はてなキーワード: 再版とは
スター時代の曲がちょっと寂しいので、リストの超絶技巧を味わう作品のみで七選を組んでみようと思う。既に出したのは除外。あとブコメ。
推奨録音にkyushima氏みがあって大変共感できる増田。次世代を引っ張っていくであろうユンチャン・リムの超絶全曲や、彼に影響を与えているニレジハージの伝説(波)あたりを加えても良いかもしれない。
kyushima氏(http://kyushima.web.fc2.com/cd/index.html)に言及する人が現れた(笑)もう更新が止まって久しいけど、ここの御陰で知らない演奏にいくつも巡り会った(オフチニコフとかベルッチとかロルティとかハフとか)。
ユンチャン・リムの超絶を挙げてくださったのも感謝する(未視聴/クライバーンコンライブ https://amzn.to/4iwxti2)。自分のCDボックス漁ったりして、未視聴盤はたくさんあると実感した。ニレジハージは海賊録音でしたっけ? 聞いて確かめなきゃ
1. ドン・ファンの回想 S.418(1843年)
モーツァルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」からメロディーをとってアレンジしたもの。ノルマの回想に次いで(それ以上に?)取り上げられていると思う。騎士長のテーマ(ドン・ジョヴァンニに警告するシーン)から始まって重苦しいのだが、そんな嵐が去ると「お手をどうぞ」の主題に基づく変奏が現れ、最初の技巧的な見せ場になる(この主題はかなり人気があり、ショパンも編曲していたはずだ)。後半は「シャンパンの歌」の変奏が騎士長の動機を挟みながら繰り返され、繰り返しの度にどんどん華やかになっていき、終幕を迎える。
私はマッティ・レカリオ(Ondine/ブゾーニ編なので一部カットがある)が好き。新旧あるアムラン(Music&Arts/Hyperion)も恐ろしく安定した演奏(新録の方が音は良い。あとハン狂2が入ってる)。クズミン(Russian Disc/ブゾーニ編)も強烈だが廃盤倒産(激怒)。ペトロフ(Melodiya)は持っているが、遅っ!と思って合わず(食わず嫌い・・・)。ロルティ(CHANDOS)もきれいな演奏だけどのんびりした感じ。この曲はノルマほど聞かないのでそんなに思いつかない。誰か教えてくれ。あとフィリペツが録音してくれないかなぁ・・・。
廃盤になっているレカリオのCDにはタウジヒ編の「ワルキューレの騎行」なども入っているし、ブゾーニ編のフィガロ&ドン・ジョヴァンニ幻想曲もある(リストが途中放棄した作品)。本当に再版してほしい。配信はある。
2. 「ユグノー教徒」の回想 S.412(1837年出版/第2稿1842年)
ジャコモ・マイアベーアは、パリで19世紀前半に大成功を収めた作曲家。サン・バルテルミの虐殺をモチーフにしたオペラ「ユグノー教徒」は何度も再演され続けていたが、20世紀には忘れられた(今また再評価されているらしい)。音楽史的にマイアベーアの影が薄いのは、彼が展開したオペラ書法の多くをワーグナーやヴェルディといった後発者たちが更新して塗り替えていったからかなと思っている。もちろんリストのピアニスト時代に人気だったマイアベーアを編曲していないはずがない。ゲレリヒの本にも、レッスンでマイアベーアを弾く弟子が出てくる。ハワードもライナーでとても強く推している※。あまり録音は思いつかない(申し訳ない)。NAXOS全集の第1巻にコーエンの演奏が収録されているが未視聴。フィリペツ、録音してくれ。
この曲はユグノーであるマルセルのライトモチーフとして「神はわがやぐら」を使っているのだが、それってルター派じゃ・・・?(カルヴァン派でも使われていた??)
第1稿ではラストに原曲通り第5幕カトリック兵士の合唱の主題(この歌詞がまたやばくて・・・異端を殺せ!神がそう望んでおられる!という血なまぐさい中身)が入ってとても雰囲気があったのだが、別稿では「神はわがやぐら」の変奏を強化する対応になっていた・・・と思う(ハワード聞き直さないとなぁ)。ただ、あの狂気の合唱が魅力だと思っている。第1稿では合唱を遮って「神はわがやぐら」が入ってくるのだが、これが幅広いアルペッジョで一掃され、再び合唱に戻るという原曲ラストの射殺シーンを思い出させる流れ。
※オペラの方も20世紀にも再演されてきたが、特定の歌手たちのための舞台に過ぎなかったけど、今や再評価の時だということが熱っぽく語られている。特定の歌手って多分サザーランド?
気分転換。後期の出版になるが、実はこの曲のおおもとはスペイン公演時の印象を書き留めた45年の「スペインの旋律に基づく演奏会用第幻想曲」にある(ハワード全集に当然ある)。今のスペイン狂詩曲の形になってのはヴァイマール時代らしいので、超絶や巡礼同様、前期に作られ、中期に改訂されて充実した曲の一つだ。
前半ではフォリア、後半ではアラゴンのホタという舞曲から成る。どちらも華々しい技巧で彩られ、最初から最後まで魅力的で見せ場が多い。
名盤としては、エフゲニー・キーシンの録音(RCA)があるだろう。彼もすっかりトシだが、これは子どもの頃のもの。恐るべき完成度。日本公演の映像があるが、すごい演奏(https://www.youtube.com/watch?v=Lb6EzTpGv3s)。
スティーヴン・ハフの録音(Virgin)も非常に良い(kyushima氏のサイトで◎だった上、入手性が良くて最初に聞いたので、完全に嵌まってしまっている。ただフォリアが盛り上がるところで、楽譜にあるシではなくドの音を弾いているのはなぜ?)。ぶっ飛んだ路線としては、ポリーナ・レスチェンコ(https://www.youtube.com/watch?v=3EB0f-ra9Eg)。
4. ギョーム・テル序曲 S.552(1842年出版)
世に名高いロッシーニ最後のオペラの序曲である。どう考えてもおうまさんのテーマ。
このオペラが出たのは1829年以降ロッシーニは完全に引退状態になるのだが、亡くなるのは1868年。引退には政治情勢が大きく影響している。ロッシーニの滑稽な作風は、明らかに復古的なウィーン体制下の小市民の楽しみに合致したもの。それでも、このオペラは再び騒乱の時代が訪れることを予感させる緊迫した作品(題材自体が既にそうだ)だったが、これが最後になった。
中々演奏がない(ハワードはもちろん、NAXOS全集にゲキチ)。デュシャーブルのCD(EMI)が良いと思う。割とセカセカ弾くタイプのピアニストだと思うけど、後半はそれがすごい追い込みに繋がってる。ただ、まだまだこの曲のポテンシャルはあるんじゃないかと。フィリペツ(ry
コメント返信の時に出した、以前コンクールライブでたまたま見た映像が凄かった(https://www.youtube.com/watch?v=GRYLy8O3VIQ)。
中国のピアニスト牛牛のCDはまだ聞いていない(MV:https://www.youtube.com/watch?v=ed9nRoFyDIw)。彼は小学生の頃から有名で、ピアノの森(二期)でパン・ウェイの「中の人」(あるいは「手」?)を務めた人。
文字通りベートーヴェンの交響曲の編曲(本編での落選から復活)。出版は後期にあたるが、「幻想交響曲」の編曲同様、ピアニスト時代から既に手がけており、部分的には出版されていた。リストはベートーヴェンの布教にかなり熱心に取り組んだピアニストだが、これがドイツ・ナショナリズムの高揚を抜きにしては考えにくいことは既に述べた。
以前に医師の夏井睦氏が運営していた超絶技巧ピアノ編曲のホームページに3・5番だけだがすごく詳しい解説が載っていて、当時からピアノ好きだった人は見ていたんじゃないか、と老人会発言(Web Archive/ https://web.archive.org/web/20090104102239fw_/http://www.ne.jp/asahi/piano/natsui/Beethoven.htm)。ところでブコメにバッハ=リストのBWV543を挙げている人がいたけど、あれは原曲の良さに甘えているだけの手抜き編曲だと夏井氏はバッサリ斬っていたなと思い出しておっかねえなあ・・・と。
カツァリス(Teldec)とコンスタンティン・シェルバコフ(NAXOS全集)の全曲録音が有名(その後も全曲でなければちょくちょく録音例は見る)。やはりフィリペツ(ry
部分録音だと、kyushima氏はグールドの6番をかなり評価していた気がする(私はよく聞かないのでわからない)。牛牛のギョーム・テルが入ってるCDにも5番がある(未視聴)。以前ロルティが5番を弾く映像がYouTubeにあったと思うけど、削除された? それとも記憶違いか。
6. シューベルト編曲もの(超大雑把な紹介になっててすいません)
リストはシューベルトの歌曲の多くを編曲している。「セレナーデ」も「ます」も「エレンの歌 第3番(アヴェ・マリア)」もあり、至れり尽くせり。リストは生前「魔王」(S.558/4)の編曲者として一番知られていたらしい(ゲレリヒの訳書32頁。自虐的なセリフとして出てくる)。ハワードのライナーには、フィッシャー=ディースカウが、変なのと思われてるけどリストが編曲してくれたおかげでシューベルトの歌曲が今日まで生き残ってきたんですよと発言したというコメントが引用されているが、出典が分からない。ご存じでしたら教えてください。
ウィーンの夜会も絢爛豪華。特に6番が有名。本編での落選を残念がっている人がいた。
個人的にはキーシンのリスト録音集に入っている演奏が好き。他の演奏をあまり聴いたことがない。フィリペツ(NAXOS全集)が新録を出したようなので聞いてみるつもり(コンソレーションの初版とセットだとか)。
前期作品。この手の超絶技巧を見せびらかすための精神性のかけらもない曲は当時のはやり。でもとっても楽しい曲で大好きである。シフラの演奏が有名だが(Hungaroton/映像あり https://www.youtube.com/watch?v=tmq5JBpFf9w)、今聞くならフィリペツ(NAXOS全集)が良いと思っている。余裕綽々で本当に惚れ惚れする。
以上である。いやいやなんでシューベルトこんなひとまとめなのとか、忘れられたワルツとか愛の夢はまた落選かとかリゴレットとかまだオペラものあるだろとかショパンの歌曲とか「献呈」とか色々納得はいかないところもあるだろう。でも一旦ここで締める。どうもお付き合いありがとうございました。
ヴァイマールの宮廷楽長を辞任したリストは、ラティボル公に招聘され、公の弟グスタフ・ホーエンローエを通じてローマ教皇庁と接点を持つことになり、宗教音楽に取り組む意欲を持つことになる。「巡礼の年」や「詩的で宗教的な調べ」のように、前期・中期から既にリストには宗教的な要素が強い作品があったが、これ以降そのような作品はさらに増えていく。一方、子どもたちが相次いで亡くなったことで大きな精神的打撃を受け、1860年には遺書まで書いている(マリーとの関係はまだ悪かったようで、マリーのことは遺書にない)。カロリーヌは夫との婚姻を強制されたものであり無効であるとする枢機卿会議の決定を一旦勝ち取ることに成功するが、その後、婚姻が有効であると述べる証人が新たに現れ風向きが変わってしまう。というのも、ラティボル公の実子とカロリーヌの娘が結婚することになっていたのだが、カロリーヌの結婚が無効だったとするとカロリーヌの娘は私生児ということになり、大変都合が悪いわけで、グスタフが手を回して妨害させたようである(リストも後に状況を悟ったらしい)。愛する人と結ばれることに再び失敗し、重ねて精神的なショックを受けた。それでも、グスタフを初めとするローマのパトロンを見出し、ローマに腰を落ち着けて宗教音楽に熱心に取り組むことになる。ところが、1869年に度重なるヴァイマールからの要請で宮廷楽団の指導役として復帰し、さらに70年代からはピアノ教師としての活動も非常に活発になり(ローマでも週1ではやっていたらしい)、以降リスト曰く「三分割された生活vie trifurquée」、春はブダペストなどで音楽教師とコンサート、夏はヴァイマールの宮廷楽団の指揮、冬はローマで作曲とピアノのレッスンというスター時代に負けず劣らずの忙しい生活を死ぬ日まで送ることになった。晩年のリストのレッスンの記録をとっていた弟子アウグスト・ゲレリヒの日記(翻訳あり)を見るとリストの生活ぶりが良く分かる。
晩年のリストの代表作である。出版も最晩年。頻繁な不協和音の利用、レチタティーヴォ風の単純な旋律、独りごちるようなモノローグが目立ち、華麗な作風からの一変を感じることができるだろう。全7曲あり、第1・4・7は明るめで、宗教的な救いを示している。前期・中期作品でいうと、「孤独の中の神の祝福」」に近い作風である。それに挟まれた2・3・5・6は、「葬送――1849年10月」などと同じで、死を嘆くエレジーで、とても暗い。
この曲集の中で最も有名なのは第4番の「エステ荘の噴水」だろう。文字通りリストが住んでいたティヴォリのエステ荘の噴水を活写したものだ(その様子はググってくれ)。晩年作品の中では例外的に明るく、輝かしい作風で、しかも印象主義の先取りになっている画期的作品だ(ラヴェルの「水の戯れ」やドビュッシーの「水の反映」と比べると良い)。第2・3曲「エステ荘の糸杉にI・II」は大変暗い曲なのだが、続けて聴くと本当に救われる思いになる。絶望からの救済は、リスト本人が強く望んでいたことだ。
第三年だけの録音というのはあまり聴かないような気がする(エステ荘の噴水の録音はたくさんあるが)。第一年なども含めた全曲録音は前期の項目で書いたが、ベルマンとロルティが良いだろう。特に美しいロルティが好き。
1863年にリストは僧籍を取得し、聖職者となっている(ずいぶんな生臭坊主生活が死ぬまで続くが、リストのことなので仕方がない)。丁度その頃に作曲されたらしい。ローマに引っ越したリストを教皇ピウス9世が訪ねてきた時に(下級聖職者のくせにローマ教皇に足を運ばせる男なのである)、第1曲「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」を演奏したらしい。フランチェスコが小鳥に説教する様子を描く絵だったか詩だったかをモチーフにした曲で、小鳥たちのさえずりを模倣したトリルがかわいらしい。明るく、聴きやすい作風である。
第2曲の「波をわたるパオラの聖フランチェスコ」は、嵐の中の船出を拒絶されたフランチェスコ(アッシジの人とは別人)が自らのマントを船にしてメッシーナ海峡を渡ったとかいう伝説をモチーフにしている。波を模倣したうねるような力強いアルペッジョが印象的。出だしこそ暗いが、明るく、輝かしく、充実した展開を迎える。
両曲とも1865年にリスト自身がブダペストにおける久しぶりの公開のコンサートで初演された。サン=サーンスがいたく気に入って、オルガン編曲を作っている。
ニコライ・デミジェンコ(Hyperion/Helios)のCDにソナタ、スケルツォとマーチと一緒になって入っていて、よく聴く。
元々はヴァイマール時代にオルガン曲として作った曲だが、この時期にピアノ編曲された。BACHの主題といっても、バッハの曲が引用されているのではなく、ドイツ音階のBACH(シ♭・ラ・ド・シ)をモチーフにした勢いのある曲。暗い曲だが、豪壮無比な超絶技巧を披露する曲であり、重苦しい感じはない。
面白い曲なのに良い録音が中々ない。昔韓国のクン・ウー・パイクの録音を聞いた気がするが記憶に残っていない。アムラン(Hyperion/ソナタなどとカップリング)が良いと思う。若手だとリーズ・ド・ラ・サール(naive)の演奏は非常に録音も良く、技術的にも良い感じである(naiveは廃盤になるのが早く、入手が難しいのが困りものだが、配信あり)。(追記)ハワード全集の演奏も彼のヴィルトゥオーゾっぷりを味わえるものだったと思う。しかしアムランやラ・サールと比べると分が悪いか。
長女ブランディーヌの子ダニエラ(死んだ息子と同じ名前)のために作った曲(父は「自由帝政」時代の首相エミール・オリヴィエ。なお産褥熱でブランディーヌは死んだ)。当時のクリスマス・キャロルの編曲だが、リストオリジナルの曲も入っている。第1曲(編曲)がとても良い曲なのだが、リストお得意の左手高速オクターヴの連続があり、子どもに辛いのでは(しかもご丁寧に軽くleggieroという指示がついていてピアニストは悶絶する)。第11曲の「ハンガリー風」はおそらくリスト、第12曲の「ポーランド風」はカロリーヌを暗示しているのだと思われるが、後者は明らかにショパンのマズルカ的な作風。やっぱりショパンのこと大好きなんすね~
実はハワード全集しか聞いたことがない(しみじみとした良い演奏だと思います)。
5. 暗い雲 S.199(死後旧全集に収録/1881年作曲);不吉な星 S.208(死後旧全集に収録/1881年作曲);調性のないバガテルS.216a(1956年出版/1885年作曲)
反則だが、リストの無調音楽の代表格を一挙紹介。リストの無調音楽は、機能和声が崩壊しているという意味では無調だが(その意味ではワーグナーの「トリスタン和音」も同様)、シェーンベルクの十二音技法のような意味で無調というわけではない(ドイツというよりフランスの無調音楽の先取りっぽい)。行くあてが未定まらないまま、タイトル通り曖昧な響きに終始する暗い雲、西洋音楽で不吉とされる音の組み合わせをこれでもかと盛り込んだ不吉な星は、これでも生前に既に演奏されてはいたのだが、調性のないバガテルは「無調」と銘打った音楽史上初めて(ではなかったとしても極初期)の作品で、発見されたのも20世紀後半になってからである(1956年出版というのは誤記ではない)。ただ、元々メフィスト・ワルツ第4番として作られていたので、舞曲の要素があってそこまで聞きにくい曲ではない。リストの精神状態もあって暗い感じだが、とにかくリストの前衛音楽家っぷりがよくわかる曲である。
いずれも録音はそこそこあるが、代表的な盤はあまり思いつかない。不吉な星はポリーニの録音したソナタのCDにカップリングされているので聴いたことがある人もいるだろう。暗い雲も入っていたと思う。調性のないバガテルはまあまあ取り上げられているが、昔カツァリスが日本で大ブレイクしていた頃に出したメフィスト・ワルツ全集(Teldec)に入っている。
初稿(21世紀に新発見され出版)、第2稿(悲しみのゴンドラI)、第3稿(悲しみのゴンドラII)がある。よく演奏されるのは第3稿(II)で、ヴァイオリンやチェロのための編曲もある。
ヴェネツィア所在だったワーグナーを訪問した1882年に作曲された。完成した曲をワーグナーに紹介する手紙を送り出した直後、ワーグナーが亡くなり、リストはこの曲を虫の知らせだったと感じたらしい。「巡礼の年」のヴェネツィアとナポリと対比すると良い作品。
不安を煽るような曲だが、それほど聞きにくい曲ではない。色々なCDにカップリングされているが、個人的にはブニアティシヴィリ(SONY/ソナタのCD)が好きなのでよく聴く。
なお、ワーグナーの死を悼む作品もリストは作っている(R. W. ――ヴェネツィア S.201とリヒャルト・ワーグナーの墓に S.135)。前者は不安を煽る曲だが(ポリーニのCDに入っている)、後者は敬虔な追悼音楽で、「パルジファル」の動機が使われている。ピアノより弦楽四重奏盤を聴くと良いだろう。
7. 村の居酒屋での踊り――メフィスト・ワルツ第1番(1862年出版)
前期の曲と思いきや、実は後期の作曲(作曲開始も50年代末のはず)である。やはり最後は明るく華やかな(そして生臭坊主な)リストで締めたい。着想自体は1836年に書かれたレーナウの叙事詩「ファウスト」で、ファウストを連れて村の居酒屋にやってきたメフィストフェレスが、ファウストを誘惑するためにヴァイオリンを弾き出し、みんなノリノリになって踊り出し、魔法の音にあてられてファウストは女の子と一緒に森の中に消えていくというしょーもない内容である。技巧的な見せ場も多いのだが、ヴァイオリンの調弦を模倣した五度の音程を重ねるところ(地味に安定させるのが難しい)、中間部の重音トリル(ピアニスト泣かせ)と幅広い跳躍、終盤の怒濤の追い込み(メフィストフェレスがファウスト堕落に成功してめっちゃ喜んでノリノリで弾いている様子なんだろう)が主なところである。
有名曲なので演奏はたくさんある。今ならブニアティシヴィリ(SONY)が良いと思う。ソナタも悲しみのゴンドラも入っているのでお買い得。自由奔放にやっちゃってるが、そのくらいの方がこの曲に合っている。映像もある(https://www.youtube.com/watch?v=n1tM9YSLYdc)。なお、評判の良いエコノム(Suoni e Colori)とルガンスキーのデビュー盤(Victor)は廃盤で聴いたことがない。早く再版しろ(激怒)
いかがだったろうか。リストのいずれも強烈な個性を持つ曲、もし良かったら楽しんでほしい。YouTubeに乗っている曲だけでも良い。音楽の楽しみが増えれば幸いだ。
(※その後超絶技巧七選も作ってみました。超絶技巧すぎてかえって推薦音源が少なくなったかも→anond:20241213224533)
追記:
前期のブコメに「愛の夢が落選した」というのがあった。申し訳ない。3つの演奏会用練習曲をその手の曲の代表例として入れたので。あと「コンソレーション」も同様に落選させた。同じような性格の曲集なのでどれを突っ込むか迷ったのだが、結局「ため息」のある3つの演奏会用練習曲にした。文字通りため息が出るような優美な「ため息」以上に愛の夢は優美で、明るく感動的な曲なのだが、実は元となっている歌曲の歌詞を見ると結構説教くさくて引くというのはここだけの話。
「エステ荘の糸杉に」が好きというブコメを頂戴した。リストのエレジーはどれも本当にもの悲しく、個人的にはちょっと辛い感もあるのだが、気持ちは大変よく分かる。
最近流行ってるゲーム史上の重要性とは何も関係ないが何となく思いついたのでやってみることにした。
フランツ・リスト(1811-1886)はハンガリー王国の寒村ドボルヤーン(現オーストリア・ライディング)に生まれた作曲家。リストはハンガリー人としての自意識を持っていたようだが、両親はドイツ系であり、他方でパリで成功を収めた関係上フランス語を使って生活していたと思われる。いわゆるコスモポリタンであり、○○国の音楽家とは言いにくい。音楽史上の重要性ではバッハやベートヴェンには劣ってしまうから義務教育では名前は出てこないだろうが、少なくともピアノ音楽史上は絶対に避けては通れない。無尽蔵の超絶技巧によってピアノの表現可能性を著しく拡張したからだ。膨大なリストのピアノ作品から7選ではきついので、リストの活動時期に区切って7選ずつということにした。
クラシック音楽の紹介をする以上、演奏(録音)の紹介は避けて通れない。まさか自分で弾いて確かめろというわけにもいかないだろう。筆者は、リストの豪華絢爛な超絶技巧音楽が大好きである一方、特に晩年に多い宗教的、内向的な音楽は未だにあまりピンと来ない感がある。努力はしたが、晩年作品を中心にうまく推薦ができていないのは好みの関係で、あまり色々な音源を聞き比べていないことが一つの理由だ。
リストのピアノ作品はあまりに膨大で、しかも抜群の技巧を要求する作品も多い。一曲ごとの規模の違いを無視していうが、大量のピアノ曲を残した作曲家であるショパンの場合作品数は200強。単独ピアニストによる全集も作られているし(ギャリック・オールソン、アシュケナージ、横山幸雄も作ってますね)、レコード会社の企画モノで複数のピアニストを起用して制作されることもある。横山氏みたいにぶっ続けの連続演奏会を開いてしまうことも不可能ではない(https://www.afpbb.com/articles/-/2784123)。
しかしリストの場合は単純な作品数の多さ、別稿・異稿が多く存在すること、難易度の高い曲が非常に多いことから、「全集」の制作は困難を極める。複数のピアニストを起用しているNAXOSのリスト・ピアノ曲集シリーズも未だに全曲をカバーできていない(もし完結していたら教えてください)。その点で単独でリストのピアノ作品全集という前人未踏の大偉業を成し遂げたレスリー・ハワードのCD(Hyperion)は本編と別巻(新たに発見された別稿・異稿)あわせて99枚というとんでもない分量がある(全曲試聴可能/https://www.hyperion-records.co.uk/dc.asp?dc=D_CDS44501/98)。優れたピアニストであるハワードでも、短期間に、といっても10年以上あるが、大量の作品を録音しなければならない計画故、詰めの甘い演奏がかなりあるように感じられ、何も考えずにハワードの全集を推薦するわけにもいかない。とはいえ、ハワードのおかげで取り敢えずリストのピアノ曲のほとんどをまともな「音」として把握できるようになった。ここで敬意を示しておきたい。ハワードのCDを一巻ずつ紹介している古くからのサイトがあり、本当に頭が下がる(https://www.katch.ne.jp/~hasida/liszt/liszt.htm)。良くない演奏もバシバシ指摘している。
リストの生涯について。作曲家の生涯を知ることが楽曲の理解に必ずしも結びつくわけではないが、それでも、どのような作風を意識しているのかとか、どのようなモチーフを描こうとしたのか(特に標題音楽の場合)ということを知ることは有益だろう。作曲家の置かれていた状況を知ることはその理解の助けになり得る。リストの場合、ざっくりいえば大スターとして活躍した1840年代までの時期(前期)、ワイマールの宮廷楽長としての活動が中心になる50年代(中期)、そして50年代末の波乱、特に愛人カロリーヌとの結婚が認められず、子どもの早世などの不幸に連続して見舞われた後、ローマに腰を落ち着けて作曲活動を再開し、亡くなるまでの晩年の時期(後期)に活動を区切ることができる。このあとは単に前期・中期・後期とのみ述べる。ここで紹介するのは、前期、少年時代からピアニスト時代までのもの。父を失って本格的にピアニストとして稼がねばならなくなり、大スターになっていくが、仕事ばかりで事実上の奥さんとは破局する。そして後年の恋人カロリーヌと出会い、ヴァイマールの宮廷楽長に就任するまでだ。
作品番号について。クラシック音楽には、出版社のつけた出版順序を示す作品番号(op. xxみたいなやつ)がついていることが多い。クラシック音楽では、抽象的に「ピアノソナタ」とのみ名乗る曲が多いので、作品番号は楽曲の区別にとって大事になる。しかし、リストの作品番号は出版社ごとに全然違うなど滅茶苦茶で(こういうことはシューベルトにも言える)、作品番号では把握できない。そこでよく使われるのは、イギリスの音楽学者ハンフリー・サールが整理して付番したサール番号(S. xx)である。Wikipediaにもサール番号順のリストの作品一覧があるので参照されたい。
彼の代表作の一つ、「超絶技巧練習曲」の初稿にあたる作品。48とあるが、実際には全12曲。「超絶」を聞いたことがある人なら驚くはず。リスト15歳の頃の作品。リストはハンガリー貴族たちから奨学金をもらってチェルニーの元で学んでいたのだが、本作品は明らかに影響が見て取れ、微笑ましいと思うか、チェルニー××番を思い出して頭が痛くなるかは人次第だろう。録音は多くない。筆者はハワードを一聴したことがあるのみ。ウィリアム・ウォルフラム(NAXOS全集20巻)は未聴。パガニーニの影響を受けたあとの改訂版(24の練習曲 S.137)は異常に難易度が高い割に第三版にあたる「超絶技巧練習曲」ほど演奏効果がないのでやはりほとんど取り上げられない(ハワードは録音している)。
2. 「ある芸術家の生涯の出来事」 S.470(1834年出版)
タイトルでもしやと思った方、あなたは正しい。ベルリオーズの「幻想交響曲」のピアノ編曲だ。実は原曲よりも出版自体はこちらの方が早いようだ。ふられた作曲家がヤクをやって彼女を殺して処刑されて悪魔のサバトに遭遇するという夢、というとしょーもない話だが、この曲は初演当時多数の人々を熱狂に巻き込んだ。リストも熱狂した一人だった。それでピアノ編曲までやってしまったのだが、当時は録音技術がないので、家でちょっと味わおうとCDだのSpotifyなどというわけにはいかない。ピアノで弾くしかないわけだ。とはいえ、よくあるオケ作品のお手軽編曲ではなく、オーケストラの生み出す音響を可能な限りピアノで再現しようとした意欲的な作品だ。演奏難易度は極めて高い。フランソワ=ルネ・デュシャーブル(EMI)とニコライ・ペトロフ(原盤は知らないがVeneziaの再版盤を所持)の演奏が世評高く、特に後者の演奏は凄まじいが、まだまだこの曲のポテンシャルを完全には引き出していないような気がする。ジョヴァンニ・ベルッチ(CD未所持)は公式YouTubeに演奏動画をアップロードしている(https://www.youtube.com/watch?v=bSqunBoj0cY)。これが一番アクセスしやすいだろう(録音は一番良い気がする)。
3. パガニーニによる超絶技巧練習曲S.140(1840年出版)
1828~34年に欧州でコンサート・ツアーを行ったヴァイオリニストのニッコロ・パガニーニは極限まで高められた演奏技巧と表現力によって多くの熱狂的ファンを獲得した。リストもパガニーニに狂った一人(またかよ)。全6曲、すべてパガニーニ作品からの編曲だ。ヴァイオリンの技法をピアノに映すというよりも、パガニーニから霊感をもらってピアノ技巧の拡張を試みたものと言って良い。第3曲が「ラ・カンパネッラ」(ヴァイオリン協奏曲第2番第3楽章の編曲)だが、有名な「ラ・カンパネッラ」は、実は本曲集の改訂版S.141(1851年出版)の方であり、本曲集を聴くと、違いに驚く(逆にパガニーニの原曲を知っているとそちらに忠実ということに驚く)と思われる。そしてこの曲集は何よりも演奏難易度の高さで悪名高く、特にひたすら重量級かつ幅広い跳躍のある和音アルペッジョが続く第4曲(の第2稿)はピアノマニアの間では語り草になっている。また第6番「主題と変奏」(原曲は24の奇想曲第24番)の第9変奏も地味ながら恐ろしく難しい。
かつては本曲集といえばペトロフ(原盤Melodiya、VeneziaとOlympiaの再版盤で所持)、大井和郎(Deutsche Shallplatten)、そしてハワード全集しかなく、マニアたちがアップロードしているMIDI演奏の非人間的超絶技巧を楽しんでいたのだが、現在ではゴラン・フィリペツ(NAXOS全集42)とヴァレチェク(Capriccio)が挑戦している。現在でもペトロフの演奏が最も高い水準にある思われるが(映像もある https://www.nicovideo.jp/watch/sm12879344)、フィリペツの演奏もそれに並ぶハイレベルな演奏であり(流石に6番の第9変奏は苦しそうだが)、CDの入手可能性もあるので今ならフィリペツを聴くと良い。
困ったことにペトロフの映像は中々手元を写してくれない。ニコニコ動画で「国家機密の指」と揶揄されているが、確かこれはペトロフがカメラに写されることを非常に嫌っていたからだと思う(出典は忘れた)。
4. 旅人のアルバム S.156(1836年~1842年出版)、「巡礼の年 第一年:スイス」(1855年)、「巡礼の年 第二年:イタリア」(1858年)、「第二年補遺:ヴェネツィアとナポリ」(1859年改訂版)
ダグー伯爵夫人マリーは当時のパリ社交界を代表する人物で、たいへんな美貌の持ち主だったという。リストは1834年頃からマリーと逢瀬を重ね、35年にマリーは妊娠している。大胆なスキャンダルは芸能人の特権。
特に社交界でつまはじきにされることもなかったようだが、人目を憚るように二人は(それぞれ一時的なパリ帰国も挟みつつ)スイスやイタリアへの旅行に順次出かけている。鉄道もない時代なので妊婦には大変な重労働だったはずだが、ジュネーヴで36年12月、長女ブランディーヌが誕生した。
旅人のアルバムは、スイス旅行で見聞きした風景や民謡をモチーフにした曲集で、全19曲ある。このうちの数曲が改訂を経て「巡礼の年 第一年:スイス」 S.160(1855年)に結実する。また、37~38年に訪れていたイタリア旅行で見聞きした風景や芸術作品から受けた霊感を表現した「第二年」と「補遺」も出版は後年だが、大部分は39~40年頃に完成していたらしい。
旅人のアルバムはほとんど聴いたことがない。NAXOS全集32のアシュリー・ウォスもハワード全集でも聴いてない。巡礼の年の方は、第三年も含めた全曲盤ならラザール・ベルマン(Deutsche Grammophone)が有名。村上春樹の小説中に登場したせいでクラシック音楽のCDにしては珍しく再版がかかった。個人的にはルイ・ロルティ(CHANDOS)の演奏がとにかく美しく、大好きである。巡礼の年は、大曲もあるが、短めで肩肘張らずに聞ける曲も多いので、リスト入門にはもってこい。第一年の大曲「オーベルマンの谷」単独ならアルカーディ・ヴォロドス(SONY)がホロヴィッツ編曲を織り交ぜながら気合い入りまくっている(https://www.youtube.com/watch?v=4ADtxG-b8ik)。第二年、そして本曲集最大の大曲であり、リストの最高傑作の一つである「ダンテを読んで:ソナタ風幻想曲」は、評判の高いベルント・グレムザー(Koch Schwann)は未入手。ロルティ(CHANDOS)は全集版も第二年だけの旧録音どちらも良い(とにかく超絶技巧を味わいたいなら若い頃の旧録音が良い)。有名曲なので演奏動画をアップしている人はプロアマ問わず色々いる。
5. ベッリーニのオペラ「ノルマ」の回想 S.394(1844年)
幻想交響曲もそうだが、リストの作品の多くを他作品の編曲が占めている。特に多数のオペラ編曲があるが、この曲が最高傑作だと思う。中盤の鍵盤を駆け巡るアルペッジョは明らかにジギスムント・タールベルクの「三本の手」を取り入れたもので、聴いていて気持ちが良い。後半の「戦争だ、戦争だ!」のテーマに基づく部分は極めて難しく、ここを上手く弾けるかどうかがこの作品の見所。しかもいかにも難しいという様子で弾いては興ざめ。
今ならフィリペツの映像(https://www.youtube.com/watch?v=0TMypN1gW5k)が一番良い。CDもあるらしいのだが自主制作盤と思われ、未入手。他は、かつては表現意欲にあふれるベルッチ(assai)、ヴィルトゥオーゾ的な迫力あるトム・ウェイクフィールド(Symposium Records)、そして我らがスーパーヴィルトゥオーゾ、マルク=アンドレ・アムラン旧録音(Music & Arts)が三大録音だったと思う。アムラン新録音(Hyperion)は若干遅くなったが、抜群に録音が良くなり、総合的にこちらの方が好きかも。若手だと韓国のノ・イェジン(NCM)やイギリスのベンジャミン・グロヴナー(Decca/https://www.youtube.com/watch?v=OVKTEoxBIKE)が大変良い。
40年代に作曲されたもの。全3曲。演奏会用練習曲は、チェルニーのような練習のための曲ではなく、コンサートで披露して喝采をさらうための曲であり、いわゆる「性格的小品」の一種。リストはこういう曲をひっさげてコンサートに臨んでいたわけだ。第1曲から「嘆き」、「軽やかさ」、「ため息」と標題がついているが、出版社がつけたものに過ぎない。第2番の標題通り、全体的に軽やかな作風。特に「ため息」は有名でよく弾かれる。
第2、あるいは有名な第3番の録音はよく見るが、全曲録音というと意外とない。福間洸太朗(アクースティカ)のCDに全曲入っている。確かロルティ(CHANDOS)にも全曲録音があったはず。
スイス、イタリアでマリーと過ごしたリストだったが、ピアニストとして忙しく飛び回るためにマリーを放置してしまい、結局二人は破局する。ひどい話で、破局した後もリストは演奏活動をしていたので、リストの母が子どもたちの面倒を見ていた。
41~43年の夏にリストとマリーはライン川の中州にあるノンネンヴェルトの古い修道院で子どもたちと共に過ごしているが、これがマリーとの最後の親密なお付き合いだった。この曲は、当時同地に夫妻を訪ねてきたリヒノフスキー侯爵の詩に音楽をつけたもの。シャルルマーニュの武将ローラン戦死の誤報を受けて絶望した妻がノンネンヴェルト修道院に入ってしまい、ローランは二度と妻と会えなくなったことを知って修道院を見下ろせる土地に住み着き、妻を思う歌を歌った・・・という救いのないストーリーだ(歌詞:https://www7b.biglobe.ne.jp/~lyricssongs/TEXT/S4212.htm)。マリーとの破局に後悔していたのか、リストはこの曲に相当執着していたようで、ピアノ独奏用を含めて複数のヴァージョンを作り、何度も改訂している。晩年のバージョンをアンスネス(EMI)などが録音しているが、重苦しい。当時のバージョンはそこまで重苦しくないと思う。推薦音源はあまり思いつかない。全集を録音しているハワードもライナーで"beloved"と書いていて、気に入っているみたいである。
華麗なオペラものやシューベルトの歌曲の編曲(魔王を含めてかなりの曲を編曲しており、どれも魅力的)など、編曲を中心にまだまだ色々な作品があるが、そろそろ次の時代に進もう。
追記をはじめに書くべきとのブコメがありましたので修正しました。
○増補新版にしか弥助の記載がないってコメントあるけどそうなの?そもそもロックリーの本の方が先にでているらしいし、頑張ってこんな微妙なウソつくのはどうなんだ。/そもそも記載は本当でも南蛮人から買うしかない
○弥助の事書かれて無い2017年版大航海時代の日本人奴隷持ってるけど、2021年発行増補新版の間で何かに目覚めたんかな?17年版は序章の改宗ユダヤ人が異端狩りを逃れて日本へ逃げ込む所なんか凄い面白い本なんだけど
そしたらロックリー先生初出、岡・ソウザ先生がそれを取り入れた可能性もあるのか
そしてそれを取り込んでしまったせいで目茶苦茶な記載になったのかも
(肥後に弥助の妻子がいたと読み取れる件について)
○その部分は、校正の最終段階で、段落を丸ごと削除した際に残ってしまったミスです。2021年の再版刊行時にすでに修正済みです。アカデミアの方であれば、そういったことが生じることはご存知ではないでしょうか?それに、弥介の話は前段落で終わっているのは、文章を読めば理解できるところです。
○なおkindleは初版以降の修正は反映されないことが確認されたため、本日中央公論新社と協議の上、Amazonに修正依頼しました。来週には修正される予定です。本日大規模重版かかりましたので、同じ頁の数字の誤字も修正されます。ご指摘、どうもありがとうございました。
(後掲岡先生のXより)
アカデミアでは段落丸々削除する程度のミスは当然に生じうるから問題なし、またこれを弥助の話と取るのは読解力の問題、とのようだ。
弥助の話をしている流れで肥後の妻子の話を続けているのだから、普通の読解力だと弥助の話と受け取ると思うのだが。アカデミアの方々の高度な読解力は凄いね。
また、私なら、まずミスしてしまった本を読んでしまった読者に謝罪するけどアカデミアの流儀は分かんないね
なお、「廿」については修正されていそうだが、「器量すくやか」の誤読(?)についてはコメントされていなかった。
「戦国大名は黒人奴隷を求めた」説、ロックリーさんの捏造ではない
かもしれない。
アサクリの弥助問題から派生して、日本大学准教授のロックリー先生が、「戦国大名は黒人奴隷を欲していた」とデマを流している、との言説がある。
しかし、これはロックリー先生のデマではないのではないか、との意見がX上で交わされているので、ロックリー先生の名誉のためにまとめておこうと思う。(リンクが多くなりすぎるのでリンクは省略)
東京大学史料編纂所の准教授の岡美穂子先生と、その配偶者であり東京外国語大学特任教授のルシオ・デ・ソウザ先生の共著である「大航海時代の日本人奴隷 増補新版」(中公選書)という学術書がある。
屈強で珍しいカフル人を従者にすることは、日本人にとっては「富貴」や「威風」の象徴で、交易に関係する大名たちはこぞってその所有を望んだと思われる(215ページ)
また、ロックリー先生の著作の「信長と弥助」(太田出版)にはこうある。
ロックリー先生の著作が2019年出版、岡・ソウザ先生の著作が2017年であることから、ロックリー先生は岡・ソウザ先生の著作を参考に書かれた可能性がある。
つまり、岡・ソウザ先生は従者と記載しているのを、ロックリー先生が奴隷と言い換えてしまったようなのだ。母国語ではないせいで細かいニュアンスが変わってしまったのか、意図的なのかは不明だが。
ちなみに岡先生・ソウザ先生の著作に「「富貴」や「威風」の象徴…こぞってその所有を望んだと思われる」とあるが、その根拠は示されておらず、不明である。岡先生・ソウザ先生の博識にてらすと論ずるまでもないことなのかもしれない。
ただ、ロックリー先生の著作は英語版では内容が異なるという話もある。そこまで追えていないが。
商売上手の中央公論新社が、話題になったこの機会を捉えて「大航海時代の日本人奴隷 増補新版」を増刷してくださるそうだ。(https://x.com/chukoshinsho/status/1815737944243573035)
せっかくの機会なので皆様も是非お読みいただきたい。
注目すべきページがある。(https://i.imgur.com/aQlemYT.jpeg)
書籍内では「16、7歳」(4行目)とあるが、実は信長公記では「廿六、七」と書いてある。もちろんこれは26、27歳のことであり、①単純なミスが発見できなかったか、②「廿」という文字が読めなかったか、ということになる。ケアレスミスだろうか。
書籍内では「穏やかな気性」(5行目)とある。これも信長公記にあたってみると、「器量すくやか(健やか)」とあるが、現代文に訳すのならば「立派な」や「頑丈な」、「才気にあふれた」といった意味となる。これもケアレスミスだろうか。
書籍内では肥後に妻子がいたとされている(後ろから2行目)。文脈上これは弥助のことだと思われるが、史料中で弥助に妻子がいたことを示すものはまったくない。何を根拠にしているのだろうか。
ルシオ・デ・ソウザ先生は、ロックリー先生の最新作「A Gentleman from Japan」の推薦を書いており、関係は良好だと思われる。
岡美穂子先生によると次の通りだ。
「ゲンダイ」系の媒体、上からの圧力にも曲げず、頑張ってらっしゃいます。どうせ競馬と女性の裸の写真しか載っていないんだろうから読者の質など知れていると、オカミはタカをくくっておられるのかもしれませんが、なかなかどうして、左翼系知識人から、かなり支持されておりますのですよ。私は左翼でも、知識人でもありませんけど。でも右翼は絶対嫌だ。
そんなこんなんで、お友達がいるわけでもない日刊ゲンダイで、本が紹介されました。とても嬉しいです。
https://web.archive.org/web/20201101144221/https://mdesousa.exblog.jp/m2017-06-01/
岡先生のブログによると、左翼系知識人は日刊ゲンダイをかなり支持しているとのこと、また、御本人は左翼でも知識人でもないけど、右翼は絶対嫌とのことだ。
ちなみにこのブログは、2024年5月16日まではウェブアーカイブにて確認できるが、岡先生が今回の弥助・黒人奴隷議論に御参加されるころには既に削除されてしまっている。
弥助・黒人奴隷議論に際し、岡先生のなされた御発言をまとめておこうと思う。
○これだけ「歴史修正主義」って叫ぶ人が出てきてるのに(笑)、右系論壇が沈黙しているのは、さすがにこの問題に関わったら、常識を疑われると認識できているのだろう。
○将来を嘱望されていた呉座さんがあんなことになってしまったのは、あなたたちのような人と不用意に繋がってしまったからでしょうね。
○「権威の象徴としてアフリカ人奴隷を使うという流行が始まった」という文章を否定しろ、という意見が多いようですね。ここで迂闊に発言すれば揚げ足をとられそうです。外務省から正式な要請があれば、史料付きでやっても良いですよ。外務省がこの問題を本当に「国際的な国益問題」と判断すればですが。
○私はロックリーさんの著作は、日本語も英語も「歴史読みもの」であり、学術研究であるとは考えておりません。しかしそれが書かれるにあたって、彼が様々な文献にあたり、想像を超える努力をしたことは存じております。
○彼等にとって、ロックリーさんの著作が、歴史や日本への関心を形成するバイブルであるのだとしたら、それを否定するのは、彼等をとても傷つけることであり、それに対する防衛として、ネットの中で「歴史戦」が展開されているのでしょう。
○に「裏で」繋がっていませんが。私が海外で出版した本のレビューを権威あるジャーナルで紹介してくれたのは彼ですし。面識のない人を「あんた」と呼ぶのは、いかがなものでしょう。おそらく、現在表に出ている人間で、彼を表舞台に連れてこれるのは私だけですが、こんな人のためにはできませんね。
ここから、①右翼・右派に対する敵対心がある、②ロックリー先生の著作は読み物だが、ロックリー先生の努力やそれを信じる人のためにも否定しない。(ロックリー先生は史実と主張しているが)、③政府から言われれば自身の著作を修正しても良い、④ロックリー先生とは夫婦揃ってかなり深いつながりがある、という御意見をお持ち・事実関係であるいうことが読み取れそうだ。
著名な学者であり、岡先生の同僚でもある隠岐さや香先生まで、岡先生擁護の論陣を張っていた。
日本史研究者への歴史観にまつわる誹謗中傷、オンラインハラスメントは「アジアにおける学問の自由への脅威」の一例として報告されるレベルでして、まさに言論弾圧の一種として国際的にも認識されています
https://www.asianstudies.org/publications/new-threats-to-academic-freedom/
ちなみにオンラインハラスメントの日本での事例として、隠岐先生御紹介のページでは望月衣塑子さんの新聞記者が挙げられている。あれってフィクションじゃなかったっけ…?
ラノベレーベル名乗って無くてもラノベ出してる所はあるしラノベってカテゴライズ自体が後付けだから客観的な指標は無い
作者が謳う場合もあるし作者は意図してないけど出版社がそう取り扱う事もあるし公式には言われてないけど読者の多数が判断してそうなることもある
だからお前の指すそれはラノベじゃねえよっていう議論自体が不毛な所業
これは小中学生でもサクッと読める娯楽小説だなって感じたらラノベって判断でも間違ってないし
ラノベレーベルからハイファンタジーやハードSF出したって構わんのだ
ちなみに昨今は古典文学や古い小説に萌えイラストを添えて再版していることも多いので表紙が可愛い女の子っていう定義はもう当てはまらない
俺もコンビニで箱で買えた
ポケカ転売騒動というか、ポケカが投資になるよみたいな話はひとまずここで終わりを迎えそうで非常に嬉しい
そしてパックをむきたい
それがイーブイヒーローズ発売の5月あたりから1年近くできていなかったので、ようやく日常が戻ってきて嬉しい
2018年11月発売のウルトラシャイニーの時は社会問題化、は言い過ぎかもしれないけど、ポケセンのビル中に列ができる様子がネットでも書かれた
だってウルトラシャイニーは箱買いしてそれを全部カード屋に持っていけば、中身の当たりはずれに関わらず必ず買い取り額がプラスになる、という話だった
過去パックは壊滅して、ポケカを新しく始めようにもなにひとつ買えない、という状況だった
それでも、ブイズGXのスターターキットや、12月発売のタッグボルトなどは、発売日にイオンに行けば普通に買えた
一週間もせずに売切れたりはしていたような気はするけど、発売日に仕事帰りに買って帰ろー、仕事はよ終わらんかなー、みたいなワクワクはあった
2019年に入ればウルトラシャイニーもぼつぼつ再版され、過去パックも再版されて、迅雷スパークを見つけてはたくさん買ったのが懐かしい
そんな騒動はもう終わったのかな、と思い始めた2019年の5月末、エーフィ&デオキシスGXの構築デッキが発売され、そこに入っているプレシャスボールを転売するだけで儲けになる、ということが起きた
お店で60枚カード買って、その1枚(プレシャスボール2枚収録だったから2枚か)をカード屋に持っていくだけで58枚のカードとお小遣いが手に入る現象
で、それから半年、ポケカ品薄はもう過去の話と思っていた2019年11月、サンムーンが終わってソードシールドが始まった
という限定セットが発売された時だった
これもまあ、発売日にポケセンには売ってたんだけど、すぐになくなった
そしてこの中に入っている限定プロモ1枚が、セットそのものと同じ値段以上で売れる、という話になっていた
おいおい、またあのエーフィデオキシスみたいじゃん、とか言っていたら
2021年4月発売の漆黒のガイスト、白銀のランスは仕事終わりじゃ1種類しか残っていない、という事態に遭遇した
あのウルトラシャイニーのころだって、発売日の仕事終わりでパックは買えたんだぞ?
どういうことだ?
と思っていたら、その次に出たイーブイヒーローズは完売でついに手に入らなかった
そこから抽選販売に申し込まないとポケカは買えないという生活が始まった
なんで改善したかというと、ポケモンのカードの封入率が上がって、女の子のイラストのレアカードの封入率が下がったらしい
女の子のイラストのレアカードが50万だかバカな値段で取り引きされるらしく、それが減ってポケモンやボールのレアカードが増えればプレイヤーには影響なく転売ヤーにだけダメージがいく仕組みらしい
「一緒に逃げよう」。私はシノブにそう返事すると、SNSでシノブ以外の同人サークルのメンバーをみんなブロックした。シノブも同じだった。
それからしばらくが大変だった。
「どうして約束を守れないんですか!」
「これまで何か問題があっても、みんなで話し合って解決してきましたよね」
「とにかく定例会議に来てください。逃げないできちんと相談して下さい」
同人サークルのメンバーはサブアカウントを作って毎日代わる代わるメッセージを送ってくるのだった。
「何があったのですか? 大変だとは思いますが、みんなできちんと相談して、早く問題解決する事を願っています」
再版の通販を待っていたファン達からも、どこから噂が流れたのか、こんな励ましのメッセージが次々に届いた。
私も本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、無視するよりほかなかった。
傷口が浅いうちに逃げた方がいい。ここで余計なことをすると、余計に傷口が広がる。
しばらく後、同人サークルのメンバーの何人かは「シノブ・カヲルとは今後縁を切らせていただきます」と宣言した後、シノブと私のSNSアカウントをブロックした。
今日のオンライン定例会議は夜9時から。突然の仕事で遅くなって今は10時。これまでは2時間位掛かるのが普通だったから、もう議題の半分位は終わっているだろう。
しかし、帰宅してPCを立ち上げると、既に会議は終わっていた。
「もう、やめたい。もう、あの会議には出たくない」。
*
シノブは同人サークルを立ち上げたばかりで、今日は同人誌を執筆したメンバー達と打ち合わせをする事になっていた。
私、カヲルも同人サークルを運営している。サークルと言ってもメンバーは一人だ。
「フォトショップ持ってるよね? 印刷所に入稿する原稿を作れるのはカヲルさんだけなんだから! お願い!」
本当は自分自身もコミケ合わせで作りたい作品があって、スケジュールはギリギリ。
でも、何もかも初めてのシノブのこんなお願いに、私も重い腰を上げて手伝う事になったのだ。
「冬コミって今から申し込めば大丈夫?」とシノブ。「締切りはもう過ぎたよ。でも売り子を手伝ってくれるなら、うちのサークルスペースに作品を置いてもいいよ。もし当選したらね」。
シノブをはじめメンバー達みんなも生き生きとして原稿を作成し、薄い本の実物の姿がだんだん見えてくるにつれて、熱狂は最高潮に達した。
そして「マイナージャンルなので、献本分を除き十冊程度売れればいいでしょう」と、その何倍かコミケに持って行ったら、二時間で完売してしまったのだ。
*
しかしそんなシノブが、同人サークルをやめたい、オンライン定例会議にも出たくないと突然言い出したのだ。
これは本当にきりの悪いタイミングだった。
「あの完売した本、私も欲しかったんだけど、再版はあるの?」と何人かに聞かれていて、「今検討中です」と答えていた。
シノブも「通販と、1月の文学フリマ京都や夏コミでカヲルさんのサークルスペースに出す予定です」と答えていた。私からはまだちゃんと「いいよ」とは言ってないのに、ちゃっかりしてるなあ、でもまあいいか、と思った。
リサイクルショップや修理工、マニアショップやフリマアプリみたいに物を大切にすることで産まれる産業もあるよ。
どんどん捨てて埋め立てられて地球温暖化で地球が破壊されたら地球が持たない。
レトロゲーム修理業者やマニア系古本屋なんて物を大切にする文化から産まれた産業じゃないか。
そもそも中古品の流通による企業への資金供給不足による経済の停滞が嫌ならメーカーが再版すればいいだけ。
事実バトルトードみたいにプレミアゲームが再販される事例もあるしニンテンドーオンラインやミニファミコンみたいな擬似的な再版もある。
メタルスレイダーグローリーやラブクエスト、イデアの日が新品で再版されたら高くても買うな。
同人誌は発行者の趣味でやってるものだし、そもそもグレーゾーンの趣味なので「儲け」を優先するものではないけど明らかにたくさんの人が「欲しい」と思ってるその人の本に対し少量しか刷ってない。
コロナの影響もあり実際のイベントがなかなか参加出来ない昨今だけど、コロナ前まではいつも目立って長い列が出来ていた。
他サークルの前も埋めてしまうほど。(当ジャンルはあまり列が出来ないちょっとだけマイナージャンル)
そして今Webイベントが盛んな昨今もtwitterのTLでは「買えた」「買えない」合戦。
そのサークルさんはここ数年このジャンルで活動してるし、そろそろ部数を読めてもおかしくない頃。
また毎回その様に騒ぎになるし、なんだったら複数回厳しい意見のマシュマロが届いていてTL上で返信しているのを見る。
「どうしてもっと刷らないのか?」って。
マシュマロで匿名からその様に攻撃するのを「良し」とは思わないけど、確かに買い手さんを煽って目立とうとしてる様には見える。
「自分の趣味なんだから発行部数は自分で決める!私の勝手です!」と返事してるけど、確かにそうだけどそれで何度も再版してまた即完売してを繰り返し、またそのマシュマロ応戦をTLに流されるのは見てて気持ち良くない。
そもそも今はWebイベントだからまだ良いとして、実際のイベントだと人様のサークルの前を埋める列に対してなんとも思わないのかな?って。
多分少ない部数でサークル参加申し込みしてるから島中配置になる。
どうなんだろう?
コロナの影響でイベントが開催されないせいで、人気同人誌の通販戦争が起きている件について。
凄いもので、人気絵師の同人誌が1分も経たずに在庫無しになって、その事について、
「なんで小数部しか刷ってないのか」とか。「相互、フォロワー優先ずるい」とか。
好きな絵師相手にアホな焼きマシマロ送る馬鹿がでたというTLの流れを見たんだけど、
コレって本当に通販に負けた人間が送ったんじゃなくて、このタイミングを狙った人気絵師の士気を下げたい人間が送ったんじゃないかとゲスパー。
なぜなら、正直、通販にちょいちょい負けている人間としては、たしかにもっと刷ってくれれば・・・と思いもするが、
それよりも、「通販戦争に勝った!」とか、「取り置き有難うございます~!」とか言っている人間の方に嫉妬や悪意は湧くもんじゃないだろうか。
アイツを融通して・・・より、
アイツが融通されているのが許せない・・・とかなる方が自然な感じがするんだが、
愛しさ余って憎さ100倍とかそう言うやつなのだろうか。
あんな焼きマシマロ送っても、人気絵師の気持ちは盛り下がるばかりで、再販してくれる望みを下げるだけなのだが、
(焼きマシマロ送る人間は知能が低そうなので、本当にあのマシマロで再版してもらえると思っている、みずからの首を締めるアホなのかも知れないが)
それよりも、人気絵師の士気を下げて、ひいてはジャンルから撤退して貰って、得する人間といえば、
人気絵師がいなくなったら自分に日の光が浴びるんじゃないかなんて思っている絵師とかの方が可能性が高そうだなぁ。なんて思う。
最近はてなを腐女子が埋めているようで申し訳ないんだけどここしかこういう話をできる場所がない。ごめんね。
他の方の部数の話を見て自分と違うことに驚いたので「びっくりした」と言いに来ました。
簡潔に言うと、「自分はこうなので他の人も似たようなものだと思っていたら、人によってかなり違った」という話です。
私の場合、印刷部数も実際の頒布部数もブクマ数の3〜5倍くらいになります。
二次創作するジャンルによってブクマ数も頒布数も変わるけど、比率はいつもそのくらい。
サンプル数をあてにすると全然足りなくなるんだな、と気付いてからは自分の財布と相談しつつブクマ数の2〜3倍ほど刷ってました。
そんでも足りなかったら再度財布と相談して、可能だったら再版。
みんなサンプルはブクマしないのか、してくれると助かるんだけどな、と思っていました。
が、私がここにお邪魔するきっかけになった、部数について話をしていた方は、
30、80ほどブクマされた本の実際の頒布数が、それぞれ15冊ほどだったそうで。
でも、その小説をpixivに再録したらブクマが4桁もついたらしく。
ブクマ数は参考になんねえ!!と仰っていました。
いやたしかに参考にはならないと常日頃から思っていたけど参考にならないってそっちの方向なのか!!!!!!
人によってずいぶん違うんだなあ。
ジャンルによっても違うのかもしれないけど。
びっくりした。本当にそれだけでごめん。
※フェイクあり。
これは自カプオンリーへの参加を断念した腐女子の嘆きの日記です。
私はアニメや漫画、小説などの二次創作をすること、読むことを楽しむオタクの中で、BL妄想が大好きな人種です。
それもライト層ではなく、本を出したり買ったりする、首どころか頭の天辺までどっぷり同人沼に沈んだ人間です。
※公式に金を落とせというご指摘もおありでしょうが、何か出たら喜んで買ってます。今回は金銭の授受を伴う二次創作の是非は脇に置かせてください。
そういう人種にとって、同人誌即売会は特別なイベントです。同じものを好きな人と本を売り買いし、お喋りできる場だからです。
そんな特別で非日常のイベントの中でも、更にちょっと特別なのが、カップリングオンリーだと思います。
普段のオールジャンルやジャンルオンリーでは、逆や攻め違いのサークルさんも近くにいます。相手にとっても私は逆や攻め違いです。敵ではありませんが、同ジャンルであっても、やっぱり少し違う相手です。
ですがカップリングオンリーなら、同じカップリングが好きな人ばかりで島が作られます。
右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを見ても、お仲間しかいません。天国です。
買いに来る人も自カプを好きな人ばかりです。楽園はここにあった。
7月12日に開催された七夕FES.はそんなカププチオンリーの集まりですが、普段と少し違うことがあります。
それは全てのオンリーが、サークルの投票によって決まったものだという点です。
詳しくは割愛しますが、同人文化を応援しようという目的で、新刊を印刷したり、既刊を再版したりすると、印刷所から「新刊カード」というものが配布される、というキャンペーンがあります。
カードはいくつか活用用途がありましたが、このオンリーもその企画の一つです。
「新刊カード」を投票券に交換して、イベント会場ないし郵送(制限あり)で投票する形式で行なわれました。
このお知らせに、界隈は色めき立ちました。
オンリーはオールジャンルのイベントとは少し違う雰囲気があります。
過去に活動していた移動済みの人や、参入を迷っている人、普段はオン専の人が、オンリーがあるなら、と参加を決めることがあるからです。しかもカププチ。つまり自カプの本がずらりと並ぶ。
これは勝ち取らねばならない。そんな空気になりました。
それでも、新刊や再録本を出したり、再版をかけたり、別ジャンルの友人に譲って貰ったりして、どうにかこうにかカプオンリー開催決定までこぎ着けました。昨年の冬のことです。
この時点では、私を含めて多くのサークルが、この七夕FES.に参加するつもりだったはずです。
しかしその後、状況は一変しました。世界を襲った新型コロナウィルスによる影響です。
春以降、多くの同人イベントが延期・中止を余儀なくされました。
もちろんその他のコンサートや各種イベントやスポーツ等の大会も同様で、飲食店やアミューズメントその他、各方面に甚大な経済的被害が出ました。
夏には収まっていないかという希望的観測も虚しく、現在も新規感染者は増え続けています。
その状況下で、政府から出ていたイベントの開催の制限が緩和されたのが、この七夕FES.の直前でした。
屋内なら最大5000人以下もしくは収容人数の50%以下の、数字の小さい方までなら、感染症対策を取れば、開催して構いません、ということになりました。
私は当然のように、コロナが騒がれはじめるより前にサークル参加を申し込んでいました。
友人たちも同様です。投票を呼びかけた立場上、退くに退けない、という友人もいました。
規制が緩和されるとはいえ、この状況で開催されるのか? 本当に?
仮に開催されたとして参加できるか?
私が行けたとして、友人や買い物に来てくれる人はどうか?
悩んでいる間に月日は過ぎていきました。
主催から感染拡大防止のガイドラインの類いが出たのは、サークル参加申し込み締め切り翌日の6月6日の夕方でした。
そこには、高齢者や基礎疾患持ちの人と、その同居者は来場の自粛を検討してください、という旨のことが書いてありました。あくまで自粛のお願いで、なんら強要するものではありません、というようなことも書いてありました。
今確認できるものは少し内容が変わっています。私も記憶で書いているので不正確でしたら申し訳ございません。ただ、内容的にはおそらく大きな違いはないと思います。
こちらも大人ですから、当然リスクを考慮して判断をします。ですが、腑に落ちない思いがありました。
もともとオンリーは、オールジャンルのイベントと比較すると集客が少ないです。
更に7月は閑散期です。だからこそ、このタイミングにカププチを設定したんだと思います。
これはつまり、人の少ない7月に、試しにイベントを開催してみて、その後の8月の東京大阪のイベントへの対策を考えようとしているのではないかと、そう感じました。
↓の一覧を見ればわかる通り、このカププチが初カプオンリーというカップリングが多くあります。
https://www.akaboo.jp/event/item/ca039.html
処女厨みたいでなんですが、初の自カプオンリー、しかも自分たちの手で勝ち取った自カプオンリーを、とても粗雑に扱われていると感じました。
ここに掛かっているのは端的に言うとお金で、もっと言えば愛情です。情熱です。執念と熱意です。
それらは同人活動の根本的なものでもあると、私は思います。それをないがしろにされていると感じました。
東京都知事から、都民に対し、他県への移動を遠慮するようにとの要請が出されたのが、7月4日でした。
検査対象を増やしたことと、自粛の解除の影響か、東京の新型コロナウィルス感染者が拡大していたので、無理もないこととは思います。
あと1週間で、関東から大阪に、イベント参加できる状況になるだろうか?
友人たちと相談し、どう考えても遠征での参加は難しいこと、3日から一般参加者用の入場チケットが販売開始されているので、出欠の告知は早い方がいいことを確認し合い、このタイミングで欠席のお知らせをしました。
9日、主催から開催直前のサークル参加者宛のメールが届きました。
来夏に12日のカプオンリーの再開催を企画していますとのことでした。
まるで「来年またやるから、今年は諦めろ」と言われている気分でした。
私達が投票したカププチは、今回の無番のこのカププチなのに。
一年後にはジャンル移動している人だっていて、今と同じ情熱の本が出るか分からないのに。
それに、再開催ということは、今回参加者(欠席者含む)もまた申し込みをしなければなりません。
サークル参加費用はそこまで高額でもありませんが、無にするには惜しいお金です。
来夏に、はたして参加できる情勢になっているのかも分かりません。
ここまでの状況で、私はもう、無邪気に喜ぶ気力もなくなっていました。
春に移動した今年の夏コミは中止でしたが、当選サークルは一部分しかサークル参加費が戻ってきていません。それと比べれば、開催された以上は返金がないのは諦めるしかない。
特に私は、主催の自粛要請の対象でも、移動の自粛要請の対象でもありませんでしたから、自分の判断での欠席なのは事実です。
でも、次また開催されるか分からない、行けるか分からない、人が来ないかもしれないイベントに申し込むのは冒険に過ぎる。そう感じました。
会場の写真が上がっていて、そのあまりの「疎」ぶりに乾いた笑いが出て来ました。
ただ、気になったことがありました。主催を心配する呟きが散見されたことです。
欠席したサークルには返金するんだろうから、という内容の呟きを見て、あれ? と思いました。
開催された以上は返金なんてありません。サークル参加費用と手数料は払いっぱなしです。
返ってこないのは仕方ありません。
でも、誰一人返金されていないのに、まるで主催が返金しているかのように誤解されるのは業腹です。
ネット主体で通販メインになるのか、いずれは元の形に戻るのか。
短期的には、8月以降のイベントが開催されるか、あるいは中止延期になるか、その時、返金はあるのかどうか。
ただ、参加申し込みをした人が泣きを見る結果にならないことを強く願っています。
いままでは一冊でも欲しい人の手に渡るようにと通販分余分に刷るも
その余分以上にイベントで余ったうえ通販も思うようにうごかなくて
不良在庫を1年以上イベントで持ち歩くのも恥ずかしくなってこっそり在庫処分したりしてたけど
今回は通販を考えず1回のイベントで完売する量だけ刷ってみた。
そうするとスペースで頒布しているときから心の余裕がまるで違う。
これまでは、この時間でまだこれだけしか出てないとまた大量に持ち帰ることになるなと思いながら
隣を買ってうちをスルーしていく人たちを恨みがましく思っていたけれど
今回は純粋に欲しい人にだけ買ってもらわないと在庫が切れてしまうので
一人ひとりスペースに来てくれる人に全力でありがとうって言えるしむしろ在庫がもつことに安堵感さえ覚える。
通販も残りわずかな在庫をつっこんだら瞬殺し、見事に手持ちがなくなった。
たとえ少部数でも、売り切れるって思った以上に気持ちがいい。
以前出した本もその方式で売り切れる部数だけ刷って、イベント途中で完売した。
そこですぐさま通販分を再版し書店通販した。瞬殺するかと思いきや、書店は長い間残った。
イベント前に返納をかけ、イベントでは再版分まで完売したが、取り置きまで頼んできたサークルも含め感想は1通も来なかった。
前回と今回のことを比べてみて思う。
感想はあるともちろん嬉しいだろう。
しかし、たくさん売れれば感想がいただけるチャンスは増えるかもしれないが、まったく徒労に終わることだってある。
感想をモチベーションにしたり期待するのは健全とは言えない。淡い期待を抱くとがっかりすることになる。
欲しい人にわたるように親切に再版までかけても、さらっと買われて読まれて終わるだけ。そこにコミュニケーションは発生しない。
前回はたくさん売れれば感想が一つでも増えるかもと淡い期待を抱いてしまったために失敗した。
でも、考え直してみると、10部しか売れなくて感想がたくさん来るのと、50部完売したけど感想は一つも来なかったのとどちらが嬉しいかというと、
自分は完売のほうが嬉しいのかもしれない。それだけお金を出してまで欲しいと思ってもらえたということにとても達成感を感じる。
感想は思った通りの感想が頂けるとは限らない。読み違えていたり、やっつけ感想、交流感想、なんだってありうる。
今回は欲しい人全員には渡らなかったかもしれないけれど、目標としていた部数は完売できたのでとても充実した気持ちだ。
原稿に夢中で大した宣伝もできなかったけれど、執筆中からひっそりといいねをとばしてくれたり、会場や瞬殺した通販で新刊を手に取ってくれた方々ありがとうございました。
次の本もがんばります。
という独り言でした。
先日5/25~5/26に開催されたゲームマーケットに行ってきた。初参加で、25日のみ。
気になる物を買って大変満足しているが、初参加で思った「宣伝の下手さ」について話そうと思う。
前置きとして言っておくと
・ヲタク♀
・売り子の経験多数
なので、同人誌即売会と絡めて話していく。
ゲームマーケットにはカタログを購入し、ざっと見渡してから乗り込んだ。
事前準備にサークルカットから気になる所をいくつかピックアップし、更に踏み込んでツイッターやHPなども確認した。その上で乗りこんでいるが、明らかに宣伝が足りない人が多い気がした。
ツイッターやHPを見ても更新日が過去のもので、最新の更新も、その日に何を頒布するのかきちんと書かれていない。
ゲームマーケットは公式HPで宣伝ができるのに手抜きしている人が大変多い。
サークル参加経験者として、イベント前日まで準備している人が多いのを知っているのでよく分かるが、発信がなければ一般参加者は「このサークルに何があるのか」が全く分からないので非常に困る。
なのでできるならきちんと情報発信してほしいし、完売して再版予定がない作品にはそう明記してほしい。過去作品が欲しいと思ってうきうきしながら訪ねて、なかった時の落胆さは半端ではない。
正直ボードゲームはどんなものでもプレイしてみないと面白さが分からないので、新作は一回目より二回目の頒布で売れるんじゃないかと思う。
新作が売れる所は、宣伝が上手だったり、当日のルール説明が上手だったり、何かしら工夫をしているはず。
実際目を引いた所は宣伝をきちんとしていた印象だった。
当日購入したサークルの印象
・ダイマが上手
当日購入しなかったサークルの印象
・スペースに近付いても無言。愛想がなくても良いけどルールも飾ってないのだから説明ぐらいしてほしい
・背面ポスターが小さすぎて何も読めない(A3を横にしたのを二枚並べて飾るぐらいのサイズは読めない)
なお宣伝に重きを置いているので、ゲームの面白さは省いています。
なので自分にはこのゲーム合わないかも、と思ったスペースの話はしていません。
反対に、次回購入、もしくは通販などで手に入れようかなと思った所
即売会って基本的にもう情報社会になっていて、あんなに広いホールを全部回って見て決めて買う、なんてしていたら正直時間がないので、事前に調べるんですよ。ただでさえ試遊とかやってるから、17時まで開催していても全部は難しい。
それでもやっぱり情報収集で抜ける所はある。そのためにフライヤーがあると後で確認しやくて大変嬉しい。
実際に二個ぐらいフライヤーで気になるゲームがあったので、機を見て購入するつもり。
フライヤー配ったりして試遊ゾーンに人を置くとなると、当日かなり人数が必要なのはよく分かっている。売り子とか足りない所あったし。
人員確保にフライヤー用意に、絶対に大変だけどした分は見返りがあると思う。
もし今回宣伝下手だったかもという方がいたら、是非お願いしたい。事前のアピールと当日の設営、本当に大事だから。ゲームが面白くても損してるから。
ほんと誘われたら売り子でも何でもするんだけどな~~~遊ぶだけでそっち系のコネないんだよな~~~十一月も楽しく一般参加してきます。
久しぶりに更新してみようと思う。
友人達を巻き込むだけ巻き込んで爆発しって散った恋をしていた。
まさに地雷原を歩みゆくようなもので、とある友人には「陽だまりに行くために何も吹雪の中裸足で外に踏み出る必要はないし、霜を踏む必要もなければ、氷柱に刺される必要もない」とまで言われた始末。
それでも私は「恋は盲目」という慣用句の通り、まあその先にある陽だまりを信じていた。
多分、実際ちゃんと頑張れれば想像よりずっと小さかったとしても、おそらくそこに陽だまりはあったのだろう。けれど、頑張りに対してそのご褒美があまりに小さいと感じたので今回、そこを目指すのをやめて囲炉裏に火を焚いている家に戻ることにした。回復するかどうかは分からない。凍傷にもなっているだろう。だけど、戻ることに決めた。
ありがたいことに、私の両親は私の数々の趣味に対して、詳細を知ろうとはしなくても概ね否定せずにいてくれた。コスプレは嫌な顔をされることもあったけれど(主に片付かない的な意味で)。
本を書くことについては、その内容を読まなくても装丁や出来栄えを褒めてくれた。イベントで本が捌けると喜んでくれた。NLが多かったのもあって「読みたい」と言われたら当たり障りないものを渡す準備もしていたけど、言われはしなかった。
頒布数は決して多くないけれど、頒布数の割には感想をよくいただいていた。拙作と言っても過言ではないけれど、それでも一生懸命考えて書いていたし、愛着もある。だから、純粋に自分が書いたものを褒められることはうれしかった。
私のそれぞれの趣味に対して、厳しいことを言う人ももちろんいたけれど、正直そういう人はどうでもいい。直接危害を加えられないのであれば、いないのも同然。そしてありがちことに、ほとんどそうした粘着質の人とは関わらずに生きてこれた。
で。
私は趣味の中で自己顕示欲を満たしていた。だからそれを全部なくすことに抵抗があった。
まして発行から1年も経っていない本もあるし、再版をかけてしまった本もあった。
それでも、恋人のことが大切だったし、趣味の中で得られていた様々なものをひとまとめにしたメリットと、恋人から与えらえる感情とを天秤にかけてみて、やっぱり後者が重いと感じられたので、コスプレはさくっと上がったし、同人活動も止めて、家にあった在庫も欲しい人に配った後は実家のリフォームに際して処分した。印刷費は回収したかった。
手持ち無沙汰になった私は積んでいた小説を読み漁ったり、編み物を楽しんでいる。
読書も編み物も楽しいけれど、それを共有できる人がいない。長くオタクとして生活してきたから、どうやって繋がって共有していけばいいかがよくわからない。私は、私らしさを少し失った。
甘いものが好きだ。
果物もケーキもクッキーも好きだ。マカロンも大好き。そんな中、流行にのってタピオカにハマった。
デートの時に「タピオカを飲みたい」と伝えたら「毒じゃん」と笑われた。
私の中の小さな私が死んだ。
わたあめを食べに行った。
かわいらしい色で大きなわたあめを頬張る娘が嬉しそうで、こちらまで嬉しくなった。
また「毒の色だよ」と言われた。
私の中の小さな私が死んだ。
やめてほしいと伝えた。
好きなものを同じだけの熱量で好きにならなくていいから、せめて否定しないでほしい。私は私で、あなたはあなただから。否定しないでほしい。同じ熱量で好きになれるかはわからないけれど、私はあなたの趣味を否定しないし、理解したいと思ってる。同じように理解はしなくていいから「ああ、好きなんだな」で気持ちをとどめてほしい。そう伝えた。届かなかった。「じゃあ喋らない方がいいね」「帰るわ」。
まったく私の言葉は届かないのだと、涙になった。
私は私で、それはあの人の恋人であり、娘の母であり、企業に勤めるサラリーマンであり、母や父にとっての娘であり、友人にとっては友人であり。どれも私で、全てを束ねて私だ。
私は責任の中で生きていて、全てが過去の選択の結果。だから、母としての私を認められないことが苦しかった。どうしたって時間に制約はある。人付き合いもある。そういうのをやり繰りしながら時間を作って会っていた。だけど、それではいけなかったらしい。
もう一人、小さな私が死んだ。
じゃあ、と、振り返ってみたら。
殺された私の代わりに新しい誰かが生まれていたかと考えてみたら。
そんなことはなかった。
こちらからお願いしたことも、むこうから言ってきた約束も、何一つ、一週間だって守られたことはなかった。そして更に悪いことに、気づいてしまったのだ。言われたことも嘘ばかりだったのだと。
気づいたら、中くらいの私が死んだ。
そうしたらもう、ダメだった。
言いたいことも言えず、伝えてもかなわず、期待しても裏切られる。
こんな人の傍にいてはいけない、と。
きっとあの人は叶えてるつもりだっただろうし、言ったこともその時は本気だったのだろう。
だけど、継続的に叶え続けられないのならそれはただの気まぐれ。
後戻りできないほど周りを巻き込んだ私と、生活は何も変わらない恋人と。そんな分の悪いシーソーゲーム、降りてしまって良いだろうと。
ここから私はまた周りに説明をして回らなくてはいけないし、家族に謝らなくてはならないし、下手をしたら連れてこられた男と見合いなりなんなりしなくてはならなくなる。けれどこれも、私の選択の結果だ。
傷ついても嫌なことを言われてもされても、努力していた私は確かに存在した。
調べものも沢山したし、時間も作ったし、理解し合いたいからと対話の努力もした。
だから、結果については残念だけれど、私は私の努力を讃えたい。
一番大きな収穫は「言いたいことも言えない恋人なんて、とっとと別れちまえ」だ。
私はもういちど、自分の好きなことをやりたい。