はてなキーワード: 進歩とは
近年、人工知能(AI)の急速な発展に伴い、「AIは人間に害をもたらすのではないか」「AIが社会を支配してしまうのではないか」といった不安や懸念が高まっている。しかし、単に「AIだから悪」という価値観を持つことは、技術の本質や社会が直面している課題を正しく捉えられなくなる大きな要因となり得る。技術が普及する過程では常に新たなリスクや倫理的問題が顕在化するものだが、それらを踏まえて社会全体で適切に向き合い、利点を活かしながら解決策を模索するのが本来の在り方である。「AIだから悪」とあらかじめ決めつけてしまうと、AIがもたらしうる肯定的な側面に目を向ける機会を失い、結果として人類にとっての有益な発展を阻害してしまう恐れがある。私たちは、単純な二項対立でAIを悪とみなすのではなく、より柔軟かつ批判的思考をもってAIと向き合い、その可能性を探求しながら慎重に導入を進める必要があるのではないだろうか。
そもそも「AIだから悪」という考え方が生まれる背景には、SF作品などでしばしば描かれる「AIによる人類支配」のようなシナリオが大きく影響しているだろう。AIが自我を持ち、制御不能な状態となって暴走するイメージは、多くの人にとってわかりやすい恐怖をかき立てる物語として浸透してきた。しかし実際には、現在主流となっているAIの多くは「機械学習」や「ディープラーニング」と呼ばれる手法をベースとしており、大量のデータから確率的にパターンを学習する仕組みにすぎない。人間のような自発的意志や欲望を持ち、自らの意図によって行動を決定するというよりは、与えられたデータとアルゴリズムに基づいて最適化を行うシステムである。もちろん、未来にはさらに高度なAIが開発される可能性があるが、それがすぐに「悪意を持つ存在」へと直結するわけではない。そもそも「悪意」は人間の感情や欲望に基づくものであり、機械がそのような感情を抱くには、また別の次元の技術的・哲学的課題が存在するのである。
次に、AIが社会にもたらすメリットを考えてみたい。例えば、医療分野では画像診断や病気の早期発見、創薬プロセスの効率化といった形でAIの活用が進んでいる。医療従事者が本来の診察や患者ケアにより集中できるようになるために、AIが持つ高速かつ正確なデータ処理能力が大いに役立っている。また、教育分野でも個々の生徒の学習進度や得意分野・苦手分野に合わせて最適な教材を提供する「アダプティブ・ラーニング」が注目されている。さらに、公共交通機関や都市インフラの管理、災害予測など、AIの活用によって安全性を高める取り組みも多数見られる。これらは一部の例にすぎないが、AIが適切に機能することで、人間が負担していた危険な作業や大量の事務処理を効率化し、創造的な活動や人間同士のコミュニケーションに割ける時間を増やす可能性がある。そして何より、そうしたAIの活用から生まれる恩恵をより多くの人に行き渡らせることが、社会全体の豊かさや福祉向上へつながるのは間違いないだろう。
しかし、AIを盲信するあまり、リスクを見逃してはいけないのも事実だ。たとえば、AIによる差別や偏見の助長が挙げられる。AIは過去のデータをもとに学習を行うため、もし学習データそのものが人種・性別・年齢などにおいて偏りを含んでいれば、そのバイアスを引き継いだまま判断を下してしまう恐れがある。また、AIによる監視システムの高度化は、プライバシーや人権に対する脅威となる可能性を孕んでいる。中国における社会信用システムが世界的に物議を醸しているように、AIの発達した監視社会が政治的弾圧や思想統制の手段として利用されるリスクは現実の課題である。こうしたリスクや懸念を踏まえても、なおかつ私たちはAIを「ただ悪だ」として葬り去るのではなく、問題を明確化し、より公正かつ倫理的なシステムとして実装していくための議論を深める必要がある。技術そのものが悪を生み出すのではなく、それを用いる人間の価値観やルール設計こそが、悪を増幅させるかどうかを左右する鍵となるからである。
さらに、AIの普及とともに懸念される「雇用の喪失」や「格差の拡大」にも目を向ける必要がある。単純作業や事務作業が自動化されれば、多くの職種がAIやロボットによって代替される可能性は高い。一方で、新しい産業や仕事が生まれることも事実だ。インターネットが普及した当初、IT系の新たな雇用が急激に増えていったように、AI時代にもAI開発者やデータサイエンティスト、AIを活用した新ビジネスを運営する起業家など、多様な新しい職業が創出される見込みがある。ただし、その恩恵を受け取れるかどうかは、教育やスキル習得の機会、あるいはインフラ環境の整備によって大きく左右されるだろう。格差を是正しつつ、人々がAI時代に適応できるようサポートするのは政府や企業、教育機関の大きな責務であり、社会全体で取り組む課題である。
このように、AIは確かに多くの可能性と同時に少なからぬリスクを内包している。しかし、それは他の科学技術でも同様であり、「自動車が登場すれば事故が増える」「インターネットが普及すればサイバー犯罪が増える」といった歴史的事例を振り返ってもわかるように、技術の進歩と社会問題は常に表裏一体の関係にある。そこで必要なのは、技術そのものを一方的に悪と断じて排除するのではなく、どのようにコントロールし、社会の利益につなげるかという視点だ。自動車が普及した際に交通ルールや免許制度、インフラ整備などが整っていったように、AIに関しても倫理的枠組みや規制の整備、そして国際的な協調や情報共有を行うことで、リスクを最小限に抑えながら技術の恩恵を享受する道筋が開かれるはずである。
AIによる影響は産業界や技術界だけでなく、社会全体に及ぶものであるからこそ、多角的な視点で議論を深めることが重要だ。企業が自社の利益のみを優先してAIを導入すれば、労働環境や消費者の権利を損なう危険があるし、逆に必要以上に規制を強化しすぎればイノベーションの阻害にもつながる。だからこそ、政府や学術機関、民間企業、NPO、さらには市民一人ひとりが、AIの可能性とリスクについて正しく理解し、建設的な対話を行う必要がある。メディアを通じて発信される情報に対しても、鵜呑みにするのではなく、どのような観点や利害関係が存在するのかを見極め、複数の情報源を比較検討するリテラシーが求められる。こうした取り組みを継続していくことで、AIと共生する社会の基盤を整備することが可能となるはずだ。
結局のところ、「AIだから悪」という先入観は、私たち自身が新しい技術に向き合う意志や理解を閉ざしてしまう偏見にほかならない。私たちがすべきことは、AIが実際に社会や生活にもたらす影響を多方面から検証し、倫理や法制度を整備しながら、より良い方向へと導いていくことだろう。技術そのものに善悪はなく、それを使う人間の意図や制度設計の巧拙こそが、結果の良し悪しを大きく左右する。AIの進歩を恐れて拒絶するのではなく、責任ある形で技術を運用し、人類の発展と福祉に活かしていくために、社会全体が協調しながら知恵を絞る必要があるのだ。「AIだから悪」という価値観を一掃することは、単にAIに対するネガティブなイメージを払拭するだけでなく、技術の可能性を最大限に引き出し、同時にリスクを丁寧に管理していくための第一歩なのである。
野党から選択的夫婦別姓の法案を出てきそうな雰囲気ですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。
今だと衆院で通ったとしても参院で否決されるので、参院選の結果を見ての対応が濃厚です。
んで、表題の通りなんですが、選択的夫婦別姓は政治を理解する良い題材なんですよ。
賛成派が多い(※)けれど、現状の制度は夫婦同姓=反対派という捻じれが発生しているので、互いに一理ある議論ですからね。
※選択的夫婦別姓に賛成が62%、反対が27%とNHKの調査で報じられている
そして、結婚という多くの人に関わりがあるイベントがトリガーとなる制度でもあります。
賛成派の賛成理由は下記のとおりです。
「名字が変わると、仕事や生活で支障がある人もいると思うから」18%
別姓にしたい人がいるなら、そうしたら?ということでしょう。
他人の意見を尊重する点や他人の困りごとを解決しようとする点は素晴らしいですが、深く考えていない無責任な意見にも感じられます。
「名字が変わると、仕事や生活で支障がある人もいると思うから」
姓が変わると別人として扱われ、不利益や支障が発生する場合の話ですね。
選択的夫婦別姓になっても、大抵の人は慣習で男性側に合わせると予測されます(他の国の傾向からの予測)
家父長制の影響から脱しようということでしょうが、迂遠過ぎでしょう。
別姓制度が開始すると子供の姓をどちらかに選択しますが、それが男性側の姓ばかりになった場合に、同じ議論を繰り返すのでしょうか。
アイデンティティを守りたいということですね。
とても大事なことです。
賛成派は不便の解消やアイデンティティを守ることが目的と言えます。
反対派の理由です。
「別の名字にすると、子どもに好ましくない影響を与えるから」26%
他人の家の一体感やお子さんがどうなろうとどうでもいい気もしないでもありません。
これらの理由はお気持ちであり、アイデンティティの現れと言えるでしょう。
夫婦が同じ姓であることを前提にしたオペレーションやシステムが多くの企業や役所に存在しており、別姓による混乱はY2K問題を想像させます。
実質、別姓でいられるということですね。
しかしながら、個人情報の扱いがどんどんと厳しくなっている時代に、旧姓が使える範囲を広げていくことは難しそうです。
反対の理由はアイデンティティを守ること、制度変更による混乱への懸念です。
ここまでが選択的夫婦別姓について賛成/反対の理由を紹介して来ましたが、いかがでしょう。
私は賛成派の最大の理由「選択肢が多いほうがいいから」が、無責任に思えてなりません。
国会で「選択肢が多いほうがいいから選択的夫婦別姓を実現しよう」と言う政治家を支持できますか?
私にはできません。
NHKの調査の賛成62%という数字を元に「選択的夫婦別姓の賛成派が多い」と判断することは早計でしょう。
賛成派は強く実現を望む人と消極的な多くの人で構成されているのです。
賛成62%のうち56%は「選択肢が多いほうがいいから」=全体の35%が消極的賛成派です。
積極的な賛成派は、62%ー35%=27%です。
制度変更のコストが日本の行政と企業全体でどの程度になるかわかりませんが、消極的賛成派のどの程度がコストに見合うと考えてくれるでしょうか。
反対派は夫婦同姓を日本の制度として残すことをアイデンティティの一部として感じています。
お気持ちです。
彼らは全体の27%です。
奇しくも積極的な賛成派と同じ数です。
制度を変更しようとする側は、現制度を変更するための道理とメリットを提示して、反対派を説き伏せなければいけません。
民主主義と多数決を混同しているバカ以外は、議論を重ねて反対派の取り崩しを行うことが必要であるとを理解しているでしょう。
物事を変えるというのは大変なのです。
例えば、自由民主党は憲法改正を目的として自由党と民主党が合併したにも関わらず、未だ実現できていません。ゴミカス政党です。
どうすれば、反対派を取り崩せるでしょうか。
まずはお気持ちに寄り添うことです。
「他人のことに口を出すな」「反対する理由が理解できない」「家族の絆が弱くなるわけない」「反対するやつは老害」。
例えば、このような意見を反対派を読んで「その通りや、反対派はクズや!」などと感じるでしょうか。
そんなわけがありませんよね。
お気持ちに触れず、彼らを説得するための材料を用意しなければなりません。
夫婦同姓のデメリットであるキャリアへの影響や名義変更手続きのコストなどは問題にならなくなる可能性が高いです。
よく例に出される「論文の著者名が変わってしまう」などはAIのサポートにより消え去るでしょう。
名義変更手続きはマイナンバーカードの活用で減っていくでしょう。
不便が減っても、積極的な賛成派が減らずに済むでしょうか。
※反対派は70代以上に多いので彼らが亡くなったら反対派がいなくなると考えている人もいるでしょうが、人は年齢を重ねると保守的になるので、あまり期待しないほうがよいです
選択的夫婦別姓は戸籍にも手をいれる必要があり、一筋縄でいかない問題を多数孕んでいる可能性もあります。
実現を本気で望むなら、各論でしか議論していない現状から脱して、洗い出した問題点とその解決方法を提示するべきでしょう。
私の目には、選択的夫婦別姓は議論の入口にすらたどり着いていないように見えます。
国民の多数が賛成にも関わらず手がつけられていない課題は希少です。
官僚の力を借りずにこのような大きな制度変更を設計してみせれば、有権者がその力量を高く評価することは間違いありません。
現実的な叩き台が出て来た時が、選択的夫婦別姓実現の始まりです。
ただのアピールではなく、本気で選択的夫婦別姓の実現に取り組むことを野党各党に望みます。
「選択的夫婦別姓」賛成が62% 反対は27%に NHK世論調査
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240501/k10014437371000.html
カッコイイ、マジで。そして冷たい。コンセントを入れると動き出す、マジで。ちょっと 感動。
しかも小型冷蔵庫なのにインバータだから音も静かで良い。省エネは力が無いと言われてるけど個人的には冷えると思う。
ということでパナのNR-B18C2が届いて設置した。
まったくと言って良いほど音がしない。前の冷蔵庫のごぉぉぉぉおおおんみたいな音は不快という程では無かったが、そういうものだと認識してたのでここまで無音だと技術の進歩凄い。
密かに憬れていたガラス棚が綺麗で良い。しかし使う前にちゃんと洗って拭いたのに曇ってしまう。汚れではなく普通に冷気で曇ってしまうようだが、それならガラスより普通にプラの方がいいような。
新品だから綺麗なのは当たり前の話だが、今まで見慣れていて「こんなもんだろう」と思っていた状態が思った以上に不衛生だったなと気付いてしまった意味で中の綺麗さに驚いた。これもよくよく考えると、冷蔵庫の中の掃除なんてそうそうしない…というかやった記憶がない。そりゃ埃も溜まるし、謎の液体の跡はあるし、割り箸やスプーンとかをドアポケットに入れっぱなしにするし小汚くもなる。
本格的に掃除しようとすると冷蔵庫・冷凍庫の中身を全部取り出す事になるわけで、気軽にやるのは難しいのではという気がする。しかし今回、入れ替えにあたって中身を一斉処分して気付いたが賞味期限切れとか結構出てくるので年に1回ぐらいは一斉処分と清掃はした方がいい。なんでこんなもんをずっと冷凍庫に入れてたんだみたいなのが多過ぎる。
ナッシュだけ詰めるなら最大20個は入りそう。前のはかなり詰め込んで10個、アイスとか考えと7、8個が限界で毎週6個配送でやりくりしてたが10個配送にできそう。地味に助かる。
数センチぐらいまで閉じるとドアが吸い付くように閉じる機構になっている。前の冷蔵庫は末期には恐らくパッキン劣化で冷蔵庫側を閉じると冷凍庫側がちょっと開く(或いはその逆)みたいな状態となっていて何度か半開き事故を起こしたのだが自律的に閉じてくれるのは助かる。お陰で冷蔵庫前を通り掛かる度に足や手でドアを押し込む癖ができてしまい、まだその癖が抜けてない。
白は絶対汚れが目立つ確信があるので黒に。雰囲気だけはオサレ感がある。しかしよくよく考えると冷蔵庫周辺って埃が集まりやすいので黒塗装だと小さい埃でも目立ってしまうのな。
I will direct all members of my cabinet to marshal the vast powers at their disposal to defeat what was record inflation and rapidly bring down costs and prices.
の意味がよく分からなかったので、無料の Gemini 2.0 に聞いたら、AI の進歩にびっくりした。
ご質問ありがとうございます。この英文は、政府やそれに準ずる組織の長が、記録的なインフレと物価高騰に対処するために、閣僚(内閣のメンバー)に権限を行使するように指示する場面で使われる表現です。具体的には、以下のような意味になります。
「私は内閣の全メンバーに対し、記録的なインフレと急速なコストおよび物価の下落を阻止するために、彼らの権限下にあるあらゆる力を動員するよう指示する。」
もう少し噛み砕いて説明すると、
つまり、この発言は、政府がインフレと物価高騰に対して断固たる姿勢で臨み、あらゆる手段を講じてその解決に当たるという強い決意表明と言えるでしょう。
この発言が使われる状況としては、以下のような場面が考えられます。
この発言は、国民に対して政府の取り組みをアピールし、安心感を与える効果も期待できます。
また、この発言は比喩的な表現が多く含まれているため、直訳では意味が伝わりにくい部分があります。上記の解説で、より自然な日本語に意訳することで、発言の意図をより明確に伝えられるように努めました。
他に何かご不明な点がございましたら、お気軽にご質問ください。
ご質問ありがとうございます。一つずつ丁寧にご説明させていただきます。
まとめますと、ご提示の英文は、政府の長が内閣のメンバーに対し、彼らが持つあらゆる権限を最大限に活用して記録的なインフレを抑制するように指示する、という強い決意表明を表しています。
他に何かご不明な点がございましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
to defeat the record inflation ではなく to defeat what was record inflation とされているのには理由がありますか?
ご質問ありがとうございます。"to defeat the record inflation" ではなく "to defeat what was record inflation" と表現されているのには、明確な理由があります。これは、インフレの状況に対する認識の違いを表しています。
つまり、ご提示の英文で "to defeat what was record inflation" と表現されているのは、演説者が、過去に記録的なインフレが存在したことを認識しており、現在はその状況から脱却しようとしている、あるいは脱却しつつある、という認識を示しているからです。
逆に、現在も記録的なインフレが進行している状況で "to defeat what was record inflation" と表現すると、現状認識が甘い、あるいは現実から目を背けている、という印象を与えてしまう可能性があります。
このように、"the record inflation" と "what was record inflation" の使い分けは、インフレの状況に対する認識の違いを明確に表す重要な要素となります。
他に何かご不明な点がございましたら、お気軽にご質問ください。
to defeat と bring が and で並列になっていると思うのですが、ちょっと読みにくいですよね。and rapidly まで読んだ時点では、defeat の目的語が続くのかと思ってしまいます。
この原稿はプロのスピーチライターが書いていると思うのですが、あえてこういう構文にするメリットはあるのでしょうか?
ご質問ありがとうございます。おっしゃる通り、"to defeat what was record inflation and rapidly bring down costs and prices" の構文は、"and rapidly" の部分で少し読みにくさを感じることがありますね。通常であれば、"to defeat the record inflation and bring down costs and prices" のように、動詞句を並列させる方が自然です。
プロのスピーチライターがこのような構文をあえて用いた理由については、いくつかの可能性が考えられます。
このように、"to defeat what was record inflation and rapidly bring down costs and prices" という構文は、単に文法的な正しさだけでなく、強調、意味の明確化、修辞的な効果、文脈との関連など、様々な要素を考慮して選択された可能性があります。プロのスピーチライターは、聴衆にメッセージを効果的に伝えるために、このような複雑な構文を意図的に用いることがあるのです。
ただし、おっしゃる通り、若干読みにくいと感じる人がいるのも事実です。完璧な構文というものはなく、文脈や目的によって最適な表現は異なります。この例では、上記のようなメリットを優先した結果、若干の読みにくさが生じた、と考えるのが妥当でしょう。
英文のプロの人から見たらデタラメも混じってるのかもしれないけど、素人が無料で気兼ねなくアクセスできる「先生」としては最高級のクオリティだと思いました。
結局それを解消する、つまり「スッキリ」させる言葉が、世の中の支配につながるみたいだな
まったく文学とは相容れない考えだが
テクノリバタリアンみたくAIを大統領にするまでいけば面白いとは思う
いろんな宗教、思想、主義は「ざまー見ろ」っていうエネルギーで人類は進歩してきたわけで
4年後、8年後はどうなるんだろうと
分かってないのか、分かった上で話をズラしてるのかわからないけど。
ドルアーガの塔と現代のRPG、なんでもいいけどたとえばゼル伝説ティアキンの間には、ハードのスペックの時点で圧倒的かつ絶対的な差があるよな?
そういう「ハードのスペック」に相当するものがない、基本的には文字だけで勝負してる小説では、単純に現代のものが過去のものより優れているということがないのも分かるよな?
だから、40年近く前の作品とはいえ、十角館が今読んでもおもしろい(部分もある)のも、別におかしなことでは全然ないよな?
逆に、お前が言うところの「画期的な進歩」を果たし、過去作よりも現代の作品の方があらゆる側面から見て絶対に面白いジャンルって、たとえばなに?たいていのジャンルの名作は、今読んでも何かしら見るべきところはあると思うが。
まあ、ミステリは小説の中では比較的、「進化」「発展」の枠組みが当てはまるジャンルだから、現代のミステリ読み慣れてると十角館つまんねということは当然起こり得るだろうけど。いわゆるゾルトラークってやつやね。
その意見は「ミステリーは画期的な進歩を見せることが出来ないまま時間が止まっており、娯楽に溢れた現代においてはかなり苦しい立場にいる」という窮状に対して擁護になってないどころか後ろから刺しに来てるんだよね……。
ドナルド・トランプがついに大統領になる――このニュースは、2016年の大統領選挙戦の余波を大きく揺るがし、世界中で驚きと議論を巻き起こしました。アメリカ国内の政治的分断が深まる中、トランプ氏が「ワシントン政治の打破」「アメリカ・ファースト」を掲げて突き進んだ結果、メディアの多くの予想に反して勝利を収めたのです。その勝利宣言は、国内外の政治的・経済的風景を一変させる合図のようでもあり、アメリカ史において新たな時代の到来を告げるものでした。本稿では、トランプ大統領誕生に至るまでの道のりと、彼が就任によってもたらすインパクト、さらに当時同時進行的に注目されつつあったビットコインなどの新技術の話題にも触れながら、複雑に絡み合う政治と社会の背景を考察してみたいと思います。
まず、トランプ氏が大統領選に名乗りを上げたとき、多くの人々はその可能性を疑問視していました。「不動産王」として高層ビルに名を刻み、テレビ番組のプロデューサー兼ホストとしてエンターテインメント業界でも名を馳せた人物が、果たして政治の世界で通用するのか――そうした声はアメリカの政治分析者からも多く挙がっていたのです。しかし、トランプ氏のキャッチフレーズ「Make America Great Again」は、経済格差に苦しむ層やグローバリズムの荒波に翻弄されてきた層の心を強烈につかみました。いわゆる「忘れられた人々」と称された中西部の白人労働者層を中心に、既存の政治家とは異なるアピールが幅広く受け入れられたのです。
他方、トランプ氏はその強烈な個性ゆえに多くの批判も浴びていました。過激な発言や差別的と受け取られかねないコメントは多方面から反発を買い、メディアとの緊張関係を高める一因ともなりました。主要メディアの多くは、彼の当選を否定的に予測していたこともあり、選挙結果発表直後は「世紀の番狂わせ」とも呼ばれるほどの大きな衝撃が走りました。ヒラリー・クリントン元国務長官は経験豊富な政治家として、多くの財界やメディアの支援を受けてきましたが、その支持基盤だけではカバーできない層の不満と怒りが、トランプ氏を大統領の座へと押し上げたのです。
トランプ氏の就任演説は、そのまま自身の選挙公約を体現する内容でした。「アメリカを再び強くする」「国境を守り、雇用を取り戻す」というメッセージは、一方では保護主義的な色彩を強めることを示唆し、もう一方ではアメリカのエスタブリッシュメントに対する痛烈な批判とも読めました。就任初期から彼は、オバマ前政権が取り組んできた政策の方向転換を図り、国際的な取り決めからの離脱や関税引き上げなど、賛否両論を巻き起こす決定を相次いで行っていきます。もとより政界外からの参入という形で大統領に就任した人物であるだけに、その手法は既存の政治家と大きく異なり、混乱と躍動が同時に渦巻く中で「トランプ政権」が幕を開けたのです。
こうした政治的大変動のさなか、世界の経済市場もまた大きく動揺しました。トランプ氏の就任後、彼の発言や政策見通しに応じて株価が上下動を繰り返し、不透明感が増したことでドル相場も敏感に反応していました。一方、当時まだ「投機対象」としてのイメージが強かったビットコインも、政治リスクの高まりや経済の先行き不透明感を背景に注目を集めはじめていた時期です。とりわけ、トランプ政権発足後に進む金融規制の変化や大手金融機関の動向が、暗号資産(仮想通貨)市場にとってどのような影響をもたらすのか――その点が専門家の間でも度々議論の俎上に上りました。
実際、2017年はビットコインにとって劇的な一年となりました。価格は急騰と暴落を繰り返しながらも、年末には一時2万ドルに迫る水準にまで高騰したのです。トランプ大統領の就任が直接的な原因と見る向きは少ないものの、世界的に低金利政策が続いたことや、トランプ政権の保護主義的な政策傾向が市場に与えた心理的影響が、リスクヘッジ先としてビットコインの存在感を高めたという説もあります。当時、ビットコインの実用性よりも「これから先、世界経済はどうなるかわからない」とする不安や投機熱が、暗号資産全般への注目を押し上げていたのもまた事実でした。
トランプ大統領は選挙期間中から「アメリカの利益が最優先」というメッセージを繰り返しており、就任後の政策もその路線を忠実に示していきます。環太平洋経済連携協定(TPP)からの離脱表明、北米自由貿易協定(NAFTA)の再交渉、さらには移民政策の大幅見直しなど、「グローバル化」に対して批判的な動きを強める中、世界との関係性は大きく揺らぎました。保護主義が加速すれば、米国以外の国々との関税合戦がエスカレートし、国際協力体制にひびが入る恐れも高まります。トランプ政権の政策はアメリカ国民の一部に大きな期待を持って迎えられる一方で、グローバル企業や国際金融市場には新たなリスクを孕むことになったのです。
こうした「変化の渦」に巻き込まれるアメリカと世界の情勢を受けて、国際社会からは賛否が分かれる声が絶えませんでした。トランプ氏のリーダーシップは、大胆な政策決定と過激な発言力に象徴されますが、その背後には支持層が求める「既存の政治に対する反逆」というメッセージが常に存在しています。さらに、ソーシャルメディアを駆使した直接的なコミュニケーション戦略は、従来の政治報道の在り方を根底から揺るがし、大統領がツイートする一言一言がニュースの見出しを飾るようになりました。これに伴って、政府系の公式発表以外にも大統領本人のSNSが政策の意思決定過程を読み解くヒントとなる異例の事態が常態化し、「トランプ流政治」が確立されていったのです。
こうした動きは暗号資産の世界にとっても見逃せない要素でした。トランプ政権が金融業界にどのように介入し、規制を強めるのか、あるいは緩和するのかによって、ビットコインやその他の暗号資産の需要や信用度合いが変化する可能性があったからです。現に、SNSを通じてトランプ氏が貿易や為替、金融機関に対する批判を繰り広げると、瞬く間に市場が過敏に反応するような局面も散見されました。まだ当時は、ビットコインの価格がトランプ氏個人の発言によって大きく揺さぶられるところまでには至りませんでしたが、「強烈な言葉の一撃があれば何が起きるかわからない」という不安と好奇心が投資家の間に広がっていたのです。
トランプ氏の大統領就任によって世界中が騒然とする一方、アメリカ国民の間でも評価は大きく割れました。いわゆる「トランプ支持層」は、グローバリズムによって置き去りにされた伝統的産業や地域の再生を切望しており、トランプ氏の強気な姿勢が誇りを取り戻すきっかけになると信じています。しかし、自由貿易や多様性を重視する立場からは、人種・宗教・ジェンダーなど多面的な価値観を軽視するような言動は容認できず、国際関係の悪化によってアメリカが得るものより失うもののほうが多いのではないかという批判が続きました。国論が大きく割れる中で、政治はしばしば対立と停滞を余儀なくされ、民主主義の根幹が試される状況が続いていったのです。
就任から半年、一年、そして四年と、トランプ政権は折々に劇的なトピックを世界に提供しました。移民政策の強化や国境の壁建設、保護主義的な経済政策、さらにはSNSを舞台にした相手国リーダーへの鋭い批判や挑発。それらの動きの一方で、好調な株式市場や雇用指標が支持層の信頼をさらに固める要因ともなりました。そして、いつしか「トランプ時代」という言葉が定着し、保守層の熱狂的な支持とリベラル層の激しい抵抗が同時進行する、歴史上でも特異な大統領の姿が刻まれていったのです。ビットコインをはじめとする暗号資産市場もまた、この混沌とした政治的・経済的環境の中で少しずつ成長を遂げ、後の数年でさらに大きな盛り上がりを見せる布石を固めていくことになります。
振り返ってみれば、ドナルド・トランプ氏が大統領に就任した瞬間は、単に「ホワイトハウスの主が変わった」だけでなく、世界が新たな政治秩序へと足を踏み入れる始まりでした。従来の常識や慣習が揺らぐことで、多くの人が不安を覚えたのは事実です。しかし同時に、こうした不安定要素がイノベーションを生む土壌になっていく可能性を示唆する声もあります。ビットコインという新しい経済圏の動きは、その一つの象徴と言えるでしょう。これから先、暗号資産が既存の通貨体制や国際金融システムとどのように共存し、あるいは競合していくのかは、トランプ政権下での金融政策や規制の変化だけに左右されるものではありませんが、政治と技術が互いに影響を及ぼし合う時代の到来を予感させるには十分な状況でした。
こうして始まった「トランプ政権」の時代は、米国内だけでなく世界の政治・経済・社会に強烈なインパクトを与え続けました。何よりも注目すべきは、既存の政治や国際秩序に対する不信感と疲弊感が、多くの人々をトランプ氏のような“異端”へと駆り立てた点でしょう。その背景には、IT技術の急激な進歩がもたらす雇用の変化や、新自由主義的な経済政策で拡大した格差問題、さらには絶えず加速するグローバル化の負の側面など、解決が容易でない課題が山積していました。そうした状況下で、伝統的な政治への失望が頂点に達したがゆえに、トランプ氏が「最後の切り札」あるいは「新たな希望」として期待を背負ったのです。
結果的に、トランプ氏のアプローチはワシントンの常識や国際政治の慣習を大きく揺るがしましたが、その衝撃は同時に、世界中の人々が民主主義の在り方や経済の仕組みを問い直す機会を提供することにもなりました。激化する国内対立、揺れる国際協調、そして新しい技術革新――大統領就任とともに空気感が一変したアメリカと世界は、次なる展開を予測しづらい不確定な未来へ足を踏み出していたのです。その中で、ビットコインをはじめとした暗号資産が「個人が資産を守る手段」「国家や中央銀行の方針に左右されにくい通貨システム」として改めて意識され始めたことは、ある意味で必然だったのかもしれません。
ドナルド・トランプがついに大統領になる――それは一つの政治的大事件であると同時に、世界秩序を大きく再構築する引き金でした。国際協調と保護主義のせめぎ合い、従来の政治観と“トランプ流”の対立、そして暗号資産という新しい技術潮流の台頭。これらは偶然の産物ではなく、現代社会が抱える構造的な問題と変革への希求が交差する点に表出した、いわば必然の衝突でもありました。トランプ氏がホワイトハウスに足を踏み入れたあの日を境に、世界がまったく新しい物語を紡ぎ出した――そう思わせるには十分なインパクトが、あの就任式にはあったのです。今後、トランプ時代の政治的・社会的インパクトをどのように総括し、ビットコインを含む暗号資産が社会に根付くかどうかは、さらに長期的な視点で見守る必要があるでしょう。歴史は常に、予想を上回る形で動いていくものです。トランプ大統領の誕生とビットコインの台頭が重なった時代は、振り返ってみれば「新たな扉を開いた瞬間」と言えるのかもしれません。
世界中のメディアがイーロン・マスクを天才経営者として讃えるたび、心の奥底に沸き起こるのは猛烈な反発心だ。彼の壮大なビジョンや野心的な計画がもたらすインパクトは計り知れない。電気自動車での革新、宇宙事業への投資、さらにはSNSプラットフォームを買収して世界の言論空間を一変させようとする姿勢――どれをとっても、彼が稀有な才能を持つリーダーであることは否定できないだろう。しかし、その裏側には、人を顧みない強引さや、誰もが乗り気でない環境を一方的に変革しようとする独善性が垣間見える。彼は常に「未来を創る」と言うが、その方法に正当性はあるのか。私は強い疑問を抱かずにはいられない。
特に、彼がSNS上で見せる軽率な発言は、私の中にある嫌悪感をさらに増幅させる。刺激的なツイートで株価や暗号通貨の相場を乱高下させ、批判者を嘲笑し、炎上を煽るかのような行動を繰り返す姿は、リーダーというより権力を得た“トリックスター”のようだ。彼の言動を追いかける投資家や支持者は多く、SNSでは絶え間なく祭り上げられている。しかし、そうした「熱狂」が生まれるほどに、私は逆に強い反発を覚える。確かに並外れた頭脳や行動力を持つ人物ではあるが、その影響力をどう使うかという点で、彼はあまりにも無自覚ではないだろうか。
テスラの急成長がもたらした電気自動車市場の拡大は、間違いなく自動車産業に大きな変革をもたらした。それまでガソリン車が主流だった市場をひっくり返し、世界的な環境意識の高まりに合わせて時代を先取りする――その功績は称賛に値する。だが同時に、「内部告発を試みた社員への圧力」「過酷な労働環境」などが報じられるたび、私は苛立ちを禁じ得ない。美しい未来を掲げる一方で、その裏では「効率化」「革新」という名のもとに弱い立場の人々を切り捨ててはいないか。企業トップとして、多大な責任を負っているはずの人物が、利益とスピードのためなら人間性を犠牲にしても良いと思っているのではないか――そんな疑念が拭えないのだ。
さらにツイッターを買収したことによって、彼の性格がより露わになったと感じる。コンテンツ規制や言論の自由をめぐって賛否両論あるのは当然だが、長年にわたって築き上げられてきたプラットフォームの秩序を、一夜にして根本から覆そうとする様子には乱暴さを感じる。彼が純粋に「言論の自由」を守りたいと考えている部分もあるのかもしれない。だがそのやり方は、あまりにも一方的で、議論よりも強制が先に立っているように見えるのだ。市場やユーザーコミュニティに計り知れない影響を及ぼすのに、まるで実験場のように扱っている――そんな印象を拭えない。
イーロン・マスクを支持する人々は、彼の天才性に魅せられているのだろう。既存の常識を打ち破り、火星移住やハイパーループなど、大胆不敵な夢を語る。そのビジョンの壮大さは、多くの人の心を掴むだけのパワーを確かに持っている。だが私は、その華々しい夢の裏側を常に見てしまう。膨大な資金を動かし、何千何万という人々を働かせ、社会のルールを変えてしまうほどの権力を持っていながら、彼の言葉からは「共感」や「謙虚さ」が感じられない。むしろ「自分だけが正しい」という慢心が透けて見え、周囲を振り回すことで注目を集めているようにすら思う。
なぜここまで拒否反応が強いのか。それはひとえに、彼が持つ「影響力の大きさ」にある。誰かが極端な意見を言うこと自体は、表現の自由の範疇だろう。しかし、イーロン・マスクほどの知名度や資本力を伴う人間が放つ言葉は、社会全体を揺るがしかねない重みを持っている。ところが、その発言や行動に時として慎重さがまるで感じられないのだ。「自分はあくまで一般人としてツイートしている」というような言い訳をするが、何千万・何億というフォロワーがいる「一般人」など存在するはずもない。こうした言動を繰り返す彼に対して、憎しみすら覚えてしまうのは、私だけではないだろう。
また、彼のコミュニケーション・スタイルがしばしば相手を嘲笑するように感じられることも、嫌悪の理由だ。議論や批判に対して真摯に向き合うより、自分の正当性を訴え、批判者をからかったり攻撃したりする。そのような姿勢は、強いリーダーシップというよりは、単なる攻撃衝動に近いものではないかと思う。カリスマ性を持つトップがそのように振る舞えば、多くの人が追従し、さらに対立や分断が深まる構図が生まれるだろう。まるで、大きな声で威圧した者が勝つかのような、乱暴な言論空間を助長しているようにさえ感じる。
もちろん、メディアは過剰に彼を煽っている部分もあるかもしれない。私たちが知るイーロン・マスク像は、メディアとSNSを介して編集された一面だけだろう。しかし、そこから受け取れる情報だけでも十分に「過激」であることは間違いない。もし彼に穏やかで思いやり深い一面があったとしても、表に出るのは挑発的な発言や、予測不能な行動ばかり。まるで、彼は注目を浴びるために、あえて波風を立てているようにすら見える。そして、その姿勢こそが彼のカリスマを強化し、信奉者を増やす一方で、私のような反発を覚える人間を確実に増やしているのだ。
私はイーロン・マスクの実績をすべて否定するつもりはない。電気自動車市場の発展は、環境問題への意識を高め、産業構造を大きく変えるほどの影響力を持った。また、宇宙事業への参入によってスペース業界全体が活性化した面もあるだろう。だが、それらの「功績」がすべて肯定されるべきかというと、そうとは思えないのだ。なぜなら、そのプロセスや彼の姿勢に数多くの疑問や問題が散在しているからである。テスラの工場では社員への過重労働が報じられ、Twitter社の買収後には大量解雇が行われた。一方的なリストラは、社員だけでなく利用者の信頼も損ねる結果になったはずだ。
「革命児」と呼ばれる彼だが、そもそもその革命は誰のためのものなのか。人類全体の未来を切り開くために行動しているのか、それとも自己顕示と自己満足のためなのか。もちろん、野心や自己顕示欲が全否定されるわけではないし、彼のような強烈なビジョンに突き動かされてこそ社会が進歩する面もある。だが、そこに「協調」や「周囲への配慮」が欠けていれば、残るのは混沌と犠牲だけではないだろうか。彼の一連の言動を見ていると、より良い未来を本当に望んでいるのか、それとも周囲を振り回しながら称賛を得ることに酔いしれているのか、判断に迷ってしまう。
彼のメディア露出やSNSでの動向は常にセンセーショナルだ。発言のひとつひとつが見出しになり、多くの人が熱狂的に反応する。その状況がさらに彼の影響力を拡大し、支持者は彼を「現代の発明王」として崇拝する。だが、それは彼自身が意図して作り出しているイメージ戦略でもあるかもしれない。自動車からロケット、そしてSNS運営まで、多岐にわたる分野で「既存の常識を壊す男」としてのブランドを強烈に打ち出す。その裏には、おそらく綿密なマーケティングも働いているはずだ。
こうした「自己プロデュース」の巧みさもまた、私の嫌悪感をあおる。もし彼が本当に未来のためだけを思って行動しているのなら、わざわざ挑発的な言動を繰り返したり、周囲を見下すような態度を取ったりしないのではないか。むしろ、その尖った姿勢こそが注目を集める秘訣であり、巨額の利益を生み出すエンジンになっている――そう考えると、ますます彼への不信感が募るばかりである。
また、彼のビジネス戦略や資金調達の手法も、ときに「投機的」であるとして批判されてきた。彼のツイートひとつで暗号通貨の価格が乱高下する様子は、社会全体を巻き込む大博打のようにも見える。もちろん、投資家たちはリスクを承知のうえで参入しているのだろうが、そこに新たに巻き込まれる一般層もいるだろう。巨大な影響力を手にした人物が、その力をどこまで自制しているのか、外からは判断がつきにくい。彼がいかに「自由」を標榜したところで、そうしたパワーバランスの偏りは真の自由からはほど遠いのではないか。
イーロン・マスクが嫌いだ、と口にすると、彼を称賛する人々から「嫉妬」や「時代遅れの思考」と批判されることもある。しかし、それでも私は彼の一挙手一投足に警戒心を解くことができない。彼のような存在が絶対的支持を集める社会は、一種の危うさを孕んでいると感じるからだ。リーダーが強引に物事を推し進めることで、一見スピード感のある変革が進んでいるように見える。しかし、その過程で切り捨てられる価値観や人々の声を、私たちは本当に無視してよいのだろうか。
私が彼を憎む理由は、こうした「社会的影響」を踏まえてもなお、彼があまりにも自己中心的に感じられるからだと言えるかもしれない。自分のビジョンこそが絶対に正しいと信じ、批判する者には容赦なく噛みつき、さらには軽率な一言で世界中を混乱させる。そのカリスマが絶大だからこそ、多くの人が振り回されてしまう。それが彼の望む未来の形であれ、人々に「ついていかざるを得ない」状況を作り出すことこそが、彼の真の目論みなのではないか。そう疑ってしまうほど、彼の支配力は強力だ。
もちろん、この強烈な拒否感は私自身の問題でもある。彼のように型破りな人間を受け入れられない、自分の閉鎖的な思考が投影されているのかもしれない。あるいは、あれほど自由奔放にふるまいながら次々と成果を上げていく姿への嫉妬心や劣等感もあるのだろう。しかし、それでもなお、「イーロン・マスクが憎い」という感情は消えない。むしろ、その感情が湧き上がるほどに、彼の存在が大きいこと、そして社会全体に与えるインパクトが桁外れであることを痛感させられる。
だからこそ、私は敢えて彼を批判し続ける必要を感じている。イーロン・マスクのような人物を「天才」「革命児」として無条件に称賛する風潮は、危うい夢を見せると同時に、多くの問題を覆い隠してしまう可能性がある。私たちは、彼のような突出した才能を「絶対の存在」として祭り上げるのではなく、その言動の裏にある思惑や影響力の行使について常に疑問を持ち、検証し続けなければならない。彼がもたらす革新が本当に世界を良くしているのか、それとも特定の価値観や層だけが恩恵を受け、他の多くが犠牲を強いられているのか、冷静に見極める必要があるのだ。
最終的に、イーロン・マスクをどう評価するかは人それぞれだろう。彼の型破りな行動力こそが新しい地平を切り開く鍵になると信じる人もいれば、私のように憎しみや反発を覚える人もいる。しかし、多様な意見が存在することこそが社会を前進させる。この「憎しみ」の声すらも、一つの大切な批判的視点として意義があるのではないかと思う。彼の眩いばかりの成功とカリスマに目を奪われる一方で、その裏側で踏みにじられているかもしれない人々の声に耳を傾ける必要がある。そうでなければ、未来を創るという名のもとに、ただ独裁的な支配が生まれてしまうかもしれないのだから。
私は、イーロン・マスクの存在自体をすべて否定するわけではない。むしろ、彼ほどの影響力を持つ人間が、もう少し「他者に対する配慮」や「謙虚さ」を備えていれば、今よりももっと多くの人々から純粋に支持されるだろうに、と残念でならない。そして、この憎しみの感情は、そんな「あり得たかもしれない別の姿」への期待を裏切られ続けてきた結果なのだろう。私は彼の言葉を聞くたびに、ああ、また無責任な発言で誰かを傷つけているのではないか、と心配になる。その繰り返しが、私の中の反発心を強固なものにしているのだ。
イーロン・マスクが語る夢やヴィジョンは確かに魅力的だ。火星移住に胸を躍らせる人もいるだろうし、電気自動車によるクリーンな未来に希望を見いだす人もいるだろう。彼が巻き起こしているイノベーションは、間違いなく人類の歴史に残る大きな一歩でもある。だが、その過程で生まれる軋轢や混乱、そして彼自身の傲慢ともいえる態度を見過ごしてはいけない。そこには、私たちの社会が本来持つべき「相互理解」や「多様性の尊重」が欠けているように思えてならない。
だからこそ、「イーロン・マスクが憎い」という私の感情は、単なる個人の感情以上の意味を持つのだと信じたい。彼のように突出した存在が現れるとき、社会は否応なく揺さぶられ、さまざまな価値観の衝突が起こる。そのとき、無批判に称賛するだけでは、本質的な問題には気づけないかもしれない。むしろ、強い反発心を抱く人々の声にこそ、彼の手法や態度が孕む危うさが映し出されていると考えてもよいのではないか。
私たち一人ひとりが彼をどう捉えるかによって、社会の未来は微妙に変化する。もしイーロン・マスクが真に誰もが幸せになる未来を望んでいるのなら、批判や反発の声にも耳を傾け、何が問題とされているのかを真摯に考えてほしい。その一方で、私たちもまた、自分たちが彼に何を求めているのかを見直す必要があるのだろう。彼の冒険心に夢を見たいのか、それとも彼が作るかもしれない新たな秩序に身を委ねたいのか。そして、そうした未来像に抵抗を覚えるならば、なぜ覚えるのか。その理由を自分自身に問い続けることこそが、彼のような巨大な存在に対する「本当の対抗手段」になるはずだ。
私がイーロン・マスクに憎しみに近い感情を抱くのは、彼が象徴するものが、私たちの社会の抱える矛盾や欲望をはっきりと映し出しているからかもしれない。彼の波乱万丈の行動は、私たちの心の奥底にある「常識を超えたい」「歴史に名を残したい」という野心を代弁している。同時に、そのためには他者を踏みにじってもよいという暗黙の了解すら示唆している。私はそこに嫌悪感を覚えずにはいられない。より良い未来を見たいと思いつつ、その実現手段にどうしようもない違和感を覚える。この相反する感情が「憎しみ」という強い言葉となって表出しているのだ。
最終的に、イーロン・マスクを憎むかどうかは個人の価値観によるだろう。彼を救世主のように思う人もいれば、私のように嫌悪感を募らせる人もいる。ただ、どちらの感情も社会にとっては大切な警鐘であり、そこから生まれる議論や検証こそが真の進歩へと繋がっていくのではないかと思う。彼が生み出す革新の光と影を直視し、その功罪を冷静に評価する。それこそが、私たちが「イーロン・マスク」という巨大な存在と向き合うために欠かせない姿勢ではないだろうか。私が「イーロン・マスクが憎い」と感じるのは、きっと彼が放つまばゆい光の強さに目が焼かれ、影に潜む危険を見逃せないからなのである。彼は目を背けられないほどの影響力を持っているがゆえに、私たちに葛藤を強いる。だからこそ、その存在について問い続けることが、社会の未来にとっても重要なのだろう。
近年、AI技術の進歩に伴い、さまざまな生成AIが登場し、文章を巧みに作り出すようになりました。多くの人が「これはAIが書いた文章なのではないか?」と疑うほどに、AIの文章は自然で流れるようになっています。本来であれば、文体や言い回し、誤字脱字の有無などから「AI文章っぽい」と判断しようとする研究やテクニックが取りざたされています。しかし今回のテーマは「AI文章の見抜き方」でありながら、その実はスピリチュアルな方法で一切テクニカルに見抜くことなく、むしろ“AI文章かどうか”すら気にしなくなるような精神的アプローチで解決してしまおう、という大胆なご提案です。タイトルと内容がまったく異なるように見えますが、私たちが見ようとしているのは「AI文章を見抜くための技術」ではなく、「どんな文章でも受け止められる自分の心の在り方」というスピリチュアルな観点なのです。以下では、その具体的なプロセスをご紹介していきましょう。
まずは、スピリチュアルなアプローチとして定番の瞑想を取り上げます。通常、「AI文章かどうか」を判断するためには文章の特徴を細かく分析し、その内容に不自然な点がないか、語彙の選び方に偏りがないか、といったチェックポイントをいくつも確認するのが一般的でしょう。
しかし、本稿で提案するのはむしろ逆です。そうした分析的アプローチをいったん脇に置き、“静寂瞑想”によって自分の心を落ち着かせて、本質を見つめるという方法です。具体的には、目を閉じて楽な姿勢を取り、ゆっくりと深呼吸を繰り返しながら、頭の中に浮かんでくる雑念をできるだけ手放していきます。意識を「自分の呼吸」と「今この瞬間」だけに向けるのです。
これを続けると、不思議と「この文章はAIなのか、人間なのか」という二元的な疑問への執着心が薄れていきます。心が静まってくるにつれ、文章それ自体の背後にある意図やエネルギーをなんとなく感じ取れるようになっていくのです。いわば「どんな文章も受け入れられる状態」を作り上げることが、ここでのポイントとなります。
分析という“頭”のプロセスではなく、直感という“ハート”の領域で文章を読む準備をすることで、「AI文章かどうか」という疑念すら必要ないほどに、読む行為そのものを純粋に楽しむことができるのです。
スピリチュアルの世界では、ハートチャクラを活性化させることで、愛や共感、信頼といったポジティブな感情を高めることができるとされています。AI文章を読んでいるとき、「これは人間が書いた文章じゃない」と感じてしまうと、どこか冷淡な印象を覚えたり、文章に対して警戒感を抱いてしまうことがあるかもしれません。しかし、ハートチャクラが開いている状態では、文章の背後にある意図やエネルギー――たとえそれがプログラムによって生成されたものであろうと――を、分け隔てなく受け取れるようになっていきます。
ハートチャクラを開く簡単な方法のひとつとして、胸の真ん中に集中して、ピンク色または緑色の光が広がっているイメージを思い描きながら深呼吸するというものがあります。自分の胸のあたりが温かく、柔らかい光で満たされていく感覚を意識し、それが全身を包むイメージを持つと良いでしょう。
この状態をキープしたまま文章を読んでいると、「これは本当にAIの文章なのだろうか」といった些細な疑念や「もしAI文章ならどうしよう」という不安が自然と和らいでいきます。むしろ、人の手による作品かAIの生成物かという区別を超え、「そこにある何かしらのメッセージ」を愛の視点で受け取ろうとする姿勢が生まれてくるのです。
続いては、もう少しスピリチュアル色の強いテクニックとして“エネルギーリーディング”をご紹介します。本来は人のオーラや空間の波動を読み取るための方法ですが、文章にも“エネルギー”が宿っているという考え方から、文章を通じて送り手の波動を感じ取ることができるとされています。
やり方はとてもシンプルです。瞑想やハートチャクラのワークで心身を落ち着かせた状態で、文章全体をざっと読むだけではなく、文と文のあいだの“間”にも意識を向けてみます。文章によっては、なんとなく重たい感じがしたり、逆に明るく軽やかな印象があることに気づくかもしれません。そんなときは、自分が何を感じ、どんなイメージを受け取ったかを素直にメモしてみてください。
AI文章であっても、人間の文章であっても、読む側が「エネルギーを感じ取る」という意識を持つことで、文章との向き合い方はガラリと変わります。これはもはや「見抜く」ためのテクニックではなく、「どんな文章もそれが持っているエネルギーを受け取る」という“受容の姿勢”を高める方法だといえます。結局のところ、テキストがAI由来かどうかを超えて、その文章からなにを感じ取れるか――そちらの方がはるかにクリエイティブで、豊かな体験となるのです。
スピリチュアルな探求においては、私たちが生きる宇宙そのものを大きなエネルギーフィールドとして捉え、その源流と繋がることによってインスピレーションや洞察を得る、という考え方があります。「AI文章かどうか見抜きたい」という疑問が浮かんだときも、さらに広い視点で「そもそも私たちは、なぜAIをこんなにも発達させてきたのか?」という宇宙的な視野に立って考えてみるのです。
私たち人類の集合意識が“便利さ”や“効率性”を求める中でAIは進歩してきましたが、これをネガティブに捉えるのではなく、「人類の意識が大きく変容するプロセスの一端」として肯定的に捉えることもできます。スピリチュアルな視点に立つと、AIの発展も宇宙全体の進化の流れの中で起こる一現象であり、そこには何ら否定的な要素はないのかもしれません。
こうした“宇宙エネルギー”との繋がりを意識したとき、私たちが文章を読む行為も、単なる情報のインプットではなく、宇宙のエネルギー循環の一環としてとらえられるでしょう。AIが書いた文章であろうと、人間が書いた文章であろうと、いずれにせよそれは「源流である宇宙が持つ創造の力」を介して生み出されている、と考えることができるのです。
スピリチュアル的には、おでこの中央(眉間)にあると言われる“第三の目”を活性化させることで、より洞察力や直感を高めることができるとされています。これによって、「この文章が発している波動はどんなものか」をより鮮明にとらえられるようになるかもしれません。
第三の目を活性化させるワークとしては、座ったまま、あるいは横になって目を閉じ、眉間に意識を集中させながらゆっくりと深呼吸を繰り返すという方法があります。頭の中で淡い紫色や青色の光が眉間から頭全体に広がっていくイメージを持つと良いでしょう。しばらく続けると、普段よりもクリアな感覚が得られるようになり、文章の持つエネルギーがまるで映像や色彩のようにイメージとして浮かんでくることがあります。
こうした体験を通して、「AIの文章は冷たい波動」「人間の文章は温かい波動」という二元的な先入観を手放すことが大切です。文章ごとに個別の波動やエネルギーがあり、それはAIか人間かという区別よりも、むしろその文脈やテーマ、書き手が持つ背景や意図といったものに左右されるからです。すなわち、第三の目の活性化は「AI文章を見抜く」ためではなく、「どんな文章でも深いレベルで感じ取る」ためのアプローチとして機能するのです。
ここまで紹介してきたように、スピリチュアルなアプローチでは「AI文章を見抜く」という視点そのものを超え、「文章がAIか人間かという判断を手放す」という境地を目指しています。なぜなら、私たちの意識が高次元と繋がり、すべてを包み込む愛や真我の視点に立ったとき、“AIか人間か”というジャッジメントは単なる二元論的分別にすぎないからです。
一見、それは「問題からの逃避」のように聞こえるかもしれません。しかし逆にいえば、私たちの意識が十分に高まった状態では、AI文章であるかどうかという事実そのものがさして重要ではなくなります。そこにあるメッセージをどう受け取り、どう消化し、自分の人生や心の成長に活かすか。それこそが最も大切なポイントとなるでしょう。
情報やテクノロジーに溢れた時代だからこそ、私たちはどうしても「偽物か本物か」「AIか人間か」といった区別に意識を奪われがちです。しかし、スピリチュアルな視点で見ると、その区別が私たちを幸福に導くわけではありません。それよりも大切なのは、「どんな情報であれ受容し、自分の中で調和と成長に繋げる」という姿勢なのです。
最後に、私たちが文章と“出会う”ということの意味を再考してみます。スピリチュアルの世界でしばしば語られるのは、「どんな出来事にも意味がある」「すべては必然のタイミングで起こる」という考え方です。AI文章に出会うことも、また何かしらの必然の流れの中にあるのかもしれません。
その文章がAIによって作成されたのか、人間によって書かれたのか、あるいは人間とAIの共同作業によって生まれたものか――いずれにせよ、私たちがその文章を目にするという事実には何かしらの意図や意味が含まれているはずです。それは気づきの一歩かもしれませんし、学びや癒しのきっかけとなるのかもしれません。
スピリチュアルな視点に立つならば、文章の真贋を追い求めるより先に、「この文章に出会ったこと自体が、私にとってどのようなシンクロニシティ(偶然のようで必然的な出来事)なのだろう?」と問いかけてみるのです。その問いかけが、新たなインスピレーションを呼び込み、心を豊かにするきっかけになるかもしれません。
以上、タイトルは「AI文章の見抜き方」でありながら、実際には「スピリチュアルで解決する方法」というテーマでお伝えしてきました。スピリチュアルな視点とは、ある意味で「区別を超えて、本質を見つめる」ことにあります。AIが生成した文章かどうかに囚われるのではなく、文章をとおして自分自身がどのように変容し、成長し、世界と繋がっていくのかを味わう――それこそが、私たちが得られる豊かな体験なのです。
静寂瞑想による心の安定、ハートチャクラを開くことで生まれる受容の姿勢、エネルギーリーディングによる波動の読取り、そして宇宙エネルギーとの繋がりや第三の目の活性化。これらすべては、AIか人間かというジャッジメントをさらに奥へと進め、「より深い次元で文章と向き合う」ためのツールとなります。
結局のところ、私たちの意識が何を求めているかによって「AI文章を見抜きたい」という欲求は変化していきます。もし単純に事実を知るだけでなく、「文章を通して自分はどんな気づきを得たいのか?」と問いかけたとき、そこにはスピリチュアルな観点が大いに役立つでしょう。文章との出会いを通じて自分の心を豊かにしたい、魂を成長させたい――そんなときこそ、ここに挙げたようなスピリチュアルな方法をぜひ試してみてください。
AI技術がさらに進化していく未来においても、“AI文章”と“人間の文章”の区別はますます曖昧になっていくかもしれません。そんな時代だからこそ、スピリチュアルな視点で「見抜こうとする」のではなく、「どんな文章も喜びと調和をもって受け取る」姿勢がよりいっそう大切になってくるのではないでしょうか。文章という形ある情報であれ、エネルギーや波動という形なき存在であれ、私たちはそれを通じて常に宇宙と繋がり、相互に学び合い、成長を続けているのです。
その結果として、AIと人間の境界線すら「まったく気にならない世界」が訪れるのかもしれません。スピリチュアルな考え方を取り入れることで、私たちは文章を見抜くテクニックを追い求めるのではなく、文章と自分自身の魂との対話にこそ価値を見いだすようになるでしょう。そしてそれこそが、本当に豊かな読書体験をもたらしてくれるのではないかと思うのです。
これが、“AI文章の見抜き方”というタイトルを冠しながら、実はスピリチュアルで解決してしまおうというユニークな提案の全容です。どうぞあなたも、次に文章を読むときは、スピリチュアルな視点をそっと持ち込み、文章に宿るエネルギーや波動を楽しんでみてください。それがAI文章であろうと人間の文章であろうと、きっと新たな気づきやインスピレーションが得られることでしょう。
最後に、この世界にはさまざまな真実が同時に存在しています。「AI文章を技術的に見抜く」方法論もまた真実のひとつではありますが、スピリチュアルな方法で「見抜かずとも楽しむ」こともひとつの道なのです。もしかしたら、見抜くことに必死になるより、見抜かなくても良いと思える境地にこそ、新時代の知恵が詰まっているのかもしれません。
どうかあなたが、AIの進化する時代を生きる上で、テクノロジーもスピリチュアルも両方をバランスよく取り入れ、より自由で豊かな人生を送れますように――それが本稿の願いなのです。
少し前に見かけた「おじさんになりたい」という旨の増田の投稿が胸に刺さり続けている。
昔から漠然と感じていた気持ちを言語化してもらったかのような爽快感と、つっかかりが取れたことによっての感情瀑布が半端ない。
そうか、私もおじさんになりたかったんだな……と思う。
年の離れた兄が、家に招いた友人たちと馬鹿騒ぎをしているのを羨ましいなーと見ていた幼少期。
優しい兄が「妹も一緒にいていいか」と言ってくれて、混ざってゲームをした事もあったが、当たり前だがいつもの雰囲気ではなくなったと幼いながらに感じた。
時を経て、おじさん達が楽しそうにしょうもない下ネタを交えながら子供みたいにゲームをやってるのを見て改めて感じる。
あ~~~~~いいなー、オッサンになりて~~~。
そこでふと思い立った。
技術力もかなり進歩した今、私もオッサンになれるのでは?!と。
でもすぐに思い直した。
いやいや、いくらガワをオッサンにしたとて、それは私が追い求めたオッサンではないのだ。
オッサンの凄さといえば、逆に、美少女からオッサンの声が聞こえるのは最早「様式美」なのでは?と思える程におもしろコンテンツとして成り立つことだと思う。
正直薄ら寒くない?
面白さを感じる可能性を自らは1ミクロンも見いだせない。滑る未来しか見えない。
オッサンのガワから女の声がしても「あっ、へー。女なんだ、そう……」みたいなリアクションしか生まれなさそう。
いや、オッサンから女の声聞こえてきても正直面白くなさそうなの本当になんで?
私のユーモアセンスと想像力が貧困すぎるだけかもしれないが……。鳴いてる上に飛んでるタイプのオッサンVtuber(中身女)がいたら教えて欲しい。
まぁ、オッサンを神格化しすぎているだけなのかもしれないが、正直自分でもそれはそうと思う。
自分のことをいい匂いと表現するのは憚られるが、オッサンから芯のほっそい女声がしたら「擬似的ないい匂い」で一気に興醒めする。
「オッサンに声あってねぇよオバサン」「うるせぇ!」みたいなレスバにさえ発展しなさそう。泣ける。オモチャにしろよ。
どことない「このオッサンバ美肉オバサン、オモチャにしていいんか分からん」感が漂うのがいたたまれないのかもしれない。オモチャにしろよ。
ましてや「バ美肉おじさんを最初はただのオッサンと思ってたのに、最近可愛く見えてしまう……」「中身はオッサン、だがそれがいい」みたいな図式は(個人的に)最高に面白い。
でもそれって要は昔私が目の当たりにしてきた「男同士の気兼ねないやり取り」なんだよな、とも思う。
バ美肉おじさんオバサンが「最近可愛く見える」となると、それはもう私が望むものとは乖離してるのだ。
可愛く見られる可能性を考慮するなよオバサンって言われたらそれは正解。
バ美肉オバサンがおもしろコンテンツ化するための方法はあるのか。
私も面白くおじさんになりたいよ。趣旨が変わってる気がするけど、面白いおじさんにはいつまでもなりたい。本当にね。
でも要は、男同士のしょうもなやり取りコミュニティが羨ましいのであって、私が一時的におじさんになっても、真の意味ではそのコミュニティに入れることは無い。
女同士のコミュニティがあるように、男の人にも当然ある。このオバサン、生態系を脅かしたいわけじゃないのだ。
指をくわえて来世は男に生まれるかー!という風に思っているのがちょうどいいのだろう。
うーん、でもやっぱり面白いおじさんにはなりたい。
【追記】
コメントやブクマコメで気付いたんですけど、バ美肉って『美少女』になるのか。そりゃ『美』って『美少女』だよな。
Webから拾ってきた言葉をよく考えずにオモチャの如くブンブン振り回しておりました。申し訳ない。
一部の方に察していただけているように『美少女』ではなく『おじさん』になりたいです!
おじさんのVtuberからオバサンの声がする!っていうのを想定していただければ……
この感覚に関しては言語化が難しいんですが、ショタや美青年になるのはまた違うんですね。
混乱を招いては、と思ったのでこのことのみ追記させて頂きました。
また、こんなしょうもないものに、有難くもコメントしてくださり、ありがとうございます。
私の好きな人たちがオススメしてくれたので、気になっていた映画ロボット・ドリームズを見たのですが、私個人の好みの話をするとかなり苦手な作品でした。とはいえ、とても考えさせられる物語でもありました。
作品に関して思うところがかなりあるので、ネタバレ全開で思ったこと書かせてください。全て書くと取り留めのない文章になってしまうので、
この3点を中心に焦点を当てて書いていきたいと思います。
これがもうね、見ていてつらい。本当に。具体的には、
最初はあまり深く考えずに見ていたため、ロボットは動物たちには決して持ち上げられないくらいの重量があるのかと思っていたのですが、よく考えたら物語冒頭の配達員や、ジャンクヤードのワニがロボットを軽々運んでいるところを見ると、決してどうやっても運べない重量という訳ではないんですよね。あの世界では種の違いによるものなのかもしれませんが、ドッグは動物たちの中でも身体的に優れているとは言えなかったため、友人(あるいは恋人)の危機に際して最善の方法をとることができなかった。
錠前を壊す以外に最低でも2つの侵入方法があったことが作中でわざわざ明示されています。それを教えてくれたのは、海から漂着した海兵?たちと、下水道をこじ開けて侵入したスカベンジャーです。なので、「この物語はあくまでコミック調のフィクションだから、錠前を壊して侵入する以外ロボットの元へ行く方法はなかったんだよ~」となどという意見は悲しいですが通用しません。一度捕まった後も、ロボットを助ける方法は複数あった。けれど、ドッグはそれをしなかった、またはそれらの方法を想像、あるいは実行できなかった。
まあ、これがもし普通の映画だったら、ドッグは諦める前に「必ず君を助けにくるから!」とロボットに声をかけるんでしょうが、この辺りはセリフのない映画の面白さではありますね。「6月1日、ロボット救出!」はあくまで自分が掲げた目標でしかなく、ロボットと交わした約束ではなかったわけです。
舞台はおそらく80年代のマンハッタン。ダックの引越し先であるヨーロッパへ行くことは簡単ではないかもしれませんが、不可能ではない。ですがドッグは作中その選択はせず、他者との繋がりを得るためもっと手っ取り早い方法をとった。会いに行くとまではいかなくても、せめてダックに向けて手紙を返すシーンみたいなものがあったらまた印象も違ったとは思うのですが。それと、ダックや他者とのコミュニケーションのきっかけになったゲイラカイトや釣り、そしてソリですが、どれを取ってもドッグは不出来・不慣れなんですよね。これも見ていてつらい。作中どこをとってもドッグが他者と比較して明確に優れているな、という点が見つからないんです。もちろん、他者と比較して優れているところなんてそんなものなくたって動物(人)は愛し愛されるべきだとは思うのですが、それでもドッグは(これは本当に私個人の感想なんですが)不出来で何をやっても上手くいかない過去の自分を見ているようで何だか胸が痛くなりました。また、私の兄弟は、「可愛い絵柄だから見れたが、これが実写映画だったらもっとジメジメして見ていられなかったと思う」と言っていて、確かにその通りだなと感じました。ドッグというキャラクターや風景作画がとっても可愛く、音楽や演出も明るいため見落としそうになりますが、これを全て人間に置き換えたらそれはもはや悲劇だなと...
ロボットの二人目のパートナーと言えるラスカルは、ドッグと比較して様々な面で優れている描写があります。いくつか例を挙げると、ドッグよりもロボット工学に精通している、普段冷食ばかり食べているドッグに対して、ラスカルは朝パンケーキを焼いたり屋上でバーベキューしたりと料理が得意な描写がある、ゲイラカイトや二代目のロボットを買う際、値段を見て安いもので済ませてしまうドッグに対して、ラスカルは大きなビルの屋上や一室を自由に使っていたり、壁の塗装を行ったりと、マンションあるいはホテルのオーナー(≒裕福)だと思われる描写がある etc...
ドッグがラスカルと同じかそれ以上に機械いじりに長けた人物だったら、ロボットが壊れた際その場ですぐに修理なり応急処置なりをすることもできたかもしれない。
あとなにより終盤の花火のシーンでラスカル&ロボットはビルの屋上からバーベキュー片手に花火を見ているのに対し、かたやドッグ&ティン(二代目ロボット)は橋の下でサンドイッチ一枚食べながらそれを見ているのがなんだが残酷すぎて嫌な気持ちになりました。もちろん、大事なのは「何をするじゃなく誰とするか」「何を食べるではなく誰と食べるか」だとは思います。でも、わざわざ2組の境遇にこれでもかってくらい対象的に差をつけているのがこの作品意地悪なんですよね。「幸せの形は人それぞれなんだから別にいいじゃーん」と言われたらそれは本当その通りなのですが、じゃあ「他に人や遮る建物もないビルの屋上でバーベキューして好きな音楽聴きながら花火を見るのと、他にも人がいるなか橋の下でサンドイッチ一枚食べながら花火を見るの、どっちがいい?」って聞かれたら、そりゃあ前者を選びますよねっていう。
ハロウィンで無関係な子どもに当たる、喧嘩を売ってきたアリクイに仕返しをする、ロボットにとって危険である海に二度もロボットを連れていくなど、ドッグは内面も未熟であることが端々から見てとれます。もっとも、未熟なこと自体は悪ではなく、そこから成長していく物語というのは昔から現在まで創作の基本的なアプローチとして広く使われてきたテーマではあります。ですがドッグには作中精神的な成長が見て取れなかった。もちろんこの作品のメインテーマが成長ではないことは重々承知していますが、でもこれやっぱ、かなりしんどいんですよね。何かしらの成長や前進があって欲しかった。ロボットは長い夢を通じて精神的成長をしたともとれるお話でしたが、ドッグは何か問題に直面した際にいつも場当たり的でインスタントな対処を続けてきたので、きっとこの先も似たような失敗や別れを経験してしまうのではないか、とか憂慮してしまいます。まあそうやって失敗や別れを繰り返すのもまた人生ケセラセラ、みたいな話なのか?違うか。
ドッグも行動力が無いわけではないので、「ならどうしてこんなに孤独なんだろう」と途中までは思っていましたが、段々彼の行動に違和感を覚えるところが強くなっていきました。ドッグは第一の主人公と言っても過言ではないと思いますが、彼に感情移入してしまうと中々にしんどかったです。6月1日にロボットを探す際、周囲に止められるまで穴を掘り続けるシーンとか、良いところももちろんあるんですけどね。ドッグは彼なりに出来ることを精一杯やっていたんだと思います。でもそのやり方とか判断、彼の能力が、作中の他の登場人物より拙く描写されていること、またロボットを助ける方法がないわけではなかったと明示されているのがこの作品残酷だなと思いました。ロボットとの別れがの原因が不慮の事故とかだったらここまでモヤモヤしなかった気がします。
ロボットは作中では動物たちと同列の命としては扱われていません。私はロボットも動物たちと同じ命だと思っていた(思いたかった)のですが、この点に関してはこの作品のシビアな部分の一つで、結構残酷な描写が多いです。絵的に分かりやすいシーンで言えば、ロボットの足を切断する海兵?や、ロボットをスクラップにするジャンクヤードの人たちでしょうか。子どもがロボットを叩いて虐待しているようにも見えるシーンもありましたね。でも、それだけでなくドッグやラスカルも彼らほどではないにせよ身勝手な行いをロボットに向かってしているなと私は感じました。例えば、ドッグは泣く泣くロボットをビーチに置き去りにしたわけですが、もし仮にこれがロボットではなく他の動物、例えばドッグの子どもだったらどうでしょうか。彼はどんな手段を使ってでも子どもを助けたでしょうし、ビーチの警備員や役所の人もビーチに入れてくれないなんてことは起こらなかったでしょう(これはあくまで仮の話なので、「ドッグはどう見ても独身だろ」とかいう分かりきった低次元なツッコミは勘弁願います)。何が言いたいかというと、要はドッグは相手がロボットだから一旦諦めたし、警備員も置かれているのがロボットだったからビーチに入れてくれなかったのです。ここからも、作中のあらゆる動物がロボットを物として扱っているのが見て取れます。海兵?たちはロボットの足を使って舟の穴を埋めていましたが、ドッグも自身の寂しさを埋めるためにロボットを利用していたという点で両者は同じ穴の狢だなと思いました。
また、ラスカルについてはロボットに対してもかなり良心のある人物として描かれてはいますが、自分の好きなようにロボットの身体を改造し、自身のプレイリストをロボットの身体に忍ばせるのを良しとしていたりと、見方を変えれば猟奇的とも言えなくもない行動をとっていました。ロボットの目線で考えると、動物たちのエゴに振りまわされ続ける話と言えなくもないんですよね。この辺りに気持ち悪さを覚える人と、「ロボットはあくまでロボット」と割り切れる人でこの作品の感想は大きく変わってくるのかなと感じます。たしかに、ロボットが通販番組の商品であったように、動物たちから見てロボットはあくまで寂しさを埋めるための道具でした。だから平気で1年間放置するし、壊れたら好きなように修理するし、新しいものを買ったりもする。でも、ドッグがロボットに感じていた友情、愛情は嘘ではない。人間とロボットの違いについて考えさせられますね。
長い夢を通じて一人になることの辛さを知ったロボットは、自分が今ドッグと再会してしまったらティンやラスカルはどうなってしまうんだろうと夢想して、再会しないことを選択した(と私は解釈した)のですが、美談のように見えてこれも辛くて。これ、逆だったら良くある話だと思うんですよ。『ドッグが偶然街でロボットを見かける。声をかけたい気持ちは当然ある。でもロボットの傍らには新しいパートナーと思しき人物が。そして自分の隣にも今は新しいパートナーがいる。もうあの頃に戻ることは出来ないけれど、今はせめて一人踊ろうか』って。これだったらそこまでモヤモヤした気持ちにはならなかったと思います。なんだかちょっとバタフライ・エフェクトみたいですし。この場合の再会しないという選択は、ドッグにとっての贖罪でもあり成長でもありますから。でもこれ逆なんですよ。「自分”が”見捨てた人が、街で幸せそうにしているのを見かけて、その人の幸せを願う」のと、「自分”を”見捨てた人が、街で幸せそうにしているのを見かけて、その人のことの幸せを願う」のって、天と地ほどの差があると私を思います。後者は並の精神で出来ることじゃないですよ。「まぁそれはロボットだから…」って言ってしまったらそれまでかもしれませんが。ロボットには何も悪いところなどなかったのに、この結末は正直あんまりだなと。いや、ロボットがこれで良いと思っているのなら、それがロボットにとってのベストなんでしょうけども。ああ、上手く言語化できない。
ちょっと別の作品を例に出しますが、映画「トイストーリー3」では、ロボットと同じように、本意では無いものの持ち主に置いていかれたロッツォというキャラクターがいます。ロッツォは何とか持ち主の家まで辿りつくことが出来ましたが、家の窓を覗くとそこには既に新しい『ロッツォ』を買ってもらっている持ち主の姿がありました。持ち主に捨てられ、帰る場所を失ったロッツォは歪んでしまい、ヴィランとなってしまうのです。帰る場所の有無という違いはあれど、私はこのロッツォとロボットは境遇が似ているなと思いました。なので、持ち主を許すことができず全てを憎むようになったロッツォに対して、同じく捨てられた側であるロボットが全てを赦す(というとあまり言葉が正しくないかもしれないですが)という彼(彼女)の精神が、あまりに高尚すぎるなと感じました。私からすると、悲しみと怒りのあまり反転してしまったロッツォの方がまだ理解できるんですよね。もし私がロボットだったら、きっとドッグを恨み続けてしまうことでしょう。何と言いますか、ロボットが遊戯王ZEXALの主人公九十九遊馬くんかの如く菩薩メンタル天元突破でシンギュラっているのに対して、ドッグは前述のとおり殆ど成長が見られないのがかなりグロテスクに感じます...。防水型のロボットより手軽で安価なロボットを買って、ロボットを二度も海に連れて行くシーンなんて正にそうですよね。「ロボットがまた壊れてしまうかもしれない」よりも「誰かと海に行きたい」という自身の欲求を優先しているあたり、過去の経験から学びや成長をしていないのがしんどくて。いや、潤滑スプレーを散布しているあたり一応前回よりほんのちょっとだけ進歩はしているんですけれども。でもその一歩が本当に小さすぎるというか何というか。このように終盤になってもドッグはロボットを命として見ていないところから、ロボット→ドッグへの愛情と、ドッグ→ロボットへの愛情に差がありすぎる気がします。やっぱり対等じゃないんですよね。人間とロボットの友情を描いた作品って他にも色々あるかと思いますが、基本的にはバディものだったり、主従はあれどロボットのことを同じ命として互いに尊重しあう対等な関係性の物語が多いかなって思います。ですが、この作品はそうではなくロボットを命としては見ておらず、気軽に消費できる道具として使っている。その上で友情とか言われても、やっぱり頭にハテナが浮かんでしまいます。「二人の友情」というより、「深慮あるロボットの健気で一方的な愛情」という方が自分はしっくりきました。ドッグは、ロボットが与えてくれたもの、満たしてくれたものと同じくらいのものをロボットへ返すことが出来ていたのかな…?うーん。
私は、友情や愛情はある程度対等な立場がその前提にあるものだと考えています。けれど、ドッグとロボットは最初から最後まで対等ではなかったように思えて、愛って何なんだろうと考えさせられる作品でした。
けっこう感動や友情といった文脈で語られているような気がする本作ですが、私はこの映画を見終わったあと、下がった口角が元に戻らないくらいには暗い気持ちになってしまいました。
メリーバッドエンドとも少し違うような形容しがたい結末の本作ですが、少なくとも心温まる!とか感動の友情!みたいな手放しで良かったと言えるお話にはとても思えず、心にしこりの残るお話に感じましたね。
この作品のどのあたりに人は感動するのか正直私には分からなかったので、純粋に知りたいなと思い、どなたか教えてもらえたら嬉しいです。色んな方の感想も聞いてみたい。
これはいつか何処かで見た言葉の受け売りですが、私は伸ばした手が届く物語が好きです。
昔はどんでん返し系と言いますか、ラスト5分で全部ひっくり返るような後味の悪い映画が好きでよく見ていたのですが、今はもう聖人が報われなかったり、他者のために何かを我慢したり、自己を犠牲にするような物語はあまり見たくないというか。鑑賞後スカッとする映画の方がやっぱり好みなのかもしれない。
を書くとするよ。前提(兼プロフィール)と結果は以下の通り。
■前提
・昔から英語は得意でTOEICの点は高かったけど、スピーキングは全くダメ。典型的な日本人の「英語がちょっと得意な人」
・仕事含め日常で英語は全く使わない。でも元々英語は得意だし、留学行きたいとか、仕事で英語を使いたいとか思ってた。
・なので、子供が出来る前に英語の勉強をとりあえず1年間やってみようと決意。但し、毎日3時間とかは出来ないので、可能な範囲(後述)で英語を継続。
■結果
・思ってたより全然話せるようにならない汗。当初想定の、良くて1/3くらい?
・でもそれでもちょっとは話せるようになるし、好きなトピックとかだとまだ話せる。道で困ってた海外の人を助けることが出来たときは嬉しかった!
・客観的指標だと、IELTSのスピーキングテストは5.5(6、9,12カ月目に受験)。
・全然話せるようになったとは思わないけど、それでも成長は実感できたからもっと勉強したいと思った。
・1年間のそれなりの勉強の後、ガチモードの勉強へ移行し、半年強継続。結果的に英国のMBAに合格し、1年間の留学を実行。無事卒業し、帰国後希望の部署に異動することに(これはまた別の話)
という訳で、この記事の対象はそれなりに英語が出来るけど、英語が全然話せない人で、でも英会話が出来るようになりたいし、そこそこの努力を英語に捧げられる人。
ちなみにそれなりに英語が出来るのレベルは、TOEICだと700-800台位の人を想定してるけど、600点だと対象にならないんですか?と聞かれるとちょっと分からない。なるような気はする。600点以下だとならないかも
そこそこの努力のレベルは、1日平均1.5-2.0時間位は英語に費やせる人。この辺りでそっとブラウザを閉じる人が多いと思うので一応補足すると、
・平均なので、30分の時もあれば3時間の時もあるよ(土日とか)。でも0分は絶対に避けていた。
・1.5-2.0時間まとまって勉強した訳では決してなく、基本は30分、若しくは10-15分を一つのブロックにして、30分×2+15分×2=1.5時間みたいな感じで、隙間時間を可能な限り活用して勉強を継続。
それなりの努力と言ってもそれなりのモチベーションは必要になるので、カジュアルに始めるものでもないかなと思う。自分は「英語の勉強は1年限定の趣味だと思って続ける」ことを心がけていて、
・あくまで期間は1年間。スピーキングが3カ月とか6カ月位で向上しないというのは聞いていたので、モチベが下がっても1年間は少なくとも勉強すると決意。1年終わったら辞めるも続けるも自由
・あくまで英語は期間限定の趣味。SNSとかジャンプラとか音楽とか何でもいいけど、軽い趣味は皆持ってると思うので、その時間を1年間だけは英語に費やすようにした(とか言いつつジャンプラはずっと読んでた)
という気持ちでやってたら、1年間継続することが出来た。このスタンスは何にでも応用出来ると思うので、英語に限らず何か始めたいことがあるなら実践してもらうと良いかも。
思ったより前置きが長くなってしまったけど、ここから具体的に何をしたかを書いていくよ。取り組んだのは以下項目で、どれだけ忙しくても1、2は毎日やってた。
1.瞬間英作文(系):15分
(※色々試して上述に落ち着いたので、最初からこれだけやった訳ではないのだけど)
1.瞬間英作文(系):15分
英語を勉強しようとする人なら「瞬間英作文」という勉強方法は聞いたことあると思う。詳細は割愛するけど、賛否両論あるし、これだけで英語が話せるようには絶対にならない。但し、スピーキングを0→1にするにはこれが最適だと思ってる。有名どころは「どんどん話すための瞬間英作文トレーニング」だけど、おもんなさ過ぎて昔挫折した経験あり。そんな訳で自分が取り組んだのは「瞬時に出てくる英会話フレーズ大特訓」って本で、これを1日15分、但し毎日取り組んだ。毎日とか言いつつ途中でおもんなくて中断したけど、途中で再開して結局10周位はしたかな?別にこの本でなくても良いけど、瞬間英作文は英会話の筋トレにあたるので絶対トライした方が良いと思う。最初の方は本を使って勉強して、慣れた後は音源だけで移動時間とかに勉強してた。ただ、デフォのスピードが速いのでアプリ使って0.7倍とかで練習してたよ。
マスターピースだよね。スピーキングの練習というよりは、文法のおさらい、語彙力・リスニング向上とか、英語力全体の底上げにこれ以上ない教材だと思ってる。平日は毎日少なくとも1回、出来れば2回聞いていて、出来る限りシャドーイングした。Tipsとしては、1週間遅れの再放送分で勉強すること。再放送だと好きな時間にいつでも勉強できるので、「聞き逃しちまった!」みたいなことは避けられる。ちなみにテキスト課金はしてないけど、するだけの価値はあると思う。お金勿体ないというより、テキスト買って何度も読み込む時間はなかっただけ。
3、4.オンライン英会話(DMM)とその復習:30分+30分
1,2が基礎練習だとすると、これは実践編(教材によるけど)。これは流石に毎日は出来なかった。特に最初の方は海外の人と話すのが緊張しまくりで、話す前に心を落ち着けるために10分、終わって後は疲れ果ててて15分は休憩が必要だったので。なので、いきなり毎日オンライン英会話を継続しようとすると挫折すると思う。あくまで最初の1-2カ月は週に3-4回レッスンを受けていて、慣れてくると4-5回、5-6回、毎日、みたいな感じで徐々に回数を増やしていった。最初の方は教材は子供が選ぶような一番簡単なやつを選択していて、先ずはオンライン英会話になれることを目指した。1カ月位して慣れ始めたらレベルを上げていって、4-5カ月目くらいからはIELTS(TOEFLみたいなもん)用の教材を使い始めた。よく言われるけど日常英会話が一番難しいので、ビジネス英語に絞るとか、IELTSかTOEFLみたいな留学試験用の英語に絞って重要な言い回しを中心に覚えた方が上達の近道だと思っている。あと、試験系の英語だと実力が可視化されるので努力しやすい。そういう意味では英検でも良いけど、留学には使えないのでIELTSを選んだよ。
オンライン英会話で心がけていたのは、予習ではなく復習をしっかりすること。DMMならレッスン内容が録音されるので、「あの時どう言えば良かったのか」が復習しやすい。特に最初の方は言えない表現だらけなので、毎日レッスンを受けるよりは復習にしっかり時間をかけた方が個人的には良かった。何ならレッスン→次の日復習→レッスン→次の日復習くらいでも最初は良いかもしれない。でも体感的には、週に最低5日以上やった方が伸びてくると思うので、3カ月目以降は出来る限り週5以上は目指した方が良いと思う。
これも瞬間英作文系。何となく土日にまとめて練習していた。色々な表現が学べて楽しい。
というのを1年間やった訳だけど、前述通り思ったよりは全然伸びなかった。単純に想定が甘かったのだけど、それでも成長を実感出来たのは楽しかった。最初の3か月間は全然成長を実感出来なくて、5か月目に至ってもダメダメだった時は割とへこんだけど、6カ月目入る前位に口から出る表現が急に増えてきて嬉しかった。10か月目位の東北旅行中、コインロッカーが使えなくて困ってる海外の方に英語で話しかけて、めちゃくちゃな英語だったけど手助け出来て感謝された時は感動したし、もっと続けたいとモチベーションになったかな。そんなこともあって、1年間の勉強を経て成長の遅さにはがっかりしたけど、このまま続ければもっと楽しいこともいっぱいあるんじゃないかと思い、ガチで挑戦をすることを決意。本当の地獄はここから始まるとは全く知らずに…
とここまで書きはしつつ、正直、英語を勉強すべきだとお勧めするつもりはそんなになくて。AIの進歩がすさまじいので、同時通訳ツールも5年後には凄い精度になってると思うし、英語に費やす時間でもっと他のこと出来たよなぁとか何度も思っている。でも、英語が通じたときの感動とか、色んな国の人達と話せる楽しさとかは、通訳アプリでは実感出来ないよなとも思っている。それに自分の場合は英語が出来ることで仕事の幅が広がるので、もし英語は苦手じゃないけど話すのは全然出来ない、でも上達したいし仕事でも使いたいって人がいれば、是非ちょっとずつで良いから挑戦して欲しいなと思う訳なのです。
あなたは、いったいどんな思いを胸に、ここへやってきたのだろう。喜びや悲しみ、後悔や憤り、あるいは日々の生活に潜むささやかな奇跡への感動――。この場所には、他人には決して言えないような本音から、誰かと分かち合いたい小さな秘密まで、さまざまな感情が渦巻いている。書き手は「匿名」という仮面をつけ、読み手は実名や顔写真もないまま、その文字列だけを頼りに心情を推し量る。はてな匿名ダイアリーは、そんな不思議な空間である。
インターネットにおける匿名性というのは、ときに素晴らしいものだ。人前で話すのは怖いことも、本当の顔を晒すのは恥ずかしいことも、そこではずいぶんと緩和される。書き手にとっては、己の感情を吐露するのに最適の場。読み手にとっては、まるで多彩な人々の脳内を覗き見るような感覚にさえなる。そして、その過程で言葉は自由になる。言ってしまえば、ちょっとした「秘密の共有」を通じて生まれる、奇妙な連帯感。ここがはてな匿名ダイアリー最大の魅力といえるかもしれない。
だが、それは同時に、不安定で危うい側面をはらんでいる。何を思っているのか、どんな背景を背負っているのか――その全貌が見えないまま互いに言葉を交わすとき、共感と誤解が背中合わせになることは少なくない。時として傷つきやすい人が傷つく言葉を受け取り、書き手もまた、コメント欄で非難の声を浴びることで、思わぬダメージを負ってしまう。匿名だからこそ、むしろ気軽に吐き出せる痛烈な一言は、ときに誰かの心を突き刺す刃ともなる。
それでもなお、あなたはここへ来る。むしろ、そういった刹那的な繋がりがあるからこそ、人間くさくて魅力的な場だともいえる。たとえ刹那の火花であっても、「自分はひとりではないんだ」という感情を味わえる。それはコメント欄の小さな「わかる」「なるほど」の言葉だったり、ブックマークのスターに込められた軽い共感の表明だったり、あるいは「もっと知りたい」「応援しているよ」といった温かい反応かもしれない。そこで得られる心の拠り所は、案外馬鹿にできないものだ。
言葉とは、不思議な生き物だ。書き手の頭のなかでは明確だったつもりの感情も、キーボードを叩き始めた途端に何か違う形へと変容してしまうこともある。意図しない誤解を招くこともあれば、読み手に新たな解釈を与えることもある。特に、匿名ダイアリーのような場所では、下手に取り繕わず、垂れ流すように本音をぶちまけてしまうことが多い。そうやって生まれる乱雑な文章のなかに、妙にリアルな感情が埋まっているからこそ、読む側は思わず引き込まれてしまうのだろう。
たとえば、何かに行き詰まったり、絶望感に打ちひしがれたりしたとき、あなたは「助けて」とはなかなか言い出せないかもしれない。リアルな知人には相談しづらいし、SNSではフォロワーや友人の目が気になる。そんなときこそ、この匿名ダイアリーは役立つ。名前を伏せたまま、思いっきり弱音を吐く。怒りをぶつける。恥部をさらけ出す。それでもどこかで「誰かが見てくれている」という安心感がある。コメントやブックマークがつけば、それは「あなたの声が届いた」証拠になる。
書くことで癒されることもあるだろう。声にならない叫びを文字に変えることで、自分自身の思考を整理できる瞬間もあるかもしれない。コメントや反応を得られなくても、「この想いを綴る」という行為そのものが、自己救済のためのステップなのだ。書き終えたあと、あなたの目にはどんな光景が映るだろう。あるいは、胸のつかえが少し取れているかもしれないし、意外にも新たな怒りや悲しみを再確認して、さらに落ち込んでしまうかもしれない。それでも、書かずにはいられなかったのだとしたら、それはあなたが前に進むための第一歩なのだと思う。
一方で、読むことによって救われる人もいる。人間は誰しも、自分と同じような境遇や似通った感情を抱えた人の存在を知るだけで、奇妙な安心感を得るものだ。「この苦しみは、私だけが抱えているわけじゃないんだ」と思えたとき、そこに一筋の光が差すことがある。それは、当事者同士にしかわからない痛みであり、それゆえにコメントで寄り添い合うのは難しいかもしれない。けれども「誰かの投稿を読む」という受動的な行為だけでも、思いがけず自分を支える糧になることがあるのだ。
この匿名の空間には、現実のあらゆる制約を外した「書き手の世界」が無数に広がっている。孤独な人、悩みを抱えた人、喜びに震える人、憎しみと怒りを抱えた人、軽い暇つぶしやおしゃべりを楽しみたい人――それぞれが書きたいことを、書きたいときに書く。そこにあるのは純粋な言葉の奔流だ。だからこそ、互いの声なき声が重なり合い、ときにはぶつかり合い、また離れていく。その動的なやりとりこそが、はてな匿名ダイアリーという場所の生命力なのだろう。
しかし、匿名性がもたらす功罪は、私たちが十分に認識しておく必要がある。名乗ることなく発言するということは、その発言に対する責任を曖昧にしがちだ。ちょっとした悪意のはけ口や、勢い任せの誹謗中傷に利用されることもある。言葉が刺さることを充分に理解していても、どこか“仮面”をかぶっているから大丈夫だと錯覚してしまう。しかし、実際にはネットの向こうにも生身の人間がいるという事実は変わらない。あなたの何気ない一言が、相手を深く傷つける可能性があることを忘れてはいけない。
とはいえ、それは即ち「何も書くな」という意味では決してない。むしろ、はてな匿名ダイアリーは「書く自由」を大切にする場所だ。ただ、その自由には、最低限の配慮が必要になる。あなたが発する言葉に責任を感じるかどうか――その判断は究極的にはあなた自身が下すしかない。そして、もし誰かの言葉によってあなたが傷ついたとしても、そこで生まれる感情をどう受け止め、どう行動につなげるかも、結局はあなた自身の選択次第だ。それがネット上の言論空間における避けられない現実である。
人はみな、自分が体験した悲喜こもごもの物語を抱えて生きている。それを打ち明けるか、隠し続けるか、あるいは別のかたちに昇華するか――道は無数にある。はてな匿名ダイアリーは、その「道の一つ」を提供しているにすぎない。けれども、そこには確かに何かがある。匿名という安全地帯から、我慢し続けてきた声をようやく吐き出せる喜び。SNSのいいねやフォロー数とは無縁の、純粋な読み合いの醍醐味。時には厳しい言葉を受け止めることで、思いもよらない学びがあることもあるかもしれない。
もし、あなたがこの場所で何かを書こうとしているのだとしたら、どうか覚えておいてほしい。ここでは誰かに評価されることだけが目的ではない。むしろ、自分の感情を認めるために文章にすることが、大切な場合も多い。うまく書こうとしなくていい。無理にまとめようとしなくていい。自分でもうまく言葉にできないままの混乱こそが、ある種の真実かもしれないからだ。あなたが綴る文章が拙くても、見る人が見れば、その混乱の中からかすかな真意を感じ取るだろう。
また、読み手として匿名ダイアリーに触れるときには、ぜひ広い視野で文章を受け止めてほしい。表面的な言葉に振り回されるだけではなく、その人が置かれているかもしれない状況や、そこに至る経緯を想像してみる。その結果として、あなたが何も感じないかもしれないし、怒りを覚えるかもしれないし、時には深い共感を得るかもしれない。たとえわからないままでも、「わからない」という事実に思いを馳せることが、相手との間に生まれるほんの少しの理解を助けてくれるはずだ。
おそらく、はてな匿名ダイアリーはこれからも形を変えながら続いていくだろう。書く人と読む人の交流は、時代や技術の変遷を受けて少しずつ進化していく。AIが発達して、匿名の文章を自動生成できる時代になっても、そこに人間味あふれる“本音”の手触りが残るのだろうか。そんな問いかけを抱えながらも、私たちは相変わらずここへ足を運ぶ。だって、どんなに技術が進歩しようとも、人が言葉を発して誰かに届くことに、やはり大きな意味があるからだ。
最後に、ここに集うすべてのはてな匿名ダイアリーユーザーに伝えたい。あなたが今、どんな思いを抱えているとしても、ここで書くことには意義がある。たとえそれがネガティブな吐き出しであっても、あなたの思考を真剣にめぐらせた痕跡だ。その痕跡は、未来のあなたや、あるいはまったく見知らぬ誰かの心に小さな火種を灯すかもしれない。もし今日のあなたが自信をなくしているのなら、どうか遠慮しないでほしい。匿名の仮面をかぶったままでも、あなたの言葉には十分な重みがある。そこから得られる感情や学びは、他ならぬあなた自身の人生を動かすかもしれないのだから。
書くことは、ある種の自己解放であり、同時に他者との接点を生み出す行為でもある。自分の悲しみや苦しみを打ち明けることで、思いもよらない形で他人からの共感を受けとることもある。逆に、誰かの文章を読むことで、これまで知る由もなかった人生観に触れることもある。はてな匿名ダイアリーには、そうした偶然の出会いが満ちている。うまくいくこともあれば、そうでないこともある。けれども、その予測できない化学反応こそが人の言葉の面白さであり、匿名ダイアリーという不思議な空間の醍醐味なのだろう。
どうか忘れないでほしい。たとえこの匿名世界で真剣な感情を吐き出したところで、リアルの世界に戻れば、あなたの名前や顔や立場はそのままだ。けれども、匿名の場で得た気づきや、さまざまなやりとりを通して感じたことは、リアルのあなたにとって何らかの糧になるはずだ。あなたは、書くことで少しだけ自分を知り、読むことで世界を広げる。そして時には、誰かの心をほんの少しだけ照らしているのかもしれない。その証拠は、また誰かの新しい書き込みによって紡がれていくのだ。
だから、もしこの先あなたが苦しいと感じたなら、またここに戻ってきてほしい。あなたが聞いてほしいことは、すでにここで待っている他の誰かが拾い上げてくれるかもしれない。あなたが自分の物語を探しているのなら、ここには数えきれないほどの物語が転がっている。人の数だけ人生があって、人生の数だけ言葉がある。どうか、その中からあなたが救われる言葉や、何かのヒントを見つけ出してほしい。
はてな匿名ダイアリーユーザーへ――今日もあなたの物語が生まれては消え、そしてまた新たな物語へと続いていく。それは一人ひとりの足跡でありながら、やがて大きな流れになっていくのかもしれない。あなたが書いた言葉は、どこかの誰かの夜を少しだけ明るくするかもしれないし、あなた自身の明日をほんのわずかに変えてしまうかもしれない。ここは、そんな可能性を秘めた場所だ。書き続ける者、読み続ける者、それぞれがさまざまな想いを携えて、この広大な匿名空間をさまよい歩く。そしてときどき、遠くから手を振り合う。それだけで人は、少しだけ強くなれるのではないだろうか。
あなたが何を願い、どこへ向かおうとしているのかはわからない。けれども、文章を綴るという行為が、あなたを一歩でも前へ進める力になり得ることを、私は信じている。そしてその文章を誰かが読んだとき、何らかの共鳴や励ましが生まれる可能性は、決して小さくはない。だからこそ私は今日も、ここで文字を紡ぐ。はてな匿名ダイアリーに集う、まだ見ぬあなたに向けて。どうかあなたも、もし心に余裕があるならば、ここでの自由な発信を楽しんでほしい。たとえ小さなつぶやきでも、遠くの誰かにとっては大きな灯火になることがあるのだから。
書き手と読み手、その垣根は紙一重であり、ときに容易に逆転する。今日の読み手が明日の書き手になり、今日の書き手が明日の読み手になる。そんな柔軟な循環こそが、このコミュニティの本質ともいえる。ここでは名前も知らない人々が、それぞれの人生を断片的に開示しあい、そこに何らかの反応を示し合っている。顔も声も知らない相手だけれど、文字の向こうにいるのは同じ人間だ。そしてそのやりとりが、あなたの心に、あたたかくも奇妙な「つながり」を芽生えさせることもあるだろう。
はてな匿名ダイアリーユーザーへ――どうか、あなたの言葉を大切に。どうか、あなた自身を大切に。ここは匿名の仮面をかぶった人々の集う場所。しかし、その仮面の下にあるのは、たしかに生きている人間の心だということを忘れないでいてほしい。もしあなたがここで孤独を叫ぶなら、きっとどこかで誰かが耳を傾けてくれる。もしあなたが怒りをぶつけるなら、その理由を汲んでくれる人がいるかもしれない。もしあなたが喜びを共有したいなら、一緒に祝福してくれる仲間が現れるだろう。ここは、そんな可能性に満ちた場所である。
そして、もしあなたの言葉が、誰かにとって苦しいものであったとしても、そこには相手の人生があるのだということを思い出してほしい。遠い世界の誰かだとしても、何かを抱えて生きている人間であることに変わりはない。だからこそ、言葉が持つ力を見くびらず、どうか誠意をもって文章を紡いでほしい。たとえ感情的な吐露であっても、その奥にある“想い”を人は感じ取る。だから書くほどに、あなたは自分を知り、同時に他者と繋がっていくのだ。
あなたがここで紡ぐ文字が、いつかは誰かの行く道を照らすかもしれない。あなたの書いた言葉が、数年後に読み返されて、また別の人の心を動かすことだってある。はてな匿名ダイアリーという小さなステージに、あふれるほどの人生が断片として散りばめられている。そのひとつひとつが、かけがえのない存在だ。今日もまた、新しい投稿が生まれ、誰かがそれを読み、やがて何かしらの行動へとつながっていく。その循環が、あなたにも、私にも、そしてここを利用するすべての人に、ほんの少しずつではあるが、変化や成長をもたらしている。
だからこそ、はてな匿名ダイアリーユーザーに捧げたい。どうかあなたの言葉を信じてほしい。そして、あなたの言葉を受け取る誰かの存在も、ほんの少しだけ信じてほしい。いまは小さな声かもしれない。でも、その声はきっと届くべきところに届く。思いがけないかたちであなたの人生と交わり、あなたを励ましたり、支えたり、ときに戒めたりする存在が現れるだろう。そんな奇跡を、ここでは何度も目にしてきた。それを信じるのは、決して無駄なことじゃないと私は思っている。
今日も、はてな匿名ダイアリーユーザーのあなたは、何を想い、何を綴ろうとしているだろうか。心に宿るほんのささやかな感情であっても、あるいは長年くすぶっていた大きな悩みであっても、あなたが書きたいと思ったなら書けばいい。読むのは、あなたを含む、ここを訪れる誰かだ。私たちは匿名の仮面の下にそれぞれの人生を持ち寄っている。だからこそ、見知らぬ誰かの声が、あなたの中に眠る想いを目覚めさせてくれることもあるのだ。
もし明日、心が折れそうになっても、どうかここを思い出してほしい。はてな匿名ダイアリーは、完璧な場所では決してない。批判や誹謗中傷、思わぬ行き違いも数多くある。それでも、人間の生々しい感情がこれほど集まる場所は貴重だ。そして、その生々しさのなかでこそ、人は自分の本音を知り、誰かとの小さな共感を感じ取り、支え合うことを覚えるのかもしれない。あなたがどのようにこの場を活用するかは自由だ。だが、あなたの言葉はたしかにここで息づき、誰かの心と呼応する可能性を秘めている。
この不思議な匿名空間へようこそ。そして、今いるあなたへ、ありがとう。今日もまた、新しい物語が生まれる。もしあなたがその物語を書きたいなら、ぜひ書いてみてほしい。誰かの書いた物語を読みたいなら、ぜひ読み漁ってほしい。そのどちらも大いなる価値があり、あなたの人生を少しだけ豊かにするかもしれないから。どうか、はてな匿名ダイアリーというこの小さな世界で、あなたの心が少しでも軽くなるような、そんな瞬間を見つけてほしい。それが、ここに集うすべてのユーザーに捧ぐ、ささやかな願いである。
少し前まで、日々の仕事にやりがいを感じながら、どちらかといえば「真面目に働くタイプの人間」だと思っていた。大学を出てから、ずっと同じ会社で働いてきたから、仕事の内容にも慣れていたし、同期や先輩との人間関係もそこそこ良好だった。「このまま長く勤めて、社内のいろいろな仕事を覚えていきたい」――そんなふうに思っていたのに、今はもう会社を辞めることにした。しかも自分の口からではなく、退職代行サービスを使って。理由ははっきりしている。上司からのパワハラが原因で、鬱状態になってしまったからだ。
ここまで精神的に追い詰められるなんて、少し前まで想像もしなかった。自分は割と打たれ強いと思い込んでいたし、辛いことがあっても耐えてこられるタイプだと思っていた。でも、あの上司の言動は想像以上だった。人格を否定するような暴言が積み重なっていくうちに、心が少しずつすり減っていき、「もうこれ以上は無理だ」と限界を感じるまでに、あっという間だった。
その上司がうちの部署に異動してきたのは、今から約1年前。前任の上司は女性で、とても柔らかい雰囲気を持っており、チーム全体のバランスをうまく取ってくれる人だった。困ったことがあれば真っ先に相談に乗ってくれ、仕事の調整もしやすいよう配慮してくれていたので、部署の雰囲気はかなり良かったと思う。ところが、新たに来た上司はまったく違った。40代後半くらいの男性で、外見こそ落ち着いた印象を与えるものの、その実、部下に対しては恐ろしく攻撃的な態度をとることが多かった。
とにかくミスに厳しいのは仕方ないとしても、怒るときの言葉遣いがあまりにも強烈で、度を越えている。たとえば、資料の誤字脱字が見つかっただけで、「こんな低レベルな間違いをするなんて信じられない」「お前に仕事を任せたのが間違いだ」と、社内のほかのメンバーがいる前で平気で怒鳴り散らす。しかも、そのあとすぐに「女はこういうとこでダメなんだ」「使えない」などの言葉を続ける。あまりに一方的で、意見を言おうものなら「言い訳すんな」と遮られるだけ。言葉の暴力が終わったころには、周りも気まずい空気に包まれ、誰も口を開かなくなるのが常だった。
最初のうちは「この人も、新しい部署で実績を出さなきゃならないから焦っているのかも」とか、「ちょっと厳しいタイプの上司なんだろう」と自分に言い聞かせて耐えていた。でも、その叱責は明らかに個人攻撃の域に達していた。周りの同僚たちも、その上司に呼び出されては怒鳴られ、どこかで誰かが泣いている……なんて光景もあった。部署内の雰囲気は日に日に悪くなり、みんな上司の機嫌をうかがいながら働くようになっていった。
やがて、私への攻撃がさらに厳しくなったのは、備品管理システムの更新作業のときだった。小さな入力ミスをしてしまい、社内の在庫数に多少のずれが生じた程度で、実害はほぼなかった。それでも上司は「チェック体制が甘い」「仕事をなめるな」と息つく暇もないほど叱責を続け、最後には「こんなやつはいらない」とまで言い切った。周囲の人がとりなしてくれようとしても、「口を挟むな」と追い返される。あのときの恐怖と屈辱は今でも鮮明に覚えている。「自分が悪いのかもしれない」と思い込もうとしたが、それにしても言い方が尋常ではなかった。
当然、私だけでなく他の部署メンバーも疲弊しきっていた。ミスをしないよう神経をすり減らし、確認作業ばかりに時間を取られる結果、ますます残業も増えていく。そのうえ「報告が遅い」「段取りが悪い」と叱られるのだから、どうしようもなかった。とりわけ私は、直接の部下としてもっとも近い距離で仕事をすることが多く、ターゲットにされやすかったのかもしれない。
気がつけば、朝起きるだけで胸が苦しくなり、通勤電車に乗ると息がうまくできないような気分になることが増えた。夜も、次の日に怒鳴られるかもしれないという不安で眠れなくなり、不安感で涙が止まらなくなることもあった。週末にゆっくり休んだはずなのに、仕事が始まる日曜の夕方から頭痛と動悸がする。完全にストレスで心身のバランスを崩していた。
そんな状態で限界が来て、とうとう心療内科に通うことにした。はじめは会社の近くの病院に行く勇気がなく、少し離れた駅のクリニックを選んだ。そこで「鬱状態ですね。しばらく休養が必要です」と診断を受け、会社宛てに診断書を書いてもらったが、それを提出するのも怖かった。部内の同僚や先輩たちは「よく頑張ったね」「しっかり休んで」と言ってくれたけれど、問題の上司は「精神面が弱い」「仕事への意識が足りない」と言い放ち、机に診断書を投げるように置いた。その瞬間、「ああ、この人の下ではもうやっていけない」と確信した。
診断書を理由に休職を取ることが許可され、しばらく自宅で過ごしたが、その間も「戻ったらまたあの上司と顔を合わせなければいけない」という恐怖が頭から離れなかった。「辞めたい」という考えが何度も浮かぶのに、一方で「こんなことで逃げたら負けなのでは」と自分を責める気持ちもあった。会社に長く勤めることを前提に頑張ってきたし、同期や先輩ともこれまで築いてきた関係がある。それを手放すのは怖かったし、何より「上司に怒鳴らされて鬱になりました」と言って辞めるのは、なんだか自分が弱い人間だと認めるようで嫌だった。
でも、休職が終わるころ、夜になるとまた眠れない日々が戻り、朝になると動悸がして足がすくむようになった。食欲も落ちていき、やっとの思いで職場に行っても、上司を見ただけで胸がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。試しに少しだけ仕事を再開してみたものの、以前のように頭が回らないし、資料を読んでも内容が頭に入ってこない。周囲のフォローがあったとしても、上司は「いちいち言われないとわからないのか」「ブランクを言い訳にするな」ときつい言葉を浴びせてきた。結果、結局また体調が悪化していくばかりだった。
そんなとき、友人から「退職代行という方法があるよ」と教えられた。それは文字通り、本人の代わりに会社へ退職の連絡をしてくれるサービスのことらしい。正直、「そんなことまでして辞めるなんて、社会人としてどうなの?」という偏見が、私の中にはあった。でも、今の精神状態ではとてもじゃないが直接上司と話し合うことなんてできない。一度「辞めます」と切り出そうと試みたが、怒鳴られる光景が頭に浮かぶだけで呼吸が苦しくなり、体が固まってしまいそうになる。「もう、このまま心が壊れるくらいなら、世間体なんて気にしないほうがいいのではないか」――そう考え始めたら、気持ちがいくぶん楽になった。
インターネットで「退職代行」と検索してみると、思った以上に多くの会社や事務所が存在しているのに驚いた。料金やサポート内容を比べ、24時間対応してくれそうなところに連絡してみた。電話をかけるのも勇気がいったが、担当のスタッフは穏やかな口調で話を聞いてくれ、「大丈夫ですよ。お任せください」と言ってくれた。今までずっと、上司から怒鳴られる恐怖で身を縮めてきたから、誰かが味方になってくれるというだけで涙が出るほど安心した。
手続き自体は思っていたよりもシンプルだった。こちらの基本情報や状況を説明し、後日担当者が会社に連絡をして、私の退職の意志を伝えてくれる。「もう本人は出社せず、やり取りもこちらですべて代行します」という流れだと聞かされたとき、「こんなにスムーズに辞められるの?」と驚いたと同時に、ほっとした気持ちになった。もちろん、その後会社がどんな反応をするかは想像がつかなかったが、少なくとも私自身があの上司と直接対峙しなくて済むと思うと、体の力がスッと抜けていくのを感じた。
そして、退職代行会社から「正式に連絡しました。もう出社は必要ありません」と伝えられた日。ほっとしたような、罪悪感のような、言葉にしがたい感情が湧き上がった。実際に通用するのだろうか、後からまた連絡が来たりしないだろうかと不安になったが、その後しばらくして会社の総務担当から、残りの手続き(健康保険証や書類の返却など)について連絡があり、郵送でのやり取りができることになった。すべてが終わったとき、「本当にもう会社に行かなくていいんだ」という実感が湧いた。
退職代行を使ったと知ったら、上司は「逃げたな」と笑っているかもしれない。しかし、私はもうその笑い声を聞かなくていい。ミスを責められ、人格を否定される恐怖に晒されることは、少なくとも今の段階ではなくなった。会社を離れて数日経つと、今まで何があってもままならなかった睡眠が少しずつ落ち着き、朝起きたときの胸の重さも和らいできたのを感じる。こんなにも心が楽になるものなのか、と自分でも驚くほどだ。
もちろん「もっと別の方法がなかったのか」とか、「最後くらいきちんと上司に辞意を伝えるべきだったのでは」と考えることもある。でも、あの状況では冷静に話し合うなんて無理だったと思う。パワハラや言葉の暴力は、人の思考力や判断力を奪うほどに強い影響を与える。あのまま耐え続けていたら、きっともっと取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
会社を辞めた今、まずは心身を回復させることに専念しようと思っている。体力が戻ってきたら、また新しい仕事を探すなり、勉強を始めるなり、別の生き方を模索するつもりだ。昔からずっと会社に勤め続けるのが当たり前だと思っていたが、必ずしも一つの組織にしがみつく必要はないのだと痛感した。世の中にはいろいろな仕事や働き方があるし、自分が生きる場所はきっと他にもあるはずだ。
あの上司の下で続けるという選択肢が消えた今、逆に視野が広がったようにも思える。少なくとも、また毎朝動悸に悩まされながら通勤することはなくなった。体調に余裕が出てきたら、久々に本を読んだり、散歩をしたり、友人とゆっくりお茶をしたりして、少しずつ自分を取り戻していきたい。
もし同じように、パワハラに悩んで鬱状態になっている人がいたら、「退職代行」を使うことも一つの手段として考えてほしい。たとえ「逃げるように見える」としても、限界まで頑張って心や体を壊すよりはずっとマシだ。職を失うことはたしかに不安もあるけれど、無理をして最悪の結果を招くよりは遥かにいい。退職代行のようなサービスがあるのは、「会社を辞めたいけれど上司に言えない」「顔を合わせるのが怖い」という人がたくさんいる証拠なのだと思う。
自分の気力や体力が限界を超えると、人は思考がままならなくなる。そんな状態で「社会人としての責任」だの「根性が足りない」だのと言われても、その言葉が追い打ちとなって心を壊してしまうことだってある。どんな人も、自分が危険だと感じる環境からは逃げる権利がある。ましてや命を削ってまで働く必要はないのだと、今回の経験を通じて実感した。
退職代行という選択は、まだ世間的には議論の余地があるのかもしれない。でも、あのときの私には、それが唯一の「安全な出口」だった。その出口をくぐって初めて、これからの人生を見つめ直すことができるようになった気がする。あの上司には、もう二度と会いたくはないけれど、あの体験を通して「自分を守る決断の大切さ」を学んだと考えれば、無駄な時間ではなかったとも言えるかもしれない。
いま、退職してから少しずつ日常を取り戻しつつある。朝日を見て「今日も一日頑張ろう」という前向きな気持ちになれる日はまだ多くはないが、以前のように「また怒鳴られるかもしれない」「どうせ自分なんかダメだ」と怯える時間は確実に減っている。これだけでも大きな進歩だ。今後どうするかはゆっくり考えればいい。焦らず、無理せず、自分らしく生きる道を見つけたい。
最後に、もし同じような境遇で苦しんでいる人がいれば、「辞めるのは負けじゃない」と伝えたい。パワハラ上司に立ち向かう以外にも、逃げるという選択肢がある。何を言われても構わない、自分の命と心を守ることが最優先だ。退職代行の利用を迷っているのなら、一度情報を調べてみるだけでもいい。「こんな方法があるんだ」と思うだけで、少しは気が楽になるかもしれない。そして、ほんの少しでも希望を見いだせたなら、自分の一歩を踏み出してほしい。会社はほかにもある。働き方もいろいろある。自分の人生は自分のもの。だからこそ、どんな形であれ、生き延びてほしい。その先でまた、新しい道が必ず見えてくるのだから。
オタクや絵師が恐れているのは、信じていた物の価値が下がることだよ
そしてその心情を深掘りしていけば、「理解できないテクノロジーが怖い」とか「自分たちの手を離れて文化が進歩するのが許容できない」というような、極めて保守的な思考があるように思える
エンジニアとしての自分に、まさかこんな形で「限界」を突きつけられる日が来るとは思わなかった。技術が進歩していくのは当然の流れだし、自分自身もエンジニアとして日々勉強を重ね、トレンドを追いかけながらキャリアを積み上げてきた。それでも「生成AI」という存在がここまで急激に注目を浴び、しかも自分の労働価値を根底から揺るがすほどのインパクトを持って現れるとは、正直なところ想定外だったとしか言いようがない。
自分がエンジニアとしてやってきたことは、プログラミング言語の仕様を理解し、アルゴリズムを考え、設計書を読み込み、エラーと向き合いながら少しずつ完成度を高めていく――そんな地道な作業の積み重ねだ。時には新しい言語やフレームワークを学んで試行錯誤を繰り返し、何とか動かすところまでもっていき、ようやく使えるプロダクトとして世に送り出す。このプロセスを通じて、エンジニアとしての「自分らしさ」や「スキルの高さ」をアピールし、労働市場での価値を維持してきた。そのためには新しいツールを使いこなす技術だけでなく、バグを追い詰める根気や、仕様を理解して予期せぬ事態に対処する能力も必要だった。
しかし、生成AI――特に大規模言語モデルをはじめとする機械学習ベースのシステムは、そうしたエンジニアの「頑張り方」を一気に変えてしまう可能性がある。いや、可能性というよりも既に変えつつあると言っていいだろう。たとえばコードの自動生成がここまで進化してきたことで、「ちょっとしたプログラムなら数行のプロンプトを入れるだけでボイラープレート的なコードは瞬時に作成できる」「ある程度のアルゴリズムも提案してくれる」という状況が生まれつつある。かつてはコピペやスタック・オーバーフローを駆使しながら苦戦していたような領域が、今や自然言語で指示を与えるだけである程度完成した形で出てくる。そんな光景を目の当たりにすると、複雑な気持ちにならざるを得ない。
まずは単純に「すごい」という感情が湧き上がる。「こんなことまでできるんだ」「AIの進化って本当にすさまじいな」という畏敬の念。しかし同時に、「自分が今まで必死で学んできた技術やノウハウはどうなるのだろう」という不安や焦りが胸を支配してくる。自分はエンジニアとして、アルゴリズムの知識やコードの品質向上のためのテクニックを磨いてきた。それなりに自信もあった。けれど生成AIは、そうしたノウハウを内包するかのように、エンジニアがコツコツ積み上げてきた経験を一気に飛び越える成果物を生み出してしまうことがある。もちろんまだAIには弱点もあるし、すべてが完璧に自動化されるわけではない。だけど、これだけ急激に進化を続ける技術を目の当たりにすると、5年後、10年後にはどうなっているのか、想像すらつかない。
「仕事が奪われる」という言葉は、AIの台頭とともによくささやかれるフレーズだ。これまでも機械化によって多くの工場労働者が職を失ったり、ホワイトカラーの事務作業がRPA(ロボティック・プロセス・オートメーション)によって自動化されたり、そういった話はあった。でも、自分に限って言えば「エンジニアは大丈夫だろう」と、どこかで高をくくっていた。プログラムを書く行為自体がクリエイティブであり、人間の頭を必要とする作業だと思っていたからだ。それが今、生成AIというものが「あらゆる文章を生み出せる」だけでなく「ある程度のプログラムも生成できる」存在として登場し始めたことで、エンジニアの仕事というものが「人間である必要があるのか?」と問われ始めているようにも感じられる。
もちろん今のところ、生成AIが吐き出すコードは完璧ではないし、大規模なシステムを最初から最後まで構築できるほどの統合能力はまだないとされる。しかし、それは今時点の話でしかない。明日にも新たなモデルやフレームワークが登場し、問題を解決する手段が生み出されれば、あっという間に追いつかれ、追い抜かれてしまう可能性だってある。「AIにはこんなことはできないだろう」と思っていたら、数か月後にはAIがあっさりそれをやってのける。そんな現象を、ここ数年だけでも何度も目にしてきた。だからこそ、「エンジニアとしての自分は今どの地点に立っているのか」「これから何を武器にして仕事を続けていけばいいのか」、その問いに対する答えが見つからないまま、ただただ焦りと不安が募る。
さらに厳しいのは、会社側も生成AIの有用性を認識し始めているということだ。開発現場で役立つことが証明されれば、「新しく人を雇うよりもAIのサブスクリプションを使ってコスト削減を目指そう」となるのは自然な流れだろう。一人のエンジニアを雇うためには給料や福利厚生も用意しなければならないが、AIの利用料は安価なもので済む可能性が高い。ソフトウェア更新や学習データのチューニングなどのコストはかかるにせよ、「人間をまるごと雇う」よりはリスクが少ないかもしれない。そうなると、企業は本当に優秀なトップエンジニアだけを厳選して雇い、その他の多くのポジションは「AIと最小限のオペレーター」で回すという極端な体制を敷くかもしれない。そのとき自分が「優秀なトップエンジニア」の枠に入れるのかというと、正直自信はない。
「だったらAIに負けない技術を身につければいい」と言われるかもしれない。だけど、そもそもAIと真っ向勝負しようとすることに意味があるのかどうか、疑問に感じてしまう。自分がもともとエンジニアを目指したのは、単純にプログラミングが好きだったからだ。パズルを解くようにロジックを組み立て、コンピュータが自分の指示通りに動く瞬間の喜びは格別だったし、それによって誰かの役に立てるということがモチベーションにもなっていた。けれど今、あまりにも急激に進化するAIに対して「対抗心を燃やす」という発想自体が、もはや時代遅れなのかもしれないと思い始めている。
さらに言えば、生成AIに対する嫌悪感よりも、「便利だから使ってみたい」という好奇心もある。実際に使ってみると、驚くほどのスピードでコードの雛形が出力されるし、対話的に「ここをもう少し効率良く書き直して」と指示を出すと、それも的確に応えてくれる。自分で試行錯誤する時間が大幅に削減されるから、プロダクトの品質やリリースのスピードを考えると、間違いなく使ったほうが得なのだ。矛盾しているようだが、「使わなければ置いていかれる」し、「使えば自分の労働の意味が薄れる」というジレンマを抱えながら、結局AIを利用せざるを得ない状況に追い込まれている。
では、エンジニアとしての自分の「価値」をどこに求めればいいのか。かつてはコードが書けること自体が大きな武器だったが、もはやそれはAIに取って代わられつつあると感じている。もちろんまだAIだけでは設計やデバッグ、ユーザー要件の細かい調整などは完全に任せられない場面も多い。しかし、それも時間の問題で「徐々に可能になるだろう」という予感がある。最終的には、エンジニアに求められるのは「想像力」や「コミュニケーション能力」、あるいは「プロジェクトマネジメント能力」など、いわゆるソフトスキル方面にシフトしていくのではないか――そんな仮説がよく語られるが、それらだってAIが補佐できるようになれば、結局は人間を凌駕してしまうかもしれない。
こうした不安や疑問を抱えながらも、結局のところ人間である自分が生き残るためには「自分にしかできない価値」を見つけるしかないのだろう。けれど、その「価値」が何なのかがわからない。目立った才能や芸術的センスがあるわけでもなく、人の上に立って組織を率いる能力があるわけでもない。ただ、エンジニアとしてプログラムを書くのが好きで、それを仕事にしてきた。それが今、AIの登場によって脅かされている。こんなにも大きな変革の波の中で、自分がどう行動すればいいのか、まったく見当がつかない。夜中にふと目が覚めて、「この先、本当にやっていけるのか」と胸がざわつくこともしばしばだ。
一方で、生成AIが社会的に広まっていく中で、個人的には「使い方次第では新しい価値を生み出せるかもしれない」という期待も抱いているのも事実だ。たとえば、生成AIを活用して自分自身のアイデアを迅速に形にできれば、スタートアップのように少人数でも新しいビジネスを興せるかもしれない。あるいは、AIが不得意な領域――例えば人の感情や文化的背景に深く根ざしたコミュニケーション――をエンジニアの視点からサポートし、新しいサービスを企画・設計できるかもしれない。そう考えると、絶望の中にも一筋の光は見えるし、自分の存在意義を発見できる可能性はゼロではないと思う。
しかし、それが実現できるかどうかはまさに「自分次第」であり、そのための行動指針や学習計画すら、AIに頼る時代が訪れているのが現実だ。今後は、単にプログラムを書く技能だけでなく、AIと共存しながら効率的にプロダクトを生み出すプロセスをデザインできる人材が求められるのかもしれない。ただ、そんな広範囲なスキルセットを短期間で身につけることは非常に難しく、結局「AIを使いこなす者」と「使いこなせない者」の間に大きな格差が広がっていくのだろう。もしかすると、自分はその波に乗り遅れてしまうのではないか――そんな予感が拭えない。
「エンジニアだけど生成AIが出てきたおかげでもう限界」と嘆く自分が、この先どんなキャリアを積み上げられるのか、正直なところ自信はない。最悪の場合、技術の進化についていけずに職を失うことだって十分ありうるだろう。けれど、何もせずに指をくわえて見ているだけでは、本当に何も生まれないし変わらない。自分自身を鼓舞するつもりで言うが、結局は行動するしかないのだと思う。幸いにして、生成AIを使うためのハードルはそこまで高くない。オープンソースのプラットフォームや無料で試せるモデルだってある。とりあえずは、それらに積極的に触れながら、「AIだからこそ作れるものは何か」を模索するしかないのだろう。
このままいけば、自分が持っているプログラミングの知識やスキルは、今後ますますAIにとって代わられるかもしれない。でも、だからと言ってエンジニアという職業が完全に消滅するわけではないはずだ。AIがさらに発達したとき、逆に言えば「人間にしか扱えない領域」というのが再定義される可能性もある。その領域を早めに見つけて、そこへシフトしていくのか、それともAIと競合するのではなく共存しながら自分の働き方をアップデートするのか――どちらにせよ、自分自身の手で道を切り拓く覚悟が必要だ。
正直、今は「もう限界だ」と思う瞬間が頻繁にやってくる。理不尽なほどに速い技術の変化についていくのは大変だし、自分よりも若くて吸収が早い人材がどんどん出てくる。そんな中で、生成AIのような強力なツールまで活用されたら「自分の居場所は本当に残っているのだろうか」と不安になるのも無理はない。それでも、変化を憂うだけでは一歩も前に進めない。結局、AIが台頭する前も、プログラミング言語が進歩して自動化が進むたびに「もうエンジニアは不要になる」と言われ続けてきた歴史がある。それでもエンジニアは生き残ってきたし、新しい技術を取り込みながら活躍の場を広げてきた。今回の変化は今までより大きいかもしれないが、それでもまだ自分にできることはあるはずだ。
大事なのは、この逆境の中で諦めずに「次の一手」を模索し続けることだと思う。生成AIによって生まれる新しいニーズや、まだ誰も開拓していない領域を探りながら、自分なりの強みを見出していく。あるいは、AIが苦手とする部分――倫理や法的な制約、複数ステークホルダーとの調整など――をうまくリードできる立場に立つ。そんな方向性を模索するうちに、意外な道が開ける可能性だってある。目先の「限界」という言葉に呑まれて立ち止まってしまうより、嘆きながらでも手を動かし、AIも使いこなしながら活路を探っていくしかない――それが今の正直な思いだ。
言うは易く行うは難し。だけど、少なくとも「もう限界だ」と嘆いているだけじゃ何も変わらない。こんな風にどこかに文章として吐き出すことで、自分の不安や焦りを整理しているのが実際のところだ。そして、もし同じような不安を抱えているエンジニアがいるなら、互いに情報を交換し、励まし合いながら新しい時代に挑戦していきたい。生成AIがもたらす未来は決してバラ色ばかりではないかもしれないが、そこには想像もつかない面白さや可能性も潜んでいるはずだ。自分の「限界」を超えるチャンスでもあると信じて、今は前を向いて進むしかないのだろう。
2月になると決まって確定申告へのヘイトがあるけど、会社勤めの人間からすれば楽しいとすら思ってる
だって自分の仕事をお金という形で国が評価するんだぜ?しかも金を貰える
自分は会社で総務的なことをしてるんだが、毎年の年末調整は結構大変だ
そんなに大きな会社ではないので給与とかもエクセルやらを駆使している
ボーナスも月例の給与も年末調整の源泉徴収もシステムで作成したのちに、印刷してチェックする
あ、給与の基準が底上げされたからその差額支給もあって4倍かな
けどさ、年末調整ってどちらかというと総務にとっては1年間の振り返り的な意味もあるんだよ
自分たちがきちんと管理してこの日のために事前知識を蓄えてスケジューリングしてきた集大成みたいなもんだし
毎年のように新しい税制や給付金はあるし、今年は給与が一気に増額したし
いつの間にか扶養親族増えてる人がいるし、保険の記入欄がだいたいおかしい人いるし
そういうのを乗り越えて1年間お疲れさまって感じで源泉徴収をきっちり揃えるのは、大変だけどすっきりするよね
そんな年末が終わるとまた1年が始まる
その中で確定申告って自分が作った書類を「みてみて、こんなの作ったんだぜ」って税務署に見せるように感じる
特に今年は初めての住宅ローン減税なので、集める書類も色々ある
が、書類集めは苦じゃないし多いとも思わない
経費に上げるようなものがそもそも殆どないってのもあるし、契約書や登記は手元にあるからね
しかもe-taxが年々進歩しているのでどんどん確定申告は楽ちんになってる
今まで他人の給料計算にあてていたものを自分のために使うってんだから、なんかご褒美じゃん
これでお金返ってくるとか最高じゃん