はてなキーワード: ハイとは
子供までいるのに不倫するのはアホだしクソ、とのは絶対そうだし
そこそこ自慢できる仕事に就いてる旦那、ハイブラジュエリー、可愛い服着た子供、家族みんな問題なく仲良し
自分を愛しているのではなく夢を叶えるためのただのピースとして扱われている感じが
しんどいんだよ
「女々しいwwいい大人がヨチヨチされたいのか?」「黙って嫁子供のために働け」という意見、分かる
分かるし、分かってるから表に出さずに黙々とやるべきことやってるわけだが
自分で選んだ家族がこうなってしまう、安らげない場所になるというのはマジでしんどい
俺は兄や会社のおっさん上司がたまに飲みに付き合ってくれてそれがめちゃくちゃありがたかったから女性には行かなかったけど
自分のさみしい気持ちに寄り添ってくれる、俺を俺として見てくれるのが女性だったらコロッといっちゃったかもしれないと思う
「子供を捨てた」というより「お父さん・夫としての自分が耐えられなかった」って感じなんだろうな
世間から見たら俺の家族はそこそこ成功した家族なのかもしれないけど、俺は弟夫婦の方が羨ましく見える
2人ともオタクでなんかカードゲームやっててパジャマで外出たりして髪もいつもボサボサでさ
飼ってる猫も自分らでバリカンやってるから毛ギザギザモサモサでさ
俺には眩しく見えて仕方がない
ほへ~アウターやパジャマ・下着カウントしないでも30着とかあってもミニマリストなんやな・・・
(彼・彼女らは、何でもかんでも捨てるのではなく、本当に好きなものだけを所有するこだわりなので、
服好きで、1つのクローゼットに適切に収まる範囲なら、それなりに所有してても別におかしくはない)
ミニマリストをやっていないワイ、アウター除いた純粋な外着は30着もないけど、管理出来ないのでまだ捨てようって思ってたわ
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畳めない人なので、靴下と下着以外は部屋着もパジャマもすべて吊るしてるが、家賃に課金せずセルフ投獄してるから、Tシャツ・ボタンシャツの吊るす場所が無いんだわ
なんやかんや夏は汗かくし、二軍・部屋着Tシャツとジム用Tシャツもあると、近所をぶらぶらする時、ウォーキングした時、気まぐれで大仕事をする時に安心だし、
実際になんやかんや着てるしなと思いつつ、でも吊るす場所ないしな、でも畳めないし皺になるしなっていう・・・
あと、気分が上がらないジャケットとフォーマルなお出掛け着は、着ないんだけど、捨てたら買わないといけないから捨ててない
(レンタルは丈が合わないし、非現実的。購入した方がどう考えても早いが、夏以外のすべての時期で意外と丈直しに日数が掛かる)
買いたくない・・・
最も使用頻度の高い一軍は吊るし、二軍やヘヴィウェイトは畳んで引き出しやボックスに収納する方式を試してみてはいかがでしょうか。 ← 正論
私の人生は、まるで遊園地のジェットコースターのようだと思うことがある。緩やかな坂を上っているかと思えば、急激に落ちていく。特にここ数カ月は、日常が高所から真っ逆さまに落ちるような衝撃と、底なしの不安を味わい続けていた。
自分自身、まさかこんな事態になろうとは想像もしなかった。けれど、事実を変えることはできない。この言葉を胸の中で繰り返すたびに、頭がぐるぐると回って、やり場のない後悔が胸を締めつける。
つわりが始まったのは、ちょうど初夏の季節だった。最初は気のせいかと思った。仕事帰りにふと立ち寄ったコンビニで、いつものように缶コーヒーを手に取ったら、なぜか口に運んだ瞬間に吐き気をもよおしてしまったのだ。
「もしかして……」
半ば恐る恐る、薬局で妊娠検査薬を買い、家の洗面所でそっと検査をした。陽性反応。どう見ても、くっきりと反応は出ていた。息が詰まるような緊張感に駆られながらも、最初に頭をよぎったのは「彼が喜んでくれるだろう」という淡い期待だった。私は片道三十分の電車通勤をしながら、次第に大きくなるお腹を思い描いていた。
私には、交際して一年半ほどになる彼がいる。名前を雄介(ゆうすけ)という。社内の研修で出会って、話しているうちに自然と付き合い始めた。彼は優しくて真面目で、「将来は結婚も視野に入れよう」と何度も言ってくれていた。それに、私も結婚を意識し始める年齢になっていたから、彼となら幸せになれるだろうと信じていた。
けれど、この時点では、まだ何も疑う余地がなかった。なぜなら、私はただの「妊娠」を素直に受け止めていただけだったから。まさかこの子がお腹に宿るまでに、“別の相手”が深く絡んでいるなんて、思い返しても不思議な話だ。
私には一歳違いの兄がいる。血のつながった「実の兄」。幼い頃から私を支えてくれていたし、大学に入ってからは遠方で一人暮らしを始めていたので、直接会う機会は減ったが、LINEで連絡を取り合う仲だった。私よりも一足早く社会に出て、都内の大きな企業に就職し、そこそこ稼ぎも良かったらしい。休みの日には車を飛ばして実家に帰ってくることも多かった。
私の両親は早くに離婚しており、父はほとんど家に寄りつかない。そんな家庭環境だったせいか、兄は父親代わりのように私を気にかけてくれていた。学校で嫌なことがあれば、兄に相談したし、社会人になってからもメッセージをくれたり、食事に誘ってくれたりした。
もしかすると、そこで始まったのが間違いだったのかもしれない。私はずっと、兄のことを「家族」以上の存在として意識したことはなかった。だけど、あるきっかけから、私の心は奇妙な方向に揺れ動いてしまったのだ。
今から数カ月前、母が急病で倒れたことがあった。といっても命に別状はなく、入院も長引かなかったけれど、兄と私が連絡を取り合って付き添いをしていた。母の退院が決まり、ようやくほっとして家に帰った晩、私と兄は感情的な状態のまま、お酒に酔うようにして、何とはなしに実家で二人きりの夜を過ごした。
普段はそんなにお酒に強くない私が、妙にハイになってしまい、兄もやけに飲み続けていた。疲れと安心感とが混ざり合って、頭がぼんやりしていたのを覚えている。そのまま、兄とどういう経緯でそうなったのか、自分でもうまく説明できない。ただ、翌朝、隣には兄がいた。そのとき、私たちは、お互いに“してはいけないこと”をしてしまったのだと理解した。
兄は「ごめん」と何度も繰り返していたが、私自身、混乱していたし、反省と罪悪感が頭を埋め尽くしていた。それきり、私たちはその話をしないまま、兄はすぐにアパートへ戻ってしまい、私は都内の自宅に帰った。関係を「なかったこと」にするには、あまりにも重い罪悪感。でも、どうすればいいのかわからない。これ以上、こんな“近親”の関係を続けるわけにはいかないと、私も強く思った。
その日は、彼――雄介に何か言い訳めいた嘘をついて、数日連絡を断った。彼には母の入院があった程度にしか伝えておらず、詳細など言えるはずもなかった。何度か電話がかかってきたけれど、私は出ることができず、メッセージも「バタバタしてた、ごめんね」と返すのがやっとだった。
3.疑いが芽生えはじめる
お酒の席のあの一度きり。それで終わりだと思っていた。まさか、それが妊娠につながるなんて思いもよらなかった。
もしも、私と兄との間に何もなければ、私は迷わず「妊娠したの、あなたの子だよ」と雄介に伝えていたはずだ。けれど、検査薬の結果が陽性だったあの日から、私は自分の頭を冷静に整理するために、生理が遅れ始めた時期を必死で逆算した。どう考えても、兄との一夜がタイミングとして濃厚なのだ。
それでも私は「いや、そんなはずはない。もしかしたら彼の子かもしれない」と自分に言い聞かせようとした。一方で、万が一にもこの子が兄との間にできた子供だったら……それはもう取り返しがつかない問題だ。
ただでさえ、近親で関係を持つことは社会的にも法律的にもタブーだし、人として許されることではない。しかも、もし生まれてくる子が兄との子供だとしたら、その子にどんな影響があるのかを考えただけでも恐ろしかった。私はそんなことを想像して、毎晩眠れずに苦しんだ。
4.彼に打ち明けるべきか、黙っているべきか
「おめでとう」と、雄介は言ってくれた。
意を決して「妊娠したみたい」と報告したとき、彼は信じられないほど喜んでくれた。少し会社を早退して、花束を持って私のアパートに駆けつけてくれたほどだ。
「俺たち、ちゃんと考えて結婚しよう。まだ早いかなって思ってたけど、子供ができたなら、なおさらきちんとしよう」
まっすぐに目を見つめてくる雄介の瞳に、私は直視できないまま涙をこぼした。嬉しさと罪悪感がせめぎ合って、どうしていいかわからなくなった。
この瞬間、私の口から“あの事実”を打ち明けられるわけがない。私と兄との一夜なんて、誰が聞いたって嫌悪感しかないし、雄介が私のことを軽蔑するのは間違いないだろう。こんな裏切りは、どんな理由をつけても許されない。
でも、今すぐ言わなければ、あとで言い出すことはもっと難しくなる。どうするべきなのか。私は考え続けていた。しかし、心のどこかで「兄の子供ではなくて、雄介の子供だと思い込んでしまいたい」という甘い誘惑もあった。彼がこんなにも私と子供を愛してくれそうな姿を見ると、“本当のこと”を隠してしまいたくなる。
ただ、もし生まれてきた子供の血液型や遺伝的特徴、あるいは顔立ちなどから「これはもしかして……」と疑われる日が来ないとは言い切れない。今はとにかく時間がほしかった。考える猶予がないまま、私のお腹の中の子は日々成長していく。
5.兄との再会と、新たな選択
気まずい沈黙のまま数カ月が過ぎたころ、兄が意を決したように私に連絡を入れてきた。「少し話したい。直接会えないか」と。
腹の出方が分かるほどではないが、私はつわりがひどく、吐き気で悩まされていた。なるべく外出は控えていたが、兄とは話をしなければならないと思い、近くのファミレスを待ち合わせ場所にした。日曜の昼下がり、店内は子供連れでにぎわっていた。そんな中で顔を合わせる兄は、以前よりやつれた様子だった。
「体のほうは大丈夫?」
お互い、何も言わなくても、ただごとではないことはわかっている。言わずもがな、兄は私の“妊娠”について噂に聞いていた。それどころか、母のところに挨拶をしに行った雄介の話を耳にして、すべてを察していたようだ。
兄がそう切り出したとき、私は何と言えばいいかわからなかった。何に対して責任を取ると言うのだろう。いろいろな感情が頭を駆け巡ったが、兄はさらに続ける。
「堕ろせ、なんて言う気はない。けど……もしお前が望むなら、俺は何だってする。家族にだって包み隠さず言う。どんな非難を受けてもいい」
その言葉を聞いた瞬間、私は悔しさとも安心感ともつかない涙があふれた。こんな形でも、兄は“父親”として向き合おうとしているのだ。それはひどく間違ったことかもしれないが、一方で私がいま最も求めていた“覚悟”のようにも思えた。
けれど、私は首を振った。兄を見たまま、かすれた声で言う。
「違う。私は……雄介と結婚する。あの人、すごく喜んでくれているし……これ以上、人を傷つけたくない。だから――兄ちゃんの子だなんて、言うつもりはない」
兄はその場でテーブルを握りしめ、目を伏せていた。まるで、一言でも強く否定したら、私を余計に追い詰めてしまうんじゃないかと怖れているようだった。
「……本当にそれでいいのか?」
私は「うん」と、すがるようにうなずいた。もし世間に公表したら、私たちの家族は崩壊してしまう。兄も、私も、もう普通の生活には戻れない。何より、この子をちゃんと産んで育てるなら、父親は雄介であってほしいと強く願っている。
ただ、それは私のわがままかもしれない。兄にも重荷を背負わせることになるし、何より雄介に対しても重大な裏切りだ。私の決断は、本当にこの先、幸せを生むのだろうか。
それから数週間後、私は小さなアパートを引き払い、雄介の部屋に同居することになった。「ちゃんと席を入れよう」と彼は言ってくれる。母も、「あんたたち早いけど、まあそういう時代だしね」と苦笑いしながら祝福してくれている。兄はもちろん式には来ないし、来られるはずもなかった。
こうして周囲の人々に祝福されながら、一方ではどうしても消せない罪悪感が私を苛んでいた。たまに通院するとき、「妊娠何週目です」とお医者さんに言われると、そのたびに兄との日付が正確にリンクしているのではないかと不安になる。そう考えると息が詰まりそうになるのだが、深くは考えないようにしていた。
幸せを演じるのは簡単だった。彼の前で不安な表情を見せないように努めるし、彼も「つわり大丈夫?」「食べたいものない?」と私を気遣ってくれる。きっと雄介は何も疑ってはいない。私の体調が落ち着けば、次は式場探しだとか、結婚に向けての具体的なプランだとか、彼と話し合って進めていくだろう。今のところは、何も問題がないように見える。
でも、私は夜になると、時々夢を見てうなされる。生まれてきた子供が、兄そっくりの容姿をしていて、雄介がそれを見て青ざめるような夢だ。誰も悪くないはずなのに、私は理不尽に泣き叫んでいる。そんな夢から目覚めると、心臓が激しく脈打って、しばらく眠れなくなる。どうしてあんな夜を過ごしてしまったのかと、過去を後悔しても遅いのに。
7.小さな命の重みと選んだ道
私は胎動を感じ始めた頃、つくづく「命って重いんだな」と思い知らされた。夜に横になっていると、小さな魚がはねるように、お腹の奥からピクッと動く。
「ほら、今動いたみたい!」
私が声を上げると、雄介が驚いた様子で手を当て、嬉しそうに笑う。私の不安なんて全く知らずに、心から生まれてくる子を楽しみにしている。そんな姿を見ていると、自分の選択が正しかったと信じたくなる一方で、どうしようもない自己嫌悪に襲われる。どれほど後悔しても、もう時間は巻き戻せない。
ただ、兄との間に起きたことは「なかったこと」にはできないのも事実だ。私はこれから先、生涯にわたってこの秘密を抱えて生きていかなければならない。その罪は決して消えない。兄もまた、どこかでずっと同じ罪悪感を背負っていくのだろう。
「でも……どんな形であれ、この子を愛して育てたい」
私の中で、子供への想いが日に日に強くなる。それだけがせめてもの救いだと思う。この子には何の罪もない。もし仮に、本当の父が雄介ではなく兄だったとしても、私はこの子を健やかに、幸せにしてあげたい。
兄も苦しいだろう。でも、これ以上、誰も不幸にならないようにするには、私が沈黙を貫くしかない。何より、この子自身を守るためにも――。
8.いつか訪れるかもしれない“真実”の瞬間
お腹が大きくなりはじめたある日、ふと彼が私の顔を見つめて言った。
「なんか……最近、顔色が悪いときがある。無理してない? 体調だけじゃなくて……気持ちの面でさ、何か抱え込んでない?」
このとき、私は一瞬、「すべてを打ち明けようか」と頭をよぎった。けれど、できなかった。思い出すのは、いずれ私と結婚する気満々の彼の姿、夢の中で抱く子供の笑顔、そして兄の苦しそうな表情。あまりにも多くの人を傷つけてしまうだろう真実を、私は今さら言い出す勇気を持てない。
そう言って誤魔化すように笑うと、雄介は「そっか」と言って微笑み、私の頭をなでてくれた。素直に「ありがとう」と言えない自分が、すごくみじめに思えた。私の心は、日に日に小さな嘘で固められていく。
もし、子供が生まれて、将来何かのきっかけで「血縁の秘密」が分かってしまったら、そのとき私はどんな言葉をかけられるのだろう。考えるだけで怖い。そんなことになれば、雄介は私を責め続けるだろうし、彼と子供の関係さえ壊れてしまいかねない。
でも、だからといって今さら「実は違うの」と告げられもしない。私は小さく震える手を握りしめた。
9.結末というよりも、始まりへ
いつか、この秘密は私の人生を大きく変えるかもしれない。いや、たとえ誰にもばれなかったとしても、私自身がこの事実を抱えていくことに変わりはない。今、私の中で息づいている命は、本当に雄介と私の子ではない。それでも、私たちはこれから“家族”として生きていく。
私は思う。もしこの子が生まれ落ちて大きくなったとき、何かの拍子で真実を知ることになったとしても、それでも私にできるのは、愛情を注ぎ続けることだけだ。この子に罪はないし、きっと雄介も本当の父親として変わらずに愛してくれる――そう願うしかない。
兄は、その後、私の住む街から離れるように転勤を願い出たらしい。母には「急に引っ越すことになった」とだけ連絡が入ったと聞いた。私への連絡はほとんどなく、「元気にしてる?」のような短いメッセージがときどき届くだけ。返信をするのもためらってしまうから、私は一言「うん」と返すのが精一杯だ。多分これが、私たちなりの“距離の取り方”なのだろう。
すべてを葬り去ることはできないし、何か別の方法があったのかもしれない。けれど、私は最終的に“雄介との人生”を選んだ。その道が正しかったのかどうかはわからないし、罪悪感は消えない。
それでも、胎動を感じるたびに、「私は母になるんだ」と実感する。子供を迎える人生。それが私の幸福のカタチかもしれないと、何とか自分に言い聞かせている。揺れる不安とともに、私の“家族”になるはずの雄介や、まだ見ぬ子供と向き合っていく日々が始まる。その先に待つのが光か闇かは、まだ私にはわからない。
たとえ人には言えない秘密を抱えていたとしても、限りある人生の中で、私はこの子を守り、愛していくしかない。兄もまた、どこか別の街で、自分なりに苦しみを抱えながら生きていることだろう。
この現実を抱えたまま、私は静かにお腹をさする。幸せな母の笑顔を演じる自分と、後ろめたい気持ちを引きずる自分。まるで影と光のように揺れる葛藤に耐えながら、これから始まる未来を歩んでいかなければならない。それが、私が選んだ人生なのだ。
1ミリたりとも迷惑をかけるなは言い過ぎだろう。健常者もミスはするし風邪もひく。障害者を雇うことでプラスになると経営者が判断したら、プラスになるよう合理的配慮をするのも雇われの仕事だよ。
そもそも、障害者雇用促進法はお前の普通とやらを守るためにあるんじゃない、障害者でも「普通」を享受できるようにするためにあるのだ。そのために合理的配慮をしろと事業者に求めており、事業者がハイワカリマシタと言ってるなら被用者としては付き合わないといけない。仕事で障害者に配慮をしないで済む権利なんか存在しない。
とはいえ、具体的な指示出しても良くワカラン理由で従わなかったり、とにかくヤバい人がいるのは確か。そういうヤバい人は大概健常者として入ってくるし、診断名もつかない単なる仕事ができない人だったりする。何でもかんでも障害のせいにするのは良くない。
・マチアプ等での高望み勘違いおばさんがあまりにも多すぎて元々ウンザリされてた
・ツイッターでフェミニストを名乗るただの反社会的男嫌いのおばさん(イケメンハイスペだけは好き)が大量に現れて男差別を始めた
・少子化でも犯罪者予備軍みたいな男(と女)は今までと変わらず大量にガキ作ってるの見てDQN男と女嫌いになった
・元々カスみたいな女はネットに大量にいたけど、鬼女板や発言小町とか風俗女専用の掲示板に人口が分散され、ある意味隔離的な場所だったので目立たなかったが、皆ツイッターにきて超大規模な愚連隊が結成された
なにがあったかっていうとね、初詣行こうと思ったんですよ初詣。ちょっと大きい神社にね。
神社の近くの駐車場に差し掛かったところで歩道を車がふさいでる。
アルファードみたいな感じのでかくて四角いやつ。
駐車場がいっぱいでね、入り口に半分突っ込んで待ってるんだけどケツが歩道に出ちゃってんだな。
しょうがねえなってちょっと待った。通れねえんだもん。車道にちょっと避けようったって車がバンバン通ってるし。
待ってたら車がちょっと前に進んでちょうど大人一人分ぐらい車道との隙間が空いた。
じゃあ通るかって歩き出したらね、ちょうど車の真後ろを通ってるときになんと車がバックして戻ってきた。なんでだよ。
慌てて前に走って避けた。よけられてよかったよ。
若い頃洋楽好きとして生きていた身からするとB`zが昔ダサかったというのは若干?となる。
確かに小室サウンドやビーイング系ってダサいなというイメージはあったけど、B`zに関してはそもそもの楽曲クオリティが高くやや異質だった。
デビュー当初こそ肩の張ったスーツで、サウンドもギターはあんまりフューチャーされてなくてユーロビート風なアレンジだったが、稲葉の歌唱法や楽曲のセンスなどはいかにも洋楽的でもあった。
またこの時期はまだ90年代で、B`zの第一期という感じがする。
そんな中、自分がハッキリとB`zを格が違うと感じたのはウルトラソウルを聞いたときだった。
最初聞いた時はこれはもう戦隊モノの主題歌じゃないかと思ったんだけど、それは悪い意味ではなくてとにかくインパクトがすごすぎて驚愕したのを覚えてる。
ウールトラッソウル!ハイッ!に関してはもう日本人なら誰でも気持ちよくなってしまう琴線に触れる要素にあふれていて、B`zここに極まれしという感動すらあった。
ちなみに自分が最もB`zがダサいと思ったのは稲葉が短パンを履き出した時期で、いやあまりにもガンズに影響受けすぎだろと引いたのを記憶してる。
B`zもそんな感じだし、あの頃のムードというのは洋楽好きといっても日本のミュージシャンに興味がまったくないというほど分断していなかったと思う。
それは小室サウンド主流の時代ではあったけど、同時にバンドブームの生き残りが幅を効かせていた時代でもあり、
奥田民生、ミスチル、ジュディマリから開放されたYUKIなど彼らは売れに売れていて、洋楽好きにもリーチしまくっていた。
特に奥田民生はソロになってからパフィーのプロデュースなんかもしてたし時代を一番うまく捉えてたのかもしれない。
お前は洋楽好きといってもどうせあんま聞いてなかったんだろと言われるかもしれないが、
自分自身はグランジ~ブリットポップ系などバンド系からそのルーツを辿っていくような聞き方をしていて
自身でもバンドやったりもしてたし完全に洋楽志向、カラオケにみんなで行っても誰も歌う歌がないよね、みたいな感じだった。
強いて言えば洋楽的でありながら、はっぴいえんど的日本語ロックの系譜を継ぐサニーデイ・サービスあたりの下北・高円寺サウンドは受け入れやすい空気はあった。
そんな中である意味扱いが難しいというか、割と賛否分かれる形に一番なりやすかったのがフリッパーズ・ギター解散後のオザケンと小山田だったかもしれない。
フリッパーズは渋谷系と呼ばれることになる、洋楽の割とディープなとこからの要素が詰まりまくっており、しかも汗を感じさせないポップさで女子のハートを掴みまくっていた。
あっという間に解散したがオザケンはその後筒美京平など日本の歌謡曲、日本語詞への傾倒などもあって名曲をいくつも残すことにはなるんだけど、同時にその尖り方が尋常ではないのでフリッパーズの流れで聞いていた層には置いてきぼり感もあった気がする。
一方で小山田は洋楽志向がそのまま延長されていって、海外への活動にシフトしていったりしてどちらかというとこちらのほうが洋楽好き勢には馴染みやすかった。
この二人の方向性の違いはある意味で当時のメジャー音楽の時代感を表してるなあと思わなくもない。
00年代で忘れてはいけないのは宇多田ヒカルなんだけど、デビュー当初はモロにR&Bなサウンドであったこともあって洋楽好きとしては「新しさ」を感じる部分はそこまでなかった気がする。
またテレビなどで天才少女みたいな扱いで紹介されてる事も多くて、とにかくヘビロテされまくっていたので正直、ゴリ押し感も感じていた。
ただ曲の良さや独特なボーカルスタイルが際立っていたのは間違いない。
あまりにも洋楽的(今思えば歌詞はものすごく日本歌謡的なんだけど)なサウンドのせいか、むしろ洋楽好きが聞く日本のミュージシャンとしての割り切りにくさみたいなのもあった。
つまりビーイング系、小室サウンド好きな層にはより本格的な洋楽っぽいアーティストとしてアプローチできた一方で
自分には上辺の洋楽感を取り入れたJ-POPという見え方をしてしまっていて、なにが新しいのかよくわからなかった。(歌い方だけはなんか面白いなと思っていた)
ただ当時はユーロビート的な虚無感のある縦ノリが主流だったので、こういう横乗りな音楽が流行るのは嬉しいなとは思った記憶がある。
個人的に宇多田ヒカルのアーティストとしての唯一無二感を感じ始めたのはtravelingや光あたりでようやくといった感じ。
この辺は洋楽好きとしての偏見が目を曇らせていたんだなと感じたりもするので分断といえばそうも言えなくないか。
あとaikoも洋楽好きにも刺さったアーティストとして忘れてはいけない。楽曲のセンスがある意味宇多田ヒカルよりぐっとディープでもあり、かつ日本語詞が歌謡曲的でちょっと天才的だなと当時思った記憶がある。
椎名林檎はどうかというと、個人的には当時は一番毛嫌いしていた。なんていうかバンド好きの女の子が手当たり次第に洋楽を食い散らかしてますみたいな印象が強くて受け付けなかったのだ。
何年もしてから友達からもっぺんよく聞いてみろと言われて聞いてみたらめっちゃ良かったので、これも洋楽好きの悪いところが思い切り出てしまったパターンだと思う。
今となっては宇多田ヒカル、aiko、椎名林檎の中で一番聞いた回数は東京事変も含めれば椎名林檎が圧倒的に多い。
そんな感じで小室サウンドに代表されるJ-POP、アイドル系とは違った文脈で(もっと書こうと思えばサブカル系の流れもあるんだけど)