君が代
「君が代」とは・「君が代」の意味
「君が代」とは「国旗及び国歌に関する法律」で定められた日本の国歌である。世界最短の国歌としても知られている。戦争中およびそれ以前の日本を想起させるとして君が代は怖い曲であるという意見も少なくない。一方で、オリエンタルな響きと緩やかなテンポが日本の美しさや古い伝統を感じさせる、といった好意的な海外の反応もある。君が代は古い歴史を持つ国歌であると語られることがあるが、それは正しい理解ではない。君が代の元となったと考えられる詩歌は10世紀のものであるため、歌詞の元になったものは古く歴史があるとはいえるだろう。しかし、国歌(礼式曲)としての君が代の原型は明治期に誕生しているので、それほど歴史が古いものではない。誕生後も多くの手直しがあった。このように君が代には多くの誤解・風説・俗説が伝えられている。例えば以下のようなものだ。
・君が代にはスコットランド民謡の原曲がある
・君が代は恋の歌である
・ヘブライ語で書かれている
・君が代には隠された歌詞がある
君が代が初めて楽曲として登場したのは、1870年(明治3年)のことである。礼式曲として、イギリス陸軍軍楽隊長J. W. フェントン(John William Fenton)によって作曲された。だが、この礼式曲は日本人には受け入れられず、その後1880年(明治13年)、ドイツ人の音楽教師フランツ・エッケルト(Franz Eckert)の手で、西洋和声を用いて再編曲されることになった。
以上のことから、君が代はスコットランド民謡が原曲ではないといえる。君が代にスコットランド民謡の原曲があるとの風説や俗説は、当時の音楽教育が元になったと考えられている。西洋音楽の教育のために来日していたアメリカ人音楽教育家ルーサー・ホワイティング・メーソン(Luther Whiting Mason)が、西洋音楽の普及のためにスコットランド民謡やアイルランドの民謡を数多く教育に用いたからだ。なお、その教育材料として持ち込まれたスコットランド民謡の1つが「蛍の光(原曲:オールド・ラング・サイン、Auld Lang Syne)」である。
君が代が恋の歌であるという話も風説や俗説の類にすぎない。君が代の歌詞の元になったであろう言葉は、さまざまな文献や詩歌に用いられてきた。その中で最も古いと考えられているのは、古今和歌集に載せられた作者不明の「わが君は千代にましませさざれ石のいはほとなりて苔むすまでに」という歌だ。この歌は賀歌に限らず朗詠などさまざまな諸文芸に引用されてきた。例えば「曽我物語」「義経記」「蓬莱山」などだ。いずれにおいても君が代の歌詞の元となった部分が、恋や恋愛を歌ったものとは解されていない。古今和歌集でも賀歌として収録されており恋歌としては取り扱っていない。
ただし、安土桃山時代の隆達は「君が代は千代に八千代に」を恋の小唄として用いており、江戸時代初期にはこれが「隆達節」として流行歌謡となった。また、「君」は天皇の治世や御前においては天皇(帝)を指すが、それ以外の者に対しては敬愛すべき他者を広く指し示す言葉だ。これらのことが合わさり、国歌である君が代は恋あるいは恋愛の歌である、といった風説や俗説が広まったものと考えられる。
君が代の歌詞がヘブライ語で書かれているという噂もある。ヘブライ語はユダヤ人が用いてきた言語だ。君が代の歌詞をヘブライ語に翻訳すると「神をたたえよ 神に選ばれた民として喜べ 残された人々救われよ 神の預言は成就した これを全知に知らしめよ」という意味になるとされている。これは、君が代の歌詞を日本語に近い響きを持ったヘブライ語の言葉に置き換え、それを再度日本語に翻訳したにすぎない。正しくヘブライ語に翻訳されたわけではなく、風説や俗説の類である。
君が代には隠された歌詞があるという風説や俗説もあるが、これは一概に誤りとはいえないだろう。現在の君が代は、1999年(平成11年)に「国旗及び国歌に関する法律」で法制化され、同法令別記第二に記載されている1番だけである。だが、明治期における君が代は現代のものとは異なっていたからだ。1881年(明治14年)に編集され、翌年出版された日本最初の唱歌の教科書「小学唱歌集 初編」で紹介されている君が代は、歌詞・曲ともに現代のものと違っており、当初の小学校ではこちらが教えられていた。
歌詞
君が代は ちよにやちよに
さゞれいしの 巌となりて
こけのむすまで うごきなく
常磐(ときは)かきはに かぎりもあらじ
歌詞 続き
君が代は 千尋(ちひろ)の底の
さゞれいしの 鵜のゐる磯と
あらはるゝまで かぎりなき
みよの栄を ほぎたてまつる
1985年(昭和60年)2月26日の閣議において、松永光文部大臣は君が代には3番まであると報告をしている。その歌詞は以下の通りである。
歌詞 1番
君が代は 千代に八千代に さゞれ石の
巌となりて 苔の生(む)すまで
歌詞 2番
君が代は 千尋の底の さゞれ石の
鵜のゐる磯と あらはるるまで
歌詞 3番
君が代は 限りもあらじ 長浜の
真砂の数は よみつくすとも
このうち2番は源頼政のよんだ歌、3番は光孝天皇の大嘗祭に奉られた歌と伝えられている。2番は「天皇(帝)の御代が、海の底の小石が集り、鵺の住む浅瀬に磯の岩なり現れるまで、長く続きますように」という意味。源頼政には鵺退治の伝説が残っている。3番は「天皇(帝)の御代は限りなく続くことでしょう。たとえ、長浜の砂を数え尽くしたとしても」という意味だ。長浜とは当時の伊勢国のどこかにあった浜でないかと考えられている。
「君が代」の語源・由来
君が代の語源は、10世紀初頭に作られた勅撰和歌集「古今和歌集」にある。よみ人知らず、題名知らずの歌だ。歌の意味については諸説あるが、歌が作られた当初は「祝福を受ける人の寿命」を意味していたと考えられている。後世になり、君が代の意味は天皇の治世を指すと捉えられるようになった。それにつれて、古今和歌集の歌も、年賀に天皇の長寿を祝福したもの、と解釈されるように変化していった。ただし、国歌の歌詞としての君が代は、古今和歌集が参考にしたわけではない。国歌としての君が代の語源は、16世紀の薩摩琵琶の「蓬莱山」だとされている。「蓬莱山」は、薩摩国の戦国武将島津忠良(日新斎)が、武士の倫理を示した自身の歌に曲を付けさせ、琵琶歌「いろは歌」として普及させたものである。教育としても用いられていたため、薩摩藩士のほとんどが「蓬莱山」を歌うことができたそうだ。
「蓬莱山」の一部が、君が代の歌詞として採用された経緯は次のとおりだ。ジョン・ウィリアム・フェントンは、日本に国歌もしくは儀礼音楽を用意すべきと提言した。それに対して、薩摩藩砲兵大隊長であった大山弥助(大山巌)は、「蓬莱山」に記されている君が代の部分を歌詞として用いることを提案した。果たしてこれが採用され、国歌「君が代」の歌詞となったとされている。
ただし、フェントンの接遇係を務めた原田宗介によると、歌詞が決まるまでの経緯は、上記のものと異なる。原田が国歌あるいは礼式曲の作成について、軍上層部に問い合わせをすると、取り合ってはもらえなかった。そしてフェントンの提案については、接遇係に一任されることになった。その際に、静岡藩士であった乙骨太郎乙(おつこつ たろうおつ)は、大奥における正月の儀式「おさざれ石」で用いられている「君が代は千代に八千代にさざれ石の」「いはほとなりて苔のむすまで」という、上下に別れた古歌が歌詞にふさわしいと提案する。原田は「蓬莱山」と共通するこの歌を、歌詞としてフェントンに提案した。
なお、国歌として君が代が認められるにはさらに時間がかかる。当時の陸軍はじめ多くの反対意見があったからだ。1897年(明治30年)11月19日に陸軍省達第153号が出される。この通達には、「君が代」ハ陛下及皇族ニ対シ奉ル時に用ユ、と記されていた。この時点で初めて君が代は国歌として採用されることとなった。
きみ‐が‐よ【君が代】
君が代
君が代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 01:42 UTC 版)
大山は日本国歌となる君が代の制定にも関わっているとされることがあるが、曾孫大山格は巌が国歌制定に関わったという話は大山家に全く伝わっていないとしている。 大山巌自身の談話によれば、明治3年の末、もしくは4年の始めごろ(グレゴリオ暦では1871年)、御親兵における薩摩バンド(薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンは、国歌あるいは儀礼音楽的な物があれば、それから指導すると述べた。これを薩摩バンド隊員が当時の藩砲兵隊長であった大山に報告した際、大隊長の野津鎮雄と薩摩藩大参事の大迫貞清も臨席していた。この際に大山は「(イギリス国歌のように)宜しく宝祚の隆昌天壌無窮ならむことを祈り奉れる歌を撰むべきである」と述べ、愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」を提案したところ、野津も大迫も賛成した。大山はその後どのような経緯を経て「君が代」が国歌となったのかは知らないと述べている。ただし「君が代」を提案したのは静岡藩士の乙骨太郎乙であるという説も存在している。
※この「君が代」の解説は、「大山巌」の解説の一部です。
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