広島駅(広島市南区)から商業地、住宅街を通り抜けてきた旧可部線が、自然豊かな「太田川鉄道」に一変する区間があった。旧河戸駅(安佐北区)―旧今井田駅(同)間だ。左に曲がっていく先に赤れんがの旧亀山発電所が見えると、列車は雄大な川に沿って蛇行していく合図だった。
火事が起きて途中中止になったけど花火は最期まで上がっていたといういたばし花火大会だが、実は戸田市との共同開催になっていて、荒川を挟んで板橋側だけが中止になったのだ。荒川を挟んで両岸で打ち上げまくるのね。 でも板橋区の方では「いたばし花火大会」としてしかアナウンスされないし、戸田市側の方は「戸田橋花火大会」としてしか案内されないから、東京都民or板橋区民の中には戸田市の方でも打ち上げてるのを知らない人が結構いるし、反対側の埼玉県民、戸田市民の方も然りで、「中止になったのに最後まで打ちあがってたのは何故???」というなぞなぞみたいな事になってしまった。 そして両岸で共同開催という珍しい形になったのは、荒川の改修工事が元になっている。 荒川放水路工事と河道直線化赤羽の岩淵に岩淵水門という隅田川入口を締め切る水門があるんだが、そこから下流の荒川は大正から昭和初めに掛けて開削した放水路だ。それまでは
広島県は、県発注の工事で、広島市東区の京橋川沿いにあった被爆樹木のシダレヤナギ1本を誤って伐採したと明らかにした。工事は広島市で5月にある先進7カ国首脳会議(G7サミット)の関連予算で進めていた。工事を発注した県の部署が被爆樹木と認識していなかった。 県によると、委託業者が3月3日、
神戸市中央区の布引の滝を上流に、同区の市街地などを流れる生田川。川は一つしかないのに「新生田川」と記述した地図もあり、どちらが正しいのか、ずっと疑問だった。「新」は必要なのか、不要なのか-。白黒つける取材を始めた。(小西隆久) 「どっちなんですか?」。神戸市建設局河川課に単刀直入に尋ねた。答えは「生田川です。新は付きません」。長年のもやもやが氷解、したはずだった。 かつて、川は現在のフラワーロードの位置にあったのは知られた話。たび重なる氾濫で被害を受けた居留地住民の要望を受け、兵庫県が1871(明治4)年、現在の位置に付け替えた。 同区の加納町の地名は、その工事を手掛けた加納宗七の名から取ったという。以来、埋め立てられた元の川と区別するため、「新生田川」という呼び名が生まれたという。 「実はこの頃の生田川という名称も正式ではないんです」と兵庫県河川整備課。そもそも1938(昭和13)年の河
広島県内では5月に初めて確認された国特別天然記念物のオオサンショウウオと中国原産の外来種チュウゴクオオサンショウウオとの交雑種について、広島市は13日、新たに22匹を佐伯区の八幡川で確認したと発表した。繁殖が進んでいると分析。国に報告し、捕獲後の扱いを協議している。
10月10日、北朝鮮が9月25日~10月9日に12発を発射したミサイルを纏めて公式報告しました。発表写真にはKN-23短距離弾道ミサイルのSLBM型が含まれています。驚くべきことに発射場所は内陸のダム湖からでした。 発表内容から9月25日~10月9日のミサイル発射を分析し直すと以下のようになります。 9月25日朝 泰川 KN-23・SLBM型×1 ※ダム湖から水中発射 ※核弾頭9月28日夕 順安 KN-23拡大型×2 ※敵飛行場への攻撃訓練 ※核弾頭9月29日夜 順川 KN-23×2 ※空中炸裂、直接精密、散布弾の攻撃訓練10月1日朝 順安 KN-23×2 ※空中炸裂、直接精密、散布弾の攻撃訓練10月4日朝 舞坪里 火星12×1 ※「敵」への警告目的の発射 ※改良型10月6日朝 三石 KN-23×1、KN-25×1 ※敵指揮所への攻撃訓練10月9日夜 文川 KN-25×2 ※韓国主要港湾へ
国道54号の東、商店街から伸びる道にあたる「稲田橋」は赤い。 案内図上でも欄干を目立たせている(実際は反った形ではないけれども)。 近世後期にも規模の大きな板橋として知られていて、「吉田十二景」*1のうちの「稲田橋納涼」に選ばれている。吉田村の橋の筆頭*2にあるのはもちろん、高田郡全体でも板橋は二例があるのみ 一、橋 七百弐拾ヶ所 (板橋 弐 吉田町稲田橋 上根村刎橋 但 (石橋 弐百弐拾七ヶ所 (略) (土橋 三百四拾ヶ所 (木橋 百五拾壱ヶ所 (略) 「国郡志御編集ニ就テ下調郡辻書出帳」『高田郡史 資料編』 多治比川を「稲田川」とも呼ぶことは、吉田村の「川筋」の部に「一名稲田川」とあり郡辻帳(同上)にも「本名稲田川」とある。より詳しくは吉田村の祇園社(清神社)に述べられており、「日本紀神代巻」にあらわれる「可愛川」を同村の「江ノ川」であるとしたうえで、 又吉田ヲ流ルル川ニ小川一派ア
賀茂郡広村の『国郡志御用書上帳』*1(文政二年)では、村内の川を「大川壱筋」のみとして、その大川が村内で枝分かれして海に注いでいるとする。 郷中ニ而二筋ニ分レ、又三筋ニ分レ末海中ニ入、西を本川と言東を中川と言、 その「本川」(広西大川)と「中川」(広東大川)に挟まれた三角州が「古新開」と呼ばれ、古新開からさらに沖へと干拓が進み、「四新開」「仙兵衛新開」「彌生新開」「武兵衛新開」が連なっていた(『藝藩通志』巻七十六、広村絵図の記載)。 ぱっと見気付きにくい「新開」と「新聞」の誤りは、「古新開」で起こりやすいのかもしれない。 また、同書上帳の「当村形勢生産之事」に、水害の多いことに触れている。 右大河なれハ年々砂流れ出川筋高くなりて古地方ハ水損多し、又大水ニ至れハ所々川岸堤等危く、村中之者向寄々ニ相集り是を防く事心力を尽せり、誠ニ後来水難之憂あり、 大正時代、広村に海軍工廠が置かれたことで都市
広く江田庄と括られた三谿郡西部地域。そこで一番大きな川が「美波羅川」で、みよし風土記の丘の東を流れて馬洗川に合流している。源流は世羅郡の青水。 前項と同じくふるさとの川と桃源郷 (芸備選書)。 p47からp53は「美波羅川-正しくは三原川。美波羅川は風流人のつけた名称-」という記事で、明治二十年代に「美波羅川」という統一呼称を与えられたことなどが記されている。語源の「三原」から表記を変えて用いたものという。 三谿郡での呼び名に「西川」があるものの、流域の村単位では東西南北を冠する必要性は少なかったろう。強いて言えば「大川」ではあるけれど、 一 大川 壱筋 川上当郡三若村より流来、川下海渡村へ流込申候 (略)川名何与申儀茂無御座候 「三谿郡石原村国郡志御用書上帳」(『三次市史4』三次市.2004所収) 固有名詞が無くとも日常では差し支えなかったと見える。
亀山発電所の運転は明治43年から昭和38年。 広島市亀山公民館(安佐北区) あゆみ5回 亀山の発展と太田川 のページに「時に洪水によって浸水の被害を受け、時に干水によって出力の滅少を来すなど」とある。水量が多くても少なくても難儀する。 建物正面の長方形の板に記されているのは大正8年から昭和51年の8回におよぶ浸水被害の高さ。昭和18年3月がもっとも高く、玄関の上に達する。 広島県文化百選(4)建物編 に、「昭和四十七年(一九七二)の大水害を契機に、老朽化、コスト高などの理由で」廃止となったとある。プレート上では昭和47年の「洪水跡」は三番目の高さにある。
畑賀川 川幅 川上八間 川下拾八間半 但渡り場之儀ハ橋ケ所ニ御座候 右畑賀村流出当村之内弐町弐拾弐間、川下も砂走りニ而大川へ流入申候 「安芸郡奥海田村国郡志御編集に付下弾書出帳」(『海田町史 資料編』第三章第三節) 『文化度国郡志』から。 畑賀川を渡る場所については橋の部(橋ケ所)に触れてあると書いてある。「砂走橋」の項で挙げたように、その部分では橋の長さ14間。 畑賀と奥海田の境から「大川」*1合流地点まで「弐町弐拾弐間」250mちょっと。 今では合流点を歩いて横切ることができる。増水時をのぞく。 *1:瀬野川 http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20100421/1271867041
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