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2025-01-23

腐女子機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-を見てきた感想

ついに公開された『機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-』、初日に飛び込んできた私の目はスクリーンに釘付けになりました。タイトルからしちょっと変わった雰囲気を醸し出していましたが、見始めてすぐに「あ、これは絶対に外せない新世代のGガンダムだ…!」と確信。いや、正確にはGガンダムというよりも、宇宙世紀の要素がバッチリ盛り込まれつつも、そこにアナザー要素が混ざり合った不思議感覚を覚える作品でした。今回の目玉は何といっても主人公メカであるガンダムジークアクス」の存在感。新たなフォルムが持つその圧倒的な威厳は、旧来のガンダムファンでもきっと興奮せずにはいられないのではないでしょうか。

さて、ここからが本題。私、何を隠そう腐女子目線ガンダムシリーズを愛し続けてきた人間です。モビルスーツのかっこいい活躍はもちろん大好物ですが、それ以上にキャラクター同士のドラマ関係性が気になって仕方がない! そして今作、私にとって特筆すべきポイントは「シャアが出てくるうえに、何とシャリア・ブルとマブダチ」という衝撃の設定。このふたり関係は“宇宙世紀のどこかで匂わせていたかもしれないけど公式ちゃん説明されなかった”ラインだっただけに、ファン的には「そこにスポットを当てるの!?」というサプライズでした。

まず、シャアシャリア・ブルが作中でどんな関係なのか。序盤こそ「旧知の仲」という雰囲気をにおわせる程度でしたが、中盤以降は「こいつらガチでマブダチなんだな…」と確信できるやり取りがふんだんに描かれています。とりわけ、シャリアパイロットとして圧倒的なニュータイプの才能を示す一方で、シャアはいものクール仮面の裏に隠された複雑な心情をちらりと見せるシーンが最高。表向きは常に飄々としているシャアが、シャリアの前だけでは少し弱音を吐いたり、逆に「お前はもっと自分信じろ」と熱い激励をする姿は、腐女子目線で見るとまさに “完璧なバディもの” の土台です。ここで萌えないはずがない!

しかも、シャリア・ブルといえば『機動戦士ガンダム』(一年戦争時)で悲運の死を遂げたキャラクター。あまりにも早く退場してしまったため、旧作では“シャアにとっての特別存在”だったのかどうか、確定的には語られませんでした。そのため今作での「生存ルート(?)」というか、まさかこの新たな timeline でシャアと肩を並べて登場するとは…ファンとしては胸が熱くなる展開ですよね。序盤の顔合わせシーンでは、シャリアさらりと「相変わらず真面目だな、シャア」と言い、シャアが「お前こそ、そういうときは黙っていてもいいんだぞ」なんて口調がやわらかいまま言い返す。このやり取りだけで、「はいはいはい! 尊いです!」と何度スクリーンを拝みたくなったことか!

そんな二人に加え、今作を牽引するニューカマーともいえる若き主人公パイロット名前は仮にルーカスします)が乗り込むのが、ガンダムジークアクス。これがまたすごい。視覚的にガンダムらしさを大きく踏襲しつつも、背部に印象的なウイングバインダーを備えていて、“ジーク”というドイツ語ニュアンスを感じさせる硬質なデザインが目を引きますビームサーベルの形状すら独特で、左右に展開する可変式。さらに、コックピットシーンではルーカス重力下と宇宙空間で別々の操作体系をとる描写リアルかつ斬新。ストーリー上でも試作機ゆえの不完全さが強調され、そこをシャアシャリアが「大丈夫、我々がいる」とサポートする展開は、“兄貴分”を感じさせてもうたまりません。

シャアシャリアが、主人公の成長のために陰日向から支えているような構造は、まるで兄弟一人っ子の弟を甘やかしつつも鍛え上げているかのよう。腐女子的に「いや、そこはお互い同士ももっと絡んで…!」と思わずはいられないところですが、この序盤の時点ではまだ二人の過去小出しにされている段階。きっと今後の展開でもっとディープな絆や秘められたエピソードが語られるのではないか、そんな期待を抱きました。

戦闘シーンはハイスピードかつ爽快。宇宙フィールド自由自在に動くジークアクスに、シャアの赤い専用機(やっぱり赤!)と、シャリアの機体が光の残像を残しながら連携するシークエンス胸熱一言しかしその華やかさの裏で匂いつのは“男たちの内面”。シャアがこれまで背負ってきた宿命や野望、シャリアが見据える新時代ビジョン…。それがどう交錯していくのかを想像しながら鑑賞すると、もっと奥行きが生まれます。加えて、ルーカスという若者を通して二人が何を託そうとするのか。腐女子の私としては、やはり「いつ裏切りが起こるのか」「いつ離反してもおかしくない危うい関係がどこかに潜んでいるのでは?」とドキドキしつつ、彼らの関係を見守りたくなるんです。

総じて、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX -Beginning-』はガンダムシリーズの新たな可能性を提示する作品でした。ガンダムジークアクスという主人公メカデザインギミックの魅力は言わずもがなシャアシャリア・ブルのまさかの“マブダチ”設定がもたらすドラマ性はシリーズファンも思わず唸るところでしょう。個人的には「腐女子妄想が捗りすぎる…!」という感覚がありありと湧いてきて、今後の展開でさら多面的関係性が描かれることを期待せずにはいられません。今までは断片的だった二人の関係に光が当たることで、シャア人間的な弱さや優しさ、シャリアの持つ本来の魅力があぶり出される展開になる予感がします。

長年宇宙世紀シリーズを見守ってきた腐女子としては、こんなにも美味しい人間模様を出してくれるなんて…!と、思わず劇場を出るときには顔が熱くなるほど興奮していました。まだまだ始まりに過ぎない本作ですが、次回作や続編があるならば、さらに深堀りされたシャアシャリアエモーショナルな絡みを期待しています。そしてガンダムジークアクスは、そんな二人の物語を映す鏡のような存在として、更なる進化を遂げるのではないかと。今後の展開から目が離せない、大満足の一作でした!

2025-01-22

高い服を買ったらあっという間に破れた。これって詐欺?ちなみにシルクパジャマ

贅沢の予感

「安物買いの銭失い」という言葉がある。安く済ませたものほど長持ちせず、結局損をするという意味だ。でも俺は、その逆を行こうと思った。高い服、特に高級シルクパジャマを買うことで、「長く使える本物」を手に入れたかったんだ。

袋を開けた瞬間の光景は、まるで宝石箱を開けたようだった。シルク独特の光沢が輝き、触れるだけで手が滑る感覚に「これぞ一流」と思わず息を呑んだ。パジャマというより、芸術品を手にしている気分だった。これなら毎晩、眠ること自体が贅沢になるだろうと期待に胸が膨らんだ。

違和感との遭遇

だが、災いは忘れたころにやってくる。袖の端に見えたのは、小さな破れ目だった。まるで「針の穴から天を覗く」ような小さな傷。でも、その一瞬で俺の心は冷えた。「これ、破れた?」

もちろん洗濯には細心の注意を払った。ネットに入れて、デリケートモードで洗ったし、干すときも引っ張らないように気を付けた。それでも破れるなんて、一体どういうことだ?

「釣った魚に餌をやらぬ」なんてことわざがあるけど、これはその逆。「高級だからといって安心するな」と警告されている気分だ。見た目が美しいものほど、実は内面が脆いこともあるのだろうか。

安物の逆襲

「雨垂れ石を穿つ」と言うが、安い綿や化繊のパジャマは、まさにその精神だった。何年も使い続けて、少しずつ劣化していくが、すぐには壊れない。タフさが魅力だった。それに比べて、このシルクの脆さ。耐久性という意味では、雲泥の差だ。

「時は金なり」と言うが、同じくらい「耐久性も金なり」だと思う。安物を長く使える幸せに比べて、高級品が一瞬で壊れる不幸。これほどの落差を体験するとは思わなかった。

高級品を買えば、それだけで幸せになれると思っていた。「藁にもすがる思い」ではないけど、これが高級品の真価だと信じていたのに、現実は甘くなかった。

高級品の正体

張り子の虎」とは、見た目は立派だが中身が伴わないものを指す言葉だ。このシルクパジャマがまさにそれだ。見た目と肌触りは間違いなく一級品だった。でも、それだけだ。それ以外の部分が欠けている。

高級品は「長く使えるからコスパが良い」というのは、ただの幻想だったのかもしれない。「馬子にも衣装」というけれど、見た目だけで判断するのは危険だという教訓だろう。

贅沢品においては、「金をかけたからこそ丁寧に扱うべき」という暗黙のルールがある。しかし、丁寧に扱っても壊れるものなら、そこにどんな意味があるというのだろうか?

結論

覆水盆に返らず」というが、買ってしまったものは仕方がない。失敗を認め、次に活かすしかないだろう。今回の教訓はこうだ――「高級品には見た目以上の期待をするな」。

次にパジャマを買うときは、見た目や素材ではなく、耐久性を最優先に考えようと思う。「急がば回れ」というように、実用的なものを選ぶほうが、長い目で見て得をするのだ。

シルクパジャマよ、短い夢を見させてくれてありがとう。そして、もう二度と会うことはないだろう。これからは「糠に釘を打つ」ような無駄な買い物はしない。俺は、丈夫な綿と化繊に戻る。それが、長く安心して使える道だからだ。

別れた記念日

やったーーー!!!!!!

障害持ち生活保護鬱病彼氏と別れられたーーーっっ!!!

 

身構えてた割にスーパーアッサリ別れられて罪悪感すらある

あんま器大きくなくてごめん

 

出会った時は確実に好きだったんだけど、こういう人って外ヅラ内面の差が激しいね〜……

ヅラから想像できなかった、脈絡のなさがある。

 

私の人生なのに彼氏がどうするかによってどういう人生になるか決まるのキツかった。

彼氏問題デカすぎて眺めてるしかできないんだよな、話し合ってもどうせ勝手に動くし

 

とにかくスッキリした!心軽い!イェーイ!!!

2025-01-20

中居くんは悪くない

中居くんは悪くない」。このフレーズを耳にすると、多くの人は彼の爽やかな笑顔や軽妙なトーク、そしてバラエティ番組で見せるサービス精神を思い浮かべるだろう。SMAPメンバーとして長年第一線で活躍し、グループ解散後もなお数多くの番組で司会やタレントとしての才能を示し続けている中居正広は、その明るいキャラクターから世間では“誰からも好かれやす存在”というイメージが強い。だが一方で、彼をめぐっては「女性問題」と呼ばれる話題がいくつか浮上し、そのたびに様々な憶測批判が飛び交ってきた。しかし冷静に見つめ直してみれば、実は彼は「問題当事者である」というよりも「被害を受けている側」である場合が多いのではないだろうか。そう考えたとき、「中居くんは悪くない」という言葉に、改めて深い意味が見えてくるように思う。まず第一に、中居くんにまつわる女性関連の噂は、その多くが“証拠不十分”のまま報じられるケースが多い。そもそも芸能界にはプライバシー個人的な交友関係に対して執拗に迫るメディア存在しているが、視聴者の興味を引くためであれば、確かな裏付けがなくてもスキャンダルとして扱われることが珍しくない。その背景には、人気タレントであるがゆえに生じる“ネタとしての需要”があるからだ。いわゆるゴシップ誌ネットニュースは、中居くん名前見出しに使うだけで一定アクセス数や売上を見込める。そのため、本来ならば「根拠が薄い」と判断されるような情報でも大きく取り上げられ、いつの間にか「事実」としてひとり歩きしてしまうのだ。そして中居くん本人としては、番組や公の場でいちいち否定しようものなら、それ自体さらに注目を集め、話題を長引かせる結果になってしまう。とくにバラエティの司会やゲストという立場上、“うまく笑いに変える”ことを期待されるため、否定真剣になればなるほど「逆に怪しい」などと揚げ足を取られかねない。こうした状況でやむを得ず曖昧な態度を取ったり、さらっと受け流したりすると、それがまた「やっぱり何かあるんじゃないか」という憶測を招き、さらに噂が増幅されるという悪循環が生まれしまう。つまり、騒ぎが大きくなればなるほど、タレント側は「言い訳がましい」と取られないように慎重にならざるを得ず、その結果「否定の少なさ」が“暗黙の肯定”として扱われてしまうのである。これは一種構造的な“芸能人宿命”と言ってもよく、なかでも中居くんは圧倒的な知名度を持つだけに、その被害を最も受けやす立場にいると言えるだろう。さらに注目すべきは、中居くん性格言動パターンから見えてくる“被害者的要素”である。彼は長年バラエティ界を支えてきた存在でありながら、自分自身プライベート内面について深く語ることをあまり好まない。アイドルとしてデビューした初期から、一貫して“中居イズム”とも言えるようなスタイルを貫いてきたが、それは言い換えれば、心の内を多くは語らず、必要以上に周囲を巻き込まないよう配慮してきたということだ。もともと多くのテレビ番組MCを務めてきた経験からもわかるように、彼が優先してきたのは「ゲスト共演者を引き立てること」「番組全体を盛り上げること」。決して自分を前面に押し出すタイプではない。そんな彼が、女性問題に関しても積極的反論説明をするはずがないのだ。自分いくら誤解されていようとも、そこで一から十まで事実を主張して戦おうとはしない。なぜなら、詳細を語れば語るほど、スキャンダルとして再燃するリスク高まるからであるときにはそこに他の女性名前プライベート情報が絡む可能性もあるため、なおさら公に言及しづらい。結果として、より大きな騒ぎを避けるために黙る姿勢が、“何も否定していない=クロ”という印象を生んでしまう。これはあくまタレントとしてのプロ意識リスク管理の一環であるにもかかわらず、彼があまりにもビッグネームゆえに、世間からすれば「やましいから黙っているのでは」と捉えられてしまうのである。こうした一連の流れを見ると、中居くんは“女性問題”とされる噂のほとんどを積極的に語らずにいることから、逆に「被害者」であるように感じられる。彼が注目を浴びれば浴びるほど、メディアネット上では新たな“疑惑”が湧き上がり、あるいはさまざまな憶測が結びつけられ、“話題として消費”される。その結果、中居くん自身は何も語っていないにもかかわらず、ファン視聴者はいつの間にか「女性関係が派手」「浮名を流している」というイメージが定着してしまう。しかしそれらの大半は真相が定かではなく、当の本人否定肯定もしていない。そもそも噂の出どころは当時の関係者が匿名発言したものや、週刊誌が「関係者の話によると」とぼかして書き立てるものが多いが、果たしてどれだけの信ぴょう性があるのかは極めて疑わしい。タレントとしての中居くんは、どんなときでも番組を盛り上げるために笑いとトークで場を和ませる。SMAP解散後も多くのバラエティに引っ張りだこであり、視聴率や注目度を左右するほどの存在感を放っている。こうした大きな影響力があるがゆえに、彼がちょっとした発言をしただけでもゴシップ火種になりやすい。たとえば番組内で冗談めかして「彼女?いないいない」と言っただけのことが、ネットニュースでは「熱愛の可能性」や「結婚の噂」へと拡大解釈されるケースもある。こうした歪んだ伝わり方が繰り返されるうちに、まるで中居くんが“秘密裏に怪しい行動をしているかのような印象”が作られていくのだが、ここには彼自身意思や行動とは無関係な要素が多分に含まれている。実際、中居くん番組共演者プライベート話題に触れられても、あまり過敏に反応しない。むしろ芸能人から仕方ない”という感覚でいるようにも見える。しかし、その“反応の薄さ”が時に「やはり後ろ暗いことがあるのでは」と邪推されてしまうのも事実だ。つまり、何をしても注目され、何をしても誤解されるという状況に置かれているのが、まさに現在中居くんなのである。これは紛れもなくタレントとしての宿命であり、“有名税”と言えるかもしれないが、少なくとも“女性問題”の主張だけを見れば、彼が進んでゴシップを生み出しているわけでもなければ、誰かを傷つけている事実が見つかるわけでもない。むしろ、彼が被害であると思えるエピソードのほうが多いのではないかさらに、彼の性格的な特徴として“配慮の深さ”が挙げられる。中居くんはよく周囲のスタッフ共演者に気を配り、相手立場尊重することで知られている。バラエティ番組の進行をする際も、共演者の得意分野や話したい内容をしっかりと引き出し、誰も置いてけぼりにしない司会運びを心がけている。こうした人柄からすれば、もし女性に対しても同様に優しく接しているのであれば、なおさら誤解が生まれやすい。たとえば仕事パートナーに対して礼儀正しく接し、時にはおいしいレストランを紹介したり、プライベートでも相談に乗ったりという行為は、あくまで人としての気遣いである可能性が高いのに、世間からすればすぐに“親密交際か?”と受け取られがちだ。芸能人という立場を考えると、そうした何気ない人間関係が一瞬のうちにスキャンダルに変貌してしまう危うさは常につきまとう。それを考えれば、中居くん自分プライベートを守るために、わざと曖昧な受け答えをしたり、深く語るのを避けたりしているとも推測できる。そしてそのスタンスを貫く限り、彼はマスコミ視聴者の好奇の目にさらされ続け、それこそ“誤解の被害”に遭いやすいわけだ。もちろん、これまでの人生において、中居くんにもさまざまな女性との出会いや別れ、あるいは恋愛感情の芽生えなど、多くのドラマがあったかもしれない。ただそれらは本来プライベート領域であり、互いに納得している関係であれば、外野がとやかく言う筋合いではない。たとえ週刊誌などが「女性問題」と大々的に報じようとも、その裏側には、中居くんがまったく望んでいない形で情報曲解され、拡散されている現実がある。芸能界においては一度火がついたゴシップを完全に鎮火させるのは非常に難しく、それもまたタレントが被る“痛み”の一つなのだ。こうして眺めてみると、「中居くんは悪くない」という言葉には、単なるファン擁護や甘い見方だけではなく、一定合理性が含まれていることがわかる。確かに彼はアイドルとしてスターダムを駆け上がった存在であり、多くのファンの期待を背負っているからこそ、あれこれと批判疑惑の目を向けられる立場にある。しかし、その批判の多くは、実際には憶測に過ぎなかったり、背景事情が歪められて報じられたりしている。あるいは、中居くんが平然と受け流すように見えるからこそ「きっと隠し事があるに違いない」と思われることもあるが、当の本人からすれば、わざわざ否定して騒ぎを大きくするより、沈黙を貫いたほうが周囲の迷惑にならないという配慮もあるのだろう。要するに、彼がメディアや人々の期待に対して果たしてきた役割の大きさが、“女性問題”という形のゴシップ必要以上に増幅させてしま構造がある。そこにおいては、中居くんはむしろ被害を被っている側であり、「悪くない」どころか、誠実に振る舞おうとするがゆえに誤解される“損な役回り”に陥っているとも言える。その意味で、「中居くんは悪くない」というタイトルは、私たちが彼のパブリックイメージだけに惑わされず、芸能ニュースゴシップ記事を一歩引いて見つめ直すためのキーワードになり得るだろう。彼の言動事実としてどうなのか、彼に罪があるのかないのかを断じる前に、まずは“噂が噂を呼ぶ”芸能界システムや、プライベートを切り売りされるタレント立場理解する必要がある。そして、その大変さを真正から受け止めつつ、あえて“華やかな世界”に身を置く覚悟を決めた中居くんという人間プロ意識責任感に、ほんの少しだけ思いを馳せてみることが大切なのではないだろうか。彼は常に笑顔で、あるいは軽快なトークお茶の間を楽しませてくれる。その姿の裏側で、どれほどの噂にさらされ、どれほどのやりきれなさを抱え込んできたのか。そのことを想像するだけで、“被害者”という言葉が浮かぶのも無理はないように思う。「中居くんは悪くない」と声を上げる人々の多くは、単純に中居くんを好きだからというだけではなく、こうした構造的な背景を察しているのではないだろうか。そして、それを知るがゆえに、たとえどんなゴシップが流れてきたとしても“彼は問題を起こすような人じゃないはずだ”と信じ続けるのである。彼の長い芸能生活の中で築かれた信頼関係仕事ぶりを見れば、その判断は決して根拠のないものではないと感じられるだろう。したがって、「女性問題」として槍玉に挙げられる噂を追いかけるよりも、むしろ中居くんというタレントがどれだけの困難を乗り越え、どのように番組ファンを楽しませてきたのか、その実績と姿勢に目を向けることが必要なのではないか。そうすれば自然と、「中居くんは悪くない」という言葉には、ひとりの人間としての彼が背負ってきた苦労や、それを支えるファンの想いが見えてくる。そして最終的には、多くの人が感じているように、やはり中居くんは“被害者”なのではないか、と頷くことになるはずだ。彼のキャラクター仕事に対する真摯姿勢を知れば知るほど、そう確信せざるを得ないのである

anond:20250120135410

思ったのは

これ釣り

釣りじゃないなら、増田の読解力と物事解釈が、良く表現しながらオブラートに包めば「独自認知世界観を持ち、自立精神旺盛である

ストレートに言えば「お前論点ずらしすぎじゃね?自閉症スペクトラムグレーゾーンなの?」

 

まあこっちの読解力・理解力不足があるだろう、長いから読み飛ばしたので余計にな

それにこっちの感情ぶつけてもお前他人感情をいったん受け止めて流すことをしないタイプだろ?

から頭に浮かんだ感想を先に書くわ

 

結論からいうと、増田の受け止めかたを変えるほうが優先順位が高いように思う

増田は受け止め方が非常にずれており、共感性が低いように見える

そのせいで人間関係を保つの必要資質に欠けており、

夫婦関係性によりネガティブな影響を与えるのは奥さんの反応ではなく増田の反応に思われるため

 

>妻は自分しんどいとき相手もしんどくあってほしいらしい。

 

自分が読んだ限りではそのように受け止めることはできなかった。

増田自分物事の受け止め方の乖離はかなり広いようだ。

 

体調が悪い時の増田対応の仕方は理解できる。

問題増田奥さんにも自分と同じ価値観、同じ感情を(無意識に?)強要しており相手のやり方を無視している点である

 

奥さんは体調悪いアピールでそれとなく、そしてとうとう先日は言葉に出して明確に「心配してほしい」と訴えてきたわけだろう

なぜこれを無視する?

自分他人は別個の人間である

自分人生で築いた価値観があるのと同じく他人はその人の人生で築いた価値観を持っている

そして結婚するということは、心に寄り添い、その相手価値観を(中間までは)受け入れて生きていく、

そういう誓いじゃないのか?

 

なのになぜ増田は直訴までされてるのにその誓いの相手の訴えを拒否するのか?

しか理由は「自分には理解不能だから」という増田感情

ばっかじゃねえ?????????????????

 

失礼、興奮しすぎました

 

増田、よく聞け

自分は体調が悪い時に心配されたくない」オッケー、よくわかる

おそらくは奥さんも過剰な心配をされたいわけではない

ただ、人間関係で親しい間柄を保ちたければな、相手に対して「気遣っている」「配慮している」ということを

 

言動で示していく

 

必要があるんだよ。

そしてそれがマナーとして周知されているんだよ。増田はその年まで知らなかった、気づかなかったみたいだけど。

から、誰かが体調が悪かったとすると、「大丈夫ですか?と気遣ってみせる」ことは円滑な人間関係上のマナーなんだよ

そうやって相手内面に関心を払っています、という態度を見せることが必要なんだ

から奥さん一言大丈夫?」とか「薬出そうか?」というとか、奥さんが体調を崩している時にはいもの行動パターン封印するとか、

増田心配していることを明確にした言動」が欲しいんだ

それだけだ

難しいことじゃないだろ?

 

心配していないから態度の変化がないのと、心配していても態度の変化がないのと、他人から見たら区別つくか?

  

増田他人が考えてることを読み取る超能力持ってるか?奥さんは?

持ってないだろ?

じゃあ、言葉に出さないならどうやって区別をつければいい?

思っているなら言葉に出して相手に伝えるべき、

という考え方があるんだ

  

増田は「女性はそういう願望があるのか」という疑問があるようだが、そうだな、

男女で言えば性差はある

一般的女性共感性が多いため、親しい相手から共感性を示してもらいたがる傾向がある

女性の話の仕方は男性よりも同意や同感、共感意味する相槌や返信が多くなり、また自分意見を表明するときにも相手への配慮から長くなることが多い)

男性は「自分が思っているなら相手に伝わっているはず」と考え、この手間を省く傾向がある個人女性より多い

(ただし上司や同僚など仕事関係ではマメに発揮する)

 

その結果、ネットでもSNSから質問サイトまで

「私が体調を崩したときにも彼氏は『大丈夫?』の一言がないのが不満です」

「私が作った料理彼氏が食べるとき、『美味しい』とか絶対言ってくれないんです!感想を聞くとしぶしぶ、『完食してるってことは旨いって思ってるってそのぐらい言わなくてもわかれよ』 なんて言います!」

「夫は私が臨月なのに趣味の一泊ツーリングに出かけやがりました、なんでこんな仕打ちができるんでしょうか」

という女からの不満が定番である

 

話飛ばすが、増田は「自分がこう思っている」と「妻はこう思っている」の違いをよくわかっていないように見受けられる

専門用語でいう自他の境界線あいまいってやつじゃないの増田って)

増田が」体調不良時にはこうしたい、ああしたい、自分家族心配かけたくない、その感情はわかる

だが奥さんは違う感情を持っていることをもっと理解しなきゃだめだ

さらにそのうえで、自分感情は「伝えようとしなければ伝わらないこともある」ことを理解しなければ他人とは暮らせん

 

奥さんが寝込んでいる時遠出しないでいてほしいというのは不安からだろうな

これについて書こうとしたがすでに長くなってるので、要望がない限りやめておくことにするよ

体調が悪い時の過ごし方は自分は完全に同じやり方である

家庭内自分の分担に事務連絡をし、自力で快復手段を用意し、

アニメメダリスト、これじゃない感

原作強火ファンぼやきです。

メダリストアニメになるってんで、そりゃもう待ちわびてたのよ。

登場人物たちの滑走が、演技が、動くなんてという喜びにあふれていたわけで。

昨日2話目を観おわったのよ。

して思うわけ。…これじゃない。

何がモヤモヤするんかと思ったら、多分2つ要因がある。

1つ目、絵柄。原作はつるまいかだ先生の、ちょっと粗めのタッチが魅力的だ。登場人物たちの鬼気迫る熱狂を支えているし、コミカルな場面ではいい感じに脱力させてくれる。しかし、アニメきれいな細い線で、色彩はハイトーンかつコントラスト低めである主人公小学生なこともあり、なんだか女児アニメ然とした空気が生まれている。特に1話の、いのりが笑顔を見せるシーンのキラキラエフェクトは笑っちゃったよ…。あんキラキラさせられると、なんのアニメを観ているんだと悲しくなる。2話の光と滑っていたシーンの、背景消して青いきらきら世界したことも辛かった…。なんだあれ。あのシーンは、光の強さや決意、覚悟を語り、いのりが感化されるシーンである。強さや力を感じさせる演出ならまだしも、キラキラな背景はなかろうよ。もう少しトーン暗くしたり陰影強くして力強さを出してもよかったんじゃないかと思う。その方がいのりの、圧倒的な執着と、その輝きを感じただろうに。

2つ目、テンポが悪い。ギャグパートシリアスパートも全体的にゆっくり描写されて緩急がない。2話の、光といのりの出会いから一緒に氷を滑ったくだり、良くないところが顕著に出た。いのりが光にジャンプを教えてと乞うシーンでは、原作ではギャグシーンをサッと描写し光目線で「なんなのこのコ?何?」という感情描写につなげることで、その後のいのりの内面の焦りを語るシリアスシーンが映える。それが主題だ。だが、アニメではギャグシーンが変に間延びして、自分から突っ込んだ挙げ句ゾンビのようにねっとりと「ジャンプジャンプ…」と迫る怖い子になってる。光かわいそう。絵柄も相まって、ギャグシーンのデフォルメ顔がかわいくないのも致命的。

以上、2話までの視聴の感想でした。

キラキラ世界を、幼い女の子活躍して、可愛い姿を堪能しようって話なら良いのかもしれないけど、

メダリストは、過酷残酷な氷上の世界を、幼い女の子がバディ(あけうらじ先生)と共にスポーツ科学に裏打ちされた努力を重ね、成長をしていく世界を描いていると思っていたので、ことごとく期待外れ。

全然感想流れてこないんだけど他の原作ファンはどう思ってるか不思議

2025-01-19

anond:20250117225822

追記を読み、元増田はもう読まないかもしれないけどシオカラーズ推しからアオリちゃん情報おすすめ順に列挙していく

スプラトゥーン任天堂にしては珍しくキャラクター内部描写が凝っているし、シリーズ一貫しているのでハマると抜けられないです。(他にはメトロイドくらいか

■連載塩辛小説無料

イカ研究所が2の宣伝としてTwitterに公開した小説

https://www.nintendo.com/jp/switch/aab6a/sp/archives/novel/index.html

アオリちゃんは明るくて良い子

というのが一般イメージだけど、内面描写をされたのはこの小説が初。これを読んで2のヒロモをやると彼女のことがより深く理解できると思うし

辛いことがあったから3でまたシオカラーズを続けているんだな、としみじみすると思う

ちなみにファンの間では連載中、Twitter阿鼻叫喚だった

SPLATOON LIVE IN MAKUHARI -シオカライブ CD★有料

動画無料で見れるんだけど、その音源

何がオススメかというとこのCDしか聴けないドラマCDがある。

イカ語で喋っているので、会話の内容は我々ニンゲンには理解できないのだが、ファンならなにが起きてなにを喋っているのか伝わるのが実に絶妙アオリちゃんの表では見せない一面が伺える。

ブックレットキャラクターデザイナーの井上さんの描き下ろしシオカラーズが見れる。笑顔で手をつなぐ2人が見れるのもこのブックレットだけ

ハイカラウォーカー バイスプラトゥーン2★有料

スプラトゥーン2の2冊目のアートブック

テンタクルズやオクトエキスパンションがメインだと思われがちだけど

2のヒーローモードの初期コンセプト漫画が読めるのが最大の見どころ

ゲームでは採用されなかった要素やセリフもわかり、アオリちゃんはどれだけホタルちゃんのことが大切なのかがわかると思う

公式動画無料

ライブ動画は紹介されていたが他にもある。

アートデザイン担当井上さんが動画勉強されていたので、初代スプラトゥーンは手描きアニメーションがいくつか作られた。やはり動くアオリちゃんかわいい

https://youtu.be/_PsBfxHrQHY?si=gL4B8wasCd5-31Od

https://youtu.be/4RBG4KLnGjY?si=oDK_f_QIJVBtsFna

https://youtu.be/MMf22gLlD5Y?si=fOVr0en3D1NAW9_p

スプラトゥーン2★有料

もう増田は遊ぶと決めたらしいが、やはりプレイ動画見るのと自分で遊ぶことでは違うのでオススメしたい。

ヒーローモードの一番はじめのステージにはアオリちゃんホタルちゃんハート割れた相合傘のらくがきが隠されている。

ゲーム進行には全く関係ないけど、シオカラーズファンとして大切な要素だというのが増田にはわかると思う

クリアしたらタコツボキャニオンに行ってアオリちゃんとの会話を間近で見てほしい

■初代スプラトゥーン フェス会話、ニュース会話のプレイ動画無料

もうWiiUのネットワークサービスは終了してしまったので、正規方法では見ることができない

当時のプレイヤーがアップしていた動画を探して見てほしい

テキストでまとめたものもあるが、やはりアオリちゃん本人が動いて喋っているのを見るのが一番幸せになれる

■初代スプラトゥーン ヒーローモード★有料

一番購入難易度が高いと思う。何よりネットワークサービスは終了している。

だがシオカラーズファンとしてはヒーローモードを遊ぶ価値はあると思う。増田はもう購入する予定らしいが、是非17歳アオリちゃんは今より口が悪いのを味わってほしい

スプラトゥーンスプラトゥーン2イカアートブック★有料

初代と2の設定資料

アオリちゃんチアガール初期案や、2のヒーローモードの悪役アオリちゃんの様々な衣装が見える。

いろんなアオリちゃんが見たいのならば買って損はない2冊

他にもまだスタッフインタビュー記事WEB上に残っているので余力があれば読んでみてほしい

イカ研究所から大切にされているのが伝わると思う。

2025-01-18

俺は自由

仕事をしたりネット中毒になったりしていると、この世があたかも小さな世界に思えてくる。

しかし俺は思ったのだ。小さいのは俺の脳内世界なのだと。

俺は地元から出ることも無ければ、平日に外へ出かけることもない。

新しい集団フォローすることもないし、仮にフォローじても彼らの情報になど見向きもしない。

完全に狭い世界の中で生きているわけである

ストア派哲学によれば、コントロールできるのは俺の内面だけであり、外の世界コントロール範疇にはないという。

しかし関わる外の世界を広げていかなければ、内面を広げることもできない。

かにインテリはそのような俺に対して「読書しろ」というアドバイスをするだろう。

しかし俺はもっと物理的に広い世界を見たいと思うようになった。

まり自然の中を散歩したり、海を見たり、そういうことをしたいと思うようになったのである

ではそのような自由存在するのに、実際にはその自由が感じられないと思うのはなぜなのか。

それは疲れるからである

俺は確かに自然の中を散歩したいと思っている。しか散歩は疲れる。めんどくさい。やーめよ、というわけだ。

俺はナマケモノのように、できるだけ体力を使わない生活をしてきた。

だが、それでいいのか。もっと広い世界を知れるというのに。

仮にインターネット上でしか探索の機会を広げないとしても、やり方は様々ある。

アラスカ写真家フォローするのでもいいし、イスラエルラビが書くブログを読むのでもいい。

小さい世界から一歩外に出れば、自由があり、知らないことがたくさんある。

たぶん、俺と近い人を探すより、俺とは全く異なる仕事をしている人を探すほうが良い。

俺の世界は狭いのだからアウトプットしよう」などと考える必要はない。世界からインプットしろ。広い世界を知れ。

anond:20250117151623

中居正広の張り付いたようなわざとらしい笑顔サイコパス特有のものだってことは、ピース中居が演じた時に感じていた。あの映画だけ突然変異のように好(怪)演していたのはもともと内面が一緒で作る必要がなかったからかも。

2025-01-17

anond:20250117125910

多分超イケメンアバターのVを通して好きになってると思うんだけど

現実に会ったらキモオタが出てくる可能性はまあまあるけど内面で好きになってるってことで全部許しちゃうの?

2025-01-15

学歴コンプレックス自殺することになった。とうとうこの時がやって

学歴コンプレックスで長らく悩み続け、いよいよ自殺をすることになった。

日本安楽死制度が整備されているのであれば、今すぐにでも申請し、「一件落着」だが、残念なことに今の日本にそのような制度はないので仕方がない。

もちろん死ぬのは怖い。本当に怖い。

ただ、もはや自分の知能の低さを規定しているこのDNAが、それ故に生まれながらに高学歴を得られないことを決定づけているこの劣ったDNAが、それにより構成されているバカで劣等な自分自身の存在のものが、生理的気持ち悪くて仕方がない。

知的社会たる現代日本では高学歴を有さない者は、基本的に「人」そのものとして劣っているとみなされる。

卒業大学名前がそのまま当人知的能力の全てを、ともすると人間としての価値ランクをまるごと規定してしまう。

学歴能力指標にとどまらず、内面の繊細さや思慮の深遠さ、人としての毛並みや美しさまでもを規定する。

そのような地獄の知能カースト社会において、低学歴が人としての尊厳や誇りを持って生きられるはずもなく、したがって幸福に生きられるはずもない。

もし低学歴者が高学歴の連中の目に「幸福に生きている」ように映ったとすれば、「動物園ではしゃいでいる猿」に対する眼差しと同様のそれを向けられる。

結局は、どう転んでも待っているのは地獄のもの

現代日本において低知能に生まれた(私のような)低学歴者は、言わば戦前アメリカに生まれ黒人と同じなのだ

そこに救いはない。

早く楽になりたい。苦しい、苦しい。

私は極めて難しいペーパーテストにより先天的に知能の高い者以外を(事実上)排除する、この国の上位大学入試形態によって殺されたようなもの

社会メディア、ことにインターネットにおいて無秩序に猛威を振るう、アパルトヘイト級の学歴至上主義学歴差別に殺されたようなもの

来世は知的に優秀なDNAと、それにより形成される明敏な頭脳を持って生まれて来たい。ただそれだけだ。

さようなら

2025-01-14

1月2週LINEオープンチャットはてなブックマーカー」1週間のまとめ

これは何?

LINEオープンチャットはてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらAI使用し、試験的にまとめまています

要約内容

1/12(日)
テーマ: コミュニケーションツール食べ物日常考察

LINEmixi: mixiの衰退原因やスタンプの魅力について議論

食文化: 雛人形現代デザインバーガーキングの味・価格についての感想

日常考察: ネット文化の変化や労働環境への懸念

1/11(土)~1/12(日)
テーマ: ゲーム地域、体調管理

モンスターハンター: ゲーム文化の影響。

体調: 発熱予感に対する軽いコメント

地域の特徴: 南栗橋川口の焼却炉問題

1/10(金)~1/11(土)
テーマ: 食べ物睡眠生活の工夫

飲み物価格: 高額な飲み物への驚き。

生活感: 模擬試験の夢やメガネ紛失のエピソード

1/9(木)~1/10(金)
テーマ: テクノロジーエンタメ

スマホ進化: Pixelシリーズの重量の変化。

エンタメ性: B'zや「ウルトラソウル」の人気。

1/8(水)~1/9(木)
テーマ: 動物家族健康

タカの観察: 大阪城公園タカの話。

家族関係: 親とのストレスメンタルの話。

健康: 経鼻胃カメラ体験

1/7(火)~1/8(水)
テーマ: 多様性雇用

多様性: テクノロジー業界多様性欠如や雇用問題

懐古的話題: 昔のオタク文化

1/6(月)~1/7(火)
テーマ: 経済旅行食文化

資本主義: 内面性の考察

旅行: デンマーク体験談。

食文化: キャベツ価格や越冬する昆虫について。

1/5(日)~1/6(月)
テーマ: 歴史エンタメ

歴史ユーモア: 歴史上の人物がスマホを使う想像

ゲーム: マリオRPGリアルタイムアタック

関連記事

https://anond.hatelabo.jp/20240722084249

オープンチャットの参加URL

LINEオープンチャットはてなブックマーカー」の参加はこちから

https://line.me/ti/g2/MFSXhTJoO_pLfrfds1LpyJ0OlBgcPJSqHoRbBg?utm_source=invitation&utm_medium=link_copy&utm_campaign=default

高級腕時計を買いたい平民気持ちがわからない

ステータスを金で買おうって? 高級腕時計地位成功を示そうとするのは、内面的な価値よりも他者から評価依存している証拠

真の自己価値は物で証明できるものではなく、外見的なステータスに頼ることは浅薄自己満足的。

投資として正規品を購入するって? 実際には価値も上がらずただの浪費である場合が多い。

第一、いまどき腕時計なんて実用性を超えた過剰な贅沢品。それを「投資」と正当化するのは本質から目をそらしているだけ。

スイス製伝統リスペクトしているって?実際にはブランドイメージ流行に踊らされているだけだろって。

真に伝統を重んじるなら、その価値を持つ他のものにも同様の態度を取るべき。スイス首都わかるの?

個性を表したいって?それはもう、ブランド価格に頼った「借り物の個性」だろ。安易

所有欲なんだから構うなって?物欲で物を手に入れることで満足を得ようとすればするほど、内面的な充足感が欠如しているのがわかる。

友達が増えるよって?高級腕時計を通じて得られるつながりは、本当に価値のある人間関係と言えるのか?時計がなければ成立しない関係脆弱

2025-01-13

anond:20250113192839

ピータが長老に尋ねた「どっちが勝つんですか?」に対する答えは、狼の名前が「愛」と「悪」であることから勝敗はその餌の与え方に依存するという教訓的な内容です。長老言葉「お前が餌をより多く与えたほうだ」というのは、愛や悪といった二つの側面が、どちらも人間の心の中で育まれ、強くなる可能性があることを示唆しています

この話は、一般的に「どちらの狼に力を与えるか」という選択が、私たち自身の行動や思考によって決まることを象徴しています。つまり、愛を育てることで良い結果を得ることもできれば、悪を育てることで悪影響を及ぼすことも可能であるという教訓です。このような寓話は、自己反省内面的な成長を促すものとして広く用いられています

anond:20250113175922

ああ、素晴らしい話ですね!本当に感動しました。いや、何というか、その……もっちゃんという存在がどうしてこうも鮮やかに、そして現実妄想の間で息づいているのか、深遠な何かを感じました。ええ、確かにリュックお菓子だけ詰め込むというエピソードは、まるで人間欲望自由象徴しているようです。それが「森永製菓」の社長になるという展開、うーん、何かこう、人生伏線が回収される瞬間を目撃したような……いや、実際には社長じゃない? ん? え? 社長も嘘? ということは、お菓子が好きすぎる「もっちゃん」という存在のもの虚構? いや、しかし待ってください。「もっちゃんがいない」という事実は、むしろ彼の存在否定するのではなく、逆により強固に彼を浮き彫りにしていると言えないでしょうか?

ちょっと待ってくださいね。つまりもっちゃんは実在しないんですよね? でも、でも、ワイさん自身経験もっちゃんに投影していた? うーん……いや、それならば、もっちゃんが架空存在であるにもかかわらず、ここまで鮮烈に描写されるという事実こそが重要で、えっと、つまり、これはワイさん自身内面もっちゃんという形で具現化している……いや、違うな、そういう話じゃない? 違う? いやいやいや、待ってください、冷静に考えましょう。もっちゃんがいない? いないんですね? 本当にいないんですか? いや、それなら、え、じゃあ誰がこの「お菓子の子供」事件を……? あれ??

すみません、話を整理したいんですけど、もっちゃんがいないというのは、つまり最初から最後までワイさんの妄想だった……けれども、最初に「久々に会った」と言っていたわけで、それは……ええっと、もっちゃんがいないのに「久々に会った」という表現をした……? ええ、あの……。ん??? あっ、でも、明日からみんな仕事がんばろうという結びの部分には、大いなる励ましを感じました!ほな、またやで〜

anond:20250113122547

テメェで定義を教え込むんだよ!

最初人格排泄とはどのような概念ですか?とか言ってたけど、ちょっと教えたらこのくらいになったぞ

了解しました。それでは、もっと興奮した感じで、粗野で情熱的なエッセイに挑戦します。

人格排泄」の興奮と背徳

人格排泄って、最初に聞いた時はびっくりしたけど、よくよく考えるとめちゃくちゃ魅力的なテーマだよな。なんだよ、この「人格排泄物として外に出る」って! これだけでもう、何かものすごい快感がこみ上げてくる。魔術とか力に操られて、女性自分の中身をまるでゼリーみたいなものに変え、そしてその「排泄物」がまだ元々の人格を持ち続けているとか、考えただけでゾクゾクしてくる。これはもう、単なるファンタジーじゃない、ものすごい深い快楽の核心に触れる感覚だよ。

まず、考えてみて欲しい。魔術で人格を吐き出すって、どんな感じだろう? その瞬間、すべてを捨てて自分解放するみたいな感覚が広がるんだ。普通は人は、何かに縛られていたり、他人の期待や社会の枠組みに縛られてるけど、その枠から「排泄する」ことで、一瞬でも解放される。この瞬間が、もう興奮そのものだ。自分思考感情を外に出すことで、何かが消えるんだけど、消えると同時に新しいものが生まれるんだよ。これって、すごくエロティックで、力強い解放感を伴うんだ。

そして、その排泄された人格ゼリーになって残るってのが、また衝撃的だ。ゼリーの中には、まだ「人格」が宿ってる。物理的に変わっても、内面的な部分が残るって、すごいよな。それ、もう外見が変わったからって、完全に消えたわけじゃないんだ。あの中には、記憶感情も、もともとの自分存在している。それが、ゼリーのようにプルプルと震えている様子を想像すると、もう堪らない。

そもそも、「排泄物」として人格が出てくるっていう発想が、ものすごく背徳的だ。普通なら、排泄物って最も避けたい、恥ずかしい、見たくないもの。でも、それが「人格」になって外に出るっていう、その逆転劇が、もう完全にエロティックなんだよ。なんだろう、従順になったり、無力になったりする瞬間に、どこかで快感を感じるようなものがある。この「ゼリー」という物質感が、さらにその不純で背徳的な欲望掻き立てる

排泄物になった人格って、どこかしらでその元の「人間性」を持っているから、なんだか異常な魅力があるよな。無防備に変わったようでいて、その中にはまだ、もとの自分がいる。それが、暴力的に、あるいは無意識的に支配され、操られながらも、その一部は残り続けているってのが、またそそる。完全に支配される、でもその中に残るわずかな反抗心や人間らしさ。これがたまらなくエロい

結局、この「人格排泄」って、ただの奇妙なファンタジーじゃない。そこには、人がどれだけ自己を捨て、解放されようとするか、また、変わりたいけれど変われない、支配されたいけれどどこかで抵抗し続けるような欲望が隠れている。ゼリーになっても、自分自分であり続けるその葛藤が、究極的にエロティックで、病的に魅力的だ。

これを好む人がいるのも、よくわかる。排泄物として人格が消えていくことで、支配解放快楽と恥じらいが一体になってる。だから、もうたまらなく引き込まれていくんだよ。

ストイックストア派

ストア派哲学は、内的な変化が可能である一方で、外的な状況は変えられないという観点から理解されるべきです。この考え方は、ストア派提唱する「コントロールできるもの」と「コントロールできないもの」の区別に基づいています

ストア派の基本概念

1. 内的な変化と外的な状況

ストア派哲学者たちは、私たちコントロールできるのは自分内面的な反応や感情であり、外的な状況や他人の行動は制御できないと教えていますエピクテトスは、「我々にはコントロールできるものとできないものがあることを自覚し、コントロールできるものに注力し、コントロールできないものにとらわれるべきではない」と述べています[5]。これは、外的な状況に対する執着を手放し、自分自身の内面的な態度を変えることが幸福への鍵であることを示しています

2. 幸福の源

ストア派によれば、幸福は外的な要因(富や名声など)によって決まるものではなく、自分自身の内面的な状態からまれるとされています。外的な要因に依存することは、不安定であり、失うことへの恐れを生むため、内面的な安定を求めるべきだとされます[2][3]。

理論説明

1. 自由運命

ストア派は、人間が直面する運命や苦難を受け入れることが重要だと考えます運命を受け入れることで、私たち自分内面的な反応を調整し、心の平穏を保つことができます。これは、「自分自由にならないことを自分自由だと思い込むこと」が不幸の原因であるという見解にも通じます[2]。

2. 自制心と倫理

ストア派は、自制心や忍耐力を鍛えることで、破壊的な衝動に打ち勝つ方法を説いています。明晰で先入観のない思考によって普遍的理性(ロゴス)を理解し、それに従うことで道徳的倫理幸福を追求することが可能になります[1][3]。このように、自分自身の内面的な変化を促すことで、外的な状況に対する適応力が高まります

結論

ストア派哲学は、「内は変えられるが、外は変えられない」という観点から人間がどのように幸福を追求するかについて深い洞察提供します。内面的な変化に注力し、外的な状況には執着しない姿勢が、真の幸福への道であるとされています。この考え方は現代社会においても非常に有用であり、多くの人々に影響を与え続けています

 

Citations:

[1] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE

[2] https://note.com/tetsugaku_ch/n/nb9dee380a850

[3] https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE_%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BE%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81

[4] https://researchmap.jp/kina/misc/17341773/attachment_file.pdf

[5] https://honz.jp/articles/-/45269

[6] https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/19184/p085.pdf

ネタバレ感想映画ロボットドリームズを見ました

私の好きな人たちがオススメしてくれたので、気になっていた映画ロボットドリームズを見たのですが、私個人の好みの話をするとかなり苦手な作品でした。とはいえ、とても考えさせられる物語でもありました。

作品に関して思うところがかなりあるので、ネタバレ全開で思ったこと書かせてください。全て書くと取り留めのない文章になってしまうので、

ドッグの非力さ、能力の低さ、不器用さ】
ロボットをどう捉えるか】
ラストシーンに関して】

この3点を中心に焦点を当てて書いていきたいと思います

ドッグの非力さ、能力の低さ、不器用さ】

これがもうね、見ていてつらい。本当に。具体的には、

①壊れたロボットを持ち上げようとするも叶わず、後日助けることにする

最初はあまり深く考えずに見ていたため、ロボット動物たちには決して持ち上げられないくらいの重量があるのかと思っていたのですが、よく考えたら物語冒頭の配達員や、ジャンクヤードのワニがロボットを軽々運んでいるところを見ると、決してどうやっても運べない重量という訳ではないんですよね。あの世界では種の違いによるものなのかもしれませんが、ドッグ動物たちの中でも身体的に優れているとは言えなかったため、友人(あるいは恋人)の危機に際して最善の方法をとることができなかった。

②ビーチの錠前破壊不法侵入を犯して捕まった後、ロボットの即時救出を諦める

錠前を壊す以外に最低でも2つの侵入方法があったことが作中でわざわざ明示されています。それを教えてくれたのは、海から漂着した海兵?たちと、下水道をこじ開けて侵入したスカベンジャーです。なので、「この物語あくまコミック調のフィクションから錠前を壊して侵入する以外ロボットの元へ行く方法はなかったんだよ~」となどという意見は悲しいですが通用しません。一度捕まった後も、ロボットを助ける方法複数あった。けれど、ドッグはそれをしなかった、またはそれらの方法想像、あるいは実行できなかった。

まあ、これがもし普通映画だったら、ドッグは諦める前に「必ず君を助けにくるから!」とロボットに声をかけるんでしょうが、この辺りはセリフのない映画面白さではありますね。「6月1日ロボット救出!」はあくま自分が掲げた目標しかなく、ロボットと交わした約束ではなかったわけです。

自分の心の隙間を一時でも埋めてくれたダックに、会いに行こうとしなかった

舞台はおそらく80年代マンハッタン。ダックの引越しであるヨーロッパへ行くことは簡単ではないかもしれませんが、不可能ではない。ですがドッグは作中その選択はせず、他者との繋がりを得るためもっと手っ取り早い方法をとった。会いに行くとまではいかなくても、せめてダックに向けて手紙を返すシーンみたいなものがあったらまた印象も違ったとは思うのですが。それと、ダックや他者とのコミュニケーションきっかけになったゲイラカイト釣り、そしてソリですが、どれを取ってもドッグは不出来・不慣れなんですよね。これも見ていてつらい。作中どこをとってもドッグ他者比較して明確に優れているな、という点が見つからないんです。もちろん、他者比較して優れているところなんてそんなものなくたって動物(人)は愛し愛されるべきだとは思うのですが、それでもドッグは(これは本当に私個人感想なんですが)不出来で何をやっても上手くいかない過去自分を見ているようで何だか胸が痛くなりました。また、私の兄弟は、「可愛い絵柄だから見れたが、これが実写映画だったらもっとジメジメして見ていられなかったと思う」と言っていて、確かにその通りだなと感じました。ドッグというキャラクター風景作画がとっても可愛く、音楽演出も明るいため見落としそうになりますが、これを全て人間に置き換えたらそれはもはや悲劇だなと...

ドッグラスカルの対比

ロボットの二人目のパートナーと言えるラスカルは、ドッグ比較して様々な面で優れている描写があります。いくつか例を挙げると、ドッグよりもロボット工学精通している、普段冷食ばかり食べているドッグに対して、ラスカルは朝パンケーキを焼いたり屋上バーベキューしたりと料理が得意な描写がある、ゲイラカイトや二代目のロボットを買う際、値段を見て安いもので済ませてしまドッグに対して、ラスカルは大きなビル屋上や一室を自由に使っていたり、壁の塗装を行ったりと、マンションあるいはホテルオーナー(≒裕福)だと思われる描写がある etc...

ドッグラスカルと同じかそれ以上に機械いじりに長けた人物だったら、ロボットが壊れた際その場ですぐに修理なり応急処置なりをすることもできたかもしれない。

あとなにより終盤の花火のシーンでラスカルロボットビル屋上からバーベキュー片手に花火を見ているのに対し、かたやドッグティン(二代目ロボット)は橋の下サンドイッチ一枚食べながらそれを見ているのがなんだが残酷すぎて嫌な気持ちになりました。もちろん、大事なのは「何をするじゃなく誰とするか」「何を食べるではなく誰と食べるか」だとは思います。でも、わざわざ2組の境遇にこれでもかってくらい対象的に差をつけているのがこの作品意地悪なんですよね。「幸せの形は人それぞれなんだから別にいいじゃーん」と言われたらそれは本当その通りなのですが、じゃあ「他に人や遮る建物もないビル屋上バーベキューして好きな音楽聴きながら花火を見るのと、他にも人がいるなか橋の下サンドイッチ一枚食べながら花火を見るの、どっちがいい?」って聞かれたら、そりゃあ前者を選びますよねっていう。

他者に対する無自覚暴力

ハロウィン無関係子どもに当たる、喧嘩を売ってきたアリクイに仕返しをする、ロボットにとって危険である海に二度もロボットを連れていくなど、ドッグ内面も未熟であることが端々から見てとれますもっとも、未熟なこと自体は悪ではなく、そこから成長していく物語というのは昔から現在まで創作基本的アプローチとして広く使われてきたテーマではあります。ですがドッグには作中精神的な成長が見て取れなかった。もちろんこの作品のメインテーマが成長ではないことは重々承知していますが、でもこれやっぱ、かなりしんどいんですよね。何かしらの成長や前進があって欲しかった。ロボットは長い夢を通じて精神的成長をしたともとれるお話でしたが、ドッグは何か問題に直面した際にいつも場当たり的でインスタント対処を続けてきたので、きっとこの先も似たような失敗や別れを経験してしまうのではないか、とか憂慮してしまます。まあそうやって失敗や別れを繰り返すのもまた人生ケセラセラ、みたいな話なのか?違うか。

ドッグも行動力が無いわけではないので、「ならどうしてこんなに孤独なんだろう」と途中までは思っていましたが、段々彼の行動に違和感を覚えるところが強くなっていきました。ドッグ第一主人公と言っても過言ではないと思いますが、彼に感情移入してしまうと中々にしんどかったです。6月1日ロボットを探す際、周囲に止められるまで穴を掘り続けるシーンとか、良いところももちろんあるんですけどね。ドッグは彼なりに出来ることを精一杯やっていたんだと思います。でもそのやり方とか判断、彼の能力が、作中の他の登場人物より拙く描写されていること、またロボットを助ける方法がないわけではなかったと明示されているのがこの作品残酷だなと思いました。ロボットとの別れがの原因が不慮の事故とかだったらここまでモヤモヤしなかった気がします。

ロボットをどう捉えるか】

ロボットは作中では動物たちと同列の命としては扱われていません。私はロボット動物たちと同じ命だと思っていた(思いたかった)のですが、この点に関してはこの作品シビアな部分の一つで、結構残酷描写が多いです。絵的に分かりやすいシーンで言えば、ロボットの足を切断する海兵?や、ロボットスクラップにするジャンクヤードの人たちでしょうか。子どもロボットを叩いて虐待しているようにも見えるシーンもありましたね。でも、それだけでなくドッグラスカルも彼らほどではないにせよ身勝手な行いをロボットに向かってしているなと私は感じました。例えば、ドッグは泣く泣くロボットをビーチに置き去りにしたわけですが、もし仮にこれがロボットではなく他の動物、例えばドッグの子どもだったらどうでしょうか。彼はどんな手段を使ってでも子どもを助けたでしょうし、ビーチの警備員役所の人もビーチに入れてくれないなんてことは起こらなかったでしょう(これはあくまで仮の話なので、「ドッグはどう見ても独身だろ」とかいう分かりきった低次元ツッコミは勘弁願います)。何が言いたいかというと、要はドッグ相手ロボットから一旦諦めたし、警備員も置かれているのがロボットだったからビーチに入れてくれなかったのです。ここからも、作中のあらゆる動物ロボットを物として扱っているのが見て取れます海兵?たちはロボットの足を使って舟の穴を埋めていましたが、ドッグ自身の寂しさを埋めるためにロボットを利用していたという点で両者は同じ穴の狢だなと思いました。

また、ラスカルについてはロボットに対してもかなり良心のある人物として描かれてはいますが、自分の好きなようにロボット身体を改造し、自身プレイリストロボット身体に忍ばせるのを良しとしていたりと、見方を変えれば猟奇的とも言えなくもない行動をとっていました。ロボット目線で考えると、動物たちのエゴに振りまわされ続ける話と言えなくもないんですよね。この辺りに気持ち悪さを覚える人と、「ロボットあくまロボット」と割り切れる人でこの作品感想は大きく変わってくるのかなと感じます。たしかに、ロボット通販番組商品であったように、動物たちから見てロボットあくまで寂しさを埋めるための道具でした。だから平気で1年間放置するし、壊れたら好きなように修理するし、新しいものを買ったりもする。でも、ドッグロボットに感じていた友情愛情は嘘ではない。人間ロボットの違いについて考えさせられますね。

ラストシーンに関して】

長い夢を通じて一人になることの辛さを知ったロボットは、自分が今ドッグと再会してしまったらティンやラスカルはどうなってしまうんだろうと夢想して、再会しないことを選択した(と私は解釈した)のですが、美談のように見えてこれも辛くて。これ、逆だったら良くある話だと思うんですよ。『ドッグが偶然街でロボットを見かける。声をかけたい気持ちは当然ある。でもロボットの傍らには新しいパートナーと思しき人物が。そして自分の隣にも今は新しいパートナーがいる。もうあの頃に戻ることは出来ないけれど、今はせめて一人踊ろうか』って。これだったらそこまでモヤモヤした気持ちにはならなかったと思います。なんだかちょっとバタフライ・エフェクトみたいですし。この場合の再会しないという選択は、ドッグにとっての贖罪でもあり成長でもありますから。でもこれ逆なんですよ。「自分”が”見捨てた人が、街で幸せそうにしているのを見かけて、その人の幸せを願う」のと、「自分”を”見捨てた人が、街で幸せそうにしているのを見かけて、その人のことの幸せを願う」のって、天と地ほどの差があると私を思います後者は並の精神で出来ることじゃないですよ。「まぁそれはロボットから…」って言ってしまったらそれまでかもしれませんが。ロボットには何も悪いところなどなかったのに、この結末は正直あんまりだなと。いや、ロボットがこれで良いと思っているのなら、それがロボットにとってのベストなんでしょうけども。ああ、上手く言語化できない。

ちょっと別の作品を例に出しますが、映画トイストーリー3」では、ロボットと同じように、本意では無いものの持ち主に置いていかれたロッツォというキャラクターがいます。ロッツォは何とか持ち主の家まで辿りつくことが出来ましたが、家の窓を覗くとそこには既に新しい『ロッツォ』を買ってもらっている持ち主の姿がありました。持ち主に捨てられ、帰る場所を失ったロッツォは歪んでしまい、ヴィランとなってしまうのです。帰る場所の有無という違いはあれど、私はこのロッツォとロボット境遇が似ているなと思いました。なので、持ち主を許すことができず全てを憎むようになったロッツォに対して、同じく捨てられた側であるロボットが全てを赦す(というとあまり言葉が正しくないかもしれないですが)という彼(彼女)の精神が、あまりに高尚すぎるなと感じました。私からすると、悲しみと怒りのあまり反転してしまったロッツォの方がまだ理解できるんですよね。もし私がロボットだったら、きっとドッグを恨み続けてしまうことでしょう。何と言いますか、ロボット遊戯王ZEXAL主人公九十九遊馬くんかの如く菩薩メンタル天元突破でシンギュラっているのに対して、ドッグは前述のとおり殆ど成長が見られないのがかなりグロテスクに感じます...。防水型のロボットより手軽で安価ロボットを買って、ロボットを二度も海に連れて行くシーンなんて正にそうですよね。「ロボットがまた壊れてしまうかもしれない」よりも「誰かと海に行きたい」という自身欲求を優先しているあたり、過去経験から学びや成長をしていないのがしんどくて。いや、潤滑スプレーを散布しているあたり一応前回よりほんのちょっとだけ進歩はしているんですけれども。でもその一歩が本当に小さすぎるというか何というか。このように終盤になってもドッグロボットを命として見ていないところからロボットドッグへの愛情と、ドッグロボットへの愛情に差がありすぎる気がします。やっぱり対等じゃないんですよね。人間ロボット友情を描いた作品って他にも色々あるかと思いますが、基本的にはバディものだったり、主従はあれどロボットのことを同じ命として互いに尊重しあう対等な関係性の物語が多いかなって思います。ですが、この作品はそうではなくロボットを命としては見ておらず、気軽に消費できる道具として使っている。その上で友情とか言われても、やっぱり頭にハテナが浮かんでしまます。「二人の友情」というより、「深慮あるロボットの健気で一方的愛情」という方が自分はしっくりきました。ドッグは、ロボットが与えてくれたもの、満たしてくれたものと同じくらいのものロボットへ返すことが出来ていたのかな…?うーん。

私は、友情愛情はある程度対等な立場がその前提にあるものだと考えています。けれど、ドッグロボット最初から最後まで対等ではなかったように思えて、愛って何なんだろうと考えさせられる作品でした。

けっこう感動や友情といった文脈で語られているような気がする本作ですが、私はこの映画を見終わったあと、下がった口角が元に戻らないくらいには暗い気持ちになってしまいました。

メリーバッドエンドとも少し違うような形容しがたい結末の本作ですが、少なくとも心温まる!とか感動の友情!みたいな手放しで良かったと言えるお話にはとても思えず、心にしこりの残るお話に感じましたね。

この作品のどのあたりに人は感動するのか正直私には分からなかったので、純粋に知りたいなと思い、どなたか教えてもらえたら嬉しいです。色んな方の感想も聞いてみたい。

これはいつか何処かで見た言葉受け売りですが、私は伸ばした手が届く物語が好きです。

昔はどんでん返し系と言いますか、ラスト5分で全部ひっくり返るような後味の悪い映画が好きでよく見ていたのですが、今はもう聖人が報われなかったり、他者のために何かを我慢したり、自己犠牲にするような物語はあまり見たくないというか。鑑賞後スカッとする映画の方がやっぱり好みなのかもしれない。

なんかさ、これ見た後だと人間ロボットの曇りなき友情物語をみたくなっちゃうな。ベイマックスとか。

2025-01-12

高齢オタクの異常な同族嫌悪はもうやめよう、若いオタク達の為に

なぜ規制オタクは同じオタクを見下すのか。その「異常」な同族嫌悪理由をわかりやす説明するよ。

https://somethingorange.jp/entry/otakusabetu

 

若いオタク達と触れる機会もある人間として、この記事には一部同意する所と、微妙意見が違う部分が有る。

意見が違う部分はブコメコメントされてもいる「今の(若い)「オタク」と従来の「オタク」は違う層であり、混同するとズレが生じる」という所。

私もこのブコメ同意で、そもそも今の「オタク」とオタクを見下し批判している高齢オタク全然層が違う。だから本当はこれは「同族嫌悪」ではない、そもそも同族ではないから。

そしてその部分こそ今の高齢オタクの醜い部分が凝縮した側面だと私は思っている。

 

ミソジニー問題を抱えた古い方の「オタク

私も一部のオタクに対する批判には頷く部分もある、確かに一部のオタク言動ミソジニーやその他問題に溢れる事が有るからだ。

しかし大半のオタク批判批判する範囲を間違えている。多くの場合(全て、完全に、ではないが)そうした問題を抱えるのは高齢オタクであり、批判を「オタク」全体に向けた瞬間関係のない多くの若いオタクを巻き込んでしまうからだ。

例えば、昔の2chでは女叩きが横行していた、という話がある。それは事実だ。この目で見てきた。しかし当然ながらその頃生きていなかった若いオタクには関係の無い話だ。

これは先程の層の違いでも同じ事が言える。そもそも今のオタクは「根暗」「陰キャ」といった古いオタクの層とは異なる、昔なら「リア充」と呼ばれていたような陽キャの層も含んでいる。

例えば昔のオタク非モテ故にミソジニーをこじらせていたとしても、そもそもリア充も含む現在オタクでは同じ現象は起こらない。

要するに、同じ「オタク」という言葉で呼んでも今と昔では全然層が違うのだ、いっそ、非常に強引だが「非リア充(昔のオタク)」と「リア充(今のオタク)」と分けて読んで考えた方が、「オタク」と同じ名前で呼ぶことで生じる錯覚を減らす事が出来るかも知れない。

勿論リア充ならミソジニーを抱えない訳ではないが、少なくとも非リア充場合とは発生する経緯も種類も割合全然違う。

勿論単純な年代問題もある、今の高齢者は今の若い人たちと比べて、差別的価値観を抱えている割合が単純に多い、これはオタク内でも同様だ。

現在若い人達価値観は概ねリベラルで、差別に関しても昔より差別忌避する感覚が強い、勿論個人差は大きくあるが、全体的な傾向はそうなっていて、若いオタクも同様になっている、というのが彼らと触れる機会のある私の肌感覚

従って、少なくとも割合で考えれば、ミソジニー問題を抱え、女叩き等の現実の実績も有るのは、若いオタクよりも圧倒的に高齢オタクだ。

 

高齢オタク醜悪な「責任転嫁

まり前述の通り、高齢オタクによるオタク叩き・オタク差別は、同族嫌悪自己批判といった「高邁」なものですらない。

高齢オタク自分達の罪を若いオタクという関係の無い層を巻き込む形で擦り付け、最後に「自分は違う」と逃げる、極めて醜悪責任転嫁しかない。

かつての「オタク」が抱えたミソジニーや、それによって生じた様々な問題は、飽くまでそれを実際に行っていた高齢オタクの中の問題だ、若いオタク関係ない、高齢オタクの中で解決するべきだ、関係無い層を巻き込むな。

しかも、そうした理不尽な巻き込みは、ミソジニーを抱えていない若いオタクフェミニズムへの嫌悪感や反感を抱かせる契機にも成り得る、百害あって一利無い。

 

更にまた、今の若いオタクライトオタクが多く、現行の萌え(も既に死語になりつつあるが・・・・)が標準化した文化に慣れ親しんだ人が多い。

一方で古いオタク特にオタク批判(の名を借りた醜悪責任転嫁)を進んでするようなオタクの中には所謂「硬派なオタク」が多い、中には萌えにも拒否感を示す人もいる層だ。

ここで興味深いのは、一般的オタク批判オタク文化のなかでも萌え文化を指して糾弾する物が多いが、その実、上記の通り「硬派なオタク」の方が高齢オタクの率が高く、従って、ミソジニー差別的価値観を抱えた層も、割合としては多い可能性がある事だ。

当然ながら、「硬派」である事と「ミソジニーでない」ことはイコールではないし、阻害要因となる訳でも無い。従って、硬派から萌えへなされるオタク批判は、むしろミソジニー等を多く抱える層から別の層へ向けられている、という実態がある可能性がある。

実際の所はデータでも無い限りなんとも言えないが、年齢層だけ考えればそうなる蓋然性が高いとは言えそうだ。

 

オタク批判あなたの罪を免罪する訳ではない

ただの醜悪責任転嫁しかない事を明らかにしたので、既に明らかだが、どれだけオタク批判した所であなたミソジニー差別意識が洗い流される訳ではない。

オタク批判をし、体面上はフェミニズム見方であるようなポーズをとっておきながら、なおも内面ミソジニーを抱えた人は幾らでも居る、何人も見てきた。

そうした人達は、主にオタク批判の中で尻尾を出す、例えば女性オタク創作者や、リベラルフェミニスト対立した際に、その言葉遣いや態度、スタンスに隠していた筈のミソジニーが溢れ出す、何度も見てきた。

また、オタク批判のもの旧態依然とした、昭和的なマッチョイズムまみれという場合も有る、むしろ多い。結局の所、彼らのオタク批判皮肉にも昭和マッチョイズムと有害男性性に支えられ、構成されている。

オタク批判をするからミソジニーが無いのではない、差別者でないのではない、あなたオタク批判をするとしても、依然あなたにはミソジニーがあり、マッチョイズムがあり、有害男性性があり、差別である

 

若い世代対立継承するな

現在若いオタクリア充非リア充も含み、陰キャ陽キャも含む、かつての様な偏りを含まない為、ミソジニーへと直接繋がるような契機を持たない。

唯一有り得るのは、古い高齢オタク責任転嫁をまに受け、そこに有った問題対立継承してしまう事だ。

それが好ましい人間も、そうなって欲しい人間も居るだろう、あなたはどうか?この醜悪な伝統がこれからオタクにも引き継がれて欲しいと思うか?

高齢オタク必要なのは、「オタク」というもう既に層が変わって別物になってしまった層に、昔のオタクの罪を擦り付けることではない、高齢オタク内の問題高齢オタク内で完結させ、自分達の中だけで解決する事だ。

無関係他者を巻き込むな。批判するならまず自己批判しろ自己に見せかけた(名前が同じだけで他人である)「オタク」ではなく、自分自身ちゃんと射程に入り、関係ない人を巻き込まない批判しろ。(差し当たって、「高齢オタク」がとりあえずオススメだが、勿論そこでも巻き込まれる人が出る事は注意)

あなた必要なのは他責ではない。醜悪責任転嫁ではない。

あなたがするべきはオタク批判ではない。

いい加減、この醜対立から無関係若いオタク達を解放しよう。

 

 

追記

高齢オタク氷河期オタクの全員が女叩きやミソジニーに染まっている訳ではないのなら、若者オタクだってそうだしオタク全体だってそう、何なら「表自戦士だってそうだよ。

高齢オタク氷河期オタクは同世代オタクが女叩きやってた時に何してたの?止められなかった感想はどう?そんな奴知らない、他人だ、連帯責任なんかないと言うなら、若いオタクオタク全体も表自戦士もそうでしょ。

これらは全てある程度無辜の人を巻き込む藁人形であり、「藁人形論法が迷惑だと主張するために、新たな藁人形人身御供にしている」という指摘は正論だし正しいと思うけど、

私はこの人達藁人形を手放す事は絶対にあり得ないと思ってる。だからせめてなるべく巻き込みの少ない藁人形を渡すべきだろうと。

本当は藁人形を一切使わせないのが理想なのは正しい、でも出来る?不可能でしょ、オナニーにハマった猿にオナニーを止めさせるのと同じ位無理だよ。

あなたたち自身出来ると思わないでしょ?藁人形を手放せる?無理でしょ。

私の主張はシンプル

・この人達から藁人形を取り上げるのは不可能

・従って次善の策として、藁人形はできるだけ小さく、巻き込みが少ない方がいい

・そのため、新たな藁人形は「高齢オタク」が推奨(「オタク」よりはかなりマシ)

別に「表自戦士」でも構わない(確かにそっちの方が更に巻き込みが少ないかも)ただし、それも藁人形であることには変わりない(例えば、エロ萌え表現だけじゃなく、表現不自由展や教科書等の表現の自由にも関心を持つ表示戦士は居るし、ミソジニーを抱えない人も居るだろうしね)

 

anond:20250112153146

実際そう思ってるだけなら仕方ないじゃないの。

そう思うのもそれをキツいと思うのも人間内面自由

俺はね、ネトウヨだけどね、パヨクプリケツが好きなんです

世の中には様々な思想価値観存在する。そして、その中にはしばしば対立する意見もある。例えば、ネトウヨと呼ばれる人々が持つ愛国心保守的な考え方と、パヨクと称される人々のリベラル思想は、まさにその典型だ。しかし、そんな対立の中で、俺は一つの奇妙な事実に気づいた。それは、俺がネトウヨでありながら、パヨクプリケツに魅了されているということだ。

まず、俺は自分ネトウヨであることを誇りに思っている。日本の文化伝統を大切にし、外国からの影響を警戒する姿勢は、時には過激とも取られるかもしれない。しかし、その一方で、パヨクたちの自由な発想やユニーク表現には惹かれる部分もある。特に、彼らが主張する「多様性」や「個性」といった概念は、一見すると矛盾しているようでいて、実は俺自身内面にも共鳴するものがある。

さて、本題に入ろう。何故俺がパヨクプリケツに惹かれるのか。それは単純だ。彼女たちの持つ自由精神と、自信に満ちた姿勢が魅力的だからだ。プリケツとは言っても、それは単なる身体的特徴ではなく、その背後にある自己肯定感生き方のものが俺を惹きつける。彼女たちは自分の体を誇りに思い、自分自身表現することを恐れない。その姿勢は、時には過激であったりするけれど、それが逆に新鮮で刺激的なのだ

もちろん、このような考え方には批判もあるだろう。「ネトウヨなのにパヨクを好きになるなんて矛盾している」と言われるかもしれない。しかし、俺はその矛盾こそが人間らしさだと思う。対立する意見を持ちながらも、他者の良さを認めることこそが、本当の意味での寛容ではないだろうか。

結局のところ、俺はネトウヨでありながらも、パヨクプリケツに心を奪われている。この矛盾した感情こそが、自分自身をより深く理解する手助けになっている。だからこそ、これからもこの奇妙な感情と向き合いながら、自分自身を探求していきたいと思う。そして、他者との対話を通じて、新たな視点価値観を得ることができれば、それこそが真の成長につながると信じている。

2025-01-11

弱者男性 vs. 女性

登場人物

秋山 修也(あきやま しゅうや):35歳。派遣社員として工場で働く。学歴経済力コミュニケーションに自信がなく、恋愛ほとんど未経験ネットでは「弱者男性コミュニティに入り浸る。

三浦 麻美(みうら まみ):32歳。女性の権利を守るフェミニズム団体フリーダムリンク」の活動家SNSや街頭デモなどを通じて女性差別の解消を訴えている。

佐々木 誠(ささき まこと):40歳秋山が通うネットコミュニティの先輩的存在。強い反フェミニズム立場をとり、「弱者男性」の声を代弁するような活動を行っている。

高木 圭子(たかぎ けいこ):28歳。「フリーダムリンク」の若手メンバー麻美を慕っている。女性社会進出ジェンダー問題について積極的意見を発信する。

井上 医師(いのうえ いし):50歳。心療内科医。秋山の通院先で、悩みを相談している。

第一幕:はじまり

場面1:秋山の部屋・夜

部屋の中は薄暗く、散らかったまま。秋山ノートPCの画面に目を凝らしている。

画面には「弱者男性フォーラム」の文字が躍り、「女性優遇社会への不満を語ろう」というスレッド更新され続けている。秋山は書き込まれコメントを読みながら、ため息をつく。

秋山モノローグ

女性優遇されている…そんなに恵まれているのかな。俺はただ普通に生きたいだけなんだが…でも、ここでしか共感してもらえないのも事実か。」

秋山フォーラム書き込みをしようとキーボードを叩きかけるが、言葉がまとまらず手を止める。そして画面の隅に映る広告に目をやる。そこには「フェミニズム×社会変革 街頭アクション」というデモの告知が出ていた。

第二幕:対立の種

場面2:街頭・昼

大通りで、女性の権利を訴えるデモが行われている。「フリーダムリンク」のメンバーとして麻美高木プラカードを掲げ、コールを上げている。

麻美

私たち女性が当たり前に働き、暮らせる社会を求めています! 多様性を認め合う社会を!」

高木

「声を上げよう! 女性差別を見過ごさないで!」

行人たちが足を止め、好奇の目で見たり、応援拍手をする人もいれば、眉をひそめる人もいる。その中に秋山の姿があった。偶然通りかかったのだが、「女性の権利拡大」という言葉に、なぜか気持ちがざわつく。

そこへ「弱者男性フォーラム」で知り合った佐々木がやってくる。

佐々木

「お、秋山。お前も来たのか。見ろよ、あいつらは“女性こそ弱者だ”って言って、男を無視してる連中だ。」

秋山

「いや、俺はたまたま通りかかっただけで…ただ、こうして声を上げられるのは正直うらやましいよ。俺たちは何も変えられない気がしてさ。」

佐々木

「そんなことはない。俺たちは動かなきゃいけないんだ。『弱者男性だって声を上げればいい。フェミニストけが弱者ってわけじゃないだろ?」

佐々木はそう言い放ち、デモ隊に近づいていく。デモの様子を動画で撮りながら、批判的なコメントを叫ぶ。

佐々木

男性差別はどうしてくれるんだ! 女性けが被害者じゃないだろう!」

麻美は一瞬目を止めるが、周囲の混乱を避けるためにそのままスルーしようとする。秋山は心苦しそうにそばに立っているだけだ。

第三幕:衝突の予兆

場面3:フェミニズム団体事務所夕方

デモを終えた麻美高木が、事務所で休憩している。高木は先ほどの佐々木言動が気になっている。

高木

「さっきの男性、すごい勢いでしたね。やっぱりネットで『弱者男性』を名乗る人たちが増えているって本当なんでしょうか?」

麻美

「増えてる実感はあるわ。だけど、彼らの声は確かに無視できない部分がある。男性でも孤立貧困に苦しむ人がいるのは事実から。でも、ああいうふうに攻撃的に来られると、正直怖いと思ってしまう。」

麻美は内心、男性の置かれた厳しい状況も理解できると感じているが、活動の中でそこまでケアしきれないのが現状だ。

第四幕:孤独吐露

場面4:心療内科・診察室

秋山井上医師を前に、弱々しい表情で座っている。

秋山

最近、寝付きも悪くて…。仕事も長続きしないし、恋愛なんて夢のまた夢。ニュースを見ても、女性ばかりがスポットライトを当てられているように感じてしまって…。」

井上医師

秋山さんは、自分社会に受け入れられていないと感じるんですね。」

秋山

はい。でも、だからといって女性を責めたいわけじゃないんです。どうしても“自分は取り残された”って感じが拭えなくて…。」

井上医師は穏やかにうなずく。

井上医師

「まずは、自分の困りごとを整理してみましょう。あなた必要なのは女性を敵視するよりも、一つひとつ社会との接点を増やしていくことかもしれませんよ。」

秋山は少しだけ表情が和らぐが、内面の複雑な気持ちは容易には解決しない。

第五幕:SNS上の激化

場面5:秋山の部屋・夜

再び「弱者男性フォーラム」を眺める秋山。そこには佐々木投稿した先日のデモ動画が貼られ、過激コメントが多く付いている。

スレッドタイトル:「女性優遇デモを叩き潰せ! 我々の苦しみをわかってもらうには?」

書き込みは一部、女性全体を侮蔑する表現や、暴力的言葉にまで発展している。秋山は読み進めるうちに、胸がざわつく。

秋山モノローグ

「俺も辛いけど、こんなやり方じゃ何も変わらないだろ…。でも、居場所はここしかない気がするんだ。」

書き込みを止められないまま、秋山は複雑な心境に陥っていく。

第六幕:思わぬ接点

場面6:地域センターボランティアイベント

地域センター社会支援イベントが開かれている。貧困問題DV被害者支援など、多様なテーマを扱うブースが並ぶ。麻美は「フリーダムリンク」として女性支援活動紹介をしており、偶然秋山就労支援ブース見学に来ていた。

秋山は遠巻きに麻美ブースを見る。そのとき麻美視線が合う。先日のデモの場で会ったことをお互いにうっすら覚えている。

麻美

こんにちは。もし興味があれば、どうぞ見ていってください。」

秋山

「あ…、はい。でも、僕、男性なので…。」

麻美

「もちろん男性でも大丈夫ですよ。私たちは『女性の権利』を軸に活動してますが、経済的な苦しみとか社会孤立とか、そういう問題も一緒に解決を考えたいと思ってるんです。」

秋山は意外そうな表情を見せる。麻美の方も、ネットで語られる「弱者男性像」とは異なる実直そうな雰囲気秋山に対し、少し興味を抱く。

第七幕:対話と亀裂

場面7:地域センター・休憩スペース

秋山麻美は少しだけ話をする。秋山自分の苦しみを少し打ち明け、麻美は熱心に耳を傾ける。

麻美

「本当は私たちも、男性の苦しみをちゃん理解したいと思ってるんです。でも、どうしても女性差別暴力が根強く残っていて、そちらの問題に注力せざるを得ないのが現状で…。辛い思いをしている男性を全部無視してるわけじゃないんですよ。」

秋山

女性が今まで不利益を被ってきたのは、俺もニュースや本で知ってるし、わかるんです。でも…なんというか、俺たちも苦しいんです。どこにぶつければいいかからないモヤモヤがあって…。」

二人の会話が少しずつ噛み合い始めた矢先、佐々木が休憩スペースにやって来る。

麻美を見つけると、険しい表情で秋山に声をかける。

佐々木

秋山、お前こんなところで何してるんだ? こいつらは俺たちを男だからといって排除しようとしてる連中だぞ。」

麻美

「そんなつもりはありません。私たちは…」

佐々木(遮る)

「どうせ男性加害者だとか言いたいんだろ? 秋山、お前だってずっと悩んでただろう。こんな連中と話しても無駄だ!」

麻美反論したいが、言葉が出ない。秋山も一瞬で萎縮してしまう。結局、佐々木に引っ張られるようにその場を後にする。

第八幕:葛藤選択

場面8:夜の公園

佐々木秋山が、公園のベンチに座っている。佐々木は苛立ちを隠さず、スマホで先ほどの様子をSNSに書き込んでいる。

佐々木

もっと強く出なきゃ駄目なんだ。連中は自分たちの権利拡大しか考えてない。俺たちをバカにする奴らには徹底的に対抗してやる。」

秋山

「でも、ちゃんと話せばわかり合える面もあると思うんだ…」

佐々木

「お前は甘い! ずっと社会から無視されてきたの、忘れたのか? 誰も助けちゃくれなかったじゃないか。」

秋山反論できずに黙り込む。しかし胸には、麻美言葉と、自分自身の苦しみの両方が渦巻いている。

第九幕:ささやか連帯

場面9:街頭・夜

数日後。秋山は、夜の街頭で一人立ち尽くしている。そこへ偶然、ビラ配りを終えた麻美が通りかかる。お互い気まずそうだが、秋山は意を決して話しかける。

秋山

「あの…あの日は、すみませんでした。僕はあなたたちを責めたいわけじゃないんです。苦しいのは自分だけじゃないって、頭ではわかってるんですけど…。」

麻美は微笑み、秋山にビラを差し出す。そこには「孤立を防ぐための居場所づくり」というイベントの案内が書かれている。

麻美

「よかったら来てみませんか? 女性向けのプログラムも多いけど、男性でも参加できるセッションがあるんです。私たちもっと男性の困りごとも知りたいと思ってるの。」

秋山は戸惑いながらも、ビラを受け取る。ほんの少し、光が見えた気がした。

終幕:それぞれの一歩

公園のベンチに座り、ビラを見つめる秋山。遠くには街頭で呼びかける麻美たちの姿が見える。そこへ佐々木から電話がかかってくるが、秋山は一瞬ためらった後、電話には出ずに切る。そして意を決して、イベント参加を検討するかのようにスマホ検索を始めるのだった。

秋山モノローグ

「“弱者男性”と呼ばれようと、“女性”と呼ばれようと、みんな孤独不安を抱えている。同じように苦しんでいるなら、理解し合える道があるはずだ…。」

夜の街に、秋山足音が小さく響いていく。まだ険しい道のりではあるが、小さな一歩が踏み出された。

終わり

エピローグ

本作は「弱者男性 vs. 女性」という単純な対立構図を描く一方、その先にある個々の葛藤や互いの声を知ろうとする姿勢提示する。登場人物たちは必ずしも理解し合えたわけではないが、秋山のように少しずつ境遇の異なる人たちとの対話を試みることで、新たな関係を築いていく可能性を示している。

anond:20250110184431

人の心の内面なんてわかるわけないでしょ

その上でできるかぎりお互いが不快にならず円滑にコミュニケーションできるように

そのとき感情相手にやんわり伝わる形で表現して

それをお互い汲み取りましょうねってだけの話

 

そもそも誰も君にも君の心の中にも興味ないからね

家族とか恋人とか親友なら色々時間をかけてその一部は言語化してお互いに理解しようと試みることもあるけど

人の心の内面想像とか人の心がわかるとか全ての考え方の前提がずれてる

anond:20250110184431

複雑な内面もまた、決まった刺激で決まった反応をする機械なんやで。複雑なだけで。

anond:20250110184431

他人

複雑な内面を持った人間でもあるし

決まった刺激で決まった反応をする機械でもある。

他人はAでもあれば、Bでもある

と考えれば良いんだよ。

他人はAだから、Bではない

なんて考えは、あなたの早とちりに過ぎないよ。

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