タグ

批評に関するmorutanのブックマーク (16)

  • 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』を読む(3): たけくまメモ

    テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ ←伊藤剛氏から提供された表紙原画(画・和田洋介) 話を『テヅカ・イズ・デッド』に戻す。今までの文章をふまえて書の論旨を私なりにまとめると、だいたいこのような展開になっている。 (1)マンガはつまらなくなった言説の検証 前回までのエントリでも述べたように、90年代に入り、団塊の世代(50代~)からオタク第一世代(40代~)にかけての論客の多くが、どうしたわけか口々に「マンガはつまらなくなった」と言い始めた。しかし現行のマンガは、一時ほどではないにせよやはり売れているし、伊藤からみて面白いマンガはたくさんある。必ずしもマンガ表現総体が衰弱しているとは思えないのだが、先行世代の論者は意識的にか無意識的にか「今のマンガ」を無視しているように見える。これはなぜか。 「つまらなくなった」ということは、「それまでは面白かった」ということである。であるなら

    morutan
    morutan 2010/09/03
    「マンガはつまらなくなった」の正体が「ストーリーマンガからキャラクターマンガへの転換」だとするとデータベース消費とも絡むな
  • 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』を読む(1): たけくまメモ

    以下の文章は先頃刊行された伊藤剛の著作『テヅカ・イズ・デッド』を読んでの感想であります。とはいえ書き始めたらとまらなくなり、内容紹介を含めて相当な分量になってしまいました(しかも、まだ書き終わっていない)。マンガ論としては久しぶりに出た格的な理論的著作であり、2年半に及ぶ書の「産みの苦しみ」のプロセスを友人として端から見ていただけに、個人的にも感慨深いものがあるのは確かであります。 マンガ表現やマンガ史における新見解をいくつも含んだ野心作で、かなり専門的な内容(価格も専門書的)ですが、難解な用語をことさらに駆使しているわけではなく(むしろそれは最小限に抑えている感じ)、マンガ表現に関心のある人なら、一度は目を通して損はない出来だと断言できます。この感想はまだ執筆途中ですが、なかなか終わらないので「短期連載」にしました。書における伊藤くんの論旨には私自身のマンガ観にも反省を迫る部分があ

    morutan
    morutan 2010/09/03
    「マンガはおもしろくなくなった」ではなく「なぜ大人たちはマンガをおもしろくよめなくなったのか?」という話。マンガだけではなく音楽、映画あらゆるエンタメに通じるだろなこれは
  • 『崖の上のポニョ』について(1)――あなたは中間存在を愛せるのか - GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

    私、今までずっと黙っていたんですが、公開から今までの間に、『崖の上のポニョ』を2回観てきました。 同じ映画を2回観に行くというのは、私にとってはかなり珍しいケースです。 この入れ込み具合は、マーロン・ブランドーが亡くなった直後に築地市場で再放映していた『ゴッドファーザー』をわざわざ観に行った時と同じくらいでしょうか。……って、ファミリーアニメとマフィア映画を同列にするなよって突っ込みが来そうですが。 そんなわけで、私にとってはそれくらい面白かったわけです、『崖の上のポニョ』。 ジブリ作品ファンというわけではないです。なんだかんだで新作が公開されるたびに色んな縁で観に行くのですが、だからといって宮崎駿が特別好きだというわけではない。『カリオストロ』や『ラピュタ』に特に思い入れはないし、『となりのトトロ』をVHSテープが擦り切れるまで見たなんて武勇伝も別にない。『風の谷のナウシカ』は、最近よう

    『崖の上のポニョ』について(1)――あなたは中間存在を愛せるのか - GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)
    morutan
    morutan 2008/08/01
    中間存在としての半漁人ポニョをそのまま受け入れることについて。んでも「半漁人萌え」とかでキャラクター消費されたりするのだろうか…
  • 『ユリイカ』2008年6月号「特集:マンガ批評の新展開」 - shinichiroinaba's blog

    id:boxman氏の「おめーらのアングルにはのれねーよ」てなぼやきで一部で有名な誌を紀伊国屋の店頭で見かけた。 ユリイカ2008年6月号 特集=マンガ批評の新展開 作者: 荒川 弘出版社/メーカー: 青土社発売日: 2008/05/26メディア: ムック購入: 4人 クリック: 48回この商品を含むブログ (51件) を見る 評論はともかく荒川弘と島田虎之介のインタビューがあったので即買い。 まだきちんと読んでいないのだが、とりあえず荒川のあらゆる意味での――人間として、創作者として、プロとして、社会人としての――まっとうさに気圧される。やはり日まんがの2000年代をしょってたつのは荒川弘とよしながふみなのか。『PLAitation』時評では少し批判的なコメントをしたのだが、なんつうかあれは揚げ足取り――とはいかないが、枝葉末節という

    『ユリイカ』2008年6月号「特集:マンガ批評の新展開」 - shinichiroinaba's blog
    morutan
    morutan 2008/06/27
    本文はユリイカ6月号のインタビューに触れて、ジャンプマンガにおける強さのインフレの変節について(強さのインフレから頭脳戦へ) コメント欄は紹介と批評の違い、紹介屋が侮られてる現状があるのでは?、と
  • コンテンツの評価方法―数的評価か質的評価か - 絶倫ファクトリー

    昨日、一昨日のエントリに絡んで、Twitterでm_um_u氏としゃべったことからサルベージして思考をまとめる。 確かに東浩紀の言葉を借りるまでも無く、インターネットの普及でコンテンツの「作り手の数>読み手の数」という図式に近づきつつある。そうした変化の中で「文化」の読み方を変えろという主張も、もっともだと思う。 ただそうだとするなら、それはコンテンツに対する評価の手段の議論と切っても切り離せない。携帯電話の普及で誰もがケータイ小説を書けるようになっても、ニコ動やyoutubeのおかげで誰もが映画監督になれても、ブログの普及で誰もが評論家になれても、それらのコンテンツを評価する手段は未だ数的評価によって為されている。どれだけの人数に読まれたか、どれだけの部数が売れたか、どれだけの回数再生されたか。だから現状がもしも「作り手の数>読み手の数」(もしくは=でもいいけど)だったとしても、「成功者

    コンテンツの評価方法―数的評価か質的評価か - 絶倫ファクトリー
    morutan
    morutan 2008/02/16
    「けっきょくいまのところ数的評価(どのくらいの人がみたか)が優勢だねぇ。質的だとニコニコがあるぐらい」、と。質的評価による繋がりを見直す必要。この辺、ロングテールとかミドルテールとかにも繋がりそう
  • やっと - soneakiraの日記

    『のだめ〜』を録画して、ようやく、『ゆれる』西川美和監督を見る。 なるほど。独断と偏見だけど、日活ロマンポルノの秀作みたいなもんか。 もっと遡ると、社会性をテーマにしていた初期の劇画にも同じニオイを感じる。 ぶっきらぼうな音楽が気になった。カリフラワーズというバンドだとか。 youtubeに『ゆれる』のエンディング曲 「うちに帰ろう 」by カリフラワーズ Cauliflowers のPVがあったので紹介。弟役のオダギリジョーの視点で描くことは、プロモーション的にも必須だろうが、 兄役の香川照之の視点で描いたら、もっとどろどろしてて文芸的だったかも。 出口なし状態は、田舎も都会も大して違いは無いのだが、 田舎のほうが緊密、クローズドされている分、息が詰まるのだろう。 模範的跡取り息子を演じてきた兄が壊れたと取るべきなのか、 来の自分が露わになったというべきなのか。 明日から仕事始め。 人

    やっと - soneakiraの日記
    morutan
    morutan 2008/01/13
    「ゆれる」=「日活ロマンポルノの秀作みたいなもんか」、と
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    初めて梅干しを作ってみた話 今年の夏、初めて梅干しを作りました。 私梅干し大好きなんですが、自分で作るという発想がなくて…同僚が梅シロップを作っているのに影響されて去年から梅仕事を始めてみたんですが、そのときの説明書に「梅干しの作り方」というのも入っていて、えーー梅干しって自分…

    はてなブログ | 無料ブログを作成しよう
    morutan
    morutan 2007/12/15
    本来きちんとした内容を伴った批判が「批評」、それ以外の内容がないものは印象を元にした感想や誹謗中傷に過ぎないように思う。cf.ABAの件
  • マンガ家になったんだけど

    苦節数年、やっとマンガ家になった。それまで一読者としてマンガを楽しんできたんだけど、読者のころ考えていたマンガ家像とだいぶ違う。まず最初に思ったのは、世にあふれるマンガ評論の類がほとんどただの妄想だったこと。ぼくが作品を発表して、ネットで色んな意見がつく。そのなかに妙に断定口調で「こいつは○○に違いない」とか「このキャラのこの行動はこういう意味」とか語りたがる輩が多い。「この作者はこんなこと考えてるんだぜ!」という奴も居た。それだけならまだ良いんだが、その脳内設定をもとにぼくへの人格攻撃をしてくる人すら居る。そんなにイヤなら読まなかったら良いじゃない。君にとってぼくのマンガが面白くなかったからって「死ね」といわれる筋合いは無い。たかだか数百円払ったくらいでぼくの生死をどうこう出来る権利なんて無いだろう。 名前を呼び捨てられるのも最初は抵抗があったが、もう慣れた。ファンと言われる連中がどれだ

    morutan
    morutan 2007/10/20
    批評・解釈の自由と作家のメッセージの相克についてのベタな例として
  • Sound and Fury.::メルの本棚。

    morutan
    morutan 2007/10/14
    小説家だからといって分析的に読んでるとは限らないし、分析的に読んでいる人としては研究者なんかもいるんじゃないか、と。「小説 > 批評」的構図が出てきたことへの警戒?つか、「小説も批評も舐めすぎ」、と
  • 【海難記】 Wrecked on the Sea - 読書の自由について

    2024年下半期のフィルム写真たち ふと気がつくと2024年も残り僅か。 そしてふと振り返るとこのブログに掲載する写真がGRIIIで撮ったものばかりになっていたのだけど、決してフィルムに飽きたということではなく、フィルムはフィルムで淡々と撮り続けているし、モノクロもカラーネガもいつも通り自宅で…

    【海難記】 Wrecked on the Sea - 読書の自由について
    morutan
    morutan 2007/10/14
    小説家の読み(分析的)、批評家の読み(批評的)、ファンの読み(親和的)、消費者の読み(消費的)という4軸の提示。小説的読みは職人が物を作るときの視点、批評的読みは誤読の可能性もあるが豊かな読書体験、と
  • シンジより軽く跳び、ハルヒより熱く泣く、「時をかける少女」の主人公マコト - 萌え理論ブログ

    和子vs真琴 「時をかける少女」(時かけ)の成功は、主人公マコトの設定が大きく影響しているのではないか。原作と主人公を変えてしまうのは、一種の賭けに近いが、制作陣の決断は成功していると思う。学園物なので登場人物も結構いるのだが、少なくとも私の印象ではマコトがイメージの七、八割を占めている*1。 アニメ版時かけは、「時をかける」というのを比喩でなく、実際に(命がけの)跳躍にしてしまう。アニメーション的発想が爽快だ。また、時かけは人物に陰がない平板な塗りだが、動き回ることで立体感を見せている*2。それらはもちろん、動き回り転げ回る主人公がいてこそ、遺憾なく発揮されるのだ。また実は、時間移動もののSFとしては粗が多いのだが*3、マコトが脳天気なので、普通の観客には理屈がさほど気にならない。 原作の主人公芳山和子とアニメ版の主人公紺野真琴は、優等生と天真爛漫という風にキャラが全く違うが、それは制作

    シンジより軽く跳び、ハルヒより熱く泣く、「時をかける少女」の主人公マコト - 萌え理論ブログ
    morutan
    morutan 2007/08/05
    『マコトには過去のトラウマがない、少なくとも描かれない、というのは最近の作品では珍しい。』
  • 7月 13日(金)サンキュー、愛してます | 毎日jogjob日誌 by東良美季

    6時起床。昨日残してしまったAV、最後の一を途中まで観てから朝いちばんにジム。戻ってからは昨夜書いておいたこの日記をアップして──こういう時に限って「あっ、ココ書き直したい」などと思ってしまい時間を使う──エンドマークまで見終わった時には出かける時間になった。12時少し前、あたふたと着替えなどして外出。午後1時より、高田馬場コアマガジンにて『ビデオ・ザ・ワールド』誌2007年度上半期AVベストテンの座談会。たかがアダルトビデオに関して大げさ、と言われるのは承知で書くけれど、批評というのは命がけの行為だ。何故なら一度でもダサイ作品を「良い」と言ってしまえば、そいつは一生「ダサイ奴」と言われて生きていかなければならない。その逆もまた、そうだ。カッコイイ作品を「わからない」と言ってしまうと、そいつは一生「カッコイイものが判らないダサイ奴」と言われて生きていかなければならない。だからたとえAVと

    7月 13日(金)サンキュー、愛してます | 毎日jogjob日誌 by東良美季
    morutan
    morutan 2007/07/15
    人生をかけて批評をしていることの重み、とか
  • [マスダアニメ]なぜ作画の評価が割れるのか?

    アニメを映像面からみるとき、評価軸は二つある。 ひとつは、絵の美麗さ。 ひとつは、動きのよさ。 「絵の美麗さ」とは、いうまでもなく一枚一枚の絵の美しさ。来は、レイアウトなども含めて絵としての完成度が測られるべきだが、最近では、キャラクターが可愛く描けているかどうかに重きがおかれる傾向がある。 しかしながら、アニメは構造上、多くの人間によって描かれるため、描き手の能力や個性によって絵柄がブレることになる。そのため、作画監督という役職を置くことで、1話単位での絵柄の(できるかぎりの)統一を図っているのが実態。 場合によっては、さらに“総作画監督”という全話にわたって絵柄を管理する役職を設けることもある。 「動きのよさ」とは、動画=動く絵としての心地よさ。細かい表情や、仕草、あるいは派手なアクションなど。この動かし方やタイミングはアニメーターとしての技術力が最も現れる部分であり、個性がはっきり

    [マスダアニメ]なぜ作画の評価が割れるのか?
    morutan
    morutan 2007/04/23
    アニメ的技法の注目点について
  • 「悲劇の共有」と「叙事への意志=叙情否定の意志」の関係について記しました - MIYADAI.com Blog

    ───────────────────────────────────── 観客を動員できる作品ほど質が低いという日映画バブルの逆説に抗うヒントを、 自主映画『蛆虫が飛ぶとき』と韓国映画『鰐』における「叙事への熱情」に見る。 ───────────────────────────────────── 【質の低下による日映画バブル】 ■周知のように日映画大バブルだ。商業映画はDVDオンリーも含めて1000近く作られ、年間100人の新人監督がデビューする。7年前に水戸映像祭の審査員になった頃、才能ある自主映画監督を商業映画の世界にどうつなげるかを画策していたことが懷かしい。 ■現在必要なのは無数の商業映画を「売れているけどいい」「売れているけどダメ」「売れてないけどいい」と宣言する仕組みだ。ヨーロッパの映画祭は元々そういうものだ。売れる売れないに関係なく、いい映画にお墨付きを与える。日

    morutan
    morutan 2007/04/22
    いちおプチバブルらしい。でもきちんとした作品がないので批評が必要、と。んで、「きちんとしてない作品」はセカイ系的閉じこもりの中での劣化コピーの反復ということらしい。中には郵便的偶然性もあるらしいが
  • 『批評飽きた。』へのコメント

    ブックマークしました ここにツイート内容が記載されます https://b.hatena.ne.jp/URLはspanで囲んでください Twitterで共有

    『批評飽きた。』へのコメント
    morutan
    morutan 2007/04/20
    現代における批評の意義について。プロとアマの違いもあるけど、プロの批評が単なる消費のための消費財になってる、ってのもある
  • ■ - 雨宮まみの「弟よ!」

    ★「オトナアニメ」の「さらたね対談」の、更科修一郎さんの発言がすごすぎる。一部引用します。 更科 (前略)評論家としては、同世代や年上の人間のノスタルジーを肯定してやるような原稿は書きたくないんですよ。いや、20代の年下の連中ですら肯定したくない。それは彼らが早くもノスタルジーに囚われているからです。 (中略) 『ガンダム』のように過去のコンテンツが延々と生き続けているアニメや、高橋留美子がいまだに少年誌の第一線にいる漫画は、ジャンルとしてやっぱり不健全だと思うのです。過去を切り捨て、隔絶しなければ若い人は入ってきませんよ。 もちろん、ノスタルジーはありますよ。でも、消費のマニュアルを作っている以上、現在進行形の作品の正否を評価しなければ意味がないのです。そのためには昔、好きだったものは切り捨てていくしかない。批評眼が曇るからです。 はい、続きが気になる人は「オトナアニメ」、買いに行ってく

    ■ - 雨宮まみの「弟よ!」
    morutan
    morutan 2007/04/18
    ガンダム関連で、富野よしゆきさんの言葉(ガンダムは作りたくなかった)とか、山村浩二さんの言葉(日本のアニメの記号化と記号の反復)とか思い出した。あと、汗水たらして稼いだお金を消費者は使ってるわけで・・
  • 1