はてなキーワード: 音楽とは
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B'zダサい論争を通じ、HR/HM視点から活動の継続が音楽評価に与える影響を考察。B'zの成功はパクリ論争を超えた昭和歌謡路線の独自性によるもので、人間椅子との対比からも音楽マーケットにおける売上重視の現実が浮かび上がる。
B'zダサい論争が一部で話題になっていたが、主に90年代サブカルとか渋谷系からの視点で語られているようなので、90年代当時のハード・ロックとヘヴィ・メタル(HR/HM)好きから見た当時の状況を交えて今思うことを殴り書きしてみる。
本題の前に殴り書きの趣旨を書いておくと、唐突だがみうらじゅんは昔から「キーポン」、つまり「keep on」が重要だと主張している。そして「keep on」の次に何が来るかは重要ではないともいっていた(と記憶している)。「マイブーム」を一般名詞にまで浸透させ、一大産業に発展した「ゆるキャラ」の名付け親でありながら「ゆるキャラ」にとどまることなく意味のない「マイブーム」を続けているみうらじゅんが主張していることだから説得力があるともいえるが、個人的にも今強くそう感じるようになっている。学生時代から主に音楽の面でサブカル界隈をそれとなくフォローしてきた身として、今現在そう感じている内容を整理してみたい。
兄が学生時代にハード・ロックのコピーバンドをやっていてそのコピー曲を聴いていた流れで、『Burrn!』誌で酒井康の紙面アジテーションに感化されてヘヴィ・メタルにハマり込んでいた。酒井康がしきりに「世界で最も売れたアルバムはビートルズでもなくディープ・パープルの「Machine Head」だ」と連呼するのを真に受けていたし、ディープ・パープルのライバルであり洋楽ロックが専門の渋谷陽一が好きなレッド・ツェッペリンはヘヴィ・メタルとは違う「軟弱」なハード・ロックに思えた(なお「Machine Head」は80年代当時最も売れていたかもしれませんが2020年代の歴代アルバム売上ランキングではトップ100にも入っていないようですね)。
その一方で『Burrn!』誌創刊とほぼ同時期に刊行された伊藤政則『ヘヴィ・メタルの逆襲』を繰り返し読みながら、(まあ当然の話ではあるが)ビートルズやローリング・ストーンズなどの有名どころのほかに80年代には名前も聞いたことのないバンドが60年代から70年代のブリティッシュロック興隆期に活躍していたことを知った。
そうして大まかな流れをつかみながら実際に曲を聴いたりしてみると、80年代当時の音楽シーンから見るとメロディー、音質、演奏テクニックも古臭くて長く残るようなものじゃないなと納得することが多かった(これはもちろん80年代当時の感覚であって、80年代の音楽はまた別の意味で古臭くて長く残るようなものはむしろ少なそうですけどね)。
その後90年代に大学のHR/HM寄りの軽音サークルに入り、幅広く音楽を聴いているサークル仲間に教えてもらって普段テレビやラジオで流れる以外の音楽の世界にも触れようになると、音楽性もさることながら長く音楽活動を続けることこそが一番の評価軸になるのではないかと思うようになった。もちろん、長く続けてればいいということではなく、当時の社会、文化情勢で受容される音楽が変わる以上長く続けるかどうかは結果論でたまたまかもしれないし、今聴いている音楽も後世に残るのはわずかなのだろうなどとも思いながら、結局同じスタイルやコンセプトで続けることがその音楽性を唯一無二のものとしていくのだなと実感するようになったのである。
その時期はまた、80年代にHR/HMのギタリストとして『Young Guitar』誌にも登場していた松本孝弘がB'zというよくわからないユニットを結成し、その曲がテレビ主題歌やCMでバンバン流れるようになっていて、軽音サークルでは総じて「松本孝弘が魂を売った」と批判的だった。一方で「イカ天」からイロモノ的にデビューした人間椅子は地道にアルバムを出し続けていて、サークルの後輩がコピーバンドを組んだりしてライブでは大いに盛り上がっていた。
長く音楽活動を続けることこそが一番の評価軸になるというのを身にしみて感じるようになったのはアラフィフになったここ数年である。そのきっかけはいくつかあるが、音楽でいえば人間椅子が2010年代にSNSで海外からも評価されるようになり、オズフェストに出演したり海外でツアーを実施したりするまでにブレイクしたことである。少しずつ変遷しつつもコンセプチュアルなルックスや江戸川乱歩や太宰治を強く意識した歌詞と3ピースのハードロックという音楽性は一貫しており、海外から高く評価されるようになっているのを知ったときはなんとなく嬉しい気持ちになった。個人的にそこまで熱心なファンではないが、「ヘヴィ・メタルの逆襲」といえば伊藤政則ではなく人間椅子というHR/HM好きも多いだろうし、青森のローカルテレビ番組で披露していたキング・クリムゾンの「21st Century Schizoid Man(21世紀の精神○常者)」や「Lark's Tongues In Aspic Part2(太陽と戦慄パート2)」の完コピには感動したものである。
なお余談だが、人間椅子の曲がディープ・パープルではなくブラック・サバスに影響されたものであることも長く活動を継続できた理由のひとつであろう。個人的な感覚ではあるものの、ディープ・パープルは今となっては古いロックの定番としてなら聴けるが70年代という時代でしか通じない遺物に感じてしまう。奇しくも酒井康が80年代中ごろにディープ・パープルの影響を誇示していたように、同時代とそのフォロワーにのみ影響を与えたバンドだったのではないかと思われる(重要なバンドではないということではなく時代によって評価が変わりやすいという趣旨です。為念)。
そして人間椅子とは対照的だが、2024年の紅白歌合戦でサプライズゲストとして登場したB'zもまた、活動を継続することで唯一無二のポジションを獲得している。2024年放送のNHK「Songs」で松本孝弘自身が語った話では、80年代から浜田麻里やTM Networkなどのサポートギタリストとして活動しながら、その活動に限界を感じて自分のバンドを結成しようとメンバーを探していたところ、所属事務所のボイトレに通っていた稲葉浩志を紹介されて88年に結成したのがB'zだった(大意)とのこと。
松本孝弘が感じた「限界」がどのようなものかまでは深く語られなかったが、80年代中盤以降アメリカではLAメタルが全盛期でトップチャートを賑わせていて日本からもラウドネスが進出する一方、国内では聖飢魔Ⅱがテレビの歌番組で活躍していたり浜田麻里がソウル・オリンピックのNHKイメージソングを歌っていた時代である。あくまで個人的な記憶だが、もしかすると日本でもHR/HMからメジャーバンドが生まれるのではないかくらいの勢いはあったと思う。
しかし松本孝弘は、NHK「Songs」で子供のころに聴いていたテレビ主題歌や歌謡曲が好きだったとも話しており、その勢いそのものに「限界」を感じていたのだろう。つまりガンズやメタリカのようにHR/HMをそれとして打ち出すのではなく、テレビ主題歌や歌謡曲としてテレビで普通に流れるものに落とし込まなければメジャーになれないと考えていたのではないか。そしてその目論見は、現在まで長く活動を続けて唯一無二のポジションを獲得した松本孝弘にとって正しかったというほかない。
(というと「日本HR/HMのモンスターバンドならX Japanがいるだろ!」との意見もあると思いますが、HR/HM好きからするとX Japanはドラムとベースは申し分ないもののボーカルとギターの要素が不足していて、ルックスからもビジュアル系と認識してしまうんですよね。)
B'zのモンスターぶりは特に売上で際立つ。それはやはりB'zの所属事務所ビーイングによるところが大きいと思われる。ビーイングを創設した長戸大幸は吉田拓郎に憧れて上京し、歌謡曲でヒットを連発していた阿久悠とも交友関係があったとのことで、その事務所の方針と松本孝弘の考えがあいまってB'zは着実に売上を伸ばしていった。
B'zはボーカルとギターという最小限のユニットを活かしてデジタルな音源を取り入れ、洋の東西を問わずその時々のヒットチャートや古いロックを取り込んだものとなっている。たとえばツェッペリンやエアロスミスなどの洋楽ハードロックをモロパクリするところなどは、同じく洋楽を強く意識してパクリも辞さなかった(というより積極的にパクった)昭和歌謡曲の路線を忠実に踏襲していることが伺われる。当時から「パクリではなくオマージュだ」という擁護はあったものの、現在では結局それも擁護というよりB'zのテクニックや解釈への正当な評価と認識されるようになっている。これもまた長く活動を継続したことの成果である。
ただし、人間椅子もいわばブラック・サバスのパクリだし、アメリカ、イギリスを中心とした洋楽への憧れがあって独自に解釈した結果が音楽性に反映しているという点はほぼすべての日本(というより非アメリカ、イギリス圏)のバンドに共通しているだろう。B'zがほかのバンドより批判されやすいのは、良く言えば今風のフレーズに古今東西のメロディーを織り交ぜる昭和歌謡曲路線を踏襲しているから、悪く言えばほかのアーティストの有名フレーズのみならずあまり有名じゃない曲のメロディーまで一部ではなく全編に隠すことなく入れ込みながらも知っているとニヤリとするどころかなんでそこまでまるまる?と思うくらいパクり方に節操がないと感じられる(※個人の感想です)からという程度である。
HR/HMのギタリストだった松本孝弘を知っているHR/HM好き(自分もその一人)からは主に昭和歌謡曲的パクリについて反感を買っていたが、ミリオンセラーの前にはそんな一部のマニアの批判など無力である。むしろそんな批判を松本孝弘が聞いても「だからHR/HMでは限界なんだよ」という思いを強くしただけだろう。その意味では、人間椅子とB'zを比較すること自体がHR/HMの限界を如実に表しているともいえる。人間椅子がブレイクしたといってもB'zのように単独アリーナツアーをすることはないし、和嶋慎治がギブソンからシグネーチャーモデルのSGを送られることもおそらくない。売れるバンドになることが目的ならB'zの方向こそが目指すべきものであり、人間椅子の方向は長く困難で実入りの少ないいばらの道が続く。
さらに余談だが、ブリティッシュ・ロックを出自としながら時代に応じて曲調もルックスも変えて長く活動を続けているのがローリング・ストーンズである。ストーンズもまたデビュー当時からパクリとの批判が大きかったが、次第にオリジナリティが認められていった。B'zはローリング・ストーンズの手法にも学んでいるのかもしれない。
もちろん、この文章には若干の皮肉を込めている。ただしそれはあくまで若干であり、残りの大部分は長く活動を継続したことに対する私なりの敬服である。
音楽マーケットはあくまで「市場」であり、売上こそが正義である。パクリでもなんでも売れ続けることによって批判は称賛に変わり、その音楽性や演奏力といった音楽という表現方法が内包する軸とは別に、売上という別個の軸が評価基準として自己実現する。B'z以前から日本の歌謡曲は洋楽のパクリとして始まっており、これは日本のみならずアメリカ、イギリスの影響を受けた音楽マーケットを持つ国でも同様であろう。なんなら上記のとおりローリング・ストーンズに限らずアメリカ、イギリスでもパクリ(盗作)をめぐっては訴訟だらけである。ここで「パクリ」の定義に踏み込む余裕はないが、どのように定義するにせよパクリを否定することは売上によって成り立つ現在の音楽マーケットそのものを否定することになり、現実的ではない。
ここまで読んでいただければお分かりだと思うが、この文章は人間椅子の方向に面白さを感じる人間が書いている。「keep on」の次に何が来るかは重要ではないかもしれないが、それによって得るものは時代や人間関係などの環境や運によって大きく異なり、おそらくそれは本人が意図的に選ぶことはできない。その現実のどうしようもなさに対して諦念するほかないのである。
人間椅子とB'zは個人的に対比しやすいから取り上げただけであり、売上がギネス認定されたB'zを一方の頂点とすることはできるかもしれないが、人間椅子はその他のバンドの一つに過ぎない。売上ではB'zに及ばずとも単独でアリーナツアーできるバンドやミュージシャンはそれなりにいるし、人間椅子のような活動の積み重ねを前提として運よくブレイクしたバンドも探せばそれなりにいるだろう。明確な売れ筋狙いが功を奏した場合もあれば、愚直に一つのスタイルを貫くことが評価される場合もあるというだけの話である。いずれの場合にせよ長く続けて評価されるためには、その水準を満たす表現力や演奏力などの本人の能力はもちろん、各関係者との良好な協力関係などの制作体制、そして固定ファン層を安定して構築することこそが重要である。
長く続けること自体が本人や関係者、ファン層のそれぞれの厳しい条件をクリアしてようやく成立するものであり、さらにそれが売上などで評価されるかは時代や社会情勢によって変わってしまうという現実に対しては諦念するほかはないが、それを実現したB'zとその関係者、さらにファン層にもやはり敬服するほかないというのがとりあえずの結論。
参考
https://yamdas.hatenablog.com/entry/20250106/being-sibuya
おれの知識では、歴史的には数学、物理学、音楽は哲学の範疇だった。
だから哲学だけ好きで、数学や物理学には興味がないというのはちょっとハテナではある。
ゆえに理屈の上では、深く哲学を理解すれば数学や物理学は避けては通れない…ので、数学やらない哲学ファンはニワカだからやめた方が無難だし、数学やれるならあとあと潰しが効くので心配要らない…となる。
高校生で18〜20世紀とかの西洋の哲学が好きという場合がよくあるが、おれの理解ではそういうやつは過去の学問でしかなくて、研究の最前線ではないはずだ。
そういう過去の⚪︎⚪︎学に憧れて、深く学んでみると、最新の⚪︎⚪︎学とはかけ離れていて、萎えたという例は一般的に結構聞く。
例えばオリバーサックスは子供の頃化学が好きで、地下室に研究室を拵えていたのだが、彼が好きだったのは新元素が盛んに探索され、周期表が開発された頃の、つまり19世紀の化学だったことに徐々に気づく。当時の化学の最前線はほぼ量子力学じみたもので、オリバーは興味を持たなくて、結局両親と同じ医師になったのだった。
他にも動物大好きで大学入ってみたらほぼ化学やITで意味不明だったという話もよくある。
そういう、気持ちを削ぐ話は考えれば次々出てきそうだけど、高校生の若者に聞かせたい話ではない。
数学とかも哲学に並んで卒業後どうするの?という話題が出るが、教員免許を取る事を条件に、好きに専攻を選んで良いという家庭が多いのかなという感じはする。最終的には教師になれば、とりあえず収入は確保されるから。
しかしおれの勝手なイメージでは哲学って国立はお寺の子息(継ぐので就職の心配がない)とかが通ってて、私立では嫁入り修行で大学行かされる女子(適当でいいので就職の心配がない)の無難な専攻というイメージがある。
どっちにしても、親御さんに楽させられるかは別として、本人が食うに困らないくらいの収入は、何やってても頑張れば達成できるし、堕落すれば法学部だろうが工学部だろうがメソメソ生きることになってしまうので、ケースバイケースでもある。身も蓋もない話だが。
国立大学の学部卒なら、ふつうにイオンとかには就職できると思う。だからそんなに心配は要らないかもしれない。よく知らんけど。
なんかもうガンダムの新作と聞いても一ミリもワクワクしないんだけど、これって俺の感性がおかしくなったからなのか?『機動戦士ガンダム00』や『機動戦士ガンダムUC(ユニコーン)』を楽しめたあの頃とは、何もかもが違いすぎる。「新作!」なんて言われても、ただの手抜きリサイクル商品にしか思えない。
正直なところ、今のガンダムには新しいものなんて何も感じられない。毎回同じようなモビルスーツやキャラクターのデザインの使い回し、懐かしい音楽のリメイク。この世界で一体何を盛り上げようとしているのか、いい加減にしてほしい。新しいアニメを持ち上げるファンたちも、ただのトレンドに流されているだけに見える。毎回同じようなストーリーを繰り返して、ついには「これがガンダムだろ?」と開き直る始末だ。
もしかしたら、俺の期待が高すぎるのかもしれないけど、あの熱狂的だった頃の作品だけが輝いて見えるのは仕方がない。結局、今見るべきは懐かしの名シーンばかりで、新作には微塵の興味も湧かない。なんだかんだ言っても、リースされる作品はただの金儲けの手段でしかない。本当に創造性のかけらも感じられないし、ただの商業的なコピペになり下がっている。
正直、期待する方がバカを見る気がする。新作がどんなものでも、せいぜいが過去の栄光を引きずった薄っぺらな内容だろう。だからこそ、期待するのではなく、その冷めた視点から「またか」という冷笑を送るのが賢明だと感じてしまう。やっぱり、ガンダムは過去のものなんだな。新しい時代には合わないのかもしれない。進化を期待していた僕が間違っていたのか、ただの悲劇でしかない。
もう年明け回が配信されているけれども、いま昨年末のひっかかりニーチェを見ている
その中で「ずっと緊張感が続く番組(ex.M-1)ばかりだとテレビを見て貰えなくなる。ながら見が出来る番組も作らないと駄目」っていう話をしていて
本当にそうだと思う
にけつッ!!とかですら「しっかりと向き合って」見ている。「二人が話しているだけの番組なんだから『ながら見(聞き)』でもいいんじゃあないか?」と思うけれども、何故かしっかりと見ている
だから「出勤前に鏡に向かいながら流す番組(配信)」のチョイスには気を使う
そして、そういう片手間に見られる番組はそれなりの数無いと困る。で、それと同数くらい「しっかりと見る番組」も無いと困る
テレビがその「どちらかだけ」になったら非常に困る
正直、寝る前に見るYou Tube動画ですらチョイスに悩む(ショート動画はなるべく見ないようにしている。きりがないので)
別に誘導瞑想の動画でも良いんだけど(疲れ切ってて直ぐ寝たい時は実際それとかASMRだけど)、ちょっとだけエンタメ性が欲しい時の丁度良い動画が難しいねえ
あと、入浴中に見る動画もすごく難しい。シャワーで音声が聞き取りづらくても大丈夫で、シャンプー流してる時に目を瞑っていても(途中が見れなくても)困らない動画
まあ、音楽や自然音+環境映像とかでも良いけど、もうずっと長い間そういう丁寧なマインドで暮らしてないので
ネトフリとかに課金してて全然見てないんだけど、「外国の料理番組」とかは出勤前や寝る前に最適なのかもしれないな。豪邸紹介とか
なぜなら、映像にせよ音楽にせよ、最終的には人間に知覚可能でなければ意味がないからだ。人間の眼や耳に入力される段階では、コンテンツデータは完全な形にデコードされていなければならない。そのレイヤーから情報を取り出せば、コピーすることも生成モデルの訓練データにすることもできる。
であるとすれば、究極的に著作物を保護するためには、人間の脳に手を入れるしかない。鍵情報を埋め込んだ脳でしかデコードできない形でコンテンツを暗号化するのだ。
かくして、脳埋め込み型コピーガードは、2035年の段階で技術レベルで実用化のめどが立ち、2040年代初頭には一般に普及し始めた。人体内で機能するナノマシンの開発、およびそれによる脳神経ネットワークへの複号化モジュール埋め込みに関して、主導的な役割を果たしたのが人間ではなくAIの研究者であったことは、歴史の皮肉というべきか。
2060年を迎えた現在、一般的な人間の五感には、ウォーターマークを加えられた映像やノイズに置き換えられた音声、黒塗りの物体がいくつか知覚されているのが普通である。サブスクリプションに入っていないコンテンツは金を払ってアンロックしない限りどんな方法でも視聴できないし、また個々人も他人に見られたくない情報には鍵をかけることができる。例えば、近年の住宅は、正規の手続きで入室しない者に対して、家屋内を黒塗り表示する仕組みを備えていることが多い。これにより空き巣や覗き行為は原理的に不可能となった。この機能は、体内にナノマシンを埋め込んでいない人物に対しても有効でなくてはならないため、暗号化パターン投影機など各種デバイスによって実現される、最新のテクノロジーである。
著作物保護や犯罪抑止の面で大きな進展をもたらした脳埋め込みデバイスであったが、その反面、資本主義的精神と結びついて、「金を払わずに(権利を持たずに)事物を知覚するのは罪である」という倫理観を醸成していった。いわゆる「働かざる者認識するべからず」である。
最近若い世代を対象に行われた意識調査では、犯罪者など社会秩序を逸脱する者、また納税額の小さい貧困者や被生活保護者が、自然の景観や公共コンテンツを享受することに否定的な感情を持つ割合が5割に届こうとしている。十代に限定すればこの割合は6割を超える。この結果を踏まえて、侵襲型知覚制御端末の法制化に関する検討も始まっているようだ。
遠隔医療に遠隔ロボット手術も、ロボットのリモートコントロールも、遠隔地ダンスレッスンや音楽セッション、IoTマルチセンシングも軍事におけるリモート攻撃もIOWNなしの既存の通信網でできてるが。
その手のちょっとでも知識があればいつものやつねってわかる浅いユースケース以外に何かあるか?
ほら応えてみろよ具体的にさ。網の目状の古いNTTネットワークでしか必要としない構想「IOWN」でないとできないことを例示してみてくれよ。
一方で一つの処理で何往復もするデータセンター間の通信の遅延のは非常に重要で、これに比べると末端の遅延はそんなに大きな問題ではない。
日本の曲でコールアンドレスポンス形式のもので有名なものとしては、学園天国(ヘーイヘイヘイヘーイヘーイ)と矢沢永吉(のってくれ ha ha)が思い当たるが、いずれも洋楽的で黒人音楽ルーツのコールアンドレスポンスである。
一方、ウルトラソウルは、リズムが「いちにのさん、はい」であり、またレスポンスも「はい!」であることから誠に和の要素が強い。
当日,会場での仕込みが皆無で、ウルトラソウッ!に対してハイッ!をナチュラルに実現できたということからも、実に興味深いことだと思っている。
音楽の楽しみ方って本当はもっと自由でヒットチャートや人気グループやライブ・フェスみたいな商業から離れたところにも沢山あるはずなんだよな
俺は40年生きてきて去年人生で一番心を震わされる音楽に出会って、それが民族楽器を取り入れたオーケストラのゲーム音楽だった
これを聞いてるとまさに増田の言うように架空の風景、人物、感情が想起されて引き込まれるんだ
架空の国家への忠誠心すら感じるくらいでこういう音楽はバンドじゃ表現できないし、簡単に誰かと共有できるもんでもないと思う
『B'zは見れるときに見ておけ』という増田を読んだけれどまったく刺さらなくて自分は音楽に関しては完全に複製メディアネイティブなんだなと自覚できた。
複製技術がなく音楽の再現性が著しく低かった時代はライブ演奏こそが音楽そのものだったのだろうけれど自分はその時代の遺伝子も記憶も受け継いでいないのだ。
ただ誰もいない場所で好きな姿勢で好きな音楽を好きなだけ聴いて頭の中で好きなだけイマジネーションを発揮して架空の風景や人物や感情を創り出しては霧散させることこそが自分にとっては自然で真の音楽の楽しみ方だった。
過去にライブに出掛けてみたことがないわけではないし行ってみれば楽しい体験ではあったけれどどこか周りの人達と同じように楽しめていない見えない壁のような何かを感じていた。
もともと"That's hot"の意味で炎🔥の絵文字を使っていたのが、やがて炎のほうがメインになった、という流れらしく、少なくとも英語圏に絵文字が普及して以降のスラングであるようだ。ひょっとするとTikTokあたりが発祥かもしれない。
俺はタトゥー入ってる人を偏見の目で見たり差別的な扱いするの嫌いなんだけどさ
要は「世間的に忌避感があったり、良くないものだと言われたり、害のあるものだと言われたり、不良のやるものと認識されてるもの全般」を「躊躇いなくやっちゃう人」っていうのは
犯罪に対しても抵抗感が薄いだろうという予想は普通に立つんだよね
これはつまり
タバコ、ピアス、髪を染める、不良が好きそうな音楽を聞く、不良が好きそうな車に乗る なんかはそうだし
整形する、海外旅行でマイナーな地域へいく、音楽や漫画や芸事の道へ進む もたぶんそうだし
起業して社長になる、フリーランスになる、ジョブホッパー とかもそうだと思うんだよね
SNSで過激なことを言う、動画投稿して注目を浴びる も当てはまると思う
冒険心があるとか、親や世間の言う事聞かないとか、そう言うタイプは全員ある程度犯罪率が高い
でもどの要素を取っても、実際に捕まる人の割合は10%もいってないわけよ、90%以上は冤罪なわけ
じゃあ四捨五入したら犯罪者扱いは偏見だし差別だろう、とは思う
こういう特徴を全部合わせて犯罪係数とか出さないのは、それが誤差程度でしかないからだと思う
同時に「そう言う人を怖いなと思う」のも否定しない
犯罪は犯さないにしても、それに近いことはおそらく平気でするタイプが多いからね
保守的な人は近づかないんだと思う
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
職場と文化: 大阪と京都の職場文化の違いや、音楽・ラジオが職場環境に与える影響について議論。大阪では「オチ」を求められる文化があることが共有された。
吉原の話題: 吉原の文化と現代の状況、鬼滅の刃の影響について言及。
食文化とポイント制度: 鴫や鴨の食べ方の議論、肉の準備に関する話題が共有された。中本のポイント制度やスカジャンの話題も。
娯楽とワイン: ガクトに関する象徴的な議論や娯楽における真実性の必要性が話された。
年賀状と正月: 年賀状文化の減少について考察。ゴルフを始める宣言や、正月休みの過ごし方について共有。
青学とラーメン: 箱根駅伝での青学の活躍を称賛。ラーメン屋の厳しさについて議論。
副業と猫: 副業の需要や経験談、冬の猫の行動についての話題。
寿司と抱負: 寿司を楽しみながら新年の抱負を共有。花火の話題も。
音楽とサブカル: サブカルチャーとハイカルチャーの並列化について議論。音楽や湿度管理に関する生活知恵を共有。
映画と猫: 映画「ルックバック」「オッペンハイマー」への感想。猫の話題で締めくくり。
初詣と近鉄特急: 初詣の社会的意義や近鉄特急の快適さについての意見交換。
紅白と年越し: 紅白歌合戦や年越しそばに関する話題。B'zのパフォーマンスへの期待。
能楽とAI: 能楽や音楽の話題を中心に、AIアートや自由な解釈についての意見交換。
紅白と花火: 高見沢のギターや米津玄師のパフォーマンスに注目。年越しの花火や新年の挨拶が盛り上がる。
マーメイド像とナゲット: 過去の旅行の感想や冬限定アイス、義実家でのエピソードが共有された。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
最近の優れたファンタジー系モバイルゲームは脱「ソシャゲ」化しているから、この増田が苦しんできたようなネガティブ要素はほぼなくなっている。
だから、増田のように完全にスマホゲーム断ちして満足している人ならばいいのだが、そこまで割り切れない人に対しては、進歩的なゲームに触れて切り替えていくのを勧める。そのようなゲームが持つ特徴を列挙していこう。
まず他人との協力やマルチプレイの強制がない。競争要素もなく、ソロプレイを軸としている。社会性で縛りつけない分、コンシューマクオリティの作り込みをしている。PS5とかにも対応しがち。
「スキマ時間」をことごとく奪っていくような、頻繁なログインを促す仕組みがない。スタミナ制は依然多くのゲームが採用しているが、24時間以上放置でき、その消化も10分程度、デイリーなどもスタミナ消化すれば自動的に終わる。
イベントも張り付く必要がない。最終日付近の休日に一気にやればシナリオ含めても1時間そこらで終わるようなもので、それもイベント毎に違った趣向の文化的なミニゲームが提供される。戦闘コンテンツが占める割合が比較的少ない。
ソシャゲによくあった、アイコンだけ変えたアイテム収集やらボックスガチャやらのイベをローテする手抜き形式からは脱却している。全体として、拘束時間が少なく、遊んでいる間は濃密な体験になる。
どちらかというと、スマホでも一応できるが、PCやPS5でやったほうが良いゲーム体験が得られやすい運営型ゲーム郡と言えるだろう。
ガチャおよびキャラ実装の考え方も根本的にソシャゲとは異なり、ある程度の期間やり込んで育てたプレイヤーなら、攻略面では新キャラを引く必要はない。
最新キャラのキャラパワーや重課金に頼らずとも十分な戦略の幅がある。ソロゲーなのでギルドに貢献するために引かなきゃみたいなこともなく、イベント特効もなく、強キャラを未所持だと詰むようなこともない。
難易度が全体的に易しめで、ガチャ縛りをしているプレーヤーでもイベント内で十分な試用機会があり、イベント攻略のために課金をする必要はゼロ。
エンドコンテンツでは新キャラが持つ特性が優遇されるが、一切触れなくともよく、ゲームの美味しい部分は他にある。
また、ガチャ天井が安価で、旧式ソシャゲが平均7万前後に対し、2万~4万、また天井カウントが次以降のガチャバナーへも引き継がれるため、キャラを選り好みしないなら(しないこと推奨)石を貯めこむ必要がない。
ガチャのランダム性や射幸性も抑えられ、課金額に応じた一定周期でキャラを入手できると捉えてよい。無課金でも月1くらいは天井に到達できる。
キャラの凸などに挑むなら旧来のソシャゲ並にお金が飛んでいくが、無微課金者のキャラ獲得ペースでも可能な、多様な役割のキャラを幅広く所持していく方針の方がゲーム的な楽しみを得やすい。
ただし、キャラ確保ハードルが低い分、育成リソースが枯渇しやすく、バトルパス課金や石割りなどをガチャ課金よりも優先するのが合理的となる設計。
ソシャゲ時代のように性能に煽られて引かされる感覚は薄れた分、キャラクターの実装ごとに背景を掘り下げるプロモーションビデオやアニメーション動画、テーマ曲を作って公開したりと、全力でどのキャラにも愛着をもってもらおうと工夫を凝らしてくる。
そのため、カード絵の好みだけでスルー判断できていたソシャゲや推しを定めて溜め込んでいくのが正解だったソシャゲと違い、まんまと全員を好きになってしまいがちな構造にある。
いろんなキャラに無凸より上の装備を整えてあげたい愛多き人ほどコンシューマゲームと比べて割高な出費をしがちでもあるが、買い切りとは異なる運営型ゲームならではのライブ感や感動の蓄積があるため単純比較はできない。
お察しのとおり、このようなゲーム作りをするには、膨大な開発資金と人的リソースが必要なわけで、国内で「暇つぶし用」としてガラケーやスマホ縦持ちで遊ぶような陳腐なゲーム性のソシャゲ開発で成り上がったスマホゲーム企業の持つノウハウとは異なるものが開発側に求められる。
こうしたガチのゲームをモバイルで作っているのは、文化的背景から今は中国のオタク系(二次元)企業が中心になっている。個別具体的なタイトルを5作品挙げてみよう。といっても、PlayStation Storeのセールス上位を見ればだいたい分かるものだが。
まずはこのスタイルの先駆けとなった、原神。王道ファンタジーのオープンワールドで、元素反応の制御を軸とした知能ゲーム寄りの奥深いアクション戦闘が特徴だ。マップもとてつもなく広大で作り込まれている。ただし序盤はいずれも平易で万人向けだ。音楽は著名オーケストラを起用した豪華なもの。
次に崩壊:スターレイル。SF世界観のスペースファンタジーで、星間を駆ける列車を拠点に星々を「開拓」して群像劇を目撃していくターン制RPGだ。ターン制の概念を覆すほど手触りの良い戦闘システムで、「今更ターン制か」と思う人ほど触れてみてほしい作品だ。
上記2作のヒットを飛ばした会社の最新作が、ゼンレスゾーンゼロという都市型本格アクションPRG。パリィや連携を主体としながらもシンプルかつ派手な操作性で、サウンドエフェクトなども心地よく、独特なアートスタイルや音楽と合わせてとにかく五感に快感がビシビシ来る。お上品で難解な印象の前2作品と異なり、物語も理解しやすく熱い展開なのも美点。
次は競合他社となる鳴潮。原神に近いオープンワールドRPGだが、よりダークでグロテスクでセクシーな世界観になっている。怪物に変身するシステムが特徴的で、回避などを駆使するアクション要求度が高め。キャラクターグラフィックに関してはアニメ調作品の中ではひときわ力を入れていると感じる。
最後に挙げるのは、また別の有力企業による、インフィニティニキ。こちらは主に女性をターゲットにした着せ替え系のオープンワールドゲームで、戦闘要素はひかえめに、探索・収集と謎解きアスレチックがメインになっている。
これらを、欲張っていくつも並行してしまえばソシャゲやネトゲのせいで社会生活を蝕まれる状況と大差なくなってしまうが、1作程度に絞って節度ある課金で付き合う分には、ソシャゲ時代と比べてもかなり健全な範囲で楽しめるように進化している。
なので、大作モバイルゲームは、どれを人生のパートナーとして選ぶかが非常に重要だ。
知らない人にコモンピープルが…ファイアレーベルで…イエモン吉井が…なんて言っても仕方ないので、分かるように言えばハリポタの炎のゴブレットで魔法使いのバンド出てきたじゃん。あれのボーカル役がパルプのフロントマンでさぁ。JKローリングもこのバンドのファンなんだよ…って、虎の衣を借るみたいでアレだけども。さくらももこもたまを映画に抜擢してたし、サブカルクソ女って音楽のセンスいいよなぁ…
で、1月6日、フェスのついでの単独公演。仕事初めなので絶対に休めないが…4・5に東京のフェスに行くのは絶対無理なんで、正月の連勤で埋め合わせて有休取得。
スタンディングは辛いので二階席。
当日券もあるとのこと、あぁ予約埋まらなかったか、オッサンばっかだろうな、と思いながらも。
こういうのっていい意味で期待を裏切られたく、ガッカリするのも嫌なので期待しないようにしてるんだけど
風呂での鼻唄が無意識にdisco2000になってたり、フェスの感想チラ見して、へー声出てるんだ。結構好評じゃん、なんてそこそこ楽しみにしちゃってたり
で今日、大阪へ。雨でガッカリしてたが夕方には止んでいい感じに。
時間どう潰そうか、と考えるが映画も微妙に時間があわず、でもなんばで適当に観光してたらいい時間になって。
開始30分前に現着。…あれ?混んでるぞ??外人さんが多いのは分かるが……老若男女つーか、若いチャンネーがいる!むしろ多い!pulpがなんか大人気バンドみたいじゃん…
物販も並ぶ!階段まで並ぶ!パルプだぞ?オアシスと勘違いしてんのか?
で、二階から見たらフロアギチギチで。パルプでこんな熱気ムンムンってある??
正直、これだけでスゲーもん見たという満足感があり、うわっ隣の女性のスマホの壁紙がジャービス(パルプのフロントマン)だ!でもそんなやべー女がここには何十人、下手したら100人位いる。異常…
で、待ってたら変な映像と変なノイズが流れて、歓声が上がる。変な映像と音が流れ続ける。トラブルか…?と思ったら日本語字幕付きのメッセージが出る。これが俺たちのアンコールだぜ。562回目(だったと思う、コロニーで語呂合わせした)のライブだぜ。忘れられない夜にしようぜ、みたいなメッセージ。
うーん、かっこいい…で満月の映像をバックにジャービス登場!うわーかっこいい!そしてディスイズハードコア!初っぱなで!?渋い!いや違う!なんだこの曲!?
顔はよく見えないが、箱がふたつ置いてあり、そこに足をのせてジャンプしたりクネクネ踊る。声も出ている。30年前から変わってるけど変わってねぇ!遅咲きで、90年代のブレイク時には30くらいだったはずなんだが…10年くらい前かな、ソロのビジュアル見た時はヒゲと白髪でもうおじいちゃんだなーって感じだったのに。若々しいんだけど、それだけじゃなくジジイなのにセクシーなんだ。うーん、俺は数十年後の自分を考えるとジジイか死んで消滅してるわけで、そうなると根源的恐怖を感じたりするんだが、こんなジジイになれるならいいじゃないか、と考えたり。ヘルプジエイジド。知らん曲はウィラブライフ産か?このアルバムでパルプは完全に終わったな、ジャービズの才能も枯れたなと思ったわけだが…しかし、後から感想漁ると新曲もやってたと知る(MCはよくわからんのよ)
disco2000が一番もりあがった気がする。後追いだから、再結成してさー、来日してさー、合唱できるなんて思わんじゃん?サムシングチェンジド、好きだった曲だけど何だっけこの曲??ってなったり。ベイビーズもリップグロスと勘違いして勝手に盛り上がったり。ドラムがいい仕事してる。ベースは昔イケメンだったんだよなー。映像とか演出とか凝りまくってて、令和の現役バンドって感じだ。アンコールのコモンピープル、いつやるかいつやるか、ソワソワしすぎて期待の方が大きかったかも。スマホの電源切ってたけどアンコールやしええやろ!でビデオ撮ったが、画面で見るとステージ遠すぎ、しかも容量不足で撮影停止。でもそれはそれで。コモンピープルでメンバー紹介するのもいい。その後のアンコール、コモンピープルやっちゃったらもう蛇足にしかならんよね、といいつつ映像も用意してるから予定調和よな。太陽の塔行ったらジャービスいたんかな。ラズマタズやってくれたのはよかった、doyouremember1sttime も。キラキラ手袋は仕込みを疑いながらアドリブと思いたい。
ミスシェイプスで〆たらカッコいいのになぁと思ったが、後から東京公演のセトリではそうだったことを知ってうれしくなったり(フェスの話かと思ったが、解散する前の来日?)
初めて見にいったライブが再結成スウェードでポールマッカートニーが風邪引いたりコロナがあったりで、人生2回目のライブ。そっちはファンサービスが完璧でプロを感じたけど、こっちはカリスマ性で殴ってくる感じ。しかし、スウェードのブレットとパルプのジャービスはこの世にこんなにかっこよくて変態な男がいたのかと衝撃を受けた二人なので、生で見れたのは良かった。全盛期は生では見れなかったけど、老いてなお盛んなとこが見れたんで却って良かったのかもしれん。
翌日追記。
感想漁ってたら、ニッキーがいないことだけが残念、と言われてて、そうそうミッキーみたいな名前のイケメンベーシスト…いなかったんだ?脱退したとかかな…で調べたら一昨年亡くなっててえぇー!って。遠くからはギターかベースかもよく分からず、どっちかがベースなんだろうけどすっかり別人だな~と思ってたら別人だったのだが、不在とさえ思っていなかった。大抵、ギタリストが相棒的ポジションにいるんだが、パルプではベースのニッキーが結構前に出てきていて。若い頃の映像流す演出でやっぱイケメンだなーと嬉しくなってたんだが。いまさら追悼。
俺は唯物論者だから、天国で見守ってくれてるみたいな考えはできないし、不在の悲しさはある。でももしタイムマシンか何かで、生前のニッキーに来日公演の盛り上がりを伝えることができたら、彼は喜んでくれるだろう。だから、これでいいのだ