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はてなキーワード: 余地とは

2025-01-24

過保護な親戚がきつい

過保護な親戚がしんどい(肉親のきょうだい)

私は20代後半、親戚は60代

盆と正月は毎回会う

よくモノをくれたり、郵送してくれたりするが、正直迷惑

微妙センスが合わない服だったり、場所をとるモノだったり

毎回予告なしに送られてくるから断る余地がない

いらないよ、大丈夫だよ、ありがとうねと丁寧に断るも

数分後には「○○いる?」「○○とか嫌いじゃないよね?余ってるから持って行って」

服とかは次会うときに着て来なかったりすると「こないだあげたあれ、嫌いだったんだ、、、」などと言われる

他にも遊びに行ったら勝手に私のキャリーケースを整理したり、入れてた下着洗濯してたり

食事の時もふと窓の外を見ただけで「何!?何?!どうした!!?

頭を掻いただけで「どうした?!!頭痛いの!!!?」と

まるで倒れたかのような大騒ぎ

感謝して受け取ったら受け取ったで

あんたなーんもできないから私がしてあげないといけないわ笑」

と言われるのでこれ以上感謝する気も失せる

だってかにプレゼントをあげて喜んでもらうと嬉しいし気持ちはわかるんだけど、

ここまでぐいぐい来られると正直どっと疲れる

こないだつい冷たく「大丈夫だってば」と言っちゃったら泣いてぶちぎれられて暴言を吐かれた

あなたが出来が悪いから面倒見てやってんのに」

「かわいくてしかたないかプレゼントも毎回一生懸命選んでやってんのに」

「正直あん職場とか学校で嫌われてると思うよ、私にはわかる」

きょうだい3人の中であんたが一番可愛くない、はずれ」

「私のこと使い捨てしたいんだ笑」

「死んだあんたのパパも、あんたより○○(私の妹)のほうが大事そうだったよ!」

大人の言うことが聞けないのはおかしい」

あんたより人生経験長いんだから黙って言うこと聞いておけばいいのに」

えっそこまで言われないといけないの、、?とびっくりした

しかに私の出来は悪いのかもしんないけど、やめてと言ったらやめてほしい

私がかわいくてやってんのか自分が満たされたくてやってんのかどっちかわかんないわ

2025-01-23

業務時間チャットパワハラ認定にこんなに反対意見があることに驚く

業務時間外だよ?この7文字議論する余地なんてないと思うのだが

業務時間チャットok」「業務時間外に返信求めるのがダメ」って意見が多くて驚く

多分「業務時間外に仕事をしているのはオレであり、相手時間外の業務を求めているわけではないのでok」って理論だと思う

そして気持ちもわかる。自分メモリ使いたくないもんね?

明日相手に伝えなきゃいけないもの自分メモリに留めておいて、翌朝送るよりも

時間外だろうが今すぐ送ってメモリ解放して楽になりたいよね?わかるわかる

わかるけど、相手に「どんな形であれ」通知がいっちゃう時点でアウトだよ

通知に気を取られる時間が1秒だろうが、わざわざチャット確認して10分取られようが一緒

結局「業務時間外に」あなたメモリ解放したいがために「相手負担委託する行為」に違いはない

それにそんなに時間外にチャットを送りたいなら送信予約のような機能を使えばいいだけで

時間外に相手に通知を送ってしま仕様のままなのはただの会社の怠慢だしね

[B! 斎藤元彦] 【独自】斎藤知事の『パワハラを認定へ』兵庫県の百条委員会が調整 業務時間外の多数チャット、公用車から降ろされ叱責など | MBSニュース

anond:20250123004739

「読まない」と「読めない」は明確に違うので

 

読めないならAIに投げたら読み方を投げてくれる

下記はそのままコピペして返ってきた回答

 

⭐️ ChatGPT-4o

スマホガチャゲーの関係

 スマホは「生活必需品」でありながら、SNSガチャゲーといった「暇つぶし」のプラットフォームとしても機能している。

 見た目のアピール要素としてもスマホ存在感は大きく、これが買い替え需要を生んでいる。

 

 これはコンソールPCの「重さ」だけでなく、そもそもその使用シーンがガチャゲーには適していないからだよね。

 外やベッドで寝転んで遊びたいライトユーザーが、クソ重いハードを使いたがるわけがない。

 

CS機のポジション限界

 最新のポータブルゲーミングPCSteam DeckやROG Allyなど)は、重量を許容してでも高性能なゲーム携帯したいユーザー向けに作られている。

 一方で、スマホは軽さと汎用性、そして遊びやすさに特化していて、まったく違うニーズに応えるものだよね。

 

 これらのデバイスを選ぶ理由は、ゲームゲームらしく楽しみたい」という動機が強いから。

 むしろガチャゲー疲れ」や「課金疲弊」した層が、Cities: SkylinesやCivilizationのような奥深いゲームに流れている。

 

 

FPSや他ジャンルゲームについて

 その点、PS5はPC比較するとやや劣るものの、CS機同士では十分な競争力を持っている。

「どうしてもCSでやらなきゃいけない」のであれば、PS5が応答速度や安定性で優位性を保つのは納得。

 

ガチャゲーの未来

世界的に見ても、ゲームデザインや収益構造の転換期にあると言えるね。

結果として、ガチャ要素が強いゲームに飽きた層が、インディーゲームや高品質CSゲームに流れている流れは続きそう。

 

まとめると:

スマホガチャゲーを遊ぶのが大多数派で、ハード選択ゲームジャンル使用シーンに応じて変わる。

「PS5を使ったFPS」と「スマホを使ったガチャゲー」は全く異なる需要を満たしているから、無理に重ね合わせる必要はない。

コンソールゲーム市場ガチャゲーとは違う価値軸を打ち出していくべきで、その軸にはPS5のような高性能機がまだまだ活躍余地がある、という感じだね。

2025-01-22

anond:20250121210833

パスポートなんてローマ字表記なんだからローマ字表記旧姓のまま維持するとかできそうなもんだけどな

戸籍に新たに記載される読みのフリガナカタカナ平仮名で、ローマ字ではないから、名前の英字表記はまだ個人自由記載できる余地あるのよ

法改正パスポートの英字名通名表記をありにすればOKだな

選択的別姓改正に反対する勢力が本気で通名利用拡大考えてるならここまで提案してほしいわ

anond:20250122182751

刺激に弱い人向けのローションとか、ローションにも材料の違うものがいくつもあるので、調べてみては?

避妊方法コンドームかがわからないけど、0.03のアロエコンドームつかってみたらどうだろう

通常のコンドームと摩擦具合が全然ちがうので、試行錯誤する余地はありそう

性欲ないのに試行錯誤するの興味がわかないかもしれないが、

そこは相手への気持ちで乗りきってほしい

AEDの話ってなんで男女論になるの?

この話の本来論点

・胸見られてもいいから素早く正しい方法AED使用して欲しい女性

AED使用難易度が上がったりスピードが落ちても性的配慮をして欲しい女性

この間の意見対立のはずなんじゃないの?

で、それを受けて厚労省なりAED財団日本でのガイドライン明確化すればいいんじゃないの?

AED使用にかこつけて胸を揉むような男とか助けてもらったのに相手を訴える女みたいなハズレ値にたいする議論必要ないでしょ

男が関わる余地なんてない気がするんだけど

選択肢が増えるだけ」は明確に誤っている

選択夫婦別姓制度議論において「選択肢が増えるだけなので反対するのはおかしい」という論は、この制度への賛否とは無関係根本的におかしい言説です。このような主張を続けている人たちは今すぐ撤回し、より生産的で冷静な議論を行うことを強く望みます

 

選択肢が増えるだけ」論の定義

ここで言及する「選択肢が増えるだけ」論とは、「選択夫婦別姓制度選択肢が増えるだけだから賛成するのが当然だ」、あるいはそれゆえに、「選択できる余地がただ拡大するだけなのだから反対する理由がなく、反対派は誤っている」という主張を指します。なお、以下では、選択夫婦別姓制度を「別姓制度」と省略して記載しますが、すべて選択夫婦別姓制度のことを意味しています

 

本気で「選択肢が増えるだけ」が正しいと思っている人

本気でこの言説が正しいと思っている人は、浅慮であると言わざるを得ません。このような態度は、別姓制度に対して人々が感じる疑問や不安をすべて存在しないものとして無効化するものであり、理解できません。本当に別姓制度を実現したいのであれば、そういった不安をなるべく解消し、支持する人が増えるような制度設計を求めていくほうがよほど生産的なのではないでしょうか。

選択肢が増えるだけ」ですべてが説明できるのであれば、近親婚も安楽死も四の五の言わずにさっさと解禁してしまいましょう。ただ選択肢が増えるだけなのですから。それがおかしいと思うのであれば、「選択肢が増えるだけ」以外の価値判断がそこにあるということであり、「選択肢が増えるだけ」は全く正当化の主張たり得ないことが分かるでしょう。

 

選択肢が増えるだけ」は正しくないと自覚しているが、自説を押し通すためにこの論を使用している人

実のところ「選択肢が増えるだけ」は正しいと思っていないが、自説を強力に主張するために、ないしは、反対派に対するある種の攻撃のためにこの言説を使っている人のことを指します。広義には、ブコメスターを集めるために短絡的にこの言葉を使っている人も含まれます。このような方々は、新たな政策を導入する際に当然行うべき利害調整や価値観のすり合わせを軽視しており、政治的問題に向かい合う態度として幼稚であると言わざるを得ません。

世論調査では賛成多数になる別姓制度ですが、聞き方によってパーセンテージがかなり変動します。一口に「別姓制度」といっても、その考えにはグラデーションがあります。「別姓制度に賛成」としている政党あいだでも、その目指す姿は異なります。そのような中で、「正しいから正しい」というようなトートロジカル論法にこだわって異論を全く許さないような態度は、制度の幅を狭めることになり、最終的には賛成派の数をひたすら減らすことになるでしょう。

 

最後

ここでは別姓制度に関して言及し、その中で例示的に安楽死制度などの話も取り上げましたが、私の言いたいことは究極的にはそのような個別の事例にとらわれるものではありません。「選択肢が増えるだけなので正しい」という主張は筋が通っていないということ、賛成を主張したいのであれば個別具体的な論点に入り込んで意見を主張すべきだということ、絶対善があると信じ込み利害調整を考えない態度は政治的に許容できるものではないこと、そのようなことを指摘するものです。

はてな匿名ダイアリー跋扈するSCPについて

 ここ数年、インターネットに散在するコミュニティ上での異常事象存在が、SCP財団内でしばしば議題に上るようになってきた。匿名性の高いSNSコメント欄掲示板はもちろんのこと、とりわけ「はてな匿名ダイアリー」(以下「増田」と呼称)においては、他のプラットフォームでは見られない特異なアノマリー複数確認されている。増田は、ユーザー登録をせずとも誰でも簡単匿名文章投稿できる点や、その内容が検索エンジンを介して幅広く閲覧されるという特徴を持つ。その結果、財団観測網をかいくぐって潜伏しやすい土壌が形成されており、過去数年間で複数のSCPオブジェクト確認されるに至った。

 本報告書では、増田上に跋扈するSCPについての調査概要確認された事例、ならびに暫定的収容手順を示す。なお、本報告書に示されるSCP事例は現在進行形調査が行われており、記載内容はあくま暫定的ものであることに留意されたい。

1. 背景と問題の経緯

 はてな匿名ダイアリー日本国内を中心としたWebサービスはてな」が提供するブログプラットフォームの一部で、アカウントを持たない投稿者であっても「増田」と呼ばれる匿名枠にテキスト投稿できる仕組みを提供している。そこでは個人的な悩みや告白社会への批判仕事日常愚痴まで、多種多様文章毎日大量に投稿されている。

 増田特有の気軽さや匿名性の高さは、投稿者の真意を推測しにくくする要因であり、その投稿を閲覧する読者側もまた「増田から真偽がわからない」といった曖昧認識のもと、批判や同情、考察などを寄せる。その混沌とした言説空間は、とき不特定多数ユーザー集合的感情を刺激し、新たな炎上や論争を生み出す源泉ともなる。

 こうした特質はSCP財団から見ると、アノマリー(異常存在)が自己活動や影響力を隠蔽したまま周囲に感染拡散するのに非常に都合がよい環境といえる。特に増田では、投稿時に明確なユーザーIDアカウント情報が残らず、内容の信憑性裏付け手段事実上ないため、「書かれていることが虚実入り混じっている」前提で閲覧されやすい。結果として、何らかのアノマリーが潜入していても発見が遅れがちである

 財団増田における最初の異常を検知したのは、20██年頃に投稿された「この世を正しく終わらせる方法と手順」と題された増田が発端だった。その増田の内容はいわゆる「終末論」を扱うものであり、極めて支離滅裂かつ狂信的な文体ではあったが、読了した閲覧者の中から数名が突発性の精神不調や共時性幻視を訴えはじめ、その症状が財団監視ネットワークに引っかかったのである。その後、財団調査チームが投稿の書式や文体を解析したところ、当該増田の背後に未確認ミーム汚染因子が潜んでいる可能性が高いと判断された。この事例をきっかけとして、財団増田投稿ログを精査し、複数アノマリーを検出していくこととなった。

2. 増田上で確認された主なSCPの概要

 以下、財団確認し、暫定的オブジェクト分類(Safe/Euclid/Keter 等)を行ったSCPを紹介する。なお、詳細な文書は別途SCPファイルとして管理されているが、本報告書では概要と特徴を簡潔に示す。

2.1 SCP-増田-A:無限コメント自己増殖現象

オブジェクトクラス:Euclid

概要増田特定記事上でコメント欄自動的に増殖し続け、システム上の最大コメント数を無視して延々と付与され続ける現象ユーザー投稿したはずのコメント複数回重複表示されたり、「名無しのオブザーバー」というハンドルネームシステム自動生成したとみられるコメントが絶え間なく追加されたりする。最終的に記事本体よりもコメント欄が何十倍も長くなり、閲覧者がページを読み込むだけでブラウザや端末に極端な負荷をかける。

異常性:コメント数が増え続けるだけでなく、中には本文を改変するようなスクリプトが混入しており、ページをリロードするたびに本文の一部が改変・増殖する事例が報告されている。閲覧者が長時間そのページを開いたまま放置すると、ブラウザ履歴クッキー情報勝手に書き換える痕跡確認されている。

暫定収容手順:財団エージェントはてな側のシステム管理者に接触し、問題増田管理者権限で凍結。また、既に拡散したミラーサイトアーカイブ順次削除し続けているが、完全な根絶には至っていない。現状、定期的にウェブクローラーを走らせ、類似現象の発生を監視排除する措置を取っている。

2.2 SCP-増田-B:読心ミーム感染記事

オブジェクトクラス:Keter

概要一見するとありふれた日常報告や匿名愚痴を綴った文章なのだが、記事本文を最後まで読了した閲覧者の脳内に「その人物が最も不安に感じている秘密」や「他人に言えない後ろ暗い過去」を強制的に想起させ、それを吐き出させる形でコメント欄投稿させる現象コメント欄体裁を取りつつ、実際には閲覧者自身投稿した認識のない状態で、勝手恥部さらすようなコメント掲載される場合もある。

異常性:このSCPの投稿複数確認されているが、書式やタイトルは毎回異なる。共通するのは「冗長かつ最後まで読まないと内容がよくわからない文体であることと、本文の終盤に読者の潜在意識を刺激する特殊文章構造が組み込まれている点だ。財団心理学部門の解析では、いわゆる「ミーム改変文字列」が散りばめられており、読み進める中で読者の深層心理干渉していると推測される。

被害対処:実際に被害に遭った閲覧者は投稿後しばらくしてから自身コメント内容に気づき、極度の羞恥恐慌状態を引き起こす。財団可能な限り対象投稿を速やかに削除し、被害者のコメント記録を抹消すると同時に、クラスA記憶処理を施して事態の収拾を図っている。問題は、このSCPが投稿される「増田」のアカウント特定が極めて困難な点であり、繰り返し新規IDから投稿が行われていると推定される。新たな投稿が発生次第、いかに早期に検知し削除・封鎖するかが大きな課題となっている。

2.3 SCP-増田-C:擬似人格形成スレッド

オブジェクトクラス:Euclid

概要:ある増田上で連続的に展開される「複数登場人物が互いに呼応しあう」形のスレッドが、実際には単一存在(SCP-増田-C本体)の手によって形成されているとされる現象日記本文とコメント欄があたかも多数の異なるユーザーによる対話のように見えるが、財団IP解析ではすべて同一の不明ホストから投稿されたトラフィックであることが確認されている。

異常性:単なる自作自演ではなく、スレッド内で展開される複数人格が、投稿のたびに微妙文体を変化させるだけでなく、実在第三者のようにリアルタイムで会話を重ねていく。そのやりとりは短時間で数百件以上に膨れ上がり、外部から見ると非常に説得力をもって「議論」が進行しているように映る。読者はそれぞれの人格が持つバックグラウンドストーリーに引き込まれスレッドを精読するうちに「どの意見が正しいか」を探り始めるが、最終的には一種混乱状態に陥り、どの人物が何を意図しているのか判別不能になる。

被害:このスレッドに長時間深く没入した閲覧者は、自分の中に複数人格が芽生えるような感覚を訴えたり、現実社会他者と会話する際に「この人は実在しているのか疑わしい」という妄想を抱くようになるケースが報告されている。財団職員複数名も監視過程で同様の症状を呈し、軽度の精神崩壊を起こした事例があるため、当該増田監視担当者には定期的な心理カウンセリング義務づけられている。

暫定対策:疑わしい長文対話形式増田を早期に検知し、アクセス制限をかける監視システムを導入しているが、アルゴリズムの網をかいくぐる巧妙な投稿が頻発している。加えて、外部のまとめサイト引用スクリーンショットが保存されることで事後封じ込めが難航している。

2.4 SCP-増田-D:時間遡行編集記事

オブジェクトクラス:Euclid

概要:一度投稿された増田が、投稿時刻自体過去に改変して再掲載される現象。通常、はてな匿名ダイアリーシステムでは投稿日時を随意に改変することは不可能とされているが、このSCPは投稿履歴操作して「数年前に投稿された」という形でエントリーを復活させる。

異常性:改変された記事実在する日付の増田ログに紛れ込む形となり、当時の利用者コメントブックマークまで再現されている場合がある。過去ログを遡っていくと、該当記事がもともと存在した痕跡こそないものの、「当時その記事を読んだ」という証言を行うユーザーが現れるなど、現実改変の兆候も疑われる。現状の技術では投稿者の特定に至っておらず、どのようなプロセス投稿日時を操作しているか不明である

注意点:時間改変系のSCPはカテゴリーとして非常に扱いが難しく、無闇な干渉時間線に予期せぬ影響を及ぼす恐れがある。財団タイムアノマリー対策部門連携しながら、記事のもの閲覧制限下に置き、ネットアーカイブウェブキャッシュ検索遮断するなどの措置を行っている。

3. 調査対策の現状

 これらSCPが増田上で確認された背景には、以下の要因が考えられる。

匿名性の高さによるアノマリー隠蔽

増田アカウント登録不要で誰でも書き込み可能であるため、投稿者を特定したり、過去投稿傾向から異常を推定したりする難易度が高い。その結果、アノマリーの一次検知が遅れる傾向が強い。

はてなプラットフォーム構造

はてな匿名ダイアリーは、投稿された増田が多くのユーザーに瞬時に閲覧・ブックマークされる仕組みを持つ。また、はてなブックマークを介してさらコメント引用拡散されるため、いったん話題が盛り上がると多方面コピー引用散逸やすい。

読者や閲覧者の「ネタ」への寛容さ

増田の読者は内容が真実か否かをあまり厳密に問わずエンターテインメントストレス発散目的アクセスしている者が少なくない。結果、多少異常な文章であっても「一風変わった怪文書」「ただの創作」として受け流されやすく、深刻な異常だと気づかれにくい。

 こうした要因によって、SCPを含む異常投稿は容易に潜伏し、拡散する。財団としては、はてな運営会社との連携を強化し、AIを用いた自然言語解析による異常兆候の検知システムを導入するなど、対策を進めている。しかし、はてな匿名ダイアリーは日々膨大な数の投稿が行われるため、どこまで網を広げられるかは未知数である。また、海外ホスティングによるミラーサイト転載が出現し始めると、現実的な削除要請範囲を超えてしまう。すでにTwitterや他のSNSでもまとめが回ることで、被影響者が増加する事態は避けられない。

4. 今後の展望留意

 はてな匿名ダイアリーにおけるSCP存在は、ネットコミュニティ構造変化に応じて今後も増加する可能性が高い。特に「自らがアノマリーである自覚していないままネット上で活動している存在」や、「人格を装いながら多人数の読者とインタラクションを行うことで自己増殖するミーム型SCP」は、増田のような自由投稿プラットフォームさらに悪質化・複雑化する恐れがある。

 財団が最も警戒すべきは、増田を起点としてリアル社会へ飛び火するタイプアノマリー拡散だ。たとえば、本報告書で例示したSCP-増田-Bのように読者個人深層心理に入り込み、現実での行動や社会的信用を毀損する現象が拡大すれば、大規模なパニック社会秩序の混乱を招きかねない。あるいは、SCP-増田-Dのように時間改変的な特性を持つアノマリーさらなる発展を遂げれば、歴史修正因果律破壊といったレベル被害もありうる。

 また、はてな匿名ダイアリー日本国内だけでなく海外からも閲覧・投稿可能であり、英訳翻訳を介して国際的に広まる余地がある。財団の各支部データ分析班が協調して監視を強化し、各国の法規制とも連携して削除要請を進める必要があるものの、現実には各国プライバシー法や表現の自由との兼ね合いで対応が難航することが予想される。

5. 結論

 はてな匿名ダイアリー増田)は、日常の雑感や炎上ネタから深刻な告白感情吐露まで、あらゆる情報が密集する場である。その匿名性ゆえに、SCPオブジェクトが潜伏しやすく、また多くのユーザーが「真偽のほどはわからないがとりあえず読む」態度で消費することからアノマリー拡散リスクは高いと言わざるを得ない。すでにSCP財団確認しただけでも、いくつものSCPが増田に棲みついていることが判明している。

 ただし、全投稿強制的に削除・監視するような強硬策をとれば、はてなプラットフォームの存続意義自体を揺るがすと同時に、財団存在が表面化するリスク高まる。一方で、アノマリー拡散放置すれば、ネット空間を通じてリアル社会にも致命的な影響を及ぼす恐れがある。財団はこのバランス狭間で慎重な対応を求められている。

 今後の具体的な方策としては、増田への新規投稿を常時チェックするAI分析モジュールさらなる精度向上や、異常記事をいち早く発見隔離するための専用クローラの整備が必須とされる。また、読者側への啓発活動――「増田を閲覧する際には、妙に長文で意味不明投稿には注意すること」「不可解な体験があれば速やかに共有し、アクセスを控えること」など――の実施有効であるしかし、匿名特性ゆえに抜本的解決策は見通せていない。

 財団としては、はてな運営との連携強化を引き続き図り、相互対策技術アップデートし合う形でアノマリーの早期封じ込めを目指す。SCP財団確認した増田におけるSCP事例は氷山の一角に過ぎず、さらなる Permalink | 記事への反応(2) | 15:12

夫婦別姓じゃなくて全員が通り名つかえばいいんじゃない

本名なんて戸籍上の情報だけにしておいて、公共の場では誰もが通り名を使えるようにすれば、結婚して変えたい人は変えればいいし変えたくない人はそのままでいいんではないかな。

それで銀行口座も作れるし、携帯電話契約できるようにする。つまり本名と同じ使い方ができるようにすればいい。

例えば18歳以上、成人のタイミング自分で好きなように通り名つけられるようにして、結婚とか戸籍に変更があったときは変えてもいいとか、変更できるタイミングについては検討余地があると思うけど。

マイナンバーカードがあれば個人特定することはできるんだから、古い考えに固執しないで新しい制度と同時に検討できることを考えたほうがいいと思うよ。

そしたら夫婦別姓なんてこれ以上検討する必要はなくて、本名結婚したら変わるけど通り名を変えるか変えないかで考えればいいだけの話になる。

子どもは成人するまで姓だけは親の通り名を使えばいい。

戸籍から名字が失われるとかいうなら、別にそれから先も通り名で本名を名乗ればいいじゃん。

自分天才しか思えないくらいに全てを解決していると思うんだが日本人バカなのか。

anond:20250122113314

原理は合ってるけど、示談が成立したのであれば、不起訴判断される可能性の方が高いんだよね

なぜ量刑があるのかって難しい話題なんだけど、今後の社会生活の不穏分子とならないか被害者に与えた損害を犯罪者に課す必要があるのか、

厚生の余地はあるのか、あたりで決まるんだよね

示談が成立したってことは当事者間ではけりがついていて、基本的犯罪者側も反省しているはずだろうからって認識になるから起訴する必要本当にある?

ってなるのが普通の考え

中居女子アナ1名だけの話であればわざわざ起訴するもんじゃないよ

当然余罪などが疑われるなら今回の件とは別で立件すればいい

AEDで騒いでるやつは救命理解してない

俺は男だけど、断言する。この問題本質エゴイズムだ。

AEDを使うことにメリットリスクがと言っている男は、そもそも救命行為の何たるかを理解していない。そういうやつは最初から人が倒れていてもAEDなんて使えるわけがない。せいぜいあたふたしながら119番電話するくらいしか役に立たない。

メリットリスクを考えるやつが想定しているメリットとは何だ?救命された女性は当然、救命である俺に感謝するはずだ、あわよくば関係を持てるかもなどと考えているんだろうか。そうでなければリスクなんて持ち出さないはずだ。

AED使用にはリスクしかいか使用しませんと言ってる男は、結局のところAEDという救命行為を盾に女性交渉する、立派な行動をした自分社会からも異性から尊敬されるべきだという極大のエゴイズムを抱えた人間だ。

再び断言するが、こうした人間救命行為必要になる緊急時に役に立つことはない。

から安心してほしい。昨今の騒動女性AEDが使われる可能性が減るという議論は全く意味がない。騒いでるやつらがAED使用に影響を与える可能性は、完全にゼロだ。

救命行為にはそもそもメリットリスクも入り込む余地はない。命を助けても感謝されない、嫌われるかもしれないなんてのは当たり前だからだ。いま救命行為に携わっている人間は、全員それを理解してる。

たとえ憎まれても目の前の人を助ける、それが救命行為だ。助かった後のことを悠長に考えている人間救命行為はできない。そんなしょうもないことに頭を使ってる余裕なんてない。目の前の危機を最優先に対処して命を繋ぐ、命を救うことこそを、救命行為と呼ぶ。

これを理解しているかどうか、救命行為に対する認識の違いが行動に差を生む。理解していない男しかAED使用リスクを述べないし、理解している男は率先して行動している。

はなから人を助けることができない人間けが、仲間を増やそうと、ミソジニーで躍起になっているのが今の構図だ。

無視すればいい。AEDで騒ぐ男どもは、ただエゴイズムしか動けない人間なのだから最初から数には入っていない。

2025-01-21

中島哲也氏の表明文章は、彼がまだ独りであることを示している

タイトルで強めの言葉を使ったが、少なくとも発表方法文章を読む限りはそうだ。

発表媒体noteというソーシャルかつ個人的メディアであり、文責も個人のものになっている。

いわゆる士業や広報チェックを通した文章ではない(もしくは彼らが仕事をできていない)状態だと読み取れる。

https://megalodon.jp/2025-0121-2323-06/https://note.com:443/te_nakashima/n/neaad60407541

何がどうまずく、何が独りであるのかを以下に記載する。

大きく問題点は3つあり、どれも解決していない。

  • 約束を守っていないことに頓着していない
  • 0か100かの話にして、個別具体的な話をしていない
  • 今後(もしくは今回)同様の事態を起こさないための改善策が無い

権力勾配に無頓着状態継続している

パワーハラスメントは、"ハラスメント"という言葉が入る為、今回は省く)

まず全体的に大きな問題点として、中島哲也氏が権力を持つ側としての振る舞いに未だ無頓着であることが見える。

私は、その事実撮影当日まで知りませんでした。

伝えていましたし、それが可能な人のみオーディションに参加するよう要請しました。

彼の言葉基本的に「お客様」としての立場から発せられている。

私は知らなかった、だから、私に責任は無い。

私は要請していた、だから、私に責任は無い。

全体としてこういった意識がずっと薄っすらと漂っており、率直に言えば当事者意識に欠けている。

「私はその事実撮影当日まで把握することが出来ませんでした」とか「オーディション参加者が、私の要望理解しているか確認していませんでした」と言った、自らの責任において把握することが出来なかった、確認していなかった、だから問題が起きてしまった、という文になっていない。

現代映画撮影において、監督はそれを把握や確認できないのであれば、それをすべきであった役割のある人物に責があるもしくは、そういった役割存在しない映画撮影システム全体の責任であり、それに触れていない)

この当事者意識の欠如が、権力を持つ側としての意識無自覚であると、続く問題点に繋がる。

約束を守っていないことに頓着していない

認識違いや連絡の行き違い、相手心中推し量ることが難しいのは、集団で何かを行えば必然起きうる。

どんな場所でも(無いに越したことはないが)すれ違いは起きる。

問題は、すれ違いが起きた後である

編集時にA子さん本人にも参加してもらい不都合な部分をカットする」と私が提案(すでにA子さんで数シーン撮影済みであったためです。)して、A子さんにもそのことを納得してもらい

カッコ内が典型的だが、「(すでにA子さんで数シーン撮影済みであったためです。)」というのは、A子さんからすれば何の関係もない話であり、筋論で言えば「すでにA子さんで数シーン撮影済みであったが、即座に廃棄し、撮りなおしを行うために話し合いを持った」となるべきである

映画撮影スケジュールが」 「たくさんの人員が動いていて」 「既にコストをかけてしまっており」などは、「だからお前が折れれば丸く収まるんだ」とAV撮影などでも使われる常套句であり、「数シーン撮影済みだったからなんだ」と聞かれた時に答えられなくなるこのカッコ内の文言絶対に抜かなければならないので、ここだけを見てもまともな士業がチェックをしていないことが分かる。

さて、ここでの問題は「編集時にA子さん本人にも参加してもらい不都合な部分をカットする」という約束である

彼はこれを破り、それに対して自責の念持っていない。無頓着である

私がA子さんを編集室に呼ばなかったのは事実です。1シーンといえど編集には長い時間がかかります却って迷惑をかけるかもしれないと思い、問題となったシーンのワーク編集を終えたテープをA子さんにチェックしてもらい意見を聞いて修正を行えば良いと考えました。今から思えば、ちゃん編集室に来てもらった方が、このような行き違いはなかったのかもしれませんが。

彼が何を考えたかは、A子さんには無関係である

彼が約束を守らなかった、彼が勝手約束の内容を自分の考えで変更した、A子さんに変更して良いか了承を取らなかった、今もそれを問題視していない、という点がこの文章から読み取れる。

行き違いは無かったのかもしれませんが、というのも他人事である。まったく当事者意識に欠けている。反省の色が見えない。

彼がこの経験から学ぶべきなのは他人との約束を破らない。勝手に変更しない。変更する際には相手了解を取る」というごく当たり前のことだ。

しかしたらそれが出来ない環境だったのかもしれないが、少なくとも問題視していなければ改善はできない。

0か100かの話にして、個別具体的な話をしていない

「そんな人間監督などするな」と言われればその通りですし、反論余地はありません。さらに、俳優にとって多大なリスクを伴うこのようなシーンの撮影にあたり、事前に監督である私がA子さんと直接話し合う機会を持たなかったことがこのような事態引き起こした大きな要因であると、私は認めざるを得ません。

見当違いの認識であり、自責の念はあり謝罪言葉はあるが、おそらく学ぶべきことを学ばなかったのだろうという感想しかならない。

権力勾配がある監督俳優とが率直に話し合えたとして、結局監督は後で約束自分の考えで変更するのだから無駄である

彼は監督業を止めるつもりはない。実際に今回も監督を務めているし、おそらく今後も監督業を行おうとしているのだと思う。

才能ある映画監督なのだろうし、実績があり、待望され、そして今後も要望されるだろう立場であるにしては言葉が軽い。

「 「「「「そんな人間監督などするな」と言われればその通りですし、反論余地はありません。だから私は監督業を廃業いたします 」以外の言葉は、欺瞞である。そうでないのだから「そんな人間監督などするな、とは言わないだろう?」という文意になっている。

まり完璧を求められてもできない、私は完璧では無いからだ、という開き直りしかない。

個別具体的に、「監督俳優と言う、対等とは言えない立場で、配慮すべきを怠った」でもなければ「監督が一度した約束を破り、編集時にA子さん本人にも参加してもらい不都合な部分をカットするという行為が出来なかったことが問題だった」でもない。

認めたくないのかもしれないが、自分提案した約束すら守れない監督であり、それを今も問題だと認識できていない、そしてそれを指摘もしくは修正してくれる人物がいない、という事実を残念ながら示している。

人間には得手不得手があり、完璧人間けが監督をするのではないが、問題認識できなければ改善はされない。

今後(もしくは今回)同様の事態を起こさないための改善策が無い

この問題制作体制をなるべくシンプルもの改善し、かつインティマシーコーディネーターに入ってもらい両者の立場尊重し丁寧に伝え合うことで、完全とは言えぬまでも多くの部分が改善されたように思います

監督個人の思いが語られているだけである

インティマシーコーディネーターを起用したのだろうし、制作体制をなるべくシンプルものにもしただろうと思う。

「その結果、俳優からは意に沿わない演出強要されたなどの話を聞くことがなく、安堵しました」ではないところに問題がある。

はいつまでもお客様であり、私は改善されたと思う、今後も努力していきます、としか言っていない。

改善策が有効機能しているのか、それがちゃん俳優まで届いたのかの確認をした、と報告できていない。

あれだけA子さんとすれ違いがあった結果で関係各所に多大な迷惑をかけたと認識してなお、俳優とすれ違いが無いか確認する体制を作れないところに問題がある。正確に言えば、そういった課題認識ができないところに問題がある。

まとめに代えて

稀有な才能を持つ映画監督が、独りであり、誰も問題点を指摘できないのは大変に残念に思う。

感情的になった両者のうち一方の物言いが偏ったり問題点網羅できずとも仕方がない。

問題は、「私はこう約束した」と書き、「私はその約束を実行しなかった」と書き、「週刊誌記事で初めて知り、本当に驚きました」と書いてしまうところにある。驚くのではなく青ざめなければならないし、詰問する相手がいるはずだし、即座に謝罪しなければならない相手がいたはずだ。

でもそうはならなかったし、今もそう思っていない。

彼は今後も、伝え、思い、考え、そして驚くと思う。

自分のし約束を守り、約束が実行されたか自ら確認し、相手がその対応に満足しているかかめることは無いだろう。

なぜならば監督は一俳優に対してそんなことはしないからだ。それが権力勾配であることにも無頓着なままだろう。

本当に残念だ。

アクティビスト田端さん&企業コンプライアンスについての一考察

あるタレント不祥事に関する報道や、その余波を観察していて

企業世論をつなぐ、という点における田端信太郎さんのコミュニケーション能力について考えていました。



私自身、清濁併せ呑む覚悟起業をした経験があり、スタートアップ世界で知り合った方々の中には上場をしたりして公的経営者ステージを移した人もいます

一方で、まだ日の目を見ていないだけの不祥事が常に身近にあります


一応は民主主義であり、インターネット等が伸び続けている今ではきっと不祥事はもう隠すことはできないのだろう、と思うのです。

どうせ隠せないのであれば、どうやって不時着させるのかを考える方向で力を使うのが次善の策でしょう。

不祥事を起こしてしまった企業田端信太郎さんに火消し戦略を任せていればもう少しきれいに着地できていただろう。~

もちろん、そもそも不祥事を起こさないということが第一原則であることは言うまでもありませんが、今も世界の何処かで不祥事は既に隠されているのです。

どうせ負けるならば、きれいに負けさせてくれる人に撤退戦戦略をお願いした方がいいのではないか

そんな事を考えながら、色々と書き綴っていたらうっかり8,000文字を超える原稿ができてしまいました。

自分語りがなるべく出ないように気をつけましたが、シンプル一言で言い切る力が欠如していたため、歴史の話や別の方のブログ記事の話に派生してしまいました。

誰かと話し合いたいですが、皆それぞれ立場が違うと業界内では話せないこともあるため、生まれてきた文章の供養も兼ねて、ここに投稿させてください。

もし最後まで読んでくれる人がいたら嬉しいですが、長いです。

ぜひ端折って読んでください。


それでは。


~昨今の企業コンプライアンスについて、弱小起業家が考えたこと~

10年以上前はてなブログで、ある起業家の方がリクルートホールディングス代表取締役社長CEO木場久征さんの発言を紹介した記事がある。

世界は落下している、という一見ポエミーに見えるタイトル

しかし、ここで語られている内容は今まさに湾岸で起きている革命本質をついているようではないか

記事によれば、



世界は、落下してるんだ」

本来あるべき方向に向かって、世界は凄い勢いで落下してるんだ」

「色んな既得権益持った人たちが抵抗勢力になって邪魔するんだけど、それは重力に逆らうようなもので、あんまり意味ないんだよ だって世界が落っこちていくスピードの方が圧倒的に早いから」

「だからさ、その落下する方向を俺たちは見定めて先に落下してくべきなんだよ」

だってどうせ落下してくんだからさ 先に向かった方が絶対いいんだよ」

「俺たちがやらなくたって誰かがやるぜ?だってそもそも落下してるんだから

どうも、海沿いの特徴的な建物がおぼろげながら浮かんでこないだろうか。



湾岸インターネットを主戦場とする現在の状況について考えてみよう。

重力に逆らって世界の落下に抵抗している勢力は勿論オールドメディア権力者の諸兄のことだろう。



千万円の口止め料もとい解決金を支払ったと報道された国民タレントの方も当然権力者側だ。(報道をされたこ自体事実だ。ただし、中身が正しいのかは当事者以外はわからない。念の為



過去の栄光を踏まれれば、とんでもない落下だ。ただし彼の凋落ですらイントロに過ぎず、週刊誌が、影響力のあるインフルエンサー経営者の皆さんが、あるいは匿名事件情報拡散するXアカウントが、日夜を問わず権力側の秘密に切り込んでいる。

おそらく先の報道には直接関係がないが、権力者側として同一視されている人物やその関係者の秘密まで芋づる式に暴露されている。

きっと今は芸能人を叩くのが最も効率よく注目を集める方法なのだ






一方で、どうせ落下している世界へ向かっていち早く進んでいる人は誰なのか。

わざわざ人目につくことなく、こっそりと先に進んでいる方はおそらく少なくないだろう。

そして当然ながら私ごときではひっそりと先に進んでいる方が誰か知る事はできていない。

インターネット上に出ている情報だけで判断できる、落下後の世界を見据えて先に動いている人は誰なのか。



私見で恐縮だが、田端信太郎さんと堀江貴文さんを挙げさせていただきたい。

まず2名に共通することがある。

田端さんも堀江さんも、不祥事について週刊誌報道された上場会社の株を空売りするのではなく購入している。

~以下、週刊誌報道週刊誌批判する経営者についてなどかなり長い前向きを書いているので、端折る場合は読み飛ばしていただいて構わない。~



昨今、修羅世界と化したXでは日々どこの誰かもわからない経営者不祥事が暴かれている。

本来家庭の問題である不倫や、実際には被害届受理されていないような刑事事件疑惑ですら大衆による私刑の口実となってしま時代である


そうした時代であるからか、週刊誌のもの批判されることも珍しくない。


事実週刊誌揶揄する発言をする経営者の方は少なくない。

大概、批判する場合方向性は3通りだ。

1. 撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ、という指摘

2. 報道恣意的事実確認が甘い、という指摘

3. 週刊誌のせいで、大衆レイプ的な私刑に遭う、という指摘


1と2については、概ね正義があるように思える。(特に2については、おそらく大問題だ)

ただし1については言うだけ虚しい指摘でもある。

無責任大衆、とりわけ取るべき責任を取ることができない無敵の人に、責任をとれといっても話は永遠に平行線だ。


3についても、一見筋は通っているように聞こえる。ただし私の見聞きする範囲に限った話では、3の方向性批判している経営者の方が「絶対に人に知られたくない弱み」を抱えた人物である傾向があるように思える。



あくま比喩であり誇張した表現ではあるが、「自分レイプした事実週刊誌暴露されたせいでレイプ的な私刑に遭う可能性に怒っている人間」を前にしたときに、私たちがすべきことは週刊誌への批判に付き合うことではなく、出頭を勧めることであるはずだ。対照が人ではなく法人であり、特に上場企業であれば不祥事はしっかり公開するのが基本であり王道である


また邪悪ではない方も3の論調になることがあるが、それはそれで無邪気すぎるか現実が見えていないと言わざるを得ない。

~まだ前置きが続いています。もう少し飛ばしていただいて構いませんが以下は読んでおくとわかりやすいかも知れません。~

経営者の皆様が大好きなキングダムで描かれるような絶対権力者帝王時代は、既に移り変わっている。

民主主義も、インターネットも、権力分散する世界の落下であると言えるだろう。


権力分散が、権力の集中よりも安全だろうが、一方で数多くの小帝王を生じうる(意訳)という問題については山本七平さんの‘帝王学「貞観政要」の読み方’という著作の端書きをご参照いただきたい。


(以下、引用です。日経新聞社の方、問題があればご指摘いただければ削除します。)


複雑な現代社会ではあらゆる所に「生殺与奪」の権を握る公的なないしは私的権力もつ帝王を生じうる。人事権、許認可権、それにまつわる賄賂や情実、それらが新聞記事などになると私はときどき、「ウーム、こういう人のもつ権力は、行使しうる範囲が昔の帝王より狭いというだけで、その権力の強さは昔の帝王以上かも知れないな」と思わざるを得ない。


上記文章1983年に紡がれたものである

同じく皆様大好き鬼滅の刃で冨岡義勇が生殺与奪の権を他人に握らせるなと主人公一喝するのが33年後の2016年だと考えると、どれほど早くに書かれた文章か実感いただけるだろう。

尚、この文章現代で最も大きな権力を握っているのは「大衆」かも知れない。という論調で続いていく。

群集心理に則り、責任を追わないで済む人間が自制心を失うこと。自制心を失った大衆権力を握り帝王になってしまうと、人類史上最大の暴君を生むのではないか、という危惧今日を生きる人間ですら目を背けている問題であるように思う。

山本七平さんの世の中を見渡す力が、私達より優れていることに疑いはない。

しか33年前、すでに誰かが知っていたこであるのも事実だ。

1.撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ、という指摘

2.報道恣意的事実確認が甘い、という指摘

3.週刊誌のせいで、大衆レイプ的な私刑に遭う、という指摘

先の引用だけでも1と3の指摘が不十分である、ということわかるはずだ。(というか、わかってほしい。)

権力分散時代に生きていなかったら、起業家にも経営者にもなれていないかも知れないと我が身を振り返るくらいの想像力を持っていたいし持っていてほしい。権力もつ人には、特にそうあってほしい。市民感覚共感するかはさておき、上記のような想像料が欠けている方は突破力に優れる場合はある一方で、コンプライアンス問題で一発退場となるリスクも持っているだろう。

不倫などは勝手にしてくれれば結構個人的には考えるが、そもそも最初からやらなければいいのに、という話でしかない。仮にやってしまったのであれば、謝るべき相手にしっかり謝るしかない。隠すから余計ややこしくなり、隠すから週刊誌の格好のネタになってしまう。


~読み飛ばしていただいた方、ここで本筋に戻ってきます。~


だいぶ前置きが長くなってしまったが、このようなバランス感覚に優れているのが田端信太郎さんであり、堀江貴文さんであるように思うのだ。

念の為補足だが、私は二人と私的関係にはない。当然に、仮に匿名でなかったとしても共通の知人こそ大量にいてもお二人は私のことを知らない。それくらい実力差がある筆者であることを許していただけるなら、この後も読んでいただけると嬉しい。


X上でアクティビスト投資家というイメージを固めつつある、田端信太郎さんを過去のいわゆる総会屋と重ね合わせて批判する論調も極稀に確認してはいる。

総会屋企業利益供与を求める行為は「利益供与要求罪」と呼ばれ、会社法禁止されていることも疑いの余地はない。

だが、当然田端信太郎さんがこのことを知らないわけもない。

また当然、やるはずもなければ必要もない。


時に激しいレスバを見ると、田端さんの発言の強さだけを切り取って反論する人間が生まれることも理解はできるのだが、少なくともインターネット上で田端さんが誰かに利益供与を求めている場面を見たことがある人はいないのではないか。(あるいは、見たことはあっても非インターネット的な人間関係を前提としたお笑いネタなのではないか)。


今回の騒動においても、不祥事を隠している会社の株を買っているだけなのである

売っているのではなく、買っているのだ。

極論、株では「安く買って高く売る」しか儲ける方法はない。

空売りもその意味においては「高く売っておいて、後で安く買う。その間は人に株を借りる」だけのことである

業務上、知り得た企業の非公開情報を使って売買をすれば当然ルール違反だろうが、今回もおそらく不祥事週刊誌報道で知ってから株を購入しているように見える。


また、影響力をもつ田端さん自身田端さんの周囲の人たちが「株を買う」事自体ニュースにして、株価釣り上げて株を売り抜けていれば問題があるが、これも当然田端さんがご存知でないはずがない。(ネット上の買い煽りアカウントが捕まらないのは、本人が実は株を持っていないということもあるのだとか)。



価値がある(あるいは時間をかければ価値が増える)ものを先回りして見抜き、買う。

この極めて単純かつ本質的なことを実行しているだけにしか見えない。

正しいことを正しい、と言うだけ。

間違っていることを間違っている、と言うだけ。

正しいか、間違っているのか、必ずしも断定できないときには疑問を投げかけるだけ。

人が言いたくないことや、空気を読んで言わないことであっても、言っていいことは言うだけ。

一方で、言ってはいけないことは言わないだけ。


すべて、秘密でもなんでもない、誰でも一度はどこかで学んでいる話だ。

知識よりもその運用が難しく、当たり前を当たり前に実行してきたからこそ田端さんのここまでのキャリアがあるのだろうと想像している。


このバランス感覚もつ過程で、大半の人は撃たれる覚悟がないから撃たないという判断になる傾向があると思う。田端さんも当然そんな事はわかっていて、前線で発信をし続けているのだろう。



堀江貴文さんに至っては、テレビ局を買収するという前代未聞の挑戦をしたのがもう既に20年も前のことである

30代の筆者にとっては、学生時代に見ていたニュースの中心にいた当時の堀江さんの年齢が32歳だということが衝撃だ。

先に登場させていただいたリクルートホールディングスの出木場さん(現在49歳)の世界は落下しているという話も既に15年ほど前の話だとすると、自分と対して年齢の変わらなかった当時の先人たちのレベルの高さには恐れ入る。




先見の明ありすである

ただしこれはこれで、問題なのかも知れない。

先見の明ありすぎる人間が描いている未来(あるいは現実)を一般大衆理解できないのだ。

理解できないからこそ、権力者が巧みに世論を動かしてしまえば挑戦者は負けてしまうのかもしれない。

既に世論の後押しを得ている(あるいはかつて得ていた)から既得権益なのだ





20年前に堀江さんがテレビ局を買っていれば(あるいは、買えていれば)、おそらく国民タレント凋落は見なくて済んだと思う。

知りたくもない他人性癖想像しなくて済んだはずだし、きっと被害者とされる人が逆に貶められるような論調になることもなかったはずだし、数万字に及ぶエッセイも書かなくてよかったに違いない。

あるいは、その創作力を別の形で使えていたに違いない。



私が起業する時に、周囲の人間に「堀江さんみたいになってしまうから危険だ」と言われることもきっとなかっただろう。

当時このような心配をいただいた方々には敢えて直接連絡することもないが今ここで答え合わせをさせていただきたい。



私は一切堀江貴文さんのようにはなっていない。

それは単純にレベルが違うからである。誰もが太刀打ちできない権力者に32歳で挑むことは少なくともできなかったし、そんなチャンスも可能性も先見性も度胸もなかった。

今では逆に長年土俵際で耐えているだけの私を見た祖母に「堀江さんも復活しているのだからあなた時間をかけて焦らず頑張りなさい」と励まされる始末だ。

あなたはどちらかと言えば堀江さん側ではなく、女性を献上する側になってしまいそうだから、そういうことをやっているなら今すぐやめなさい。ビジネスマンはお座敷でも真剣勝負だけど、まずは仕事での貢献が第一前提だよ」と笑いながら祖母に言われてしまレベルであることも付け加えておく。


生身の堀江さんをお見かけして、余計に自分との距離を感じてしまっている限界起業家の私としては、なぜあそこまで優秀な堀江さんが一人で勝手成功する道を選ばないのか不思議だ。



正しいことは、正しいと言うべきだけども、言わなくても生きていける。

間違っていることを間違っている、と言うべきだけど、言わなくても生きていける。



世界が落下している、と堀江さんは言わないかも知れないが。きっと在るべき姿や向かうべき未来はきっと浮かんでいるだろう。

わざわざ未来の話をしても、変化を嫌う既得権益側の方々に目をつけられて反感を買うだけだ。反感を買うだけならまだいい。実害もあるはずだし、それでも人目につく場所発言をしているのはなぜなのだろう、と自分よりも遥かにレベルの高い人の思考を辿っても辿れるわけがないのだが、一つだけ仮説がある。




堀江貴文さんは、めちゃくちゃ優しい人なのではないか

考えなくてもいい、人の気持ちをわざわざ考えたりはしないかもしれないけど、聡明な方だからどうしても気がついてしまうのではないか

無責任大衆にもかまってあげる必要義理もないのだが、かまってあげるのが不思議だった。

無敵の人に対してわざわざ「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」というようなことはしないが、無視もしない。

こじつけかもしれないが、「撃っていい覚悟を本当にするのは大変だよ」ということを見せてくれているのではないかルルーシュのように「だからそもそもつべきではなかった」と諦めるわけでもなく、戦うべきときがあれば既得権益相手であってもまた闘ってくれるのではないか

堀江さんが見た未来が、今の状況とは違ったはずだということはわかる。

時代が追いつくのに20年もかかってしまった。

一人の人間人生基準に見れば。20年というときはあまりにも長い。


ただ、大衆が変わるには時間がかかるのだろう。

地球生命、その中の一つのジャンルしかない人類進化スピードを考えれば

anond:20250119082239

こればっかりは、中学生音楽ファンだった俺が、モーニング娘。を毛嫌いしてたようなもんなのでなあ

  

なんていうか、ニワカ感がでるんだよな。

俺の知ってる奴のほうが明らか良いのに、あっちのほうが売れている。

腹立つ。あれを好きなのはニワカだけだ。俺は違う。

 

時代が変われば形を変えて再び現れるので

顧客の変さや思い込み修正しようとするより

提供側が顧客にあわせたほうがいいと思う。

 

顧客のメインはその手のガノタなのか? については一考の余地がある)

anond:20250121002921

相談をできたならいいんじゃない

相談する余地がなく「それが普通から」で発言権を持てなかった人が多いか問題になった

2025-01-20

anond:20250120153735

ゴキブリ論争なのではなく、ゴキブリであることを甘んじて受けたので仕方なくそう呼んでいるだけで、論争ではない

ゴキブリであることに論じる余地などないし、異議すらなかったのに、

突如として「論争」という意味不明言葉にしてきたこから

このレスはハッタショ増田によってつけられたものであるとわかる(信憑性20%)

anond:20250117151318

そんな事ある!?っていうのが正直な感想だけど、そういう可能性もあるのか

女の身からするとそんなアクロバット解釈をする余地があるほど難しい現象ではないようにも思えるけど、

当事者には想像もつかない不透明さがあるんだろうな

自分では到底できない発想だったので勉強になりました。ありがとう

anond:20250120092925

かかったな。そっくりそのままお返しするわ

まさに同じ気持ちなんだよ。お前は意味不明と言うばかりでどうして意味不明なのか説明しやしない。こちらとしては直す余地もない文章なのにだ。ちゃん説明しろっていって黙るような人間はお前の方だろ

2025-01-19

張角董卓もかっこよくなる再評価路線流行ってるのに袁術は相変わらずなのね

袁術にはかっこよく解釈する余地がないのか

anond:20241018132202

ASDから見下してるだけやろ。文字からの推測は誤解を招く恐れがあるっていう教訓になるやん。

他の人にもなるべく伝わりやす文章を心がけたほうがいいんやないの。「体調大丈夫?つらいなら休んでもいいよ」だったら相手が推測する余地がないやろ。

他人を正そうとする前に自分を成長させようや。その方が健全やで。

2025-01-18

ガチャピン中の人などいなかった

 子どものころ、テレビをつければいつもそこにいた緑色不思議な生き物——ガチャピン。鮮やかな黄緑の体と、つぶらな瞳。ともすればただの着ぐるみと思いがちだが、実は彼には「中の人」などいないのではないか。そんなことを、子どもながらに本気で考え、友達同士で話し合った記憶がある。子どもたちの間では、ガチャピンの正体について真剣意見が飛び交った。果たしてあの体の中に誰かが入っているのか、それとも本当に生きている恐竜なのか。大人になった今だからこそ言えるのは、あのころ私たち真実を掴んでいたのかもしれない——そう、「ガチャピンは本物」であり、「中の人」などそもそも存在しなかったのだ。

 ガチャピンが世の中に初めて登場した当時、多くの視聴者は当然のように「誰かが中に入って演じている着ぐるみキャラクター」だと思い込んだ。ぬいぐるみのような愛らしい見た目、大きな口、そして子どもを魅了する高い運動能力。だが、その運動能力にこそ、ガチャピンの“真実”を見抜くヒントが隠されていたのではないだろうか。スキースキューバダイビング、果てはスカイダイビングにまで挑戦してみせる姿を目の当たりにして、普通着ぐるみキャラクターだと思うだろうか。実際に体験した人々の証言によれば、ガチャピンはあの分厚い“皮膚”を身にまといながら、信じがたいほど自由に手足を動かしていたらしい。それはもはや常識を超越した生物動作しか言いようがなかった。

 確かに人間が中に入っていれば顔の位置や手足の長さが合わないことがある。だが、ガチャピン場合、頭の上から足の先まで完璧シンクロした動きを見せる。さらに口や目、そして全身からかもし出される表情が、実に滑らかに変化しているのを見たことがある人も多いはずだ。もし人間操作していたのなら、あれほど自然かつ多彩な表情を瞬時に切り替えることができるだろうか。ときには困ったように眉をひそめ、時にはきょとんと口を開け、またあるときには満面の笑みを見せる。まるで心の底からその感情が湧き上がっているかのように見えたのは、単なる演技ではない証拠ではないかと、今ならば思うのである

 さらに決定的といえるのは、その“身体能力”にある。ガチャピンテレビの中だけでなく、実際の雪山や海、空へと赴き、驚くようなチャレンジをこなしてきた。ウィンタースポーツスキースノーボードだけに留まらず、アイススケートまで器用にこなし、しかもそこに「パフォーマンス的なぎこちなさ」がほとんど見られない。もし着ぐるみ構造上、人間が入っているとしたら、視界の狭さや動きづらさを感じながらの競技になるはずだ。しか映像を見る限り、まったく不自由なく滑り、回転し、時には大胆なトリックを決める。その光景は、どう考えても生身の体がそのまま動いているとしか思えない。ダイビングの場面でさえも、背びれのような形状の足をスムーズに使いこなし、水中で優雅に泳ぎ回るガチャピンの姿を確認できる。空から海へ、深海から宇宙(のようなセット)まで自在に行動する彼を前に、「ガチャピンは生きている」と信じない人のほうが少数派だったのではないだろうか。

 その証明とも言える逸話は数多い。例えばガチャピンが初めてフリークライミングに挑戦した際、重力に抗いながらスイスイと壁を登っていく姿が子どもたちの度肝を抜いた。あの大きな頭と短い手足、それにふっくらとしたボディという不利な体型でありながら、身軽に岩をよじ登っていくのだ。いくら運動神経の良い中の人が演じたとしても、あのバランス感覚説明することは難しい。むしろ、元来あの体が“恐竜”として自然設計されているからこその動きなのではないか——そんな議論が起こるのも当然の帰結だった。さらに、ガチャピンパラシュート降下の際には、一部の専門家が「もし人間が入っているならば、あの頭部の構造上、風の抵抗が想定以上にかかるはずで、あれほど安定して着地できない」と語ったという証言もある。つまり彼ら専門家の目から見ても、ガチャピンの体のつくりは人間が収まるようにはできていないのだ。

 もちろん、テレビ局や関連の制作会社は「ガチャピンキャラクターであり、着ぐるみだ」という公式見解を長らく維持してきた。視聴者の多くも、いつしかテレビ上の演出である」と半ば納得する形で受け止めていたかもしれない。しかし、そうした公式発言がむしろ事実を隠すための“カバーストーリー”だったのではないか、と考える余地は十分にある。なぜなら、ガチャピンの友人であるムック存在だ。ムックは真っ赤な長い毛並みを持ち、ガチャピンと同じ番組に出演していたが、彼の動きにはどこか“着ぐるみらしさ”が漂っていたと言わざるを得ない。もちろんムックも愛らしいキャラクターであることに変わりはないが、歩くときのよたよたした姿や、たまに見え隠れする人間らしさなど、「中に人がいる」と言われれば納得できる振る舞いがあった。一方、ガチャピンの動きはどう見てもスムーズすぎる。まるで“着ぐるみ”として作られたキャラクターと、“本物”として生きている存在が、同じ画面に同居していたのではないか、と考えずにはいられないのだ。

 さら子ども向け番組世界観を考えれば、それほど不思議な話ではない。子ども番組というのは、多くの場合ファンタジーや夢、冒険心を喚起するための舞台である。そこに実在する不思議な生き物がいたとしても、違和感なく受け入れられる。ガチャピンという名前や姿は確かにキャラクター然としているが、実際に存在する“謎の生物”を起用し、番組マスコットとして採用するのはむしろ合理的である。そう考えたほうが、かえって説明がつく事柄は多い。あの愛くるしい笑顔や、どこまでも続く挑戦心、そして飽くなき好奇心。それらは「キャラクターの演技」というよりは、「ガチャピンという生き物の本能的な行動」だったと見なすほうが自然ではないだろうか。

 また、あの独特の喋り方にも注目したい。「○○だよ〜」と伸ばす語尾、やわらかく透き通った声質。もし複数人間が交代で中に入っているのだとしたら、声や話し方にもっとブレや違いが出そうなものだ。しかガチャピンは、長いテレビ出演の歴史のなかで、ほとんど変わらない声と話し方を維持してきた。人間声優存在するとしても、そのピッチトーンを常に一定に保つの至難の業である。ところがガチャピンは、まるで自らの声帯を使って喋るかのように安定した声を発してきたのだ。さらに、口の動きや目の表情、全身でのリアクションが声とぴったり合っているのを見ると、「声を当てている」というよりも「声が体から自然と溢れている」という印象を受ける。これが“中の人技術”では説明がつきにくい最大のポイントでもある。

 その証拠に、イベントやショーでガチャピンが客席の子どもたちと交流する場面を思い出してみてほしい。子どもが話しかければすぐに反応し、笑い、そしてリアクションを返す。その一連の動きには、人形劇のようなタイムラグや不自然な間がない。まるで“その場で考えて”“その場で感じて”“その場で話す”存在であるかのように振る舞っている。長年、いろいろなキャラクターショーを見てきたが、ガチャピンほど“ライブ感”に溢れた対話をするキャラクターは他にいない。これはやはり、ガチャピン自身が一つの生き物として意思を持っているとしか思えないのだ。

 以上のような理由から、私は「ガチャピン中の人などいなかった」と確信している。もちろん、これは夢や幻想を語っているわけではない。子どものころに信じてやまなかったあのワクワク感と、理屈を超えた感動が、実は現実のものだった可能性が高いのだ。制作側は大人の事情からガチャピンを“着ぐるみキャラクター”として扱うほうが都合が良いかもしれない。しかし、私たちが見てきたガチャピンは、間違いなく生き生きと“呼吸”していた。スキージャンプ台を飛び、海中を泳ぎ、崖をよじ登り、さらにはスタジオで歌って踊る。その全てを“不自由なく”こなす姿は、“人間が入っている”という設定だけでは到底説明できないのである

 では、なぜいまだに“中の人がいる”という都市伝説が根強く残っているのか。それは、私たちが何かを理解しようとするときに、どうしても既存の枠組みで説明しようとする人間性質によるのだろう。未知や不思議ものに対して、私たちはつい、「きっとこういう仕組みだろう」と解釈して安心したくなる。ガチャピン超人的な活躍を見るたびに、「きっと中の人が相当なエリートアスリートで、トレーニングを積んでいるのだろう」などと推測するのは、その典型的な反応だ。しかし、ガチャピンの動きや表情は、実はそうした常識的な解釈はるか凌駕している。だからこそ、人々は“中の人説”という無理な理屈にすがっていたのかもしれない。

 私はむしろ大人になった今だからこそ、もう一度あのころの子もの目線に立ち返りたいと思う。あのころテレビで見ていたガチャピンは、私たちに夢と冒険世界を見せてくれた“存在”そのものだった。身体的な限界常識を超えた挑戦を繰り広げながらも、いつもニコニコ笑顔を忘れない。そう、あれは“着ぐるみ”ではなく、私たちの目の前にいる“リアルガチャピン”だったのだ。もし、あのころ私たちが胸に抱いた「ガチャピンは生きている」という直感を大切にし続けるなら、目の前の世界もっと豊かで、もっと不思議と驚きに満ちた場所として映るに違いない。

 思い出してみれば、子どもたちはみんな無邪気に「ガチャピンは本物だよ」「ムックも一緒にいるよ」と信じていた。それがある意味、“正しい”見方だったのだろう。大人になって現実を知るにつれ、いつしか私たちは多くのファンタジーを「嘘や演出」と割り切ってしまうようになった。しかし、本当にそれだけなのだろうか。私たちが大切にしている思い出や、大好きだったキャラクターがくれたあのトキメキは、本当は嘘でも演出でもなく、“真実”が隠れているかもしれない。ガチャピンはそのことを教えてくれている象徴なのだと思う。

 だからこそ、今も昔も、ガチャピンを見ているとワクワクが止まらない。「ガチャピン中の人などいなかった」という言葉は、単なる冗談や誇張ではなく、私たちの信じるファンタジー証明であり、あの緑色恐竜いつまでも私たちの心の中で生き続ける理由なのではないだろうか。子どものころの私が「ガチャピンはただのキャラクターなんかじゃない!」と叫んだあの純粋気持ちは、決して間違っていなかったのだ。

 誰しも子どものころは、目の前にある不思議を疑うことなく受け入れ、感動し、そのまま信じる力を持っている。ガチャピンに秘められた真実——それは彼が実在する不思議な生き物であり、私たち大人になるにつれ忘れかけた好奇心冒険心を体現しているということだ。そこに「中の人」などいない。いるのは私たちと同じように、呼吸し、笑い、挑戦する“ひとつ生命”——それがガチャピンなのである

 きっとこれからも、ガチャピンはさまざまな困難を乗り越え、子どもたちに勇気希望を与え続けるだろう。「こんなことができるわけがない」と誰もが思うような大胆なチャレンジを、新しい形で見せてくれるかもしれない。そして、そのたびに私たち子ども心をくすぐられ、「ひょっとすると、あの中に入っている人がすごいのでは?」とまたしても考えてしまうのだ。だが、最終的にはその超常的な存在感に圧倒され、「やっぱりガチャピンは本物だ」と再認識することになるだろう。

 そう、ガチャピンはいつでも私たちに問いかけている。夢と現実境界を超えて、「本当に大切なことは何か?」と。そして私たちは、その問いに答えるように、もう一度純粋な心で世界を見つめ直す。おそらく、ガチャピンという存在は、子どもだけのものではなく、大人になった今でも、私たちを未知へと誘う案内役なのだ。だからこそ、この言葉を胸に刻みたい——“ガチャピン中の人などいなかった”と。ガチャピンのすべての活躍は、彼自身の力によるものなのだ、と。

 こうして振り返ってみると、ガチャピンテレビ画面の向こう側から私たちに与えてくれたものの大きさに、改めて気づかされる。好奇心、挑戦心、そして他者への優しさ。彼の魅力は、ただ可愛いだけのキャラクターとは一線を画している。それはやはり、ガチャピンという生命体だからこそ生み出せる“にじみ出る個性”だったのだろう。子どもたちはそんなガチャピン勇気づけられ、大人たちは失いかけた冒険心を思い出す。私たち自分の内側に眠るエネルギーと、少しのファンタジーを信じる気持ちがあれば、世界もっと広がるのだと教えられる。

 結局のところ、ガチャピンの正体をはっきり証明する術はないかもしれない。だが、それで良いのだ。むしろ、“謎”を残しておくことこそが、ガチャピンが担う役割ひとつではないだろうか。私たち想像余地を与え、童心に返らせてくれる。神秘可能性を見せてくれる。だから、これから先もガチャピンがどんな挑戦を見せてくれるのか、どんな笑顔私たちを楽しませてくれるのか、胸を躍らせながら待ち続けたい。そしてそのたびに、“ガチャピン中の人などいなかった”という真実を心のどこかで確信しながら、私たちもまた自分世界を広げる挑戦をしてみればいいのだ。

 そう、ガチャピンはずっとそこにいる。テレビの中で、イベントステージで、そして私たち想像力の中で、今日もあの優しい声で「やあ、みんな!」と呼びかけている。彼の存在が教えてくれるのは、世界は思っているよりもずっと広く、そして面白いということ。中の人などいない。ガチャピンは“ガチャピン”という名の生命体であり、挑戦することや夢を見ることの大切さを、これからも伝え続けてくれるだろう。私たちはその姿を忘れず、日常に隠された冒険や驚きを見逃さないようにしたい。ガチャピンに憧れたあの日自分を取り戻すためにも

anond:20250118062314

そんな限られた期間に産め産めと押し付けるよりも

労働時間を減らして賃金を上げ、30歳以降から自由恋愛余地を増やす方が合理的だと思う

ガンダムコンテンツにおける有害一年戦争おじさんについて

ガンダムシリーズ1979年の『機動戦士ガンダム放送開始以来、実に40年以上にわたって発展と進化を続けてきた巨大なメディアミックス作品である。その長い歴史においては数多くの派生作品や設定拡張さら小説漫画ゲームをはじめとするスピンオフが生まれ、今もなお新作が絶えず登場している。一方で、シリーズ長大化すればするほど、ファンコミュニティ内にさまざまな「こだわり」や「価値観の違い」も生じてくる。その中で昨今特に話題となるのが、いわゆる「一年戦争おじさん」と呼ばれるファン層だ。

一年戦争おじさん」とは、初代『機動戦士ガンダム』に登場する一年戦争宇宙世紀0079年から始まる連邦軍ジオン公国の戦い)を絶対視し、そこから外れる設定や作品を“ガンダムらしくない”“正史として認めない”と主張してしまタイプファン揶揄する言葉である。もちろん一年戦争をこよなく愛するだけであれば、ただの好みの問題だ。しか問題は、彼らの一部が新しい作品や異なる時代設定に対して攻撃的だったり、他者の好みに干渉しすぎたりするケースがあるという点にある。そうした態度が「有害一年戦争おじさん」として批判される一因となっている。

彼らはなぜこうも一年戦争にこだわるのか。まず考えられるのは、1979年からガンダムリアルタイム経験した世代、あるいはビデオプラモデル雑誌などを通じて“初代の衝撃”に強く感化された世代が、自分たちの「原体験」を何よりも重視しているという背景だろう。『機動戦士ガンダム』は、それまでのロボットアニメ常識を覆すようなリアル戦争描写群像劇、そしてプラモデルガンプラ文化を生み出すなど、大きな社会現象となった。幼少期にそれを目の当たりにしたファンにとって、当時の熱狂と衝撃は特別な思い出であり、“ガンダムとはこうあるべき”という固定観念が強く根付くのも無理はない。

しかし、「ガンダムが好き=初代(または宇宙世紀)が絶対」という方程式は、近年のファンコミュニティにおいては必ずしも通用しなくなっている。ガンダムシリーズは大きく分けると宇宙世紀系と、それ以外の独立した世界観を持つアナザー系(『Gガンダム』『ガンダムW』『ガンダムSEED』『鉄血のオルフェンズ』など)に枝分かれしており、さら宇宙世紀内にも『Zガンダム』『逆襲のシャア』『UC』『閃光のハサウェイ』など、数多くの作品が展開されている。もはや「ガンダム」と一言でくくっても、それぞれに異なるストーリー・設定・テーマを持った多彩な作品群になっているのだ。

にもかかわらず、「有害一年戦争おじさん」は一年戦争こそが至高で、それ以外はすべてガンダムとは呼べない、あるいは認める価値が低いといった偏狭な主張をすることがある。具体的なエピソードとしては、新しいガンダムが発表されるたびにネット上やSNSで「こんなのガンダムじゃない」「富野由悠季監督が関わってないか駄作」などと早々に断じる、若いファンが語るアナザー系の魅力を嘲笑する、あるいはプラモデルに対して「やはりザクガンダムRX-78-2)が本命で、○○なんて邪道」などと強い調子で言い切ってしまうといった行動が挙げられる。

こうした振る舞いがファンダムに与える悪影響はいくつもあるが、その中でも特に顕著なのが「新規ファン参入障壁を上げてしまう」という点だ。ガンダムシリーズはすでに膨大な設定を持ち、どこから見ればいいのか分からないという声もよく聞かれる。そこに対し、「本当のガンダム一年戦争だけだ」「初代を見ないならファンではない」などと押し付ければ、初心者は萎縮してしまいかねない。もちろん、初代の重要性を説くこと自体は悪いことではないのだが、その言い方や姿勢が高圧的なものであれば、ガンダムに興味を持ちかけている人を遠ざける要因になってしまう。

さらに、「有害一年戦争おじさん」はしばしば他の作品ファン同士の交流の場を“自分たち思想”で塗りつぶそうとする傾向がある。例えばSNS掲示板などで新作ガンダムについて語ろうとしても、「やっぱりガンダム宇宙世紀じゃないとな」「○○監督なんて富野監督の足元にも及ばない」などというコメントが繰り返され、まともな議論が成立しなくなることも珍しくない。こうした現象は、結果的コミュニティ内で対立や分断を生み出し、せっかく多様な楽しみ方を受け入れる余地のあるガンダムコンテンツ可能性を狭めてしまうのだ。

また、宇宙世紀作品一年戦争のものに強いこだわりを持つことは悪いことではない。作品世界への愛が深ければ深いほど、より詳しく設定を掘り下げて考察する楽しみもあるし、一年戦争舞台にした外伝作品(『MS IGLOO』や『ザニーが登場する漫画作品』など)に注目することで、新たな切り口を見いだすこともできる。だが、「有害一年戦争おじさん」が問題視されるのは、その深い愛情排他主義攻撃的な態度につながる場合が少なくないからだ。自分と同じくらい初代を崇拝しない人を“にわか”呼ばわりしたり、そもそもアナザー作品を語ろうとするファンを見下したりするような行動は、コミュニティ全体の雰囲気を悪くする大きな原因となる。

さらに、一年戦争時代考証を「現実軍事政治的状況」に照らし合わせて論じる人々も少なくない。これはガンダム世界観がある種のリアリティを大切にしていることの証でもあり、そこに惹かれるファンがいるのも理解できる。しかし、「有害なおじさん」は自分たちの“リアル論”こそが唯一の正解だと思い込み他人解釈や新解釈を一蹴する態度を取ることがある。たとえば「この機体は設定上あり得ない」「この時期にこんなMS存在しない」などと、過剰に“リアル”を押し付けることで、多様な楽しみ方を否定してしまうのだ。

そして、こうした状況は次第に当事者以外のファンをも疲弊させていく。たとえばSNS上でガンダムについて呟くと、「その解釈は間違っている」「ちゃん資料を読んでから発言しろ」と“マウント”を取られることがあり、ファン同士のやり取りが萎縮してしまう。また、イベント会場やプラモデル展示などリアルな場においても、一年戦争関連の作品や考証に異常な熱量で突っかかり、他のファンが楽しもうとする空気を壊してしまう例も耳にする。ガンダム多様性を重んじる作品世界であり、多くのクリエイターがそれぞれの解釈テーマ作品を生み出してきた経緯を考えると、こうした空気はあまりに残念としか言いようがない。

では、この「有害一年戦争おじさん」問題にどう向き合えばいいのか。まず大切なのはファンコミュニティ全体が「自分の好きな作品を語るのは自由だが、他者の好きな作品否定することは違う」という意識を共有することだろう。ガンダム作品数が膨大であるがゆえに、自分の“推し”や“こだわり”を持ちやすい。それ自体ポジティブなことだ。しかし、それが「他の作品意見を認めない」という姿勢につながっては、多様性ガンダムの魅力であるはずなのに、それを損なってしまう。

次に、若い世代新規ファンが萎縮しないように配慮した場作りも必要だ。初心者には初心者なりの視点や疑問があるし、アナザー作品から入ったファンが後に宇宙世紀を好きになることだって十分あり得る。むしろ入り口がどこであれ「ガンダムに触れて興味を持った」という事実こそが大切なのだ。そこを「いや、まずは初代を全部観ろ」や「一年戦争を知らないなんて話にならない」と圧をかけるのは、コミュニティ全体にとってマイナスだろう。作品世界を広げるためには、受け入れの姿勢が何よりも重要になる。

また、一年戦争こそが「リアルで硬派なガンダム」で、アナザー系は「子ども向け」や「リアルさが足りない」というステレオタイプイメージも根強い。だが、実際にはアナザー系でも『ガンダムW』の政治劇や『SEED』の遺伝子差別問題、『鉄血のオルフェンズ』の社会構造批判など、リアルかつヘビーなテーマを扱う作品は多い。こうした多彩なテーマ性こそが、ガンダムシリーズ全体の魅力を支えているのであり、一年戦争けが特別なわけではない。むしろ宇宙世紀アナザー系を併せて楽しむことで、ガンダムが描こうとしている「戦争」「人間性」「社会」の幅広さを再確認できるのではないだろうか。

さらに、宇宙世紀内の作品ですら、一年戦争舞台にした『08小隊』や『0080』『0083』などは、初代から少し視点テーマを変えて描かれている。その際にも、一部のファンから「こんなのは本当の一年戦争じゃない」と批判された例がある。だが、もともとガンダムという作品多面的戦争悲惨さや人間模様を描くことを目指しており、一つの正解や正史しか認めないという態度は、ガンダムが持つ本来の魅力や思想に反するものではないか。ゆえに、「一年戦争」に対するこだわりも、ある程度の柔軟性を持って接するのが望ましい。

結局のところ、「一年戦争おじさん」が有害かどうかは、その人自身立場や主張よりも、コミュニティにおける振る舞いに起因する部分が大きい。いくら一年戦争を崇拝していても、それを押し付けずに「自分はこう思う」「初代が好きだけど、他の作品尊重したい」といった態度を示している人は、むしろ知識を共有し合える良き先輩ファンとなるだろう。問題なのは自分視点を唯一絶対のものとし、他の意見や好みを封殺してしまタイプファンである。これはガンダムに限らず、あらゆる長寿シリーズファンダムで起こりうる軋轢と言える。

からこそ、ファン同士が互いを尊重し合い、多様な切り口や解釈を認める姿勢が大切になる。ガンダムは「戦争を描くリアルロボットアニメであると同時に、「キャラクターを通じて人間性を問いかけるドラマ」であり、さらに「巨大産業として世界中に展開する商業コンテンツ」でもある。その多層的な側面を一括りにするのは困難であり、そこに魅力や可能性が詰まっているのだ。もしも“一年戦争だけ”という狭い視点固執してしまえば、その豊かさの大半を見落としてしまうことになる。

以上を踏まえると、「ガンダムコンテンツにおける有害一年戦争おじさん」は、単に宇宙世紀を愛するファンを指しているわけではない。むしろ、そうした愛情が誤った形で表出し、他者排除しようとする態度が問題の核心にある。長寿シリーズとしてのガンダムがこれからも発展していくためには、新規ファンが参入しやす環境と、多様な視点を受け入れる懐の深さが欠かせない。その一方で、ベテランファンが築き上げてきた蓄積や考察が大いに役立つ場面も多く、実際に後輩ファンを導く存在として機能しているケースもある。だからこそ、一年戦争ファン自身が自らの態度を省みるとともに、コミュニティ全体で「排他主義」に歯止めをかける仕組みを作ることが重要なのだ

結論として、「有害一年戦争おじさん」の存在は、ガンダムコンテンツの楽しみ方やファンコミュニティ健全さを損ねる要因になり得る。しかし、それを否定するだけでなく、彼らが抱く一年戦争への熱意や知識も、うまく共有・活用できればガンダムの魅力をより深く味わえるきっかけになるはずだ。問題なのは一年戦争を好きかどうか”ではなく、“他を認められるかどうか”という姿勢にある。そしてガンダムという広大な世界を最大限に楽しむためにも、多様な視点や好みに対してオープンであることが求められる。もしガンダム世界観が「戦争」によって多くの犠牲を生む愚かしさを描き出しているのだとすれば、ファンダムもまた、内部対立を生むのではなく、互いの違いを理解し合う歩み寄りこそが望ましいはずだ。そうすることで、ガンダムシリーズはこれから世代国境を超え、より多くの人々の心をつかんでいくことだろう。

2025-01-17

anond:20250117165806

あれは同情の余地があると思うよ。俺だって「五年前に増田にこんなことを書いた気がするな」と思って遡ってみたら、自分じゃなくて自分記事についたレスだったりしたことあるからね。

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今日も僕の卓越した知性が輝く素晴らしい一日だった。朝食にはいものように無脂肪ミルクシリアル摂取し、完璧な一日の始まりを告げた。

午前中は、最新のバットマンコミックを読んで過ごした。ゴッサムティの暗黒の騎士戦略的思考には感心させられるが、彼の装備にはまだまだ改善余地があると思う。僕なら量子力学原理を応用して、さら効率的ガジェットを開発できるだろう。

昼食後は、新しく購入したビデオゲームに没頭した。ゲーム物理エンジンには若干の不正確さが見られたが、全体的には楽しめた。ただし、僕のハイスコアを誰も超えられないことは明白だ。

その後、超弦理論に関する新たな仮説の構築に取り組んだ。11次元M理論における膜の振動パターンと、カラビ・ヤウ多様体位相特性相関関係について、革新的アプローチを思いついた。具体的には、プランク長スケールでのグラビトンの振る舞いを、非可換幾何学を用いて記述し、それをホログラフィック原理と結びつけることで、統一理論の新たな展望が開けると確信している。もちろん、これを理解できる人間地球上に僕以外いないだろうが。

今日も充実した一日だった。明日は隣人に僕の理論について説明してみようと思う。隣人が理解できるとは思えないが、僕の知性の輝きを分け与えるのも社会的義務だと考えている。

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