しいの。どうしてここま
Mr.Chairsで買ったゲーミングチェアが故障したので一部パーツを交換対応してもらったことを書く。
これはクレームではなく、問題なく対応が終わったことの記録であり、なぜ記録に残すかと言うと自分自身このサイト(Mr.Chairs通販)で購入したものの交換対応などの口コミがあまり探せず、不安になったのもあり、参考になれば良いなという思いからである。
1年前、利用していたAmazonでGTRacingの安いゲーミングチェアの合皮がボロボロになったり、アームレストも裂けてきたので買い換えようと考えた。もともとゲーム目的で使い出したゲーミングチェアも、環境の変化でリモートワークで利用することがほとんどになった。もともと腰痛持ちであり腰への負担が少ないものが欲しかった。
その他の細かい条件も含めると以下のようになった。
腰を考えるならアーロンチェア一択だとインターネットは言うと思うが、随分と高価でヘッドレストが別売りになっているし、身長に対応もしているようなものが見つけられなかった。
ゲーミングチェアの中でもそこそこ良いものはあった。記憶を頼りにググっているが、当時見つけたのはおそらくnoble chairsの全て黒の奴だったと思う。ただこれは価格が高いのと、合皮なのとで候補から外れた。
調べる中で参考にした椅子好きYouTuber Mr.Chairsの、メーカーの工場に行って解説する動画から知ったウィステリアフリーダムチェアがいい感じだった。
前述の条件をほとんど満たしたものだったのでこれに決定した。特にシリンダーの変更で身長対応できること、全体がファブリックであることが魅力的だった。大手通販サイトと比較して少し不安だったが、購入もそのYouTuber運営のサイトで行った。
ある日座った時にバキッと音を立てて足元のフレームが割れてしまった。シリンダーを挟んでいるキャスターヒトデの部分だ。
買った日を確認すると約1年前だった。このゲーミングチェアがかなり快適でもうずっと使ってるような、前からあったような錯覚があった。
まだこの期間であれば保証も効くだろう。と買ったMr.Chairs通販サイトを見て過去の注文履歴を見る。過去の商品ページを見て保証期間を見たかったのだが、注文履歴からは見れないようだった。ググっても注文した当時のバージョンは無かったからページを使いまわしてるのだろう。
こういうときに必要なのは注文番号/注文日付だ。注文履歴からそれらをコピペして相手がすぐ注文履歴に辿り着ける情報を書き、続けて故障の詳細を書く。
問い合わせを送ったのは夜遅くの時間帯で、大概こういった問い合わせの返事は平日営業時間帯だと思い込んでいたので驚いた。
メーカーへの確認を行なっている旨を連絡いただき、次の日の朝にはメーカーから交換パーツが送られる事の連絡だった。
交換パーツも次の日には到着して無事交換対応。破損パーツは着払いでの返送となる。とても気に入っている椅子なので、メーカー側の製品改善に繋げて欲しいと思いながら次の日には返送を行った。
大手ECサイトと異なり、どのように対応すればよいか、対応してもらえるか、の口コミがなく不安だったが、滞りなく対応してもらえた。
以上、レポっす
夜の静寂を破るように、オーロラの光が空を流れ、私の目の前に現れる。グラスの中、ゆっくりと動きながら揺れるその色合いは、まるで夜空の一部。深い紫から淡いピンク、そして光を受けた瞬間にほんのりとオレンジへと変わっていく。まるで、空の端から光が滴り落ちるような美しさだ。
私はそのグラスを手に取り、軽く傾ける。舌先に触れる瞬間、冷たく鋭い酸味が広がり、私は思わず息を飲む。その酸っぱさが、最初は鋭く、そしてだんだんと深くなり、まるで冷たい風が肌を撫でるように、ひんやりと広がる。次第に、それが甘さと混ざり合い、柔らかな温かさが心の奥に広がっていく。
舌の上で溶けていくソースは、甘さと酸味の微妙なバランスで、まるで二つの世界が交わる瞬間のようだ。酸っぱさはひとときの痛みのようで、甘さはその痛みを包み込む優しさを帯びている。ひとくちごとに、その感覚が体を巡り、私はその瞬間の感触に身を任せる。何か遠くの記憶が引き寄せられるような、そんな錯覚すら覚える。
オーロラソースが溶けていく様子は、まるで星が夜空で静かに消えていくような儚さを感じさせる。グラスの中で、色が流れるたびに、私はその光景に吸い込まれていく。ピンクの色が透明に変わり、やがてオレンジが優しく染み込んでいくさまは、まるで夜明け前のひととき、夜がまだ明けきらない微かな光のようだ。全てが静かに溶け合い、私はその美しさに目を奪われる。
酸味が舌を刺激し、心を少しだけざわつかせる瞬間。甘さがそのざわめきを包み込み、穏やかな幸福感を残していく。その甘さが、まるで柔らかな陽光が私の心に降り注ぐように温かく、全身に広がる。ソースの中には、どこか懐かしい匂いを感じさせる成分が混ざっている。甘酸っぱさが胸に迫るたびに、私はあの昔の記憶の断片を思い出し、心が少し震える。
そのひとしずくのソースが、私の内面を静かに洗い流していくようだ。酸味と甘さの二重奏が、私の心に触れるたびに、何かを浄化していく感覚に包まれる。過去と今が交錯し、あの日の記憶が静かに蘇る。甘酸っぱいオーロラソースの味わいが、私の中でひとつの物語を紡いでいるようだ。
最後のひと滴がグラスを離れ、私は静かにそれを飲み干す。その後に残るのは、ほんのりとした甘さと、心に刻まれるような鮮烈な酸味だけだ。まるでその一滴が、私の中で何か大切なものを解き放ったように、余韻が長く続く。オーロラソースがもたらしたこのひととき、私の中で新たな光を灯したような気がする。