【読売新聞】 北朝鮮の核・ミサイル開発に懸念が高まっている。核兵器の恐ろしさとは何だろうか。熱線と爆風による大規模な殺傷と破壊、そして放射能汚染はもちろん深刻な脅威だ。しかし、はるか上空の核爆発で地上に起きる「電気がない世界」の恐怖
【読売新聞】 北朝鮮の核・ミサイル開発に懸念が高まっている。核兵器の恐ろしさとは何だろうか。熱線と爆風による大規模な殺傷と破壊、そして放射能汚染はもちろん深刻な脅威だ。しかし、はるか上空の核爆発で地上に起きる「電気がない世界」の恐怖
「敬老の日」の2011年9月19日、ニコニコ生放送では敬老の日特別番組「R75~次世代へのたすき~」が放送された。番組では、"R75"世代を代表して4人のゲストが招かれ、戦争体験や高度経済成長期の思い出を語った。司会の角谷浩一氏から、戦争体験について聞かれた穐山和子さん(75歳)は、疎開先から「ランドセルにお餅やお米を入れて帰った」とき、「東京の空襲で、座敷から自宅にあった工場の台の下まで、爆風で飛ばされた」という経験を語った。 1936(昭和11)年生まれで太平洋戦争中まだ幼かったという穐山さんは、栃木県に疎開していた。そこが山奥だっただけに、防空壕はあったものの危機感を抱くまでには至らなかったという。「空襲があっても、そこに布団とラジオを持ちこんで、(戦争という)実感がなくて、遊んでいるようだった」と、当時を振り返る。そんな穐山さんが一度東京に戻ったときのことだ。 「ランドセルのなかに
普段はこの手の本はお奨めしないのですが、戦場で死と向き合う男が、故郷に置いてきた妊娠中の妻と幼い息子を思い、やり取りする手紙をまとめたこの本が、凄く訴えかけてくるものが強かったもので。 本来であればネタバレをするべきではありませんが、この本は結末を知ってから読むべきだと思います。手紙の出し手である石田光治少尉は、日中事変へと駆り出された挙句、遠い戦地で戦死してしまいます。 死を悟った石田少尉の悲痛で、それでいて、身を案ずる妻を逆に勇気付けようとする深い愛情には、もちろん心を打たれます。読み進めるだけで、物語が死へと収斂していくことが分かっていながら、ここまで字の温もりを感じさせる強さを感じ、引き込まれるというよりは、真っ白になります。 二度読んでください。そも、石田少尉は戦争の中にあって自らの命を危険に晒し、また、苛烈を極め、戦闘が拡大し激しくなっていく中で失っていく戦友、戦地を守る責任感
1.イラク石油の歴史 (2)フセイン体制化での石油開発(前回 のつづき) イラクにとっては石油輸出の続行は大砲のためにもバターのためにも死活問題であった。イラクという国の海岸線は非常に短い。ペルシア湾岸にわずかに面しているに過ぎない。戦争が始まると、すぐにペルシア湾岸からの石油の輸出が止まった。イラク原油はシリア経由のパイプ・ラインでも輸出されていたが、シリアがイランと同盟関係を深めると、このパイプ・ラインは閉鎖されてしまった。イラクは北のトルコへ抜けるパイプ・ラインで輸出を続けた。また能率は悪かったが、タンク・ローリーでヨルダン経由での輸出が行なわれた。イラクからヨルダンの首都アンマンを結ぶハイウエィ、通称バグダッド街道がイラクの命綱であった。首都アンマンから南のアカバの間も一直線のハイウェイが結んでいた。アカバは紅海に抜けるヨルダンの唯一の港である。イラクからアカバへとタンク・ローリー
このところ、江藤淳の痛みのようなことをぼんやりと考える。彼も自決だった。そして、その自決は三島由紀夫と同質でもあったかもしれない。 江藤は32年生まれ。昭和7年だ。三島は1925年(大正14年)。私の父が26年生まれ。 父は大病で結果的に戦死を免れ、私がこの世にいる。彼の兄、つまり私の伯父はインパールで戦死した。つまり、殺された。父は私をその兄に似ていると見ていたふしがある。私は伯父の転生かもしれない(冗談ですよもちろん)。 三島も実質戦争を免れた。そのことを内心、忸怩たる思いがあっただろう。彼は団塊世代の上にあたり、GHQの所作も見てきたし、戦後日本の欺瞞も見ていた。耐えられなかったというのはわからないでもないが、それより、自身の確立がGHQなるものとそれに結託する日本的なるものに耐え難かったのだろう、というのはわからないでもない。天皇崇拝みたいなものは、偽悪的に言えば、そうした仮託の偽
先日トゥイッターで、蛍雪時代、ラ講、百万人の英語といった話を少しして、「そういえば、J・B・ハリス先生は日本人」という話を投げたら、驚かれた人がいた。2004年にお亡くなりなったJ・B・ハリス先生の国籍は日本。戸籍名は平柳秀夫である。しかし、ハリス先生は産まれたときの英国籍の名前、James Bernard Harrisを自身のアイデンティティーとされていた。 英国人を父、日本人を母として1916(大正5)年9月4日、神戸に生まれ、ほどなく横浜に転居しそこで育った。震災後は米国に移り暮らし、12歳で日本に戻った。ジャーナリストであった父、Arthur Montague Harrisは、1933年、肺炎がもとで死去した。46歳だった。ハリス先生は当時16歳。残された母子は日本国籍を選び、このとき「平柳秀夫」となった。日本語は話せるものの漢字などは十分に読めず、軍人訓などを暗唱させられる兵役で
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