はてなキーワード: 絵本とは
昔のゲームってビジュアルが貧弱だからその分だけシステムの方がメインだった感じじゃん?
新しいゲームが出た時も「こんな面白いシステムなんです!」みたいな感じだった。
それがPS辺りから「新作のムービーはこんなにキレイ!キャラデザは漫画家の〇〇先生!音楽は有名作曲家の……」みたいな感じになっていった。
ムービーをやたらと持ち上げる風潮は色々批判を受けまくった末に衰退していったけど、代わりにキャラクターや世界観の魅力を全面に押し出すことが増えたように思う。
スマホゲー業界が強いからそう感じるというのもあるけど、フルプライスゲームでもまず最初に狙ってくるのはキャッチーなビジュアルであるかどうか。
古いゲームのリメイクなんてまさに「ビジュアルが凄い!ゲーム性はそんなに弄ってないから安心!」みたいな感じでしょ?
システムで勝負するゲームはインディーズの方に押しやられて、大企業が作ってるゲームほど「キャラ!マップ!設定!ストーリー!」みたいな感じで勝負してくる。
・宣伝するときにゲーム性を売りにしても体験版を配布してプレイして貰うのは難しい
・キャラの魅力だったら1枚絵を見せるだけも伝わるしテレビCMやネット広告でも十分
・ゲームバランスやシステムの調整は規模が大きくなるほど難しくなるので現代の大人数型制作と相性が悪い
ビジュアル方面に流れていく理由もシステム方面から離れていく理由もいくらでもあるのが現状なんだから当然だとは思う。
でもそれに対して俺はちょっと寂しいんだよな。
俺の中ではゲームに対する認識って「自動で動く複雑な玩具」だったんだよ。
「遊べる絵本」でもなければ「動かせるアニメ」でもなく、複雑な機構を内包して実現していることの方にこそ魅力を感じたし、ビジュアルはそれを説明するためのデザインみたいに思ってた。
でも段々とゲームシステムの役割がキャラクターの能力を説明するための補助機能、つまりはサブ側の立ち位置に追いやられていった。
たとえばSRPGなんかで昔は「このキャラは機動力のある遠距離攻撃キャラだから騎馬弓兵のビジュアルにしよう」って感じだったのが、今は「このキャラはエルフ風味の獣人キャラだから機動力のある弓兵にしよう」みたいな感じになってるじゃない?
そもそもRPGにおける弓兵のステータスは指輪物語的なエルフをゲームルールに当てはめたものなんだって話はあるかも知れないんだけどさ、俺としては一時期のコンピューターゲームにおいては確かに「役割に対してビジュアルを与えよう」って風潮があったと思うわけよ。
俺はその時代のノリが好きだったっていうただそれだけの話な。
いやまあ言うほど今の状況に不満があるかっていうとそうでもないよ。
どっちが卵で鶏だろうが補完しあうデザインの妙というものは味わえるわけだから。
でもなんだろうな、なんだか最近のゲームは本当に「既存のパーツの組み合わせをただちょっと変えただけ」みたいな、悪い言い方をすれば「AIが作ったかのようなテンプレパーツキメラ感」が強いように思うよ。
それがビジュアル優先の流れから産まれたものなのかまでは分からんから、俺が言ってることは単なる八つ当たりなのかも知れんね。
最近、「量子力学って不思議な学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学は専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。
私たちの多くは、日常生活で「見たもの=現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景が世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?
量子力学は、この「当たり前感」を根本から揺さぶる。ミクロな世界では、粒子は同時に波であり、状態は観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しかし量子力学は「それが重要な問題だよ」と言ってくる。
もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやすい実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学を象徴している。
これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人の私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測」自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界の状態に影響を与えている。
こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たちが人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たちは宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在でしかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間の感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。
これを知ると、自分が大きな宇宙や自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベルの世界を想像してみれば、私たちの確信なんてあやふやなもので、宇宙はもっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。
現代はネットやメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているから真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議な世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像は真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事を判断できるようになるかもしれない。
もちろん、義務教育で量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本や実験動画、簡単なワークショップで体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。
こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間は自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さな頃から「世界には不確定なものがある」「見ていないときの世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報や映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的に世界を理解できる大人へと成長できるだろう。
人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲で世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間がいかにちっぽけで、世界の理解が限られているかがよくわかる。
その「ちっぽけな存在」である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これからの時代に必要な姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚や価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育で量子力学のエッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。
見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考と謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。
最近、「量子力学って不思議な学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学は専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。
私たちの多くは、日常生活で「見たもの=現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景が世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?
量子力学は、この「当たり前感」を根本から揺さぶる。ミクロな世界では、粒子は同時に波であり、状態は観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しかし量子力学は「それが重要な問題だよ」と言ってくる。
もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやすい実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学を象徴している。
これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人の私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測」自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界の状態に影響を与えている。
こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たちが人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たちは宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在でしかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間の感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。
これを知ると、自分が大きな宇宙や自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベルの世界を想像してみれば、私たちの確信なんてあやふやなもので、宇宙はもっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。
現代はネットやメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているから真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議な世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像は真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事を判断できるようになるかもしれない。
もちろん、義務教育で量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本や実験動画、簡単なワークショップで体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。
こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間は自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さな頃から「世界には不確定なものがある」「見ていないときの世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報や映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的に世界を理解できる大人へと成長できるだろう。
人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲で世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間がいかにちっぽけで、世界の理解が限られているかがよくわかる。
その「ちっぽけな存在」である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これからの時代に必要な姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚や価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育で量子力学のエッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。
見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考と謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。
最近、「量子力学って不思議な学問だよなあ」と考えることが増えた。正直、量子力学は専門家向け、大学以上で初めて学ぶ高難易度な分野とみなされている。けれど、私はむしろこの「目に見えない世界を扱う学問」こそ、義務教育で触れさせる価値があると思っている。なぜなら、この学問には「人間は目に見えることを当たり前に信じているけど、それは本当に正しいの?」という重要な問いが詰まっているからだ。
私たちの多くは、日常生活で「見たもの=現実」として受け止めている。リンゴが転がっていたら「そこにリンゴがある」と疑わないし、机が固くて動かないのは当然のこととして受け入れている。光が差せばそこに物が見え、目の前にある風景が世界のすべてだと思ってしまう。この「当たり前感覚」は便利ではある。私たちは、見える世界をそのまま理解し、そこに順応して毎日を過ごせる。だけど、よく考えてみると「見えるから信じる」って、本当に頼れる基準なのだろうか?
量子力学は、この「当たり前感」を根本から揺さぶる。ミクロな世界では、粒子は同時に波であり、状態は観測するまで決まらない、というまるでSFのような現実がある。これは「観測者が見ていないとき、物はどうなっているのか?」という奇妙な問いを突きつける。日常とはかけ離れた話のようだけど、「見ていないときに本当にそこにあるか?」なんて、普段は考えもしない。しかし量子力学は「それが重要な問題だよ」と言ってくる。
もし子どもたちが、義務教育の早い段階でこうした不思議な考え方に触れたらどうなるだろう? 最初は「意味不明」「難しすぎ」と思うかもしれない。でも、わかりやすい実験やたとえ話で、「物は見ていないとき確定していないかもしれない」といった発想を伝えることは、必ずしも不可能じゃない。たとえば、シュレーディンガーの猫という有名な例え話がある。箱の中の猫は、開けて見るまで「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている――そんな非日常的なイメージが、量子力学を象徴している。
これを子どもが聞けば、最初は戸惑うだろう。「見ていないときに、猫って何なの?」と混乱するかもしれない。でも、この混乱こそが大事だ。「見える世界がすべてだと思ってたのに、見ないとわからないなんて、どういうこと?」という疑問は、当たり前を疑う力になる。大人の私たちですら、社会で日々目にする情報を「映像があるから本当だ」「写真があるから確実だ」と思い込みがちだ。だけど、量子力学的な発想があれば、目に映るものに対してもう少し慎重になれる。「観測」自体が結果を左右することがあるなんて、実は不思議な話だ。見る側も、ただ受け取るのではなく、世界の状態に影響を与えている。
こうした「世界は実はそんなに単純じゃない」という感覚は、私たちが人間中心の固定観念から抜け出す手がかりになる。人間はしばしば、自分が見た範囲こそが全世界だと思いがちだ。だが実際は、私たちは宇宙のほんの片隅にへばりついた、ちっぽけな存在でしかない。視界が及ぶ範囲なんて、全体のほんの一部にすぎない。量子力学を学ぶと、世界には人間の感覚ではとらえ切れない不確定な要素が広がっていて、そのうちごく一部を「見ている」ときにだけ「確定的なもの」として捉えているにすぎない、という見方が芽生える。
これを知ると、自分が大きな宇宙や自然の中でいかに小さな存在か、深く感じられるはずだ。「今ここで見えるもの」に頼り切ってしまうと、「自分たちが一番」「ここが世界の中心」という錯覚に陥りがちだ。でも、量子レベルの世界を想像してみれば、私たちの確信なんてあやふやなもので、宇宙はもっと広大で奇妙な場所なのだとわかる。すると、少し謙虚になれる。「自分が見ている世界は限られていて、実際にはもっと不思議なことがあるんだな」と。
現代はネットやメディアなどで大量の情報が目に入る時代だ。しかし、その情報を鵜呑みにしてしまうと、知らないうちに操作される危険性がある。見えているから真実と信じるのではなく、そもそも「見える」ってどういうことか、観測とは何なのかを考え直す力が求められている。量子力学的な視点は、そんな思考訓練にもってこいだろう。子どもたちが若いうちから、この不思議な世界観に触れていれば、「見た目がすべて」「映像は真実」という単純な思い込みにとらわれず、批判的な目で物事を判断できるようになるかもしれない。
もちろん、義務教育で量子力学を教えるには工夫が必要だ。理論を詳細に教えるのは難しいだろうし、数学的にはかなり高度だ。だけど、基本的な考え方、世界観を絵本や実験動画、簡単なワークショップで体験することはできるのではないだろうか。たとえば、「観察されるまで色が決まらない玉」の実験モデルや、日常物のアナロジーを使って「結果が確定するのは私たちが見る瞬間」というイメージを伝えることは不可能じゃない。
こんな教育がもし実現したら、子どもたちは「当たり前を疑う力」を身につけるはずだ。大人になればなるほど、人間は自分の知っている感覚に閉じこもりがちだ。けれど、小さな頃から「世界には不確定なものがある」「見ていないときの世界はどうなってる?」「物理学は単に落下や運動の話だけじゃない」という刺激を受ければ、将来、新しい発想やアイデアを生み出す土台になるかもしれない。さらには、ネット情報や映像を見たときに「これって本当なの?」と問い直し、より多面的に世界を理解できる大人へと成長できるだろう。
人間は、どうしても自分たちが中心で、自分たちが見える範囲で世界が確定しているような気分に浸りやすい。でも、量子力学は「君たちが見ているのは、巨大な舞台のほんの一幕にすぎないんだよ」と教えてくれる。舞台裏では、目に見えない無数の可能性や不確実性が広がっているのだ。そう考えると、人間がいかにちっぽけで、世界の理解が限られているかがよくわかる。
その「ちっぽけな存在」である私たちが、自分たちなりに世界を知ろうとすることは悪いことじゃない。むしろ、謙虚さと探究心を持って、見えない仕組みに目を向けることは、これからの時代に必要な姿勢だ。量子力学は、私たちが当たり前と思っている感覚や価値観を揺さぶり、「本当にそうなの?」と問いかける貴重な手段になる。だからこそ、義務教育で量子力学のエッセンスを伝えることは、子どもたちの未来にとって有益だと思う。
見えている世界がすべてではない。そのことを早い段階で知れば知るほど、私たちはより柔軟な思考と謙虚さを持って生きられるはずだ。人間は見ることに頼りすぎている。けれど、量子力学を学ぶことで「見えるもの」がいかに不完全で、小さなスケールに縛られた断片的な真実なのか、思い知ることができる。それは、人類が新しい知覚と理解を手に入れるための、初めの一歩だと思う。
生きるの向いてねぇな、と度々感じる
それでも充実した休日を過ごしているという見栄は張りたい
普段動いてないから休日くらいは体を動かさないと早めに死んでしまう
思ったより寒い。
そもそも徒歩でいったら美術館着くころにはクタクタだ 観賞できるのか?素直に電車に乗るべきでは?
うるせぇなぁ どうせベストコンディションで観たところで良くわかんねぇからいいんだよ 歩け
大体、キース・ヘリングって落書きみたいな奴だろ?カラフルな棒人間みたいなのが組んずほぐれず48手みたいな奴だろ?
んなもん適当に眺めりゃいんだよ
天気が良いので、日向を歩けば丁度良い
だが日陰に入ると手袋が欲しい 耐えつつ歩く
道中、世話になった眼科が取り壊されているのに気が付く
「眼圧高めだからなるべく定期的に来い」とか言ってたくせに。俺を置いて逝くな。まぁリフォームとかかもしれないが。
途中、コンビニで一息つく。
本のコーナーになぜか、オリジナルのアンパンマンの絵本が置いてある。
初めて見たな パラパラめくってみる
アンパンマンは砂漠で飢えている男に顔を食わせて助けていたが、お茶も一緒にあげて欲しい
絵本を棚に戻し、缶コーヒーを買って、飲む。コンビニを出て、さらに歩く。
その後、特に面白いこともなく、無事に美術館にたどり着く。いやー疲れた。
ここまで1万2000歩くらい歩いたらしい。でも思いのほか元気だ。まだやれる
「うわっ、寒っ!」美術館の入り口ですれ違ったオッサンがつぶやいた。なるほど、中は暖房が効いている
なんか誰かと誰かの対談イベントがあるらしいが、定員に達したから観覧は無理らしい。そういわれると見たくなるものだな。
悔しがっても仕方がないので、チケットを買って進む
キース・ヘリング、若くして亡くなってたんだな そしてゲイだったのだな
結構年配だと思ってたのは、アンディ・ウォーホルと混同してたんだろう。まぁアンディがいくつで死んだのかも知らんけど。
ビジュアルは誰かに似てるなぁと思って考えてみたら、バキ童さんだわ
俺が「○○さんは□□さんに似てるよね」って言ってみて賛同された記憶が無いので、おそらくそんなには似てないだろう。だが俺にとってはそう見えた。
あの人も数十年後には時代を代表するアーティストになってるかもしれないな。何やってる人なのか知らんけど。
キースはサブウェイ・ドローイングなるものを考案した?実践した?みたいな解説を読みつつ、「あーこれこれ、なんかどっかで見たヤツ」と思いながら歩を進める
あと、アートで世界を平和にできると信じて活動してたとか。いいヤツだなキース
アンディ・ウォーホルとの合作?コラボ作品?も出てきた 仲良しだったのか?ディズニーは嫌いだったんだろうか
熱心にメモを取りながら鑑賞している人、連れと感想を言い合いながら見ている人、お客さんも色々だった
キースの作品が表紙の「ぴあ」の雑誌とか、招き猫とか、サイン入りのジャンパーが展示されていた
一番、気に入ったのがこのエリアにあったので、撮影が出来ず残念だった。
犬の横にキースが自分の名前をカタカナで書いていて、その文字がなんかめちゃくちゃ可愛いやつ。
何で撮影ダメなんだよ、ケチ。ぴあが許可しないからか?おのれ、ぴあ。
仕方がないので、目に焼き付けたはずだが、もうあまり覚えてない。歳は取りたくないな
今夜は何か温まるものを食べるため、スーパーに寄って帰ることにする。
何が言いたいのかと言うと、みんなもなるべく歩いて健康になろうぜ、と言う話。
けっこうスピリチュアル要素の強い子もいる
そういうキャラクターたちの個性をそのまま愛していけるオタクたちは偏狭な未熟男性とは対極にいる
サブカル的コンテキストによる単純接触効果のおかげともいえるが、一般にオタクの器は広い
リアルでは嫌われそうな性格(毒舌や極度のコミュ障)のキャラでも絵の力により愛していくことができる
オタクは本来あらゆる属性を受け入れ、理解を示そうとし、おもしろがっていく、多様性を尊ぶ才能を持つものなのだ
キャラ数が非常に多い作品、たとえばアイドルマスターシンデレラガールズやグランブルーファンタジーのような作品を見れば
あらゆる属性が網羅されているのではないかというほど、どのような個性も愛すべきものとして描かれている
オタクという肩書にこだわらずとも、アニメやゲームに限らずとも
普段から物語作品を消費してさまざまな人間の個性に仮想的に触れている人間ほど
そして同時に本当に避けるべき人間として劣る行動というのもわきまえていけるというものだ
大人になれない人間が多い現代、むしろ大人も物語を積極的に消費して、未知のコンテキストを持つ人間や文化への想像力を養っていくべきなのだ
創作と現実を混同するなという言葉もあるが、創作の意義は現実に起こり得る人間模様の予行演習にある
己の寛容さを拡げるような有用な側面については、絵本に学ぶ児童と同じように、いい意味で意図的に混同していくことで、現実はより思慮深い「優しい世界」に近づいていくだろう
むしろ長らく物語に親しむ習慣を失ってしまった自称現実主義、社会派の人間こそ、世界を息苦しくする
単眼的で攻撃的な正義感でもって、創作と現実を悪い意味で混同し脅威と見なしがちな節があり、主義によって派閥を作り争いを生んでいる
オタクの大部分は、いい意味で混同すべきところを混同し、二次元特有の価値観やお約束を現実の人間や社会には求めない分別を持っている
ポリコレを振りかざす正義マンは、文化に対する理解も現実の人間の賢さ柔軟さに対する洞察力も乏しいために、悪く見える部分ばかり過大に取り上げようとする
そういった言説に安易に取り込まれないようにするためにも、継続的な物語消費による、最新の大人へのアップデート作業は生きている限り随時必要となっていくのだ
増田はきかんしゃいやえもんというタイトルの童話を知っているかな?
昔々、静かな田舎町にやってきた蒸気機関車、やえもんがいました。やえもんは長い間駅で働いていて、そのぶっとい煙突からはいつも煙をもくもくと出しながら、町の人々や子どもたちを乗せて、楽しく旅行に連れて行っていました。しかし、時代が進むにつれ、新しい電気機関車たちが導入されるようになり、その速さと静けさに町の人々はすっかり魅了されてしまいます。
やえもんは古くてのんびりとしていましたが、昔馴染みの乗客たちとの思い出がたくさんありました。その思い出がやえもんの心をほっと温めてくれます。しかし、ある日、駅長から知らせが届きました。やえもんの代わりに新しい電気機関車がその路線を担当することになったのです。
落胆したやえもんは、もう働けないと思いましたが、町の子どもたちはやえもんのために何かできないかと考えました。そして、学校でやえもんとの思い出を折り紙の絵本にして、やえもんに贈ったのです。
その絵本を見て、やえもんは元気を取り戻し、重要な役目があることに気付くのです。それは、旅行に行けない人々や子どもたちを心の旅に連れて行くこと。そして、町の記憶を新しい世代に伝えていくことでした。やえもんは物静かだけれど、一番温かい汽笛を鳴らし続けました。
推しキャラが運良く引けないと天井で6,7万くらい平気で要求される国産のアイドルや美少女系ゲームやってたなら、愛着を人質にとって悔しい思いさせる設計のゲーム(?)だからどうしようもないし。
サイゲは闇バイトに走る若者を助長しかねないソシャゲ企業と言っても過言。とにかく期間内に200連で天井になる系のゲームはヤバい。この売り方が許されるのは平成までであるべきだった。
miHoYoゲーやPS5リリースが決まった鳴潮みたいな、若年者保護が組み込まれてる中国ゲームだと、こうはならない可能性が高い。
性能を欲張らずに無凸無餅で楽しもうって精神さえ構築できれば、運に頼らず周期的に限定キャラを引ける(天井引き継ぎや単体ピックアップの徹底が効いてる)し、当たりを引ける時期が読めるから計画を立てられ、無凸でも攻略できる程度の易しい調整なのもあり十分エンジョイできる。
キャラクターへの愛着を満たす最低限のラインである、キャラ確保だけに徹するなら敷居がすごく低い設計で、月額系パスと初回のお得な石を買っているだけで、新キャラの8割くらいは取っていけるような計算になる。
それに、ゲーム自体も凸よりキャラを幅広く確保し育成することで楽しめるような作りになるから、国産ソシャゲみたいに石を溜め込んでぶっぱなすギャンブル的なゲームというより、石が溜まるたびすぐ回しちゃうような引き方の方がむしろ適したスタイルになってる。
そうすることで、開発側の意図した遊び方を体感できる人の割合がふえるし、溜め込んでる間のソシャゲ的な虚無作業感もなく、日々成長や感動のある「ゲームしてる」感覚が生み出される。育成には追われることになるし、序盤は特にスタミナに石割ることも考慮するようになるけどね。
でもむしろ、スタミナもガチャも、同じ時短という軸で認識できるようになってる。育成素材の獲得や、新規キャラの獲得ができる周期の短縮として石を使ってる感じで、そこにあんまり実際的なランダム性が生じないようになってるというか。
だから、1万円課金したら1万円分強くなるというか、1万円分先へ行けるというか。そのへんの安心感があって、0か1かじゃない育成ゲームになってる。ガチャ機能はあっても、「運が悪くて一万円が虚空に消えた」みたいな感覚が生じないようになってる。その上で細部がコンシューマ並に凝っているっていうね。
こういう積み重ねゲー的な作りのおかげで、ソシャゲ時代のモバイルゲームでよく見たような、無課金の豪運プレイヤーに煽られるような構造が発生しないから、健全だね。
ちなみに絵本調のAFKジャーニーとか、ファンシーな着せ替え系でオープンワールドをやるインフィニティニキみたいな、miHoYoの作風と直接ぶつからないけどよく出来た中国ゲームもポツポツ出てきているよ。
AFKジャーニーに関してはゼンゼロと並んでThe Game Awardsのモバイル部門にノミネートされてる。本当によく考え抜かれて作られてると思う。
つまるところ、こうした中国の秀作ゲームをよく理解し、遊び方というかモバイルゲームとの付き合い方に関する常識を前進させていくことで、日本はもうちょっと平和になるんだよ。