小説の中で料理のおいしさを伝える難しさ 佐藤 小説の中で食べ物を出す時、おいしいものをおいしい、とわかってもらうのは難しいですね。まずい場合は、こんなにまずかった、あんなにまずかったと書くのは楽。読者をうんざりさせるのは自信があるんですが、おいしそうに書くのは……。 池内 小説のプロットなどで、たとえばミステリーで殺人が絡んでいるような場合を除いて、ある情景の中で食べ物を生かすということは、あまりないんじゃないですか。 佐藤 それはすごく難しいからでしょうね。つまり、徹底して料理の味をわからせる構想というのは、レシピを細かく書くか、料理を作る過程から見せるか、どちらかだろうと。しかし、読み手にそれが伝わるかどうかは辛いところです。ましてレシピを理解させるとなると、本来のストーリーとは別のところへいってしまって、それもまた辛い。 池内 読者を退屈がらせないで、レシピを読ませないといけないでし
飢えた体験が食への豊かな想像力につながる 池内 食べ物というのは、人間にとって非常に生理的なものでしょう。読者がどういう食生活をした世代かによって、受け入れ方が全然違ってくるんじゃないのかな。 佐藤 いくらおいしそうに書いてあっても、それを読んだ人が、そこに出てくる食べ物自体を知らなければ、ピンとこないでしょうからね。 池内 たとえば、いま七〇代くらいの人たちは、幼い頃にひもじい思いをして育っています。篠田一士さんの『世界文学「食」紀行』は僕の愛読書の一つですが、これは古今東西の食べ物の出てくるシーンをアンソロジーしたものです。誰でもできそうなんですが、単に博識な人とか学者ではなくて、篠田さんみたいに、幼い頃に飢えた世代が作った本だから非常にリアルなんですね。一つはそういう飢えの体験がある人が食べ物のことを書く場合、もう一つは、うんと恵まれた人、育ちのいい人が、食べ物の味覚の微妙なところを
現代文学会2003年度大会 講演&トーク 小林恭二/佐藤亜紀 報告ページ ●佐藤亜紀 ――部数が下がっているとか、小説が冬の時代だ、とかいう問題は、(小説を)易しくすることではなく、むしろ難しくすることによってしか解決していかない―― 佐藤亜紀氏(以下、佐藤): ええと、「デジタル時代の文学を語る」、ということで、今、小林さんがお話にならなかった分野について、少しお話しておく必要があるんじゃないかと思います。 その分野というのは、一部の人たちの間で「小説の客を奪っているんじゃないか」と言われているゲームであるとか、そういうものに関する話をせざるを得ないわけですね。 私もそれほどたくさんテレビゲームをしているわけではないので、総括的なこと、というのはあんまり申し上げられないんですけど、作家の立場から言わせてもらうとですね、うーん、まあ、はっきり言って「ゲームに流れる人はゲームに流れてください
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