はてなキーワード: タバコとは
水曜日のダウンタウンのクロちゃんのプロポーズ企画見てたら、クロちゃんの彼女だったリチと自分の考えがまんま同じだったから別れることにした。
クロちゃんがリチに対して「男っぽい」と言って自分好みにいてほしいことを強要したり(自分の場合は服装ではなく酒タバコを好ましく思うとか居酒屋大好きガサツで何でも許したるみたいな男友達キャラでいた方がいいみたいな感じだったけど)
「もっと早く言ってよ!!言わないとわかんないよ!!」と言っていたけど、言えなくなる状況を作られてしまっていたことの二点がまんまクロちゃんだった。
言えなくなる状況というのは、結構人にとってキツい。無自覚にどんなことでも否定してくる。自分のことを彼女がいるステータス自慢のための道具として見ているから、気に入らないことは否定される。例えば私は甘党なので、デートでカフェに行きたいと言えば「僕、甘いもの嫌いなんだけど」と返ってくる。海外に行ってみたい話をすれば「僕は英語ができないから嫌だ」と返ってくる。ドキュメンタリーが好きだと言えば「あんなの見る人いるんだ」と返ってくる。美術館は面白いよねと言えば「どこが?」と返ってくる。どこか行きたいか聞かれたのでイタリアンの食堂がいいと言えば「それは渋すぎだろ」と返ってくる。他にもサイゼに久しぶりに行きたいと言うと「Twitterでデートにサイゼはダメと書いてあったから良くない」みたいなパターンもあるかな。
とりあえず自分が主人公で、自分がやりたいことをやるのが当たり前。私が行きたくないとか興味がないは関係ない。初めのうちは私も「行ってみたら楽しいかもよ」とか色々返していたけど、どんどん否定されるのが分かっているのでこちらは何も言わなくなる。言ったところで否定されるので、やっぱりダメだとなるだけだから。
まあ彼の場合は他にも人の話をちゃんと聞けないとか、婉曲表現がとにかく伝わらなかったり、真面目な話を避けたがったり、大事な話を忘れた頃にしてきて私が話を聞いてなかったことになっていたり、愛情表現が一切できなかったり、思い込みが激しかったり、無知だったり、手すらも繋げないから先に進めなかったり、声のボリュームが調節できなかったり、TPOに合わない話(例えば外食時にウンコやケツ毛の話をしてくる 私が男なので笑うと思っている)をしてきたり、まあとにかく山のようにあるんだけれど。正直アスペルガーとか発達障害も入ってそう。
ここ2〜3ヶ月はこれきっかけだとは思うが、めちゃめちゃ鬱っぽくなっていた。外で恥ずかしい思いをしたくない。また言われたら嫌なことを言われるかもしれない。地雷を踏んではいけない。でも笑顔でいないといけない。近くに自己都合で引っ越して来られてどうしたらいいか分からない。動悸がしてきて飛び起きたり、夢に彼が出てきて泣きながら起きたり。死んだら何にも言われないし楽そうだなとか考えるようになった。
でもリチちゃんを見ていたら、自分も逃げてはいけないと思った。リチちゃんは同番組の企画でクロちゃんと交際したから、私より振るのは大変で勇気がいることだし、SNSでバッシングされることだってある。それでも最後に思ったことを伝えて別れるのはカッコいいと思った。
だから私も1年半の別れを伝えることにした。学生時代から含めると10年近く知り合いだったけど、後悔はない。水ダウ、私に勇気をくれてありがとう。
B「歯磨きするよ」
B「そんなこと言われたら吸いづらくなるじゃん」
A「結果的にそのうえで選択するでしょ?吸いたかったら吸えばいい」
B「なんでそんな意地悪なこと言うの?吸ったら『Aの気持ちよりタバコを優先したんだ』とか思うでしょ」
A「言わないでほしいってこと?」
B「そうじゃなくて…」
A「『言わないでほしい』と『タバコを吸わないでほしい』って同じじゃない?今Bの気持ちより伝えることを優先してるし、君も好きに選択すればいい」
B「なんでそんな意地悪なこと言うの?」
以下うやむや
そんなに変なこと言ってたかなと思って客観視するために思い出してみたけどわからん
恒久的にやめてほしいとは思っていない(そのほうが嬉しいけどそこまでの間柄じゃない)、その日くらいは我慢してくれたら嬉しい(我慢してくれた)
「今日は我慢してくれたら嬉しい」みたいな言い方だったら意地悪じゃなかったのかな
もともと嫌いとは言ってるのに吸う話が出たのと歯磨きすれば臭くないわけじゃないですよが言いたかったんだよな
忘れてたけど「吸ったらキスしなければいいのでは?」みたいなことも言った気がする
あと「誰だ今の」
毎日お菓子食べて大した運動もしてないが健康診断で異常なし。酒とタバコしない・早寝早起き・働いてないからストレスゼロって相当健康的には有利なんだな。今後も働かないを貫きます。労働は悪。間違いない。
らしいというか、診断されたからそうなんだけど。SNSでは重いしここに。
最初に、まあ当然だろうなと思った。高齢者に分けられる年齢で、タバコも酒も手放さない時がなかったから。健康には気を遣っているようだったけど、禁煙も禁酒もしなかったし、あるいはできなかったから、本人にとっても気休めなのだと思う。
全く良い父親でないという訳でもない。と思う。ろくでなしではあると信じている。高齢出産だった。だからかわからないけど自分が生まれてから一度も両親は一緒に暮らしたことがないし、父は恐らく養育費なんて出してなかった。二年に一度ぐらいのペースで気紛れに家へ来てお小遣いを置いていったりしたから、なぜか家族から身内扱いされているおじさんという印象の方が強い。誕生日プレゼントとかも全部お金で、札を一枚ぺらっと渡される感じだった。いや会って直接渡される方がレアケースで、ほとんど振込だったような気もする。いらない物よりは便利でいいやと思っていたけど、母からもらった皿を乗せられる新幹線のおもちゃとか、当時大好きだった戦隊もののファンブックみたいなやつの方が印象に残っているし、嬉しかったのだと思う。実際もう物はないけど、ケーキの箱と並んだ新幹線の絵は鮮明に思い出せるし、お気に入りのページ番号は今も咄嗟に答えられる。渡された五千円札で何を買ったのかはもう覚えていない。砂山を削るみたいにちょっとずつお菓子でも買ってたのかもしれないけど、いちいちそんなの記憶してないし、自分のお金と混ざってすぐに見分けなんてつかなくなったと思う。最初の内は「父さんからもらったお金だから」って取っておいてたような覚えもあるようなないような、でも衝動性の人間みたいなものだから、結構すぐに小銭と数枚に崩れていた確率の方が高い。
悪い思い出は枚挙に暇がないほどある。書いてる今も次から次に浮かんでくる。受験期に母との関係が最悪になって、友達からもなぜか突き放されて、でも塾の先生も学校の先生も忙しい時期だったから、誰にも何も相談できず一人でずっと同じ思考ルートをぐるぐるしていたころがあった。塾に向かうホームで飛び込みを考えたことが何回もあって、それがとうとう限界になった日にひたすら遠くまで歩いた。塾の最寄り駅から訳が分からなくほどめちゃくちゃに歩いて、道中、塾講師からの電話で無断欠席を咎められた。よく知らない橋の上で、きったないフェンスが傍にあって、その下に小指の先ぐらいの水量で流れる川があった場所だった。学校終わりだから当然夕方で、象牙みたいな真っ白じゃない色の街灯が頭上にあったから、立ち止まると目立つなあと思ったことを覚えてる。当然母にも叱られた。電話越しに少し歪んだ溜息の音は今でも思い出せるし、その後の喉を絞ったみたいな「金の無駄」という金切り声を、今も夢に見る。お金があれば、私立の選択肢はもっとあっただろうし、そうなれば余裕もあっただろうし、塾だってサボりぐらいなんてことなかったのかもしれない。
この時、この一年間、父親は何もしなかった。当然相談なんてしない、というか親戚のおじさん程度の距離感の人に話せるほどフレンドリーな質じゃないし、向こうも関わりたくないと思っているようにも見えた。受験の話題なんてしないし、ただ例年通り家に来て数日泊まって、それだけで帰っていく。その間の食費とか、生活費とか、入学金だとか、塾の費用だとか、そういったことは何もない。何もなかった。当時はほとんど他人みたいな印象を抱いていた部分もあったから、求めすぎてはいけないとすら思ってた。今思えばそんなことはない、どうして母一人で自分を育てなければならなかったのか。もしも父から自分の養育費が半分でも出ていたなら、きっと母はあそこまで追い詰められなかったのだろうと思う。あの時は自分も母も少し異常だった。貧困は何よりもまず心を削っていく。そこに加えて受験のプレッシャーまでもがあったのだから、母の苦労とはいかほどのものだったか。母は毎日のように声を張り上げて自分へ怒鳴ってから仕事へ行っていたし、自分も自分で不眠気味になり、一日一本のエナジーゼリーのうち半分だけを口にする生活で廊下にぶっ倒れながら、体力やら気力やら諸々の事情で不登校になっていた。当然志望校は落ちて、滑り止めの私立に行った。
自分が小さい頃からちょくちょく両親の言い争いみたいなのはあって、時期によって母がかわいそうだと思ったり、父がかわいそうだと思ったりして、その時々で自分の信条に合う方へ味方というか、話を合わせていた。当然母とは一緒に暮らしているので、その後のことを考えて母の味方をすることの方が多かったが、どうかと思った部分は伝えたりたしなめたりもして、ずっとどちらかの味方という感じではなかった。兄はずっと母の味方だった。
ここ数年で、自分は言い争いに加わらなくなった。と、今書きながら気が付いた。昔は「そういう言い方をしたら相手が激昂するのは当然なのだから、少し言い方を変えるべきだ」と伝えてみたり、「以前にもこの話題でこうなったのだから」とも言ったりしたけど、もう無視をするようになっていた。黙ってスマホで映画とか見ながら、適当な返事をする父と声を荒らげる母の姿をちらちらと見る程度に。また始まったな、といつも思う。
何度も「もう来ない」と言いながら、家のある地域に用があるとき、体のいい無料宿泊所として使っていく。自分が成長する過程で何をも残していないのに、父親面をして物事を言う。いつもいつもその様を滑稽だと思う。人の世話を押し付ける。父が帰った後はいつも父の愚痴に満ちていた。
それでも母づてにガンだと聞いたとき、少しだけ困惑した。一瞬思考停止して、でも、真っ先に浮かんだのは「どの返事をすれば一番角が立たないか」だった。次に「母たちはきっとあれでいて動揺するだろうから、あまり何も思ってない風に相槌打つのがいいかもしれない」。薄情だなと自分で自分のことを思って、あまり関わりのない親戚みたいなものだから仕方ないと自己弁護もした。
母が安心できるように「まあ思っているより大したことないかもしれない」という話をそれらしい聞きかじりのネットニュースとかだけで補って寝室へ見送って、今、やっと一人になってこれを書きながら恐怖を感じている。
幸いなことに、親しい人を失った経験がない。だから、もしも父がどうしようもなく手も尽くせなくて最期だとなった時、想像もできないぐらいショックを受けるのではないかという想像が胸の中にうまれはじめた。きっと嫌な記憶から忘れていく。そうしてごくごく僅かな楽しかった思い出だけが残ってしまうのが恐ろしくて仕方がない。自分は父親を美化したくない。自分が苦しんでいた時に手を差し伸べなかった、自分を育ててくれなかった父であってほしい。多分それぐらいの距離感じゃないと、父の父親たる面を知っている兄や母が悲しむであろう家の中は、あまりにも苦しすぎると思うので。
自分が支えなくてはいけないと思うほど強いメンタルは持ってないし、自分のことを良い人間だとも思ってはいないけど、多分家族の中で一番父といた時間が短いのは自分で、それは兄弟の年齢差とかでは及びもつかないほど、徹底的に少ない。だからきっと、もしも治療にしたってその後にしたってある程度の冷静さを持ちうるのは自分で、ガンについて話していた時の母の震えるような沈黙を思えば、何かがあった時主導せねばならない、というよりもそうあるべきかな、と思う。そうなったとき、治療の過程で見る父のことがやはり残っていく記憶になるのかもしれないと思うと、すごく悔しくて少し怖い。
きのうの夜、記念日ディナーのためにレストランに向かう途中で路上喫煙をしている奴に2人も出会った。1人は人通りの少ない道を歩きながら煙を撒き散らしており、おれはそいつとすれ違ってしまった。すれ違った後もしばらく副流煙に晒され続けた。もう1人は、信号待ちをした横断歩道の対岸で煙を撒き散らしており、おれはさらにそれも吸ってしまった。
おれは気管が弱いのでタバコの煙を吸うと咳き込んでしまう。きのうはそのまま咳が止まらなくなり、その後のディナーでは苦しいわ周りに申し訳ないわで散々な目にあった。
あの2人には天罰が下らないだろうかと思っている。あれは時間的に仕事帰りだろう。あいつらは家に着くまで我慢できず、副流煙を大量に漏らしやがったのだ。路上でタバコを吸う行為は、迷惑の加減でいうと路上でウンコをすることに等しい。家や喫煙所に着くまで我慢しろ。我慢できないならビニール袋でも被って吸えばいいんじゃないか。犬のクソでもビニール袋に入れて持ち帰るのがマナーだろう。マナーどころか路上喫煙は条例違反だ。人気がない道もお前1人じゃない。横断歩道から一歩後退したところで煙は下がってくれない。服に匂いがつくどころではなく、一瞬で他人の健康を害するんだよ。副流煙に巻かれたのが喘息の赤ん坊だったら死にかけるかもしれない。
そういえばおれの妻も妊娠中にこんな目にあったらしい。とある早朝、駅へと向かう一本道で、前を歩く男がタバコを吸いながら歩いていて、妻はその煙をずっと吸わされていた。お腹の子に障ることを恐れて身重の体で早歩きをして追い越したら、その数十メートル先にも別の歩きタバコ野郎が2人もいたらしい。
本当にウンコだと思うよ。お前のウンコを他人に吸わせるなよ。いや、健康を害するんだから暴行傷害に等しいよな。そのせいで母子に何かあったら、もはや通り魔だよ。
都内で仕事帰りに、友人と会って食事をしたいときに、いつも店選びで困る。
おれは静かに会話を楽しみたい。高級な料亭に行きたいわけでもない。
しかし、居酒屋は酔っ払いだらけで大声で話すので、こっちも自然と声が大きくなり疲れる。
せっかく心地よくなっているところにタバコが風に乗って匂ってくる。
となると、広めのカフェを探すか?しかしそれだと料理がまずい。
料理が美味しくて、静かに会話を楽しめる1万円以下の店となると、過去に良かったのは、うなぎ屋さんくらいだ。
あとは各駅停車しか止まらない駅で、そこから少し離れたように所にあるお店が比較的静かかもしれないな。
みんなはどうしているのか教えて欲しい。
神経が摩耗してる感じってわかる?
これ分かってくれる人少ないんだけど、最近インフルに罹った友人が同じ症状を言ってたので少なからず居るんだと思う
例えばこういう症状
・手や脚が痺れる、チカチカ、ピリピリする(むずむず脚症候群)
・光や音に過敏になる
これら、おそらく神経〜脳の調整弁が疲労によりおかしくなってて
疲れてる時にこれが発動する
更年期だ〜と言うには若干まだ若いし、こういう不機嫌はよくあるので別件だと思う
単純に疲れてるとか、寝不足だとか、イライラしているっていうのはあると思うけど
あとは昨日のドル円の動きがキモかったからか、まあメインは炭水化物だ
2020年に大学生になった。もう入学した頃にはすげーコロナ禍で、せっかく見つけた下宿に、ただ家賃を払う半年間が続いた。
授業は全部オンデマンドかZoom。誰かと話す時間はなかった。
半年経って後期が始まると、週に1回だけ対面授業ができた。その1回だけのために下宿に住んだ。すげーバカバカしかった。内容は論文とかレポートの書き方とかだけで、よく話す人こそいれ、友達はできなかった。
サークルは、運良くとあるサークルに入ることができたが、自由参加自由退出みたいなサークルだったので歓迎会とかもなかった。2年になったとき、別のもっと密度のあるサークルに入ったけど、結局変わんなかった。どこに入っても、誰も歓迎会を開こうとか言わなかった。
2年になって、そこそこ対面の授業が出てきたから本格的に下宿に住んだ。まあ第二外国語の授業が一個増えただけだったけど。
3年になって、恋人ができた。でも別に大学で知り合ったわけじゃなくて、もともとフォロワーだった人が、たまたま京都に住んでただけだった。ゼミが始まって、友達らしい関係の人はできた。
3年の1月、バイトで倒れた。うつだった。1年間休学した。やっと出来た友達らしい関係の人たちはみんな卒業した。恋人とは別れた。恋人がうつの一因になっていたことを否定しきれなかったからだった。恋人は、端的に言えば、交通機関がお得になる手帳を持っていて、自分に対する当たりが不安定で、終いには怖くなってしまった。
せめて次の年に一つでも楽をしようと、卒論だけ書いた。大変だったけど、もともと何かを書いたり作ったりするのは嫌いじゃなかったので、いいリハビリになった。うつじゃねえかよと言われるかもしれないが、単位をとれるだけ学校に出席する余裕はなかったし、実家から遠く離れた下宿で一人暮らしは無理だった。スーパーに入るだけで動機がした。卒論のために机に向かうのは、せいぜい週に1時間が限度だった。だんだん回復はしていいたが、1年かけて1万字。それまでの自分は、レポートをだいたい1時間で1000文字書いていたから、相当なスローペースになっていた。
でもパソコンをするのは好きだった。YouTubeとかニコニコに曲を投稿して。全然有名にはなれなかったけど、ハネたときは嬉しかった。マイクラでも無心で作業してた。
4年になって、就活をした。前の年までうつになっていたとは思えないくらいハードスケジュールをこなした。でも自分を認めてくれる会社はなかった。ガクチカなんてない、友達もいない、意味わかんない理由で1年休学。休学中にがんばった作曲も、「再生数少なすぎ、そんなんじゃガクチカにならない」って否定された。少なくともオマエ様の企業の説明動画よりは再生されてたぞ。ずっと吐きそうだった。周りを争うのは、自分より一年早く生まれてきただけで、自分よりも経験豊富で、サークルの歓迎も受けて、ガクチカも十分にある人たち。2001年に生まれたことをあれほど呪った日々はない。なんとか内定を1つだけとって、そこに決めた。決めざるを得なかった。
ただのアホだと思ってくれてかまわないが、単位の制度を勘違いしていて、4年の今、楽とかできないめちゃくちゃギリギリの状態だ。今季で落とせる単位は1個だけ。誰も相談に乗ってくれないから、単位についてずっと勘違いしていたし、学校のサポート組織みたいなものの存在も知らなかった。だから、4年の後期にもなってテスト2つ、レポートも4つくらい抱えてる。
今も学校に話せる相手は誰もいない。たぶん、抗うつ薬をもらってる薬剤師のほうが自分のことを理解してる。
自分の大学生活について思うところはないかと言われれば嘘になる。じゃなきゃこんなの書いてない。でも、これを見てる高校生、受験生の増田がいれば、これだけは言っておきたい。どれだけ大学デビューってバカにされようと、大学でしかできないことをやったほうがいい。自分はそれが出来なかった。出来なかったことをものすごく後悔してる。だから、サークルに入れ。軽音でもなんでもやれ。ヤリサーはたぶんもうない、しらんけど。
あと未成年飲酒はするなよ。周りがどんだけ未成年飲酒してても流されるなよ。ちゃんとハタチになって飲む酒が一番美味いぞ。タバコはもっての他だ。大麻は論外だ。噂が聞こえてきたら離れろ。
・刺青:美醜の問題で醜いと思うから否定している。ファッションは自己表現だとして「美」であるべき。お前の美は俺の醜ってだけ。
・不倫:民法上の問題。関係を解消してからやれ。浮気・不義で離婚には至っていない友人がいたがもう友人とは思っていない。
・ふるさと納税:俺は問題ないと思ってる派。はてなー共の「都会から田舎に金を吸うな!」とか「金持ち優遇!」なんてのを心の底からバカにしてる。田舎の努力。オマエラの嫉妬。カネに余裕があるやつはそうやって得している。俺は実際の節税(笑)の方が好き。
・うなぎ:旨い。経済の良心の問題。旨さは良心を超えただけ。フェアトレードチョコは偽善の味がする。邪悪なチョコは実に旨い。それだけ。
・たばこ:臭い。俺の飯が不味くなる。髪が臭くなる。服が臭くなる。いい加減にしろ。パチ屋でさえクリーンになったのに、まだタバコ吸ってんのヤニッカス。
・メルカリ:俺は儲けている&得しているので問題ない(売買両方)。運営の問題は運営の問題。邪悪は1%でもオマエラを喜ばせる(笑)よな。
・LUUP:ロビイストや警察OBの取り込みがうめぇな、とは思う。俺は使わないし、被害にあったら殺すほど叩くぞゴミカスが。毛唐が止め始めてるのに、さすがジャップランド。ジャップ(笑)
・田舎:マンセーしてる奴は恵まれてるだけ。人生ってのは「やりたいこと」のために前進するのが大事。第一。やらねぇ奴は逃げただけ。本当にそれってお幸せ?(笑)
・大麻:使ってる奴の一部がキチガイ含有率高杉問題。推進者もキチガイ。大麻自体は精神安定効果高いだろ。用法用量を守って使えよとしか。川俣軍司みたいにならねぇよ、大麻じゃ。
・フェミ:オタクとそのコンテンツを憎悪して焼いたところでオマエのクソザコナメクジ人生は満たされることなんかねぇよ(笑)オタクとそのコンテンツを憎悪して焼いたところでオマエのクソザコナメクジ人生は満たされることなんかねぇよ(笑)大事なことなので2回言いました。
発狂はしないけど、いつもこう思ってるしあんまりにあんまりな内容だとこれをベースにチクチク言葉(笑)をぶつけてる。オマエが不快な顔をすると俺が楽しい。それだけだよ。
考えを整理がてら書き殴ったものなので読みづらいのはすみません。
父は日本料理の板前でしたがなぜか喫茶店の雇われ店長をしていた時期もありました。あまり長続きはしませんでしたが。
小学生の頃に仕事場の喫茶店に招待してもらい、甘いカフェオレを飲ませてもらったことを覚えています。
また休日に色々なパスタを食べたいとお願いするといつも作ってくれました。
父のパスタは格別おいしくて、いまでもこれを超えるものを食べたことはありません。もちろん思い出補正込みです。
酒好きだった父は、いつ頃からか、休日の朝から晩まで飲むようになっていました。
そのうち仕事に行かなくなり、職場も転々と変えるようになりました。
最終的に平日の昼間から居間で酒タバコテレビという状態で、反抗期に入った私は父と何度も喧嘩をしました。
喧嘩直後はしばらく真面目になるのですが半年も経つと元通りになり、それが数回続くことで家族も諦めの境地になりました。
当時、病院のアルコール依存症外来の存在を知っていたら何か変わっていたのでしょうか。
母との喧嘩も増えたある日、父は家からいなくなりました。心配しつつも、家の雰囲気を悪くしている存在がいないことにホッとしている自分もいました。
音信不通になってから半年もすると、父と母の共通の友人経由で、実は○○県の日本料理店で板前をしているみたいな情報が入ってきました。
しかしそれも長続きせず、1年も経つとなぜか悪びれもせず家に戻ってきていたりして、父のことがますます理解できなくなりました。
母が勧めたこともあり、私は遠く県外の大学に進学しました。母方の実家が関西ということもあり大阪の大学を選びました。
なお私が大学寮に入る時も、父はN回目の県外逃亡中でした。
しばらくして大学3年ごろ、母から突然「離婚した」という連絡がきました。
「こちら(父方親戚)とは縁を切って住居も大阪に移すから」と言われた時には驚きはしましたがさもありなんと納得もしていました。
でもさすがに「あなた(私)の住民票と本籍も大阪に移しておいたから」の一言には物言いをつけたくなりました。相談もせずに勝手に何してくれてんのと。
実際これで故郷から完全に離れることになり、父方の実家とも完全に疎遠になってかなりの年月となります。
月日は経って、私も30代後半になりました。
一昨年前に全然知らない市から父の生活保護の扶養照会がありましたが、20年近く会ってもいないので今更無理だと断りの返事を出しました。
そして先々月、親戚経由で、父が肺がんで死亡したとの連絡が来ました。
父の最後の知り合い(おそらく仕事の上司)が火葬や身の回り品の処分などを終わらせてくれたそうで、遺灰だけでも受け取るかという問い合わせです。
なぜでしょうね。断ればいいのになぜかYESと答えてしまいました。
先日、母と一緒にその方を訪ね、お礼を伝えて、遺灰壺を受け取ってきました。
ただ、父の最後については詳しく聞きませんでした。先方も無理に話そうとはしなかったので、薄々事情を理解していたのだと思います。
母は嫌がったので、今は私が小さな遺灰壺を預かっています。父の写真はないので壺だけが本棚の上に鎮座しています。
リスク資産だけではなくしっかり現金も持っていてすごいと思う。
額は上の方よりも全然少ないけど、励みになったので私のケースも書いておきます。
精神的に弱い・未熟なところがあって会社に行くのが毎日しんどいので、55~60ぐらいで早期退職できるといいなあ、と思ってます。
投資を始めたのは記録では2011年からです。積立投資の本を参考に、毎月3万円づつ先進国株式から新興国債権まで幅広く投資信託を買っていました。
これが結構失敗したなと思うところで、(投資比率は減らしていたものの)アベノミクスが始まっても2017年まで新興国債権をだらだら買い続けてしまった。
その後、新興国債権を売って、先進国株式への投資を継続しつつ2018年からアメリカ株式(S&P500)に投資を始めました。
旧NISAの口座で買っていた先進国株式が多かったので、毎年年末に売却して年初に新NISA口座で米国株を買うことでリバランスできています。
債券を売ると決めたのは、シーゲル先生の「株式投資の未来」を読んでからで、遅くはあったけどコロナ前に米株比率を高められたのはラッキーでした。
良かったと思うのは、2020年3月のコロナショックの時に300万円を一括投資できたこと(多分死ぬまでこれ以上のナイストレードはできないと思う)、そして、その後に米株に集中投資して米株高と円安の波に乗れたことです。
現在は年初に100万円そして毎月10万円の金額で投資信託を買い続けています。S&P500 55%, NASDAQ100 25%, TOPIX 20%に近づくように毎年の投資金額は微調整しています。
振り返ってみると、結婚して早い段階で中古マンションを0.98%-35年という冗談みたいな固定金利で買う決断をできたのも幸運でした。(心配で結構頭金を入れてしまったのが今考えれば失敗だった)
奥さんが働くのが好きで、倹約家というのも資産形成の上で非常に助かっていてます。
僕が、酒、タバコ、車、ファッションなど金がかかる趣味・嗜好がないのも良かったです。
自分はなんというか、レジリエンス的なものが全くなく社会に向いていないと思っていて、睡眠薬と抗不安薬を飲んで、時々えずきながら出社する日々です。
目標は55~60歳までに1.4億円まで貯めて心穏やかに余生を過ごすこと、子供には教育と資産を、奥さんには資産を残せること。