麓の鳥居と標柱の間にある石碑に八幡山神社の略歴が記されている。 平成4年の建立で、祭神が応神天皇・神功皇后・玉依姫命であることのほか、以下の出来事が載っている。 天平宝字年間 勧請 中世 戦乱によって矢野へ遷る 永禄3年 尾崎神社(矢野)から渡子*1へ遷る その後 当地に遷る 天正4年 小早川隆景が再建 文化文政期 『藝藩通志』の記述「祠官の属十余家あり…」 以後 二・三回の改修 音戸町の前身は、東部の音戸瀬戸〜藤脇「瀬戸島村」と、北西部の早瀬瀬戸に面する「渡子島村」で、瀬戸島は中世には波多見島・波多見浦と呼ばれた。 島をめぐって矢野を拠点とする野間氏と竹原小早川氏が争ったこともあって、小早川氏の所領に落ち着くまでが明瞭でない。 『藝藩通志』(巻三十九 安藝國安藝郡四 祠廟)には 八幡宮 瀬戸島波多見村にあり、建久二年辛亥、勸請すと云、天正四年丙子、小早川隆景、再造、(略) と、細かなとこ
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奈良時代、国家事業として行われた写経の担当者が書いた「休暇願」と、写経所の食材の使用状況を記した正倉院文書が見つかった。 明治初期までに流出し、太平洋戦争後は所在不明になっていたが、東京の個人が秘蔵していたものを奈良国立博物館が調査して確認。ほぼ奈良時代当初の姿を保っており、同博物館は「流出した正倉院文書が当時のまま見つかるのは珍しく、重文級の発見」と評価している。 文書は縦約29センチ、横約25センチ。表には「万昆嶋主(まこんのしまぬし)」という名前の下級役人で経文を筆写する担当者(経師)が、重病にかかった「姑(父親の姉か妹)」の看病のために4日間の休暇を願い出た内容が墨書きされている。「天平寶字(てんぴょうほうじ)二年(758年)七月●(にじゅう)八(28)日」の日付があった。(●は廿から下の横棒を取る)
43歳小泉氏、総裁選出馬は「自分で決める」 ポッドキャストで言及「仕事上の判断をいちいちおやじに仰ぎますか」
奈良時代の高僧、鑑真(688~763)の目は唐からの来日時に見えていた--。奈良国立博物館の西山厚学芸部長が鑑真の命日にあたる6日、奈良市の唐招提寺で開かれる特別講演会で、新たな史料を示して発表する。西山さんはこれまでもこの説を唱えてきたが、新たな根拠で「鑑真は日本の風景を見ることがなかった」との定説を覆す内容だけに、論議を呼びそう。 奈良時代末期に書かれた鑑真の伝記「唐大和上東征伝」には、日本に渡る前の段階で「眼ついに明を失せり」とあり、鑑真は失明してから来日したというのが定説。また、日本最古の肖像彫刻とされる鑑真和上坐像(国宝)からも失明していたとされている。しかし、西山さんは「唐大和上東征伝はフィクションと見られる部分が多く、すべてを史実と考えるべきではない」と主張。鑑真和上坐像は最晩年の姿を表したもので、来日当初から失明していた証明にはならないという。 新たな史料は、和上の孫弟
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東大寺(奈良市)が奈良時代に所領した荘園の絵図「越中国射水(いみず)郡鳴戸村墾田図」が、奈良国立博物館(同市)の平常展で公開されている。荘園を描いた図としては最古級の品。保存状態も良く、作製当初の姿をよく知ることができる貴重な品という。 正倉院宝物として現存する18枚の荘園絵図と本来セットだったが、一時期個人所有となり、戦後、所在がはっきり分からなくなっていた。古美術商を介して同博物館が昨年購入。専門家もほとんど目にしたことのない貴重な絵図で、同館の所蔵になってから今回が初公開となる。 麻布製で、縦80・5センチ、横140・8センチ。現在の富山県北西部にあった荘園の範囲や、田の開発状況などを描いた。天平宝字3(759)年の記載がある。 展示は西新館で、1月4日まで。一般500円、大学・高校生250円。問い合わせは同館(0742・22・7771)。【花澤茂人】
平成10年6月30日、国の重要文化財に指定された多賀城碑は、市北西部の多賀城跡の一角にあり、江戸の昔から創建年代や後年の偽作か否かについて論争されてきたが、近年の発掘調査の結果などから、現在は碑文の通り天平宝字6年(762年)の建立と判断されている。 碑の高さは196cmあり、最大幅が92cm、最も出っ張りの大きい所で70cmの厚みがある。今は、明治8年に建てられた覆堂に納まり雨露を凌いでいるが、芭蕉が訪ねた元禄2年(1689年)当時は野ざらしの状態で、碑面が、文字を隠すほどの苔で覆われていたことが「おくのほそ道」から知られる。 つぼの石ぶみは高サ六尺餘、横三尺斗歟。苔を穿て文字幽也。(おくのほそ道) ○義仲寺所蔵「芭蕉翁絵詞伝-壷の碑」 碑は、自身と同質である砂岩の基部全体を土中に埋め、正面をほぼ真西に向けて建っている。一般に砂岩はもろいとされるが、碑石に使われたものはアルコース砂岩と呼
藤原仲麻呂は父の死を見ていたはずだ。 仲麻呂の父である武智麻呂は、長屋王を死に至らしめたその祟りで死んだ。今の科学万能の世の中であれば「そんな祟りなんて迷信、あれは天然痘の流行」と切って捨てられるだろうが、当時はそうではない。人々は怖れ慄いたはずだ。皇族を手にかけるとその先に滅びが待つ。そのように信じられていた。 にもかかわらず、仲麻呂は天武系の皇子を次々に粛清していく。これは怖くなかったのだろうか。そんなことはあるまい。しかし仲麻呂は何かに憑かれたかのように皇子を消していく。その先には自らの滅びがやってくると言うのに。 彼にどんな使命感があったのだろうか。自らを賭してまで天武系皇統を消去しようとするその使命感とは。権勢欲だけでは計り知れない「巨大な意志」というものが背後にあるように思えてしょうがない。 仲麻呂が台頭する時代は、父の代である藤原四兄弟が長屋王の祟りで全て絶え、藤原氏の力が低
考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。 慰労詔書を勉強してみなくては、と思ったら よろしくお願いします。 『延喜式』もっと勉強しろ!という激励を受けて??早速慰労詔書の研究状況を確認しました。本当にお恥ずかしい限りですが、あるはあるは山ほどあることが解りました。そしてもっとお恥ずかしいことに自分でその論文の載る雑誌を持っていたのであります。 『延喜式研究第10号』(延喜式研究会1995年3月15日)であります。 丸山裕美子「慰労詔書・論事勅書の受容について」という論文がありました。済みません丸山さん。いかに日頃勉強していないか、雑誌を取っていても積ん読だけかが露呈しました。 早速読みました。するとその引用に中野高行「慰労詔書の「結語」の変遷について」(『史学』55-11985年)という、そのものズバリの論文のあ
もういくつ寝ると 今年のはじめにやりたいことリストを作った。今見たら50項目あるリストのうち25個が達成済みだった。ちょうど半分やりたいことをやったということだ。私にしてはまあまあの結果だと思う。満足。 やりたいことリストにあるもののうち、「〜を食べたい」系は概ねクリアし…
「房総」という地名は、令制国の安房国と上総国と下総国の三国に跨がる事に由来します。 安房国とは今の千葉県南部のこと 上総国とは今の千葉県中南部のこと 下総国とは今の千葉県北部、埼玉県の東辺、東京都の東辺、(隅田川の東岸)、茨城県南西部のこと ちなみに令制国が確実に成立したと言えるのは、701年(大宝元年)に制定された大宝律令からです。故に、令制国の成立時期は早ければ645年、遅ければ701年となります。 で安房国の概要 養老2年 (718年) 5月2日、上総国の平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡を分けて安房国が建てられたのですが、天平13年 (741年) 12月10日に上総国に合したが、天平宝字元年 (757年) に元に戻されています。
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