1932年の建国の翌年には満洲国体育協会が正式に設立され、その傘下に満洲国蹴球協会も設置された。 当初満洲国体育連盟は1934年にフィリピンのマニラで開催される第10回極東選手権への参加を目指していた。サッカー代表も派遣を決定しており、関東軍蹴球倶楽部の選手を中心としたサッカー満洲国代表を選抜し、首都新京で強化合宿を行なっている。しかし、満洲国代表の参加を拒否する中国と推進する日本の対立は解消せず、結局参加は見送られた。なお、この日中の対立に因り極東選手権はこの大会が最後となっている。さらに満洲国の参加を実現できなかった大日本体育協会と満洲国体育連盟は対立を深め、1935年に満洲国皇帝溥儀が日本を訪問するまで絶縁状態となった。未だ満洲国は日本以外の国際社会に認められない状況だったため、サッカー代表も試合を行うことはなかった。 初の対外試合となったのは1939年に大日本帝国・満洲国・中華民国