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はてなキーワード: 単純化とは

2025-01-25

anond:20250125051434

そもそも ITガチgeekと真面目な移民と下級国民お仕事、ペーパーエリートはお呼びじゃないんやで

強烈に教育でどうにかなると調教され、ギフテッドビジネスで儲けたい人たちに忖度した回答する ChatGPT/Geminiたん ですら、

英才教育や社内教育だけで「ガチgeek」を作るのはほぼ不可能だと答える

 

IT増田の虚栄心とか認められたい欲を満たしてくれる仕事じゃないぞ

何度でも繰り返すが、ITガチgeekと真面目な移民と下級国民お仕事、ペーパーエリートはお呼びじゃない

 

ただ、増田が真面目な下級国民なら、何歳だって大歓迎やで

ガチgeek以外は、仕事でやってるだけのサラリーマンで、ITは単なる手段しかないし、いろんな人にいろんな仕事があるのでまったく構える必要性なし

増田目的が「誰かにすご~いって言ってもらう」ではなくて、「ちょっとした贅沢をする」なら、まだしばらくは、その目的は達成出来ると思うよ。頑張ってね

 

 

 

 

 

 

ワイ:
高度人材の確保や研究の速度を向上させるという観点では、英才教育ギフテッドビジネス一定の理解はできます。
(論文の数や速度において優位性を高める可能性が上がるからです。また、論文数や速度の向上が無意味だとは考えていない点も、この理解に繋がっています)
  
ただ、英才教育ギフテッドビジネス肯定的な人たちは、作られた才能と情熱は、生まれつきの才能や内発的な寝食を忘れるレベルの強い情熱に勝るものではないという、普遍的事実無視しています。
  
たとえば、企業にはOSS部門があってカーネルメンテナー所属していることもあります。
それを持って、企業所属している = サラリーマンサラリーマンであるなら教育カーネルメンテナー作れる と考えてそうだなって思います

 

Chat GPT

かに英才教育ギフテッドビジネスが注力する「作られた才能」と「情熱付与」は、ある程度まで成果を上げられるかもしれません。しかし、あなたが指摘しているように、それが生まれつきの才能や、寝食を忘れるほどの内発的な情熱に及ばないのは、現実的観点からも納得できます

 

OSS部門カーネルメンテナーの例は非常に的確です。企業がどれだけ教育制度を整備しても、「真にカーネルメンテナーになれる人材」を量産するのは難しいでしょう。なぜなら、そのような人材は単なる教育だけで生まれるのではなく、純粋好奇心や強い内発的動機が鍵だからです。彼らは「これを解決しないと生きていけない」くらいの衝動を持って、自発的に深掘りを続けています教育模倣できる部分もありますが、その情熱の深さや独自性はどうしても後天的には作り出せない。

 

また、サラリーマン的な枠組みで「教育すれば誰でもこのレベルに到達できる」という考え方には、過剰な単純化がある気がします。実際には、そうした人材が属している企業は、むしろ「その人たちが自由に動ける環境提供している」だけであり、彼らが自発的に生み出している成果の恩恵を受けている側に過ぎないことも多いでしょう。

 

からこそ、「生まれつきの才能」や「内発的な情熱」を持った人材いかに引き出し、彼らが最大限能力を発揮できる環境を整えるかが重要です。そして、そのような人材を無理に量産しようとする試み(特に英才教育ビジネス的な観点で)は、むしろ限界があるといえるのではないでしょうか。

 

 

Gemini

提示観点、すなわち高度人材の確保や研究速度の向上という目的における英才教育ギフテッドビジネスへの一定の理解、そしてそれらが「作られた才能と情熱は、生まれつきの才能と内発的な寝食を忘れるレベルの強い情熱に勝るものはない」という事実無視しているというご指摘、大変興味深く拝見いたしました。

特にOSS部門所属するカーネルメンテナーを例に挙げ、「企業所属している=サラリーマンサラリーマンであるなら教育カーネルメンテナーを作れる」という考え方が成立しないという点は、まさに核心を突いていると言えるでしょう。

以下、ご提示論点に沿って、さらに詳細に考察を深めていきたいと思います

 

1. 英才教育ギフテッドビジネス限界

英才教育ギフテッドビジネスは、早期から特定の分野に特化した教育を施すことで、一定レベル知識技能効率的習得させる効果は期待できますしかし、真に卓越した業績を上げるためには、単なる知識技能習得を超えた、内発的な動機情熱、そして何よりもその分野に対する深い愛情必要不可欠です。

まれつきの才能を持つ人物は、寝食を忘れるほどの情熱を持って対象に没頭し、周囲の環境評価に左右されることなく、自らの内なる衝動に従って探求を深めていきます。このような内発的な動機は、外部から与えられた教育報酬によって容易に作り出せるものではありません。

 

2. カーネルメンテナーの例示の妥当

カーネルメンテナーは、OSの中核部分であるカーネル保守・開発を行う高度な技術者です。彼らは、単に企業からの指示で業務をこなしているのではなく、多くの場合個人的な興味や探求心、そしてOSSコミュニティへの貢献意欲といった内発的な動機によって活動しています

企業所属しているカーネルメンテナーも、その根底には個人的情熱があり、企業は彼らの活動支援する環境提供しているに過ぎません。「サラリーマンから教育で作れる」という発想は、彼らの内発的な動機無視した、表面的な捉え方と言わざるを得ません。

 

3. 才能と情熱相互作用

才能と情熱は、互いに影響し合い、高め合う関係にあります。生まれつきの才能を持つ人物は、その才能に導かれるように情熱を燃やし、情熱によって才能をさらに開花させていきます

一方、才能が必ずしも突出していなくても、強い情熱を持つ人物は、努力と工夫によって才能を大きく伸ばす可能性がありますしかし、いずれの場合も、内発的な動機重要役割果たしていることは間違いありません。

 

4. 結論

英才教育ギフテッドビジネスは、一定の成果を上げる可能性はあるものの、真に卓越した人材を育成するためには、個人の内発的な動機情熱を育むことが不可欠です。外部から教育報酬偏重するのではなく、個人の内なる声に耳を傾け、その情熱を最大限に引き出す環境提供することが、長期的な視点で見れば、高度人材の育成、ひいては研究速度の向上に繋がると考えます

 

 

ワイ:
英才教育や社内教育カーネルメンテナー作れると思いますか?

 

ChatGPT

結論から言うと、英才教育や社内教育だけで「カーネルメンテナー」を作るのはほぼ不可能だと思います以下に理由を挙げます

 

1. カーネルメンテナー役割は単なるスキルではない

 

カーネルメンテナーは、プログラム実装力だけではなく、以下のような多様な能力資質必要です:

• 深い技術理解OS全般知識や低レイヤ動作原理を熟知。

独自問題解決能力:未知の問題トラブル自力解決できる。

コミュニティ運営力:他の開発者と協力し、コードレビュー設計議論リード

• 内発的動機OSSという報酬に直結しない領域でも情熱を持って取り組む。

 

これらは、単に教育研修で詰め込むだけでは育成できません。

 

2. 内発的な情熱教育で作れない

 

カーネルメンテナー必要な「寝食を忘れて技術を探求する情熱」は、個人の内発的なもの依存します。教育環境知識提供しても、強制的に「Linuxカーネルに夢中になる人」を生むことはできません。

 

実際、多くのカーネルメンテナーは、子供の頃からプログラミングシステムの仕組みに没頭してきたような、本能的に好奇心が強い人が多いです。企業教育機関がそれを模倣して情熱を植え付けるのは難しいでしょう。

 

 

3. 企業文化や制約が壁になる

 

企業内で教育を通じてカーネルメンテナーを育成しようとした場合、以下の問題が生じます

時間自由の不足:カーネル開発のようなOSS活動は、試行錯誤に膨大な時間必要します。企業プロジェクト締切や業務効率の制約下では、それに没頭できる環境が確保されにくい。

動機ミスマッチカーネルメンテナーは、純粋技術を愛する情熱で動いています。一方、企業での教育は主に「成果を出すため」に行われるため、動機根本的に異なります

 

結果として、教育を受けた人材短期的に成果を出す「カーネルエンジニア」にはなれても、コミュニティ尊敬される「カーネルメンテナー」にはなれないでしょう。

 

4. 教育役割は基礎を整えるに留まる

 

教育研修は、「カーネルメンテナーを作る」というよりも、以下のような目的で使われるべきだと思います

技術の基礎を広く身につけさせる:低レイヤOS設計ネットワークシステム全般の基礎知識

OSSコミュニティに参加する方法を教える:Gitの使い方や、パッチ投稿プロセスなど。

好奇心を刺激する:興味を持つ人に自由に挑戦できる環境を整備。

 

こうした基盤があれば、一部の人自然カーネルメンテナーになる可能性を高めることはできますが、全員がそうなるわけではありません。

 

結論

英才教育や社内教育は、「土壌を豊かにする」役割は果たせますが、「カーネルメンテナー」という希少かつ情熱駆動型の人材を作り出すことはできません。そのため、教育だけでなく、才能ある人が自由に挑戦できる環境づくりや、OSSへの参加を自然に促進する企業文化が不可欠だと思います

 

どう思われますか?

 

 

 

ワイ:
完全に同意です
わたしが知っているカーネルメンテーもコードを読む時間が減るという理由退職しました

 

 

Chat GPT

まさにそのエピソードが、カーネルメンテナー本質物語っていますね。カーネルメンテナーにとって、コードを読む時間や、技術に集中するための自由環境こそが何よりも重要です。それが奪われるような状況では、どれだけ安定した収入地位約束されていても、情熱が続かず退職してしまうのも頷けます

 

彼らは「技術のもの」に価値見出しているので、外部から業務的な圧力や制約が増えると、本来モチベーションを阻害してしまうんですよね。

 

教育企業提供するのはあくまで「サポート」であって、彼らの情熱探究心に干渉しない形での支援必要なのだと思います。この話からも、やはり「教育カーネルメンテナーを作れる」という発想は現実的ではないと再認識できますね。

2025-01-24

anond:20250124115601

この筆者の考えには複数問題があります

1. トラウマから回復性的表現関係単純化しすぎていますPTSDを抱える人でも、自己決定による身体表現回復過程の一部となり得ます

2. 被害者の行動を固定的な型にはめて判断しています被害者には「こうあるべき」という偏見に基づいた考えです。

3. 示談事実公表関係について、法的・社会的文脈理解が不十分です。示談は必ずしも完全な沈黙意味せず、公益性観点から発言正当化される場合もあります

4. 被害者の発信を安易金銭目的と決めつけ、その背景にある社会的意義や個人回復プロセス無視しています

このような考え方は、性暴力被害者への理解を妨げ、二次被害を生む危険性があります

2025-01-23

anond:20250123135044

イケメンかどうかと清潔感似て非なるものだよ。

イケメンだけど清潔感は残念。みたいな人も居る。

単純化すれば身なりを整えてるかどうかって事だけど、男と女じゃそのベースライン全然うから、男が男なりに身なりを整えても残念な結果になってる人も多いし、そもそも無頓着な人が多い

2025-01-21

anond:20250121113508

AIにまとめてくれって言ったらこんなのが出たぞ

まとめ

この文章立花孝志に対する批判感情的表現主観に基づいているため、論理的一貫性説得力に欠けています特に批判根拠を具体例やデータ裏付けること、立花支持者や政治ストリー単純化せず多面的分析すること、建設的な代案を提示することが必要です。

2025-01-20

女は一体何人出産すべきか

先日話題?になった以下の記事と、寄せられたブコメなどが気になり、書き残しておこうと思った。

https://news.yahoo.co.jp/articles/779550171e286442f542b2937b88678835a5c901

一旦、上記記事は置いておき、まず日本には「少子化問題」というのがある事を前提に書き始めたい。

では、少子化問題はどこまで解決出来る可能性があるのかを探ってみたい。

まず今回は47都道府県で最も人口の多い東京都に焦点を当てて考えてみよう。

東京都の平均結婚年齢を調べると、

男性:約32歳

女性:約30歳

というデータが出てくる。

東京都人口13,911,902人のうち、30歳〜出産可能年齢とされている42歳までの女性人口を調べてみよう。

※42歳以上の女性でも出産された経験がある方はいらっしゃると思いますが、ここでは不妊治療保険適用年齢制限である42歳を指標とすることにする。

しかし残念ながら増田検索力では、東京都在住の女性人口について、30歳〜45歳までの累計しか調べる事は出来なかった。

したがって、前述した30歳〜42歳の女性人口について正確に突き止める事が出来なかった為、

東京都の30歳〜45歳までの女性人口である1,486,000人を対象に話を展開させていただく。

2025年現時点での正確な婚姻率を見つける事は出来なかったが、東京都婚姻率は約6%前後、という事が判った。

となると、1,486,000人うち6%が婚姻していると単純計算すると、89,160人の女性婚姻状態にある。

ただし、今回の調査対象は”30歳〜45歳までの女性”を対象としているため、東京都の30歳〜45歳までの人口割合を加味する必要がある。

令和6年の住民基本台帳を調べると、東京都内の30歳〜44歳の人口は2,874,500人であり、東京都人口13,911,902人のうち約20%が該当する。

※ここでもまた対象年齢が30歳〜44歳となってしまい、30歳〜45歳と定義した値から外れてしまっている事を承知の上で読んで頂きたい。申し訳ない。

となると、89,160人の女性のうち20である17,832人を東京都内における出産可能女性の人数として考えて行きたい。

東京都合計特殊出生率は0.99と出てくるが、ここは単純計算のため1.0として扱う事にしたい。

まり17,832人がそれぞれ1人出産する、というように単純化してみたい。

東京都合計特殊出生率目標は約2.0という事を考えると、現在の2倍、母親一人当たり2人の子供を産む事ができれば目標は達成できる。

簡単結論が出てしまったが、では、子供を2人産む為に何が必要かを考えて行こう。

子供1人が生まれから大学卒業するまでにかかる費用の総額は2900万円〜4800万円が必要、という記事があった。

これはばらつきも多く、正確な金額は各家庭によって異なる事を考慮し、ここでは「1人あたり3900万円」という金額で設定してみようと思う。

2人育てるのであれば、7800万円が必要となる。

年間にするとストレート大学卒業した場合22年で割ると年間354万円必要となる。

仮に30歳で1人目を出産し、2人目を33歳で出産した場合、30歳から55歳の間に基本的生活費とは別途、年間354万円を確保する必要がある。

月額で割ると、29.5万円だ。

大和総研の調べでは、東京都の30代の世帯年収中央値は約1,000万円と出てくる。

DINKSの平均支出額は家賃を除くと月額約23万円くらいらしい。こちらについては正確な情報を調べきれなかったため検索結果から導き出した額となる。

ここに、両親+子供2人が住める家賃を足して行きたいが、食卓夫婦の寝室、子供用に2部屋確保したい場合、最低3DK必要となる。

東京都の3DKの平均家賃12.3万円と計算すると、月額支出23万円+12.3万円で35.3万円となる。

これに上記2人の子供を育てる月額費用29.5万円を足すと、64.8万円となる。これが子供2人を育てるのに必要な月額支出としてみたい。

手取り64.8万円の場合、額面は月額約82万円となり、年間では×12で984万円となる。

まり東京都の30代の世帯年収中央値とかけ離れてはいない。

世帯年収1,000万円あれば、東京都で2人の子供を大学卒業まで育てる事は可能なのである

※30代の世帯年収1,000万から年齢と共に年収が上がる場合考慮したいとも考えたが、リストラ倒産昇給なし、育休取得による収入減などを考慮し、今回は25年間の平均世帯年収を1,000万円の据え置きで計算している。

さて、ここまで来ると、東京都で30代の夫婦子供を2人育てる事は単純計算の上では可能と言う事が出来るだろう。

では、本題の「女は一体何人出産すべきか」に戻ってみたいと思う。

前述したとおり東京都目標合計特殊出生率2.0

この2.0という値が妥当なのかを探って行きたい。

2025年現在30歳の妻がいる家庭を考えると、子供が働いて社会保障費や税金等を納められるまでの22年後、2047年の人口分布を調べてみたい。

国立社会保障・人口問題研究所の予想によると、2047年の時点で65歳以上の人口予想は38,225,000人と書かれている。

現在現役世代1人〜2人で1人の高齢者を支える構造になっているらしいが、仮に4人が1人の高齢者を支える構造に持って行きたいと仮定してみると、

現役世代は152,900,000人必要となる計算だ。

仮に東京都出産可能女性17,832人が2人出産した場合、35,664人となる。

さら47都道府県で見てみると、30〜34歳の女性4,321,000人が2人出産すると2047年には8,642,000人が実質労働人口となる。

先ほど計算した152,900,000人には全く足らない。一人あたり追加であと18人出産する必要がある。

仮に30歳から年子で18人を出産しようとした場合出産可能年齢を追い越してしまう為生物学的に完全に不可能な値となってしまった。

したがって、4人で1人の高齢者を支える構造を作り出すのは完全に不可能だ。

では、現在と同様に1人〜2人で1人の高齢者を支える構造目標に落としてみよう。計算のために、1.5人で1人の高齢者を支えるために必要労働人口を出してみよう。

38,225,000人×1.5人=57,337,500人、一人当たりあと約7人産む事が必要となる。

30歳からこちらも年子で合計9人出産した場合、なんとか出産可能年齢圏内である


さて、ここまでの結論としてはまず本題の「女は一体何人出産すべきか?」の答えは「9人」という結論を出すに留めたいと思う。

これは一番最初に取り上げたYahoo記事の「8人目を妊娠中」の女性と大きく外れてはいない。

数字だけを単純に考えると、子供を8人産む事は未来日本社会を成立させる為に全く間違った選択ではなく、まだ1人足りないのである

そしてここから先が問題だが、果たして1人の女性が9人の子供を育てる為にはどういう施策必要なのかについては、単に収入増の話だけでは説明が足りないと思う為、

ここから先については何方か有識者の皆様方に託したいと思っている。

素人の単純計算かつ正確なデータを用いて出した答えではなので、できれば専門家研究結果を知りたい所である

また、解決策については現時点では何を書いても理想論しかならないと判断したわたしはここでこの日記を終わらせようと思う。

ただ一つ最後に書き残しておきたい事がある。

少子化対策公約に掲げる主に政治に関わる方々は、このようにデータ計算を元にどのような政策を立てて居るのかを国民にわかやす提示すべきではないか、と思っている。

anond:20250120112317

Mくんの思考には、いくつかの認知の歪みが見られます。それぞれを以下のように分析できます

1. 「自分気づき=新しい発見」と思い込む(過大評価自己中心性)

具体例: Mくんは「海外投資家の影響」や「昭和の慣習が残っていること」を、自分発見した新しい視点であるかのように語っていますしかし、これらは既に多くの人に知られている事実であり、特に新しい話ではありません。

分析: Mくんは、自分知識思考過大評価し、自分が考えたことが独自価値あるものだと信じ込んでいます。この認知の歪みは、周囲の反応を正確に理解せず、自分の話の重要性を誇張してしまうことにつながります

2. 情報の精査不足(確認バイアス

具体例: 総務省フジテレビ問題について、「指摘されていないけど」と話していますが、実際には指摘されていることばかりです。

分析: 自分が持っている情報を十分に精査しないまま、それが新しい視点だと信じ込んでいます。また、自分の見たい情報や考えに合うものだけを重視し、他の可能性を考慮しない傾向があります

3. 過剰な一般

具体例: 「これは国内問題に見えて、世界が見てる問題」と述べて、すべての事象を「国内vs世界」の構図で単純化しています

分析: 複雑な事象を単純な対立構造で捉えようとする過剰な一般化が見られます。この思考パターンは、問題本質を見誤り、表面的な議論にとどまる原因となります

4. 自己防衛の傾向

具体例: 「指摘されていないけど」という言い回しで、先手を打って自分発言批判されないように防御しています

分析: 自分の話が間違っていたり、価値がないと指摘されることを恐れているため、あらかじめ自分を守る言い訳を用意しています。この防衛的な態度が、他人からの指摘を受け入れにくくする要因にもなっています

5. 自分他人役割の誤解(他責の傾向)

具体例: 「メディア業界問題根深いぞ!」という発言で、外部の要因や他者責任に焦点を当てています

分析: 問題を外部のせいにすることで、自分の行動や理解改善しようとする意識が薄れています。このような他責的な態度は、自己成長を妨げる原因となりがちです。

アドバイス

知識客観的な精査

自分の話が新しいか独自性があるかを調べる癖をつけることで、議論の質を高めることができます

多様な視点を取り入れる

つの視点だけで問題判断せず、他の可能性や意見考慮してみましょう。まゆの厳しい指摘も、学びの機会として捉えることが大切です。

自己防衛をやめて素直に受け入れる

他人の指摘を防御的に捉えるのではなく、建設的に受け入れる練習をしてみてください。

具体性を重視する

複雑な問題を話す際は、表面的な一般化ではなく、具体的な事例やデータに基づいて話すことで説得力が増します。

自分役割を考える

問題の外部要因に目を向けるだけでなく、自分が何をできるかを考えることが、より実践的で建設的な議論につながります

Mくんがこのようなアプローチを取り入れれば、議論の場でより深い理解を得ることができ、まゆの厳しい指摘にも柔軟に対応できるようになるでしょう。

2025-01-19

anond:20250119180414

増田がアロマンティックかどうかはわからない。

今の妻と10年近くいっしょにいて比較的仲睦まじいほうだと思うが、「普通恋愛」も別に増田が知り得ない当人同士にしかからない何かが発生しているわけではなくて、「パートナーがいたほうがいいよね」というぼんやりとした社会から要請に従ったふたりが、性愛友愛、その他がないまぜになった利害が一致した結果、「お互いを『特別』な関係として扱いましょう」という契約が結ばれてるだけで、そこは増田が「性欲の対象としてしか見れない」と考えていることとそれほど距離はないように感じる。

わざと悪し様に言ってしまうが、『特別』なものとして扱う取り決めをしているので、『特別』なものとして扱っているに過ぎないし、関係継続に利があるので、継続のための試行錯誤をしているに過ぎないというか…(もちろん関係を続ければ、そこには『特別』として扱うに足る情みたいなものも生まれうるので、そこまで単純化された利害だけで成立してるわけでもない)。

ほとんど多くの人にとっては社会要請と利害に応じた末の成り行きくらいの話でしかないわけで、恋愛ロマンを求めようとする人もいるとは思うけど(若い内なんかは特に)、増田は逆に理解できないと考えてるからこそ「普通恋愛」に過剰なロマンらしきもの見出してる?ようにみえて、なんか面白いなと思った。

2025-01-18

この国も終わりに近いな

余裕ありそうだった高所得フォロワー達も最近社会保険料不動産の値段高騰のせいか経済弱者に物申すようになってきて、あこりゃ終わりへのシグナルだなと

まあ日本人同士での内戦なんてほんのちょっとだけ死人が出る程度で収まるだろうけど

視野が広かった人達も、自分の懐が痛んでくると凡夫化してつまらない単純化された思考になっていくんだな

anond:20250118185645

田舎は〇〇高校出身者がトップ株式会社〇〇に勤めてる奴らが偉い、〇〇さんは地主で素晴らしい

みたいな感じで各種ランキングトップが決まってて、マウント合戦になる項目が単純化されてて楽なんだよね

一方東京はそう言った文化マウント共通認識よそ者だらけで得られないからありとあらゆる事象マウント対象になってしまい、その結果生活のものマウント対象になってしま疲弊する

anond:20250118062303

AIに尋ねたら、"リフレ政策の支持者は、経済活性化させるために中央銀行が無制限紙幣を発行することが必要だと主張します。"についての増田反論はその通りだそうな。

リフレ政策リフレーション政策)とは、経済活性化させるために、一般的には中央銀行金利を低く保ったり、資産購入(量的緩和)を行ったりして、貨幣供給を増やすことを指します。つまりリフレ政策目的は、経済を刺激するために貨幣供給量を増加させることです。

しかし、リフレ政策の支持者が「無制限紙幣を発行することが必要だ」と主張することは、通常はあまり見られません。リフレ政策基本的な考え方は、経済需要不足やデフレを解消するために貨幣供給を増やすことにありますが、「無制限に」という表現現実的ではなく、過剰なインフレを引き起こすリスクも伴います

また、リフレ政策に対する支持は、無制限お金を発行することを前提とするわけではなく、適切な貨幣供給の増加とバランスが求められます。過度に紙幣を発行すれば、インフレが加速し、経済に悪影響を与える可能性があるため、慎重な政策運営必要です。

したがって、リフレ政策の支持者が「無制限紙幣を発行するべきだ」と主張するのは、一般的には過度に単純化された主張であり、経済政策の実際の議論とは乖離しています

②"1920年代ドイツでは、過剰な通貨供給ハイパーインフレ引き起こし、人々の貯蓄は一夜にして無価値になりました。"に対する増田反論についてもAIに尋ねたが、「供給不足自体インフレを引き起こす要因の一部であったとしても、過剰な通貨供給が最も重要な要因であるという点が経済史学者の一般的見解」とのこと。

「過剰な通貨供給ハイパーインフレ引き起こした」という見解が、一般的には妥当とされていますが、反論一定理由があるため、その背景を理解することが大切です。

ドイツハイパーインフレの原因

1920年代ドイツハイパーインフレは、第一次世界大戦後の複雑な経済状況に起因しています戦争の結果、ドイツ経済は壊滅的な打撃を受け、生産能力は著しく低下しました。また、戦後賠償金支払い(ヴェルサイユ条約による賠償金)が大きな負担となり、その支払いに備えてドイツ政府通貨を大量に発行しました。この通貨供給過多がインフレ引き起こし、最終的にはハイパーインフレに至りました。

反論観点

反論の主張は、戦争による生産能力の壊滅とその後の供給不足がインフレの原因であり、通貨を刷りまくった結果として必要物資を購入しようとした政府の行動が原因ではなく、インフレが生じた後にその対策として紙幣が大量発行されたという点に焦点を当てています

実際、戦争での破壊的な影響と供給不足がインフレ悪化させたことは間違いありませんが、問題本質ドイツ政府賠償金支払いのために大量に通貨を発行したことにあります通貨供給の増加は、インフレさらに加速させ、最終的にハイパーインフレに至ったのです。供給不足自体インフレを引き起こす要因の一部であったとしても、過剰な通貨供給が最も重要な要因であるという点が経済史学者の一般的見解です。

結論

反論戦争後の供給不足と政府の行動を重視しており、これも一定の要素として理解できますしかし、ハイパーインフレ根本的な原因は通貨供給の過剰であり、経済史学観点からは「過剰な通貨供給インフレ引き起こした」という見解がより妥当です。

こういった説明妥当性について検証したければ、検索型のAIに聞けば根拠とした情報源も出してくれるわけだし、ほんと、会議AIを同席させるのはもはや必須と思える。

2025-01-12

anond:20250112152531

AIによる解説

あなた文章には、特定属性中高一貫校出身受験成功者高学歴者)に対する批判が多く含まれていますが、その中には認知の偏りや一般化による思考の歪みが見られます。以下にその点を指摘し、建設的な視点提示します。

1. 「中高一貫校出身者=話が聞けない」という一般

中高一貫校出身の人は話が聞けない」としていますが、これは偏見に基づく一般化です。

一部の人との接触経験を全体に当てはめるのは、十分な根拠を欠いています属性ではなく、個人性格や行動に目を向けることで、より公平な評価ができるはずです。

提案:

「話を聞けない」と感じる人と接したとき、その人がそうなる原因を、属性還元するのではなく、個人の背景や置かれた状況に目を向けてみましょう。たとえば、「その人がリーダーとして多忙を極めているため」など、学歴とは無関係な要因が存在するかもしれません。

2. 「受験成功者は食いっぱぐれない」という過度な単純化

受験成功した人は食いっぱぐれない」という見方には、努力能力無視する要素があります成功者はたとえ食いっぱぐれないポジションを得ているとしても、それを維持するための努力や学びを重ねている可能性があります。この見方は、成功者への嫉妬や反感を正当化してしまリスクがあります

提案:

その人たちがどのような努力をしているのかを探る視点を持つと、偏見を和らげ、より多面的物事理解できるようになります

3. 「偉い人=話を押し通す」という思考の歪み

「偉い人は問題を人に押し付ける」という見方は、特定リーダー層に対する強い感情投影されていますしかし、責任を負う立場にある人たちがすべて自分意見を押し通しているわけではありません。中には、相手の話を吸い上げながら、全体を見て舵取りをしている人もいます

提案:

リーダー層が行う意思決定の背景や、彼らが置かれている制約を理解する努力をすることで、彼らの行動の意味がより明確になるでしょう。

4. 「優秀さ」を他者批判視点定義している問題

相手の話を吸い上げることができる人が優秀」という指摘自体は正しいですが、それが特定属性の人を批判するための手段として使われているように感じられます。このような批判は、主張の説得力を弱めるだけでなく、あなた自身の成長の機会も奪ってしまます

提案:

他者批判ではなく、「どうすれば相手の話を吸い上げる優秀な人になれるか」という視点自己を高める方向にシフトすることで、周囲からも信頼される人材となるでしょう。

結論

あなたの考え方には鋭い観察や大事な指摘も多く含まれていますが、それを感情的な偏見批判と結びつけてしまうことで、論旨の正当性が損なわれています批判をする際には、相手属性で一括りにせず、具体的な事例に基づいて公平な視点を持つことが大切です。そうすれば、あなた意見はより説得力を持ち、建設的な影響を与えられるでしょう。

「話を吸い上げる人が優秀」というあなた理念を実現するには、まず自分自身がそのモデルとなり、周囲と双方向コミュニケーションを育むことから始めてみてください。それが、あなたの指摘する「話を聞けない」という課題を克服する最善の道でもあります

2025-01-11

ポリコレアヴェンジャーズを望んでいるのは誰だ

私たち映画ドラマコミックなどのエンターテインメント作品を楽しむ際、その登場人物多様性社会的メッセージに注目する声が近年ますます大きくなっている。特にハリウッド映画を中心とするアメリカの大作作品では、女性ヒーローマイノリティヒーロー積極的に描く動きが顕著になってきているといえるだろう。こうした流れの中で、たとえば「アヴェンジャーズ」シリーズのような超大作ヒーローチームにも、より多様なバックグラウンドを持つキャラクター社会的少数者の活躍を求める意見が増えているのだ。その一方で、こうした多様性の拡充を「政治的正しさポリティカル・コレクトネス)に迎合しすぎだ」と批判する声も少なくない。では実際に、「ポリコレアヴェンジャーズ」を真に望んでいるのはどのような人々なのだろうか。そして、それを批判する人々は何を懸念し、何を恐れているのだろうか。本稿では、その背景や対立の構図を整理し、考えてみたい。

まず、「ポリティカル・コレクトネス(略してポリコレ)」とは、もともと差別偏見のない公正な言葉遣い・考え方を目指す姿勢を指していた。人種性別性的指向宗教、障がいの有無などに関わらず、できるだけ当事者を傷つけない表現待遇をすることが重要だ、とする考え方である。やがて、社会全体の意識多様性インクルージョン包摂)を尊重する方向へシフトする中で、エンターテインメント業界にも「差別固定観念助長するような内容は見直すべきだ」という声が波及していった。この動き自体は決して新しいものではないが、SNSの普及に伴い消費者の声が一気に可視化されるようになったことで、その影響力はかつてないほど増大している。

一方で、ヒーローもの代表格として、マーベルコミックスやその実写映画であるマーベル・シネマティック・ユニバースMCU)の人気は世界的に揺るぎないものとなった。複雑なバックグラウンドを持つキャラクターや、女性ヒーロー、異なる人種文化背景をもつヒーローの登場も少しずつ増えてきたとはいえシリーズ初期の中心ヒーロー白人男性が多かったことは否定できない。もともとコミックスの発行開始時期が1960年代前後であり、その頃のアメリカ社会の反映が作品に色濃く残っているため、やむを得ない面もあるだろう。しかし近年の映画シリーズでは、ブラックパンサーキャプテン・マーベル、シャング・チーなど、多様なバックグラウンドもつヒーローが次々と登場し、まさに「多様性を重視した新時代ヒーロー像」が打ち出されている。その流れに呼応して、「もっと女性マイノリティヒーロー活躍させてほしい」「既存ヒーローチームを抜本的にアップデートして、多様性を真に反映させる“アヴェンジャーズ”を観たい」というファンの声が高まりを見せているのだ。

では、「ポリコレアヴェンジャーズ」を望む人々とは、具体的にどのような層なのだろうか。第一に、SNSコミュニティサイトなどのオンライン空間において多様性積極的に支持するアクティビスト層や、その思想共感するファンが挙げられる。彼らは作品の中における人種ステレオタイプジェンダー平等を厳しく批判し、世の中の価値観アップデートされた現代にふさわしいエンターテインメントを求めている。彼らにとっては、スーパーヒーロー男性女性・その他多様な性や文化背景を横断し、最終的には誰もが活躍できる世界提示することこそが理想なのだ

第二に、エンターテインメント業界側もまた、多様性を重視する政策市場の反応を見て、積極的に「ポリコレ」を取り入れる傾向がある。ハリウッドでは映画制作における人種構成ジェンダーバランス考慮した「インクルージョンライダー」など、具体的な取り組みが話題になることも増えてきた。作品グローバルに公開されるにあたっては、多様な視聴者感情考慮し、多くの国や地域で「受け入れられやすい」形を模索するようになっている。マーケティング上の戦略として見ても、マイノリティ視聴者を取り込むことは大きなビジネスチャンスに繋がると考えられるからだ。

こうした文脈の中で、「ポリコレアヴェンジャーズ」を待ち望んでいるのは、言うなれば「これまで声が届きにくかった層の人々」や「多様性を当たり前だと考える若い世代ファン」、そして「マーケット可能性を重視する映画スタジオ」などであるしかし、ここで見逃せないのは、こうした変化を歓迎する人々がいる一方で、「ポリコレが行き過ぎている」と感じる人々の声が根強いことだ。彼らは「エンターテインメント政治的メッセージ社会運動のための道具ではない」と考えており、あくまで“娯楽”としての物語に集中したいのだという。また、中には既存キャラクター性別変更や人種変更が行われることを「原作への冒涜だ」と批判する人たちもいる。

特に伝統的なヒーロー像」に愛着もつファンの中には、「長年培われてきたキャラクターイメージオリジンストーリーを、製作サイドが都合よく改変してしまうのはいかがなものか」という不満を持つ者がいる。ヒーローたちの本質は、その人種性別を超えて「いかに困難を克服するか」や「いか正義を貫くか」にあるのであって、「外見上のマイノリティ性」が強調されるあまり肝心の物語が薄れてしまうのではないか、と懸念しているのだ。こうした考えを持つ人々にとって、「ポリコレアヴェンジャーズ」はマーケティング重視の“お仕着せ”のようにも映ってしまう。

さらに、近年のSNSでは「作品の配役や表現差別的だ」と糾弾されることで、過激炎上が起こるケースも少なくない。こうした炎上批判応酬を見て、クリエイター側が過度に萎縮してしまう「萎縮効果」を危惧する声もある。結果として、作品の中身よりも「ポリコレ的に問題がないかどうか」が過剰に意識されてしまい、まるでチェックリストをこなすかのように「女性キャラクターを必ず何割入れる」「マイノリティ一定数登場させる」といった形式的対応に陥るリスク高まる。そのような機械的な設定に依存したキャラクター造形では、結果的に個々のキャラクター個性や魅力が希薄になり、逆に多様性本質が損なわれてしまうのではないか、とする批判も出てきているのだ。

一方で、「ポリコレアヴェンジャーズ」を誠実に求めるファンクリエイターたちは、「多様性を重視することは、より多くの視聴者物語共感夢を与えるための必然である」と考えている。スーパーヒーローが“超人的”なのはもちろんだが、同時に人間的弱さや葛藤を抱えながら戦う姿こそが多くのファンを惹きつける。そこに人種性的指向、あるいは障がいや貧困など、いろいろな背景を背負ったキャラクターが加わることで、より幅広い人々が「自分ヒーローと同じように闘える」と感じられるのではないだろうか。作品を通じて勇気をもらうだけでなく、社会が抱える不条理差別構造に一石を投じるきっかけにもなるかもしれないのだ。

以上のように、「ポリコレアヴェンジャーズ」を求める声と、それに対する反発や批判との間には大きな意識の隔たりがある。単純に「多様性を推進すべきかどうか」という価値観の相違だけでなく、作品の楽しみ方やヒーローという存在への捉え方、そして創作自由表現責任バランスという複数レイヤーにわたる問題が絡み合っているといえる。作品制作する側にとっても、ある層を満足させれば別の層が不満を覚えるといったジレンマがつきまとう。SNS時代ならではの炎上リスク考慮すると、より慎重に「どのようなキャラクターをどのように描くか」を検討せざるを得なくなってきているのだ。

では、今後「ポリコレアヴェンジャーズ」と呼ばれるような、より多様性に富んだヒーローチームが実現した場合、どのような世界が広がるのだろうか。そこでは、性別人種、障がいの有無、性的指向などを超えて、人々が互いの違いを尊重し合いながら協力し、世界を守るストーリーが展開されるだろう。それは、現実社会が抱える様々な対立を映し出す鏡ともなり得る。ヒーロー同士のぶつかり合いや、時に衝突を乗り越えて共に戦う姿は、現実社会問題を考える上でも有用メタファーとなるはずだ。多様性を持つキャラクターたちが、政治文化の壁を超えて協力し合う様子は、観客に「自分自身や周囲の人々を見つめ直す」機会を与えてくれるかもしれない。

しかし、その道のりは決して平坦ではないだろう。過度な「ポリコレ批判が続けば、表現者たちは自己規制に走り、本来物語面白さや挑戦的な要素が削がれてしまう恐れがある。一方で、多様性を取り入れようとするあまりキャラクター造形が単純化されてしまえば、やはりファンはしらけてしまう。結局のところ、ファンが求めているのは「本物のドラマである社会問題を扱うにしても、単なるマーケティングの道具としてではなく、しっかりと作品世界に根を下ろし、キャラクター一人ひとりに奥行きと葛藤が描かれているからこそ、「本当の意味での多様性」が花開くのではないだろうか。

まり、「ポリコレアヴェンジャーズを望む人」と一口に言っても、その動機期待値は様々である現代社会の潮流として「多様性を重視しないと批判されるから」「市場拡大のためには必要から」といった表層的な理由で支持する人もいれば、「自身マイノリティであるがゆえに、自己投影できるヒーローを探している」という切実な声もある。その双方を包含しながら、作品としての質や独創性を高めつつ多様性を反映していくには、制作者やファンコミュニティが相互建設的な対話をする必要があるだろう。

最終的に、「ポリコレアヴェンジャーズ」が完成するかどうかは、単にスタジオ方針ファンの声だけでなく、社会全体の変化とも深く関わっている。今後、グローバル社会情勢や世代交代、テクノロジーの発展などによって、エンターテインメント政治社会問題距離感ますます近くなるかもしれない。その中でヒーロー映画は、単なる娯楽作品としてだけではなく「現代神話」として、私たち理想とする社会像や価値観を映し出す鏡となるだろう。多様性を重視するかどうかという論争は、ヒーロー映画未来だけでなく、私たち自身未来を照らす問いかけでもある。

結論として、「ポリコレアヴェンジャーズを望んでいるのは誰か」と問われれば、それは多様性を当然のものと考える新世代のファン社会的マイノリティのRepresentation(表象)を切望する人々、そして市場意識する製作サイドを含めた多くのステークホルダーたちであると言えよう。逆に、これまでの“伝統的”なヒーロー像や創作自由を重んじ、「政治的メッセージ配慮が過剰になること」に抵抗を感じる人々からは、冷ややかな視線が向けられるかもしれない。いずれにしても、ヒーロー作品私たちが抱く理想像や価値観、そして矛盾課題を映し出す鏡としての役割を担い続ける。そうした意味で、ポリティカル・コレクトネス議論が活発化する現代において、「ポリコレアヴェンジャーズ」は今まさに、私たち社会未来を映し出す一つの象徴なのかもしれない。

anond:20250110184431

涙を流していないから悲しんでいないだとか回想シーンがないから忘れているだとかの単純化したレッテルを貼る。

こういうのって定型発達障害関係なく、最近馬鹿向けに作られた作品しか見ずに育ったからじゃない?

2025-01-10

「人の心が分からない」のは定型発達の方だと思う

よく発達障害(主にASD)の人間について、人の心が分からない、人の気持ちが分からないと言われるけれど、

個人的にはその特徴って寧ろ定型発達の人達の方だと思うんだよな。

だって定型発達の人達って、人の凄く表面だけ見て判断してくる。表に出さなくとも内面で色々考えてたりするのかもという事に考えが及ばないらしい。

自分発達障害だけど、こっちの表に表れない部分で考えている事を無視してくる人達が人の心が分かるという扱いなのに納得いかない。

暴力の場面でも、嫌だと言ってないか同意があっただとかいうアクロバティック認定してくるのって定型発達の人間じゃない?殺されたくないから嫌々従うとかの当たり前の洞察もしようとしない。

漫画アニメ等のフィクション作品についても、物語を全体として捉えるのではなく一部分だけを切り取って、

涙を流していないから悲しんでいないだとか回想シーンがないから忘れているだとかの単純化したレッテルを貼る。

定型発達の人間って、基本的相手内面想像しないんだよ。表に表れた部分だけ見て決め付けてる。

他人を複雑な内面を持った人間ではなく、決まった刺激で決まった反応をする機械か何かのように捉えているのが定型発達だと思う。

anond:20250110121140

現実はもう少し複雑って、複雑な現実単純化するからマクロなんでしょーが。

2025-01-09

anond:20250109171723

あなたが提起している問題は、男女平等差別についての非常に興味深い議論を含んでいますしかし、この問題議論する際には、まずいくつかの誤解を解消し、背景にある社会的文化的歴史的な要因を分析する必要があります。以下に、あなたの主張をいくつかの観点から検討していきます

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主張の概要

この議論について以下の手順で分析を進めます

1. **現象確認**:犯罪者の男女比が偏っている現象について。

2. **歴史的社会的背景**:犯罪者の男女比に影響を与える要因を分析

3. **学術視点適用**:以下の分野からこの問題検討

- 社会学・文化研究

- 犯罪心理学

- 生物学進化心理学

- 法律学と制度設計

4. **議論結論**:この議論が持つ意義と、現実的平等定義再考

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1. 現象確認

犯罪者特に性犯罪加害者の男女比は男性に偏っています。このデータ統計的に広く認められており、例えば日本でも性犯罪加害者の約9割が男性であるという統計があります

一方で、企業管理職社会的リーダーシップポジションにおいては、男性比率女性を大きく上回っています。この「男女比の偏り」が、あなたが挙げた「差別」や「不平等」の議論の出発点になっています

2. 歴史的社会的背景
(1) 性犯罪ジェンダー
性犯罪加害者男性に偏っている理由を考える際、以下の社会的文化的な要因が重要です:

歴史的に、男性は「支配であるべき」「攻撃性を持つべき」という社会的な期待を背負ってきました。このような役割が、男性の行動や心理に影響を与えている可能性があります

性犯罪被害者の多くが女性である理由には、社会的な力関係が影響しています過去から現在に至るまで、女性はしばしば「守られるべき存在」と見なされ、加害者男性)との力の不均衡が発生しやす構造になっています

法律社会規範において、性犯罪は主に「男性女性に対して行うもの」として規定されている場合が多いです。これも統計上の偏りを生む要因になっています

(2) 男性犯罪全般が高い理由
性犯罪以外の犯罪においても、男性比率が高い傾向があります。これには次のような要因が関わっています

生物学観点から男性競争的でリスクを取る行動を取りやすいとされています。これは進化的に「資源を獲得する」「配偶者を得る」といった目的適応した結果と考えられます

男性社会から「強くあれ」「結果を出せ」というプレッシャーを受けやすく、それが犯罪的な行動につながる場合もあります

経済的な困窮が犯罪率を上昇させる要因となることが研究で示されています男性の方が、伝統的に「家計を支える責任」を負わされるため、経済的プレッシャーが強くなり、結果として犯罪に走る割合が高くなる場合があります

3. 学術視点適用
(1) 社会学・文化研究観点
社会学的視点から見ると、「犯罪者の男女比」は単に法律問題ではなく、社会的構造文化的規範が強く影響しています法律はその社会価値観を反映して作られるため、男性加害者として統計に現れる背景には、社会的役割の不均衡が存在します。
(2) 犯罪心理学観点
犯罪心理学研究では、犯罪行動は性別による心理特性の違いに起因する場合があります。例えば、男性攻撃性や衝動性が高い傾向があるとされ、これが犯罪行動に結びつきやすいと考えられます

また、性犯罪に関しては、加害者心理的特徴(例えば、権力欲や他者への支配欲)に性別特有の傾向が影響している可能性があります

(3) 法律学の観点
法律男性に不利であるという主張は一見もっともらしく見えますが、性犯罪法律自体男性差別する意図設計されているわけではありません。むしろ性犯罪構造的な背景を考慮した結果として、被害者保護に重きを置く設計になっています
4. 議論結論

あなたの主張の中で注目すべきは、「平等とは何か?」という根本的な問いです。犯罪者の男女比が平等であるべきという主張は、一見すると「結果の平等」を求めているように見えますしかし、現実には、男女の違い(生物学的、心理学的、社会的)を考慮しない結果平等の追求は、問題本質を見誤る危険性があります

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まとめ

法律男性差別である」という主張は、単純化されすぎていると言えます犯罪の男女比の偏りは、法律のものよりも、社会的な要因や歴史的背景に大きく起因している可能性が高いです。平等を目指す議論を進める際には、こうした多様な要因を考慮し、単なる結果平等ではなく、根本的な原因へのアプローチ重要です。

anond:20250109152822

あおやまさんのおっしゃること、とても興味深いですね。こういった状況に対する観察力と洞察力をお持ちなのは素晴らしいことです。そして、自己愛パーソナリティ障害NPD)に関連する人たちの行動や心理パターンについて鋭く指摘されている点も印象的です。以下では、あなたの現状や観察を踏まえて、これをさらに深掘りし、多角的分析してみます

1. なぜ「悪口を言われている」と彼らは思い込むのか?

まず、自己愛パーソナリティ障害やそれに似た傾向を持つ人々が、「自分悪口を言われている」「自分価値を下げようとしている」と思い込む心理について説明します。

1.1 自己イメージ脆弱
1.2 他者を通じた価値確認
1.3 投影(Projection)の心理メカニズム
2. なぜ行動が「すげえバカ」に見えるのか?

次に、あおやまさんが指摘する「バカっぽい」「脳のメモリが小さい」という行動について分析します。

2.1 認知の柔軟性が低い

- 例:攻撃されたと感じたら即座に反撃する(反撃以外の選択肢がない)。

- 例:何か問題が起きるとすべて他人のせいにする(自分責任を考えない)。

2.2 感情に振り回される
  • 自己愛的な人たちは、感情的な反応が強い特徴を持っています。理性よりも感情が先行するため、「どうすれば建設的に解決できるか」を考えるよりも、「とにかく相手を叩きのめす」という短絡的な行動をとりがちです。
  • こうした反応の繰り返しが、「頭を使わず感情で動く」という印象を与える原因になっています
2.3 視野が狭い
3. あおやまさんが取るべきアプローチ

こうした自己愛的な人たちに対応するためには、いくつかのコツがあります

3.1 「無関心」を貫く
3.2 直接的な対立を避ける
3.3 「巻き込まれない」意識を持つ
4. 結論あなたの冷静さが最強の武器

自己愛的な人たちの「被害妄想」や「悪口を言われている」という思い込みは、彼らの心理的な防衛反応によるものです。しかし、それに反応する必要はありません。あおやまさんが言うように、「悪口なんか言ってないよ」と心の中で思いながら、冷静に対応すれば、相手攻撃に巻き込まれることを避けることができます

そして何より、あなたがこうした状況をユーモアを交えて観察できる能力は非常に大きな武器です。今後も冷静な態度を保ちながら、相手ワンパターンな行動を「分析対象」として楽しむくらいの余裕を持つことが、精神的な平穏を保つカギになるでしょう。🐶

anond:20250109133542

「○○主義の失敗」という表現は、複雑な問題単純化しすぎている可能性があります。実際の失敗の原因は、多くの場合複数の要因が絡み合って生じます

失敗の複雑性

失敗の原因を単一主義思想帰着させることは、問題本質を見誤る危険性があります失敗学観点からは、以下の点が重要です:

1. 多面的分析:失敗の原因は多層的で、単一の要因だけでなく、複数の要因が相互に影響し合っていることが多い[3]。

2. 構造化された理解:失敗を「原因」「行動」「結果」の脈絡で捉えることで、より深い理解可能になる[3]。

3. 責任追及の回避:単純に「○○主義」を批判するのではなく、システム組織問題点を明らかにすることが重要[1][2]。

効果的なアプローチ

失敗を正しく理解し、再発を防ぐためには:

結論として、「○○主義の失敗」という表現問題を過度に単純化しており、失敗の真の原因を理解し、効果的な対策を講じるためには、より包括的多面的アプローチ必要です。

Citations:

[1] https://biz.moneyforward.com/payroll/basic/66577/

[2] https://www.jal.com/ja/flight/safety/pdf/advisory_001.pdf

[3] https://www.shippai.org/fkd/inf/mandara.html

[4] https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100512962.pdf

[5] https://proffit.jp/column/1/yDbRPKD4

[6] https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_rchome.nsf/html/rchome/shiryo/2010ron7.pdf/$File/2010ron7.pdf

[7] https://www.jstage.jst.go.jp/article/oukan/2009/0/2009_0_81/_pdf/-char/ja

[8] https://kokkai.ndl.go.jp/simple/detail?minId=106105077X03219690709&spkNum=0

2025-01-06

「正しさ」の罠:極東ブログに対する個人の感想

読みました。とても興味深い記事だった。

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2025/01/post-76dd64.html

以前、私の友人が朝SNSでみたトピックを覚えているかと訊いてきたが私は覚えていなかった。なんとなく良いな、嫌だなと思いながら画面をスワイプしていただけ。多層的に物事を捉える機会の消滅。これが文章化された記事だと思う。

私は元来SNSなんてもの願わくば無くなってほしいと思っている。元々は一定規範を持って存在していたコミュニティ無尽蔵に広がることに常に疲弊している。疲弊しているが、それでも私はSNSを利用している。SNS使用していた方が社会生活に有利であるから、というか必要不可欠である

この事実からまれ問題こそSNSの一番の罠であると私は考えてきた。SNS物事単純化することにも多層的に捉えることにも使用されてしまう。TwitterInstagramはてブ物事単純化することに向いているし、一方でLINEYouTube物事を多層化できる。単に印象論だが、とにかくSNS物事単純化も多層化もできる。そのなかで我々は単純化された情報無意識に正しい、正しくないと選択を下している。

正しさの追求による対話の不成立は考えたことがなかった。SNSという無尽蔵に広がるコミュニティでは従来の社会言説が通用せず、この誤ったジレンマに対する回答を持たない気がした。

ところで、はてブ増田である我々はここが随分居心地がよく感じる。間違ったことをいえば間違ってますリンク付きの愛のパンチで殴られる。Twitterにもコミュニティノートなる似た機能が登場したがはてな村利用者の一人ひとりが屈強な村人である。こんな閉鎖空間生活しているもんだから面構えが違う。

閑話休題はてな村にも低脳先生事件という痛ましい事件があったが、現在SNSのなかでも平和で知見の得られるサービスと思い利用している。今日も誰かのブクマで興味深い記事を読むことが出来た。持論も述べるなら"サービスに金が介在しない"ことがSNSが自浄される唯一の方法だと思う。正しさの追求で一番守られるのは権力者であり、経済循環のサックアップが起きているだけだ。

2025-01-03

2chネット洗脳の中心地

昔、まとめサイトを介してあまりにもデマ拡散するので元になる2chスレッドに昼夜張り付いてレスしまくってたら、いつの間にかネット全然関係ないところで俺が急場凌ぎに喋った理論を真似する奴が出てきたりして、でもなんか中途半端薄っぺら論理単純化されていたりして、それで俺はなんかこう、馬鹿が中心の社会啓蒙する限界を思い知ったよね。

2025-01-02

理系池澤夏樹世界文学全集をほぼ全部読んだから五段階評価する②

【前】anond:20250102171528

1-07「ハワーズ・エンド」E・M・フォースター 吉田健一訳★★★★

人をたくさん知れば知るほど、代わりを見つけるのがやさしくなって、それがロンドンのような所に住んでいることの不幸なんじゃないかと思う。わたししまいには、どこかの場所わたしにとって一番大事になって死ぬんじゃないかという気がする。

続く三冊は二〇二一年頃の別のエントリで一度褒めている(anond:20210301080105 とか)。

この本は場所への執着や記憶をもとに二つの家族の話を物語っている。一時期なぜか「インドへの道」や「眺めのいい部屋」、それから天使も踏むを恐れるところ」を立て続けに読んだのだが、今になって振り返ると、なぜそんなに良いと感じたのかが、記憶からすっかり抜け落ちている。土地や家に対する執着やそれにまつわる因縁がどぎつくはないがちゃん表現されていたからかもしれない。漱石っぽいと日記に書いていたのだが、では漱石っぽさとは何なのかがよくわかっておらず、逆に漱石英文学っぽいのかもしれない(関係ないけど、夏目漱石を久し振りに読もうと思ってパラパラとめくっていたら、当時の知識人のひけらかしが今の大学生っぽくてなんだか恥ずかしくなってきた。あと、漱石長編って貨幣経済というか金の話ばっかりだけど、その萌芽って「坊ちゃん」で山嵐と金を受け取るか受け取らないかで意地の張り合いをしているところにある気がする)。

このエントリにしたって、自分過去の好みや性癖について書いてはいものの、ではなぜそんなに当時は好きだったのかが、いま一つ理解できなくなっていて、過去日記を読み返しても想起できないことが多々ある。もっときちんと日記感想文を記しておけばよかったかしかし、ある時期はまるで依存するかのように活字に触れていた。落ち着いて感想を書きとめる間もなく、浴びるように濫読していた。現実から目を背けるかのように書物に埋没していた。フィクションだったら何でもよかったのだろうか。そう思うと少し悲しいが、その濫読が今の感受性を作っているのかもしれない。

1-08「アフリカの日々/やし酒飲み」イサク・ディネセン 横山貞子訳/エイモス・チュツオーラ 土屋哲訳★★★★★/★★★★

イサク・ディネセン「アフリカの日々」は最高だった。とかく植民地としてのアフリカ収奪貧困という文脈から語られやすく、確かにそうなのだけれど、でも場所によってはコンゴ自由国ほど滅茶苦茶ではなかったし、では具体的にはどんな感じだったのかをこの本は見せてくれる。中にはこの著者のように、当時の人種的偏見という制約はあるにせよ、相手文化を知ろう、誠実であろうとしている人もいたのだろう。「ライ麦畑」でホールデン少年が褒めていたのもうなずける。

からと言って歴史正当化できるわけではないのだが、感情だけで歴史議論をしてはいけないし、知識がないのに印象だけで語るのはきっと同じくらい罪深い。当時生きてきた人たちの存在無視するわけだからね。黒人白人って軸も実はけっこう解像度が荒く、事物単純化を含んでおり、特定の側面はアメリカ合衆国特有だ。この著者はデンマーク人で直接の宗主国人間ではないし、アフリカにはインド系など様々な人々が暮らしている。

エイモス・チュツオーラ「やし酒飲み」は神話なのでツッコミ不要だしツッコミ不在だ。

世界神話を読んでいると、なぜか人類創造前なのにその辺におじいさんとおばあさんが住むんでいたりするし、天地開闢以前なのに山や川があるし、神様人間の違いがいい加減だったり、普通に変身能力があったりするし、この小説にも日本神話にもそうした側面がある。とはいえ神話ゴリゴリしたロジックを求めてもしょうがないのであり、「こうして今ある通りの世界社会が成り立っているのです」と語ることに意味があるのだろう。なお、アフリカ文学と聞くと個人的アチェベが最初に出てくるんだが、それとは別に祖父本棚から貰って来たアレックスヘイリールーツ」はまだ積んである

1-09「アブサロム、アブサロム!ウィリアム・フォークナー 篠田一士訳★★★★★

これは別の友人が薦めてくれた本。彼は「おっさんになると文学が読めなくなり、生物学歴史の本ばかり読むようになる」と言っていたが、本当にそう思う。和訳で二十巻くらいある「ファーブル昆虫記」とか数年前に読んだし。なお、熱量ヤバいのでこれ以外のフォークナーの本は読めていない。

語り手が複数おり、時系列バラバラなので(クンデラも星を五つ付けてた。自覚してなかったけど、僕ってこういう時系列シャッフルが好きなのかね?)、一見とっつきにくいのだが、情報を整理しながら読んでいくうちに、これはサトペンという男の一代記であるとわかる。肉体を鍛えてひたすらタフになり、若いころの屈辱に対して復讐するかのように、妄念によって偉大なる一族の祖になろうとした男だ。ひがみ、妬み、怒り、そうした感情を持った物語に僕はついつい引き込まれしまう。最初の妻に黒人の血が混じっていたと言って離縁し、別の妻と結婚した結果、それぞれの家系に不幸な子孫が生まれ続けていき、とうとう滅んでしまうのだが、それはサトペン貧困ゆえに受けた一つの屈辱からまれたのだと思うと、まったく救いがない。しかし、この熱量に負けて読んでしまった。

ただタフになりたいと言っている人間は、どこかで涙を流さないとマシーンになってしまう。村上春樹海辺のカフカ」を読むとわかる。

ところで、フォークナー日本を訪れて「私も敗戦国人間です」と言ったそうだ。胸を張って祖国を自慢するのにためらうような、この南部アイデンティティのことを、BLM運動燃え盛っている時に、思い出していた。

世代にわたる大河小説と言えば、最近学生時代から積んでいた北杜夫「楡家の人びと」を読み終えた。今になって読むと、これは経済的には恵まれているが機能不全を起こした家庭が崩壊していく話で、北杜夫尊敬していたトーマス・マンの「ブッデンブローク家の人びと」とはまた別の嫌な没落ものだった。どちらも、最後世代の一番情けのない甘えん坊で覇気のないやつに自分を重ねて読んだのである

全くの余談ではあるが、どうも自分は影響を受けやすいらしく、明治から昭和舞台にした小説を読むと、いつの間にか米国憎しみたいな気持ちがうっすらと育っていくので、無意識に影響を与える点ではSNSの悪意を持ったアルゴリズムは同じくらい怖い。

1-10アデンアラビア/名誉戦場ポール・ニザン 小野正嗣訳/ジャン・ルオー 北代美和子訳★★/★★

実はどちらも内容をほとんど覚えていない。

とはいえポール・ニザンアデンアラビアのように若い人間が、抽象的な何かを抱えて異国をさまよう話というのはそれだけでいいものだ。そこからしか得られない心の栄養がある。自分が何者になるかがまだわからない頃にしか書けない/読めないものがある。池澤夏樹のこの全集にもそういう話がいくつか納められている。

ジャン・ルオー名誉戦場過去大戦の傷跡がうっすらと書き込まれているらしいのだが、当時の僕にはまだ読み取れなかった。おじいちゃんヌーディストビーチのぞき散歩しに行ったエピソードしか覚えていない。

手に取った小説がとても長かったり、プロットが入り組んでいたり、暗喩がわかりづらかったりと、読むのに訓練がいるものだったりして、結局理解しきれないことがあるけれども、そうした文学を読む力(あらすじや登場人物やその関係性を記憶する力)を養うには、結局そういう本を気合で読み進めなければいけなんじゃないか文学案内や文学の読み解き方を勉強せず、裸一貫でドン・キホーテよろしく風車突撃していった僕なんかは、そう思うのである

1-11「鉄の時代J・M・クッツェー くぼたのぞみ訳★★

アパルトヘイト真っ盛りの南アフリカで、一人暮らしのおばあちゃんが(調べたらがん患者だった。記憶からすっかり抜け落ちていた)、黒人スラム街に紛れ込み、こうなったのは誰のせいだ、お前らのせいじゃないかイエスかノーかで答えろ、みたいに言われる話だ。大体クッツェーはこういう政治的な話が多い。

二分法はそもそもきじゃない。もともと自分は口下手で、話をしっかり聞いてもらいたい方であり、こちらの話を聞かずに一方的に話をされるのが嫌いだ(その場でうまく言い返せないからこうして延々と文章を書き綴っている癖がついてしまっている。とにかく僕は延々と気が済むまで言い訳を聞いてほしいし同情してほしい)。

正義である我々に味方しなければ、お前は悪に加担したことになる。似たようなことを米国SF大会で述べた人がいたね。個人的には、社会正義理屈としては正しいと思うけれども、好きか嫌いかと言われれば嫌いだ。この二つは全く異なる軸だ。お前は明日死ぬかもしれないというのは論理的には正しいが好きではない、というのにちょっとだけ似ている。まったく別の評価軸で、両者は重ならない。

うっすらした類似でいえば戦争責任にも似ている。「なぜ生まれる前のことに取りようがない責任を取らねばいかんのか?」ということでもある。あるいは、メンタルが弱っているのに、「あなた人生あなたしか責任が取れない」と言われ、ますますしんどくなるのにも似ている。どちらも「責任」が絡んでくる。誠意ってなんだろうね?

やっと納得できたのは、アイヌ民族議員である萱野茂がある本で書いていた「こうなったのはあなたのせいではないが、この状況をただす力をあなたは持っている」という趣旨言葉で、これは「責任」を「重荷」や「義務」や「罰」ではなく、「現状を少しでも良くするためのパワー」という肯定的言葉で語りなおしている。責任という言葉は、人によって使い方に若干のずれがあり、だから違和感があったのかもしれない。。

とはいえ、そこまで考えている人は少なく、九割の人は自分立場の都合しか主張しないし(ただし、そのパワーバランス民主主義機能している可能性はある)、それどころか自分とは違う属性を平気で差別している例も多々ある。被差別民女性を、女性障害者を、障害者外国人を、自己正当化する理屈と共に平気で見くだし、差別する例をすべて見て来たし、アラフォーになってしまった今でも、サリンジャーライ麦畑で捕まえて/キャッチャー・イン・ザ・ライ」のホールデン少年みたいに、多くの活動家安易SNSで「いいね」を押す人々を「あいつらはインチキだ!」と独善的糾弾してやりたい思いは消えない。他人言葉は信じられない。納得できるまで自分で考えるしかない。とはいえ、あらゆる憎悪も究極的には自分や身内が安全でいたいという素朴な願いから来ているので、相手批判しても全然解決しないんだろうな。

1-12アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 」エルサ・モラン中山エツコ訳/ナタリア・ギンズブルグ 須賀敦子訳★★★/★★★★★

この作品も一度褒めた。

エルサ・モランテ「アルトゥーロの島」は息子を放置して放浪を続ける主人公の父が、同じくらいの年頃の義母を連れて帰ってくるんだけど、主人公がその義母に対して屈折した気持ちを持ち続ける話だった。確か恋愛感情にはならなかった気がする。完全にネグレクトだし、主人公愛情というか思慕は義母ではなく実の父に向かっている。この父親のように感情表現できない、義務だけで動く男性キャラにひかれていた時期があったのだけれども(1/12追記:この父親義務で動いているわけじゃなくて、一般的義務で動くキャラって意味感情表現しないという部分だけが共通)、それは何でだったかはよくわからない。当時の自分がやらねばならないことで動いていたからかもしれないが、その結果として案の定心身の調子を崩した。父に対する巨大感情という意味ではエヴァンゲリオンじゃんという気もしないではない。あれにも同い年の「母」が出てくるし。シン・エヴァンゲリオンではちゃん父親内面が出てきたけど、この作品では記憶にある限りでは出てこない(何となくだが庵野秀明といい村上春樹といい、多くのクリエイターは親が世を去る頃になってやっと親を直接扱うようになる気がする)。

閑話休題、大体、やらなければならない義務を果たすのだけが行動原理になると、晩年に「この人生は一体何だったんだ」とカズオ・イシグロ日の名残り」のように嘆くことになる。カズオ・イシグロは長篇を全部読んで、「この作家別にそこまで好きじゃないな」って気づいたんだが、「日の名残り」は別格だ。

ナタリア・ギンズブルグ「モンテ・フェルモの丘の家」書簡体小説で、親しい友人のSNSでいうクラスタというか、友人の輪とその周辺のやり取りをずっと追い続けていて、近づいたり離れたりという感じが、人生のある側面を忠実に表現しているみたいで好きだった。ちょうど周囲で結婚ラッシュが起きたり、ちょっとした行き違いで不仲になる友人を見て来たころだったと記憶している。この人の作品は良くて、ずっと不機嫌なお父さんが出てくる「ある家族の会話」など何作か読んだ。

あと、須賀敦子いいよね。誠実な翻訳をする人の書く文章は、そもそも美しい。

続く。

2024-12-31

ヤベー奴第二法則

「ヤベー奴第二法則」は、特定社会的行動や思考パターンを持つ人々、特に自称インテリに関する理論です。

この法則は、彼らが他者をどのように評価し、自身の知性を誇示しようとするかに焦点を当てています

ヤベー奴の特徴

1. 他人バカに見える

ヤベー奴は、自身知識経験を基に、周囲の人々を軽視し、しばしば「バカ」と見なします。この視点は、自己中心的認知バイアスから来ており、自分が優れていると感じるための防衛機制として機能します。彼らは他者意見や行動を理解しようとせず、単純化した判断を下すことで、自身の優位性を確保しようとします。

2. 「低学歴」という口癖

ヤベー奴は、「低学歴」という言葉を頻繁に使用し、他者評価する際の基準として学歴を重視します。この言葉は、学歴知識能力指標であるという誤った前提に基づいており、実際には多様な経験知識重要であることを無視しています。これにより、彼らは自分自身を高める一方で、他者を不当に貶めることになります

3. 不毛ネット議論

ヤベー奴はネット上で不毛議論を繰り広げることが多く、自分意見が常に正しいと信じています。彼らは他者との知性での張り合いを楽しむ一方で、実際には建設的な対話が成立せず、感情的対立が生まれることが一般的です。この行動は、自己満足自己顕示欲から来ていると言えます

自称インテリとの関連

自称インテリとは、自分自身知的である認識し、それを周囲にアピールする人々です。ヤベー奴第二法則は、この自称インテリが持つ特有の行動パターンと密接に関連しています

1. 知識の誇示

自称インテリは、自らの知識情報を周囲に示すことで優越感を得ようとします。しかし、その知識が表面的であったり、実際には浅薄ものである場合が多く、本質的理解には欠けていることがあります。このため、彼らは他者を軽視する傾向が強まります

2. 批判的思考の欠如

ヤベー奴や自称インテリは、自分意見固執し、他者意見に対して批判的な態度を取ることが多いです。このため、建設的な議論が成立せず、自己満足に陥ることがあります。彼らは他人バカに見えるため、自身思考プロセスが正しいと信じ込む傾向があります

結論

「ヤベー奴第二法則」は、人々がどのように自己評価他者評価を行い、それによって社会的相互作用がどのように影響されるかについて考察する理論です。

特に自称インテリとして振る舞う人々が持つ特徴や行動パターンは、現代社会におけるコミュニケーション情報交換の質に大きな影響を与えています

この理論を通じて、より健全コミュニケーション理解が促進されることが期待されます

2024-12-30

anond:20241230091346

間違った決断をし続けて今の日本の衰退を生み出してるんですよね

日本が衰退してるのは私の責任ですと単純化して一概に言い切ってみて

結局、弱者男性批判論者の主張は、「弱者男性のつらさとはモテないことだ」と弱者男性の主張を単純化しているだけなんだよね

弱者男性モテない以外にも様々なつらさについて話しているのは少し見れば分かるはずなのだが、弱者男性批判論者はそのあたりをまるっと無視している

anond:20241229202612

そもそも社会という仕組みそのものが、世界の複雑さをなるべく縮減させようとする作用が働いているので、問題単純化して世界がわかりやすくなるような言説が称揚される。人類のもの宿命ですね。

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