はてなキーワード: 碇ゲンドウとは
庵野が思う本当にカッコいいヒーロー像は生き辛さを抱えている弱者男性じゃないとなれないんだろう
そして能力が高ければ弱者男性的な生き辛さから解放される訳ではないという主張も一貫している
既婚子持ちでも有能でもラスボスでも社会的にすこぶる強くても弱者男性からは逃れられない
庵野は弱者男性が好き過ぎるのか弱者男性に向けた作品作りが多く、その解像度の高さも凄まじくゲンドウは特に弱者男性キャラクターとして傑作
奇人変人の類も
クレヨンしんちゃん「非理谷充」
放映時に弱者男性を悪役として描いてる!とお気持ち表明があったキャラ
その扱いの良さはクレしん映画の中でも随一なので、その人は映画ちゃんと見てないと思う
クレしんにあるまじき辛気臭さだが、キャラクターはよく出来ており意外と家族連れにも高評
オカルト「江野」
見たことないけど嫌儲民が絶賛してたんだから弱者男性なんでしょ多分
他にも色々いるけど、この辺で
日替わり定食を食べるごとに、
その都度日替わり定食を美味しくいただき噛みしめるように思い出しているんだけど。
なにを間違ったのか私は分からなかったけれど
アジフライのその今日ではない別の日の日替わり定食になっていて間違ったものが私のテーブルにやってきたことがあったの。
私は別に、
キリンさんも大好き!ゾウさんも大好き!なレヴェルと同様にアジフライも大好き!チキングリルも大好き!なので、
当初求めていて食べられなかったチキングリルは惜しかったけれど
そのまま味わって食べちゃったの。
その時はそれで今日の日替わり定食の冒険家としての活動は終わって
竜宮城で鯛や鮃の舞にアジフライの舞もセンターメンバーに加えていいと思っているぐらいの舞、
でも、
週半ばから、
その日替わり定食のいつもの定番のスケジュールが変わっていて変更になっていたの。
それを知らずに、
私は普通にノールックで今日の日替わり定食がアジフライの日替わり定食がてっきりやってくるものだと思って頼んだら、
自信満々にプレートに乗ってきた、
その日替わり定食には、
キャベツのステージの上に盛られたカツがいるランチプレートでやってきたのでビックリしたわけ。
揚げたての臨場感の様子を舞が踊っているというダブルミーニングで表現した妙!
私もカツの舞を披露しなくては!って。
やってきたカツにアジフライの舞を見られたら失礼で多分気分を悪くするかなと思って、
事なきを得まくりまくりまくりすてぃーで急遽カツの舞を踊ったの。
あれ?でも、
ジェイウォークさん文法で言うところの「何も言えなくて…夏」に正確に照らし合わせて言うところの、
「なぜゆえに…カツ」って思ったの。
今日はアジフライじゃないの?って目をこすりながら目がおかしいんじゃないかしら?って
おもむろにポーチに入れているビタミンBのピンクの色が眩しい目薬をケースから出して目薬を点眼したの。
そして、
悲しいかな、
私の大好きなアジフライがなくなっているの日替わり定食のラインナップから。
私は悲しさを抑えきれないような勢いで
その予想もしていなかったまま、
私のテーブルにやって来たカツの日替わり定食は現金にも美味しく食べたものの、
もうあの美味しいアジフライには二度と出会えないと思うととても切なくなったの。
何度見ても見ても新しい日替わり定食の掲載されたメニューにはアジフライのラインナップがなく、
私に最後のさようならを言いに伝えにランチプレートに乗って来たんだなって。
そこで私は気付いたの!
その時は、
なぁんだ普通に間違ってやってきたシェフの気まぐれで起こったアジフライの日替わり定食だとばかり思っていたのだけれど、
シェフがアジフライに操られて何かしらのスピリチュアルな作用で私にアジフライが提供されたんだと思うの。
チキングリルの思いをよそにアジフライの思いの方が強かったみたい。
私はその思いを一緒に揚げられたアジフライの気持ちに気づかないまま、
そして、
さようならも言えないまま、
もう二度と会えないのねってまた思ったの。
現金にもカツの日替わり定食は美味しく食べたけれどお支払いはキャッシュレス決済。
そして、
いくつかの季節が巡った頃。
私の心の中にはかつて夢中になっていた日替わり定食のアジフライのことなんてすっかり忘れていたの。
食べきってしまう意見が二手に分かれてしまうでお馴染みの最後のアジフライの尻尾の先の存在のように。
私は足繁く通うそのお店の日替わり定食にちょっと飽きてしまったことはここでは一応の日替わり定食探検家として活動していることを否定してしまいかねない言動だということは内緒にしておいてほしいんだけれど。
その時はそう思ったのよ。
それはまるで涙そうそうまだ涙を流して泣くには早いぐらいのランチメニューのページを古いアルバムのようにめくるかのように。
そしたらよ!そしたらよ!
私の中で湧き上がる、
いや揚げ上がる揚げたて美味しいアジフライへのかつての熱い気持ちを思い出したの。
そう華やかに!
ってそのボリューム満点の何種類かフライ揚げ物が入っているミックスフライ定食には、
お得なサラダもついていてコストパフォーマンスはもう最高で。
私はそのミックスフライ定食でのアジフライの再会を祝したってことなの。
うふふ。
ションテン上げたいときの手っ取り早いのは美味しい大好きなものをいただくに限る黄色い玉子は美味しくて元気になるわ!
ここのタマゴサンドはタマゴゾーン厚くなかなかの食べ応えがあって、
満足感も高いのよね。
そこもお気に入りだわ。
白菜は芯の部分を細切りにして、
それを入れて置いておくと
昆布は長く浸けておかないで
途中で取り出してもいいかもしれないわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
さて、私の話を始めよう。
最近、友達の間で流行っているのがエヴァンゲリオンに関する大喜利だ。
特にネルフについて語り合うのが人気で、様々なネタを出し合うのだが、AIにやらせてみると、正直なところ微妙な結果ばかり。
そんな中、私は自分のセンスを発揮して、思わず「俺ならこういうネタを出すのに!」と叫びたくなる。
しかしエヴァの世界観に全く沿わない。ネルフは世界を守るための機関であり、真剣に使徒と戦っているのだ。
次にAIは「ネルフのパイロットが、実はタピオカドリンクの大ファンだった」というネタを出してきた。
あまりにも意外すぎて思わず笑ってしまったが、これもまたネルフらしさを欠いている。
シンジが戦う姿を思い描くと、彼がタピオカを飲みながら使徒と戦う姿はちょっとイメージできない。
せめて「ネルフのパイロットが、タピオカを使った新しい武器を開発した」とかなら面白いのに、と思ってしまった。
このように、AIの出力にはどうも満足できない。
そこで私は自ら「こんなネルフは嫌だ」というテーマで、自分のセンスを炸裂させることにした。
まず思いついたのは「ネルフの職員が皆コスプレ好きで、会議中にいきなりキャラクターになりきる」というアイデアだ。
エヴァの世界観の重苦しさと、コスプレの軽快さの対比が面白いと思う。
会議中に、碇ゲンドウが突然「やあ、みんな、今日はセーラームーンに扮して会議を進めよう!」なんて言ったら、さすがに笑いが止まらなくなるだろう。
さらに、「ネルフの司令室に隠れキャラクターのぬいぐるみが大量に置かれていて、職員たちがそれに癒されながら仕事をしている」というシチュエーションも考えた。
ネルフが超真面目な組織である一方、その裏側で癒しを求めている職員たちの姿を想像するとなんだか微笑ましくなってくる。
このシリアスな世界に、癒し系キャラクターの要素が加わることで緊張感とユーモアのバランスが絶妙に保たれる。
「ネルフの職員が、会議の最中にお弁当を食べる」といったネタもあった。
これも悪くないが、全体の雰囲気としてはやっぱりちょっと物足りない。
ネルフでお弁当を食べている姿を想像すると、いきなり現実味が増してしまい、エヴァの世界観を壊しかねない。
私はその点でもう一度考え直してみた。
最後にたどり着いたのは「ネルフのスタッフが実は全員漫画オタクで、会議の合間にそれぞれの好きな漫画の話をして盛り上がる」というもの。
これなら真面目な議論の合間に職員たちが「最近の○○って面白いよね!」なんて言い合う姿が想像でき、ちょっと和んだ雰囲気が出る。
シリアスな話題と、オタクたちの熱い議論が交錯することで意外なコントラストが生まれ、面白さが倍増すると思う。
こうして自分のセンスを披露することで、AIに対する違和感を解消できた気がする。
やはりエヴァンゲリオンのネルフには、ちょっとしたユーモアが必要だ。
シリアスなストーリーの中にも笑える瞬間があってこそ魅力が増すのだと再認識した。
今後も自分のセンスを磨きながらエヴァの世界観を楽しんでいきたいと思う。
碇ゲンドウを愛に生きた男だと思ってた。叛逆は愛の物語だと思ってた。だからめっちゃ好きだった。
でもあれって愛というよりも恋、執念、執着と言った方がより芯を捉えてる気がした。愛の厳しさに耐えるよりも恋の喜びに狂ってる感じ。
周りが見えない。見る必要もない。それくらい燃え盛る欲望に突き動かされる姿ってやっぱ憧れちゃうね。
フィクションなら良いけど現実でそういうのは云々、とか水を差さずにいられない人間が嫌いだぜ。テメーに言われるまでもなくって話だし、そんな冷めるような事をおれの心に意識させないで欲しい。
シンエヴァの社会性パートも、凡庸なテーマをクドクドと……(でもそれこそが大事なんですよね、的な部分をも含めて)としか思わんかった。
社会と向き合う前に大風呂敷広げた設定と向き合わんかい。新劇の使徒、マジで舞台装置でしかなかったじゃん。
まあそれもこれも自分自身が社会性に則ってか、負けてか、フツーな生き方しか出来ないからこそそう思うんだろうな。欲望に狂う人間の姿が一番かっけえ。
ぶっちゃけ、原爆開発の経緯に関してはNHKの暗い番組でも見てりゃ知れる事なので、それ目的だとあえて見に行く程のことでもない映画だった。
教科書には多分載ってないだろうけど。原爆投下の指令出したトルーマンは載っていてもオッペンハイマーは載ってなさそう。
見るべきところがあるとすれば、オッペンハイマーの女性関係やマネジメント力だろうか。
知性もある奴は痴性も強いとでもいいたいのか、オッペンハイマーのヤリチンっぷりはそこかしこで描かれる。インド神話読みながら騎乗位したり、マンハッタン計画中に出張して浮気相手とホテルで密会。
極めつけは聴聞会中に素っ裸になったかと思ったら、座ったまんま浮気相手と正常位でおっぱじめる。もちろんイメージの世界での話だが。このシーンでは斜め後ろに奥さんが居たのだが、まぐわい合ってる2人を眺めながら(要するに聞き取り内容からの連想)さらに浮気相手と目が合うシーンなんかマジでゾッとしたね。
ラストの私は世界を破壊したと呟きながら世界が核の炎で包まれるシーンよりも怖いシーンだった。
まあ始まった時はここのシュールさにちょっと笑ったけど。全裸で聞き取り調査受けてるんだもん。それまで皆服着てたのに。
全裸シーンはここ以外にもよくでる。浮気相手が絡んでると八割エロシーン。
ノーラン作品史上最大長の濡れ場なんじゃないのか。濡れ場あんま無いよねこの人の作品。
おっぱいもちろん出てきます。何か芸術的なポーズを取ってるし何かしら男女間の繰り言をはなしてるのかも知れないけどおっぱいから目が離せない。おっぱいハイマーだ。
悲しいかな、男性のサガだ。こう言うときは無理に目を逸らすよりもガン見した方がいい。見てちゃんと品評するんだ。そうするとなんか大したことのない気がしてくる。
でそのジーン・タットロックのおっぱいだけど、うーん。まあ、アメリカにありがちな巨乳じゃなくて普通の乳という感じ。やや小振りであんまり張りもない。メリケン映画ではちょっと珍しいだらしない乳。メリケン映画は痴にも美学を求めてるのか、大体おっぱいもきれいな形してる。でもこれはそうではない。リアルにありそうな乳。
そう言えば、公聴会のシーン以外だと、大体役者の顔も普通に居そうな人の顔してたね。徹底して。公聴会だと露骨にイケメンな役者居たから、ああこれ映画だなって気付けたんだけど。
もし見に行く機械あったらおっぱい確認してみて、普段見てる映画との差を比べてみるといい
大学在学中はSFに飢えていて、「AKIRA」とか「エヴァンゲリオン」とかを観ていたのだけれど、「ラーゼフォン」にはハマることができなかった。問題は長さなのではないかと思い、26話も見る必要のない映画を手に取った。
この作品が好きだったのは、クラークやイーガンが好きだった自分が求めている、別の惑星の風景描写があったことだ。僕が映像作品を評価するのは、どれくらい思いがけない風景を見せてくれるかだ。火星の大地や、木星とイオのあいだにかかる雷の橋が美しかった。ヒロインからの携帯メールにも確かクラークへの言及があった。
また、日常の美しさを切り取った言葉を、詩のようにつなげていくアニメを見たのは初めてで、そこも新鮮だった。
敵方の宇宙人が、鏡像となって話しかけてくるところなど、露骨にエヴァの影響を受けているし、詩的な文章も村上春樹のフォロワーに過ぎないと感じはしたものの、この監督の作品をもっと見てみたいと感じた。
「僕と彼女の猫」は忘れてしまった。珍しく自分が好意を寄せている女性視点の失恋の話だった気がする。
僕が好きな要素がとにかく詰まっていた。架空の歴史、知的に早熟だけれども情緒的には年相応の少年少女、そして天にそびえる真っ直ぐな塔。東京からも見える北海道のメガストラクチャーという、自分の想像力をはるかに超えた世界を見ることができた。
もちろん、欠点もあった。ヒロイン・佐由理を救うか世界を救うか決断を迫られる主人公・浩紀は、セカイ系の典型例に感じられて冷めてしまったし、あと、これは前にも書いたのだけれど、主人公のやっていることはテロリズムの肯定だ。
テロ組織の名前も、北海道を手に入れるためなのにアイヌ解放戦線じゃなくて、サハリン・樺太の先住民族ウィルタ解放戦線だ。ヒロインの祖父の名前ツキノエはアイヌ系の名前だが、そこには一切触れられないし、朝鮮半島のように南北に別れた家族の悲劇は、ごくわずかしか触れられず、プロットには絡んでこない。つまるところ、政治は装飾でしかない。いいのか。
にもかかわらず、この作品を好きになってしまった。アニメで精密に描かれた東京の景色は、当時の僕の生活圏とかぶっていた。自分の暮らす世界の彩度を高めた景色は、ぐずぐずとした感傷に僕を引き込んだ。何にもでもなれると、まだかろうじて思い込めていた頃だった。
そして、テーマ曲があまりにも切なく、これがずっと頭の中で流れ続けていた。過剰なまでに作中で繰り返され、露骨でさえある。しかし、悔しいけれども切ない気持ちになるのをやめられなかった。ラストで虚無に飲まれる北海道の美しさで息をのんだ。
自分の青春に満足できていなかった僕は、この甘ったるいテーマ曲の映画に呪縛されていた。批判しつつも、フィルムブックとノベライズを買ってしまうほどだった。これが感傷マゾなのか。
退屈さを感じる場面や、冗長な個所もあった。でも、日常の風景を美しい色合いで描くアニメを他に知らなかった。第2話冒頭の、貴樹が空想する巨大ガス惑星が空にかかった惑星の風景は、僕が創作していたSF小説の舞台として何度も用いた。
そして、第3話で流れた「One more time, One more chance」ですべてを持っていかれた。ヒロイン・明里と結ばれないラストを見て「そうなんだよ! これこそが人生なんだよ! はっはっは!」と快哉を叫んだ。「鬱エンドだ」「悲しい」と言っている連中を笑っていた。なんてこじらせた大学生だったんだ。これもノベライズを買った。
振り返ってみれば、主人公はいつまでも明里の幻影に惑わされており、サーフィン少女・花苗の気持ちにちゃんと向き合っていない。独り身の期間が長かった自分は「応えてやれよ!」とあとになって思ったものだった。そりゃあ、思春期だから初めての感情ばかりで、あまりにも未熟で、だから人間関係で目も当てられないような失敗を繰り返すんだけれど、「結局お前モテてんじゃん!」と怒りが湧いた。
後に、貴樹をはじめとした新海アニメの主人公たちはどうやって童貞を卒業したのかな、夜のお店かな、などと根拠のまったくない最低な空想をするようになってしまった。自分がそうだったからって投影するなよ。
統一感のない固有名詞(※僕はファンタジーで名前を付ける際には一貫性が必要だと信じている。だからアルカンジェリ、ケツァルトル、シャクナ・ヴィマーナと複数の言語圏から安易に引っ張ってくるのを良しとしないし、文法的に怪しいヴィータクアやフィニステラという語も納得できない)、ジブリの表層だけをなぞったような描写、主人公・明日菜が地上世界と地下世界の両方の血を引いているという重大な設定が劇中ではほとんど描写されないなど、自分が気に食わなかった点は多数あるが、最大の問題点は悪役の森崎(ムスカと揶揄される)のサブプロットのほうが面白く、新海誠が思い入れを持っているように感じてしまったところだ。
愛するものの喪失を受容せず(子の喪失ってキーワードも村上春樹フォロワーっぽい)、代理品や依り代を求め、神々なり悪魔なりと契約する姿は碇ゲンドウともかぶり、なんにせよ強烈なキャラで、明日菜を食ってしまっている。いっそ明日菜いらなくないか?
冥界をめぐり、禁断の知識の代償として盲目になるのは神話的でちょっと良かったけどね。
しかし、作者の意図や性癖が透けて見えるというのは一方的に親しみを感じる契機でもある。不完全にゆえに見透かせるものがあり、理解者になれたと錯覚できてしまい、結果的に作品を愛してしまうことがある(※これは新人賞を取った作品を読むときもそうなんだけど、「作者はこういうことをやりたいんだろうな。なら、ここをこうすればもっとよくなるだろうな」と考えつつ読むことが多い。創作をしていた人にありがちなことなのかな?)。
言いたいことはたくさんある。
けれども、最大の欠点は「何でもかんでも台詞で説明してしまうこと」だ。
最後のタカオとユキノが見つめあう場面で、高まった気持ちをぶちまけるのだけれど、音楽と映像がうるさいなので、台詞なんていらない。
新海監督は文章を書く能力はあるのは認めるけれども、「説明は小説でやれ」と感じる。「なんでも説明するのをやめてくれ、映画の受け手を見くびるな」とも感じた。
そして、鮮やかな色彩がわざとらしく感じられ、反発を覚え始めた。
ただ、この頃から日本の古典を扱いだしたのは嬉しい。ささやかな愛国心が満たされる。
僕は海外文学が好きなので、逆に外国の人に日本の詩を知ってほしい。
観ていない。
「言の葉の庭」の一件もあったが、ハッピーエンドになったということを聞いて、寝取られ性癖(というかBSS、「僕が先に好きだったのに」?)を抑える優秀なプロデューサーがついたんだな、とシニカルに考えていた。売れるようになった、大ヒットを飛ばすようになったとも耳にして、新海誠が自分からどんどん離れて行ったように感じた。そして、もう二度と新海アニメを見ることはないだろうと思った。友人や尊敬するSF作家が見ていると聞いても、耳を塞いでいた。
「君の名は」の予告の「スカート注意、男子の目線!」といったセリフにも、新海誠の性癖が透けてみるのだけれど、徐々に作者のあけすけな欲望に対して嫌悪を感じるようになっていた。
これは男子高出身の僕がそうだからかもしれないけれども、僕には、男性監督が女子高生をじろじろ見て偏愛していると気づくと、鬼の首を取ったかのように指摘してやりたくなる悪癖がある。岩井俊二の映画を観たときもそうだし、「ラストレター」を観たときは「俺を振った女は不幸になればいい」という怨念を感じた。庵野秀明が俳優やってたのはめっちゃ面白かったけどね。
ある女性が新海アニメが好きで、じゃあ一緒に見に行こうということになった。ただし、彼女が好きだったのは「君の名は」以降だった。
「お手並み拝見」と思いながら(なんだかんだで楽しみにしていた一方、不安でもあった)観てみると、極めてまっとうな少女の成長映画になっていて驚いた。
被災者のすずめが「死ぬのなんて怖くない」と言っていたのが、逆に震災の記憶と向き合い、心底死を恐怖し、逆に生きる実感を取り戻す構成が素晴らしかった。自分を助けに来た謎の女性が自分自身だったってのも良かった。周囲の支援が必要なのはもちろんだけれども、傷付いた自分を癒すためには、どこかで自分の力を信じて自分の足で立ち上がらないといけないのだ。
ロードムービーとしても優秀だし、周囲の人々が善意にあふれてすずめに手を差し伸べてくれたのも、叔母の環が思わず激高して負の感情をぶちまけるシーンのための溜めだと感じ、よく計算された素晴らしい脚本だと感じた。
今まで肯定的だった(あるいはマスコットでしかなかった)猫が、ダイジンという善悪の不明な存在になったのも面白い。
今まで別の災害という形で間接的に東日本大震災を扱ったと聞いていたが、正面から向き合ったのはとても立派だ。このタイミングでなければできなかっただろう。
恋愛要素を薄めたのも大正解。「シン・エヴァ」を観たときみたいに、「監督は大人になったんだな」と感じた。
それでも無念な個所はある。人口が希薄になった土地を神々に返すというモチーフと、地震を封じる要石というモチーフが、完全に噛み合っているわけではない(人口が減少している時代だから出てきた発想では? なぜそこから厄災が漏れ出る?)。少しぶれている。また、震災は人力で防げる、つまり東日本大震災は防げた、という誤った読解を誘発しかねない面もある。
あとは、震災の描写がリアルだし、緊急地震速報が頻繁に鳴るので、観ていてずきずきと頭が痛み、かなり気分が悪くなった(御茶ノ水近辺も学生時代生活圏内だったし)。昔は「アルマゲドン」みたいなパニック映画で大都市がぶっ飛ばされるのを見たり、「地球大進化」の大隕石で地殻津波が起きて日本列島が引き裂かれるのを見て気分爽快になっていたのだが、ある時点で感受性が「まっとう」になってしまったらしい。
ところで、この作品は村上春樹「かえるくん、東京を救う」のオマージュだとよく言われるけれども、「海辺のカフカ」のパロディも仕組まれている。東北まで中古車でドライブする芹澤青年が車内で流すのが「夢の中へ」だが、「海辺のカフカ」でも星野青年が何を探しているのかもわからない中田老人を連れて車で高松をドライブしながら、「探し物は何ですか~」と口ずさむのだ。誰か気づいてないかな。
そのくせ、村上春樹はオマージュにとどめ、影響下からは完全に脱しているように感じた。
疑問点。すずめの三本足の椅子、過去の自分に手渡されたことで、時間の輪っかをめぐっていないか?
どの作品かは伏せるが、主人公が僕の名前と同じで、ヒロインから名前を呼ばれるたびに恥ずかしいくらいに動揺してしまった。
当時流行っていたラブプラスをやっていたら、おそらく引き返せないことになっていただろう。
あと、「すずめの戸締まり」に関するウェブ記事で、新海監督が#MeTooのこともあるしパンチラを封じたと聞いて、機を見るに敏だなと感じ、何となく気に食わなかった。正しい判断だと思ったけど、商業性に屈したようにも感じたのだ。正確には、「雲のむこう~」みたいに政治的を雰囲気に使うのをやめたのが、なんとなくタイミングが上手すぎて、逃げ足の早さを感じるのだ。
でも、とっくに青春コンプレックスこじらせオタク向けのクリエイターから、国民的監督に変わってしまったのだ。寂しい。あんなこじらせた作品を書くのに既婚者なのも納得できない時期があった。
こういったことを、友人に対してつらつら語っていたら、「それはお前、もう立派なアンチだよ」と指摘された。「アンチじゃない、愛情と憎しみの両方を持っているだけだ。複雑な感情をも抱えているんだよ」と反論すると、「お前が複雑な感情を抱えていない対象なんてあるのか」と笑われた。ひどくない?
これだけ複雑な感情を抱えているので、「君の名は」「天気の子」を見るのがずっと延期になっている。諸般の事情でラブコメ苦手だし。
「君たち、60歳になってもエヴァの話してそうだな」
「はい、そうです。60歳になっても、エヴァの話を続けていると思います。もしかして、あなたも?」
「いや、俺は60歳になったら、エヴァの話を完全に忘れていると思う。だって、その時は、俺も碇ゲンドウみたいな老害になっているからね。」
「ひどい?でも、エヴァの話を60歳になっても続けている人って、ちょっと老害っぽいよね。だって、エヴァって30年以上前の作品でしょ?そんなに古い作品の話を、ずっと続けているって、ちょっとどうかと思うよ。」
「でも、エヴァって、今でも多くの人に愛されている作品ですよね?」
「それはそうだよ。でも、それって、エヴァの魅力がすごいっていうことじゃない?エヴァの話を続けている人は、その魅力にハマってしまって、抜け出せなくなってるんだよ。だから、老害になっちゃうんだよ。」
「それはちょっと悲しいですね。」
声優の演技もかなり寄せてるように感じる
しかしこれってどうも私のほうがエヴァの呪いにかかってるだけにも感じる
青のオーケストラと時間かぶりしてる水星の魔女も、クワイエットゼロと人類補完計画、プロスペラと碇ゲンドウの相似性にアニメ業界はいつまでエヴァを擦るんだって思ったが、これだって実は私のほうが呪いにかかって、すべてのアニメをエヴァに似てるか似てないかで判断する評価軸ができあがってるせいなだけな気がする
エヴァ以外に好きな作品はあるけど、エヴァ以外の作品で他をみてこれはあの作品だとかあの作品じゃないと判断することはない
正直に言うと、よくわからなかった。
話そのものはシンプルだとは思う、戦いが進むに従って想像で補う必要がある部分もあるけど、それもまあ、無視してしまえばいいといえばいい。
やけに濃い映画だという印象はたしかにあるが、なぜそう思うのかも上手く説明できない。
以下、つらつら書く。
本郷猛は結局、相打ちに近い形で死ぬが、プラーナだけは仮面を通してライダー2号に残る形で終わる。
これ、普通に考えたらただのバッドエンドだが、そうとは思えない要素も残してる。
仮にシン・仮面ライダー2が制作されたとしたら、その映画の後半で復活するんじゃないかと思える。
そんな邪推をしてしまうくらい、彼の死に様は「悲しいこと」扱いされていない。
この辺、緑川ルリ子の死をがっつり悲劇として描写したのとは正反対になっている。
結局のところ、本郷猛について、あんまよくわかんねえ、というのが一番の引っ掛かりポイントなのかもしれない。
仮面ライダーというヒーロー像が最初にあり、それを邪魔しない形で人間性を付け足した印象すらある。
人間を殺してしまうことや、自身が人間ではないものである忌避感は、後半になるときれいに忘れられる。
とにかく極端なまでに「仮面ライダーであること」に注力し、それ以外の見方を許さない映画。
ところどころメタ的に見れる部分も出ているが、その後ろに「だがそういうオーグである」という注釈が強烈につく。
個人的に残念なのは、スタイリッシュでチープな暴力性とでも呼べるものが、後半になるに従って変質したこと。
生々しくて泥臭い戦い様と、痛さのまったく伝わらないスタイリッシュさの二極に分かれた印象。
世界的なことをしようとしているはずだが、本音としてはそんなことは誰もまったく考えていなかった。
世界観を広げる役目は、人工知能アイと、その観測者であるケイくらいか。
よくわからない文法だと感じているのは、真っ当な成長や変化が映画内で描かれていないからかもしれない。
あるいは、変わった端から死亡している。
世界征服をたくらむ者は計画をあきらめて死亡し、ショッカーの残党はまだ残っており、主要人物二人も死亡している。
世界は救われたが、何も変わっていない。
生き残った一文字隼人がそうした面を担っているのかもしれないが、いくらなんでも登場が後半すぎる。
まあ、いい風に考えると、緑川ルリ子→本郷猛→一文字隼人とバトンが渡ったのだ、と考えることもできるが、そのバトンの中身が今一つわからない。単純に考えればヒーローなのだろうが、彼らがそれを目指しているようにも見えなかった。プラーナが渡っただけにすぎないと考えるのは悲しすぎる。
文句ばかり言ってしまうのは、楽しむことは楽しめたが、なんか良く分からない、飲み込めない強烈な違和感があるからか。
ああ、本郷猛のことをヒーロー要素しかない人間、みたいに書いたが、これはひょっとしたら違うかもしれない。
考えてみれば、彼が精神的にタフで強い人間だと描写された場面は、ほぼない。ただ優しくて弱い人間として描かれた。
頭の中にある、仮面ライダー=ヒーロー=タフであきらめず強い奴、みたいなこちらの色眼鏡が、実のところ一番のネックになっていたのでは。
彼はあるいは、わめいたり文句を出さない碇シンジか、碇ゲンドウあたりの精神性の持ち主として捉えるべきだったのか。
そう考えてみると、最後に相打ちに近い形で死亡したことにも、ある意味では納得がいく。仮に生き残れば、緑川ルリ子復活のために世界を破壊するルートに行きかねない。それを阻止してヒーローのままでいるためには、あの場面で死ぬしかない。
自分自身を納得させるために書いた文章なので、実際には違っている部分も多いと思う。
とにかくシンプルで面白いが、根本がおかしなことになっている映画だった。
ひょっとして、バトンとして渡されたものは、とんでもなくありきたりな、些細なものだったのでは。
そして、本郷猛のコミュ障レベルは、こちらの想定よりもずっと酷くて重かったのでは。
映画内の大半では心を開かず、ようやく心の一部を開けたのは緑川ルリ子で、しかもその遺言に対してだった。
ちゃんとした他者と心の交流を持つことができたのは、実はプラーナ化してからでしかなかった。
これが正解だとは思わないものの、本郷猛がどういう人間かを想定するかによって、まったく違う映画になるとは思う。
意図的にそういう空白が作られている。
ただ、繰り返しのようになるが、これが正解の解釈ではあって欲しくはない。
なぜならこれだと「超絶コミュ障が体も命も全部失ってから、ようやくちゃんと他者と交流できるようになった」映画になるからだ。こんなのが一般受けするはずがない。