古代都市
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ナビゲーションに移動 検索に移動『古代都市』(こだいとし、フランス語: La Cité antique)は、1864年にストラスブールで出版された、フランスの歴史家フュステル・ド・クーランジュの最も有名な著作。著者は、デカルト的アプローチに依りながら[1]、古代の歴史家や詩人たちが遺した古代についてテキストに基づいて、古代ギリシアや古代ローマの社会における最初期の諸制度の起源を分析している。
概要
著者はこの本の序文で、古代の人々の習慣を検討する際に、現代の習慣を参照してしまうという誤りを犯さないよう、読者に警告し、古代の人々を研究するためには、われわれが偏見を捨て、事実に基づくことが求められるのだと述べている。
フュステル・ド・クーランジュは、古代のギリシア人やローマ人たちの諸制度の基盤に、宗教と信仰があったと考えた。すべての一族には、それぞれの信仰と神があった。財産や相続などをめぐる規則を司るのは、この小さなカルトであった。やがて時が経ち、人々の間に秩序が必要となり、一貫した規則が求められるようになり、それが及ぶ対象も徐々により広範囲に及ぶようになってゆき、遂にはひとつの都市国家全体を包括するまでに至った。したがって、都市の起源も宗教に根ざしており、ルストラティオ (Lustration) のように国勢調査と連動して定期的に実施される清祓の儀式や、地元の神々を讃えて誰もが参加して行われる祝祭の饗宴などが、それを証明している。
しかし、当初の法律は、貴族に特権を認めていたため、やがて平民の不満を呼び、遂には社会革命が起こって社会の福祉が宗教の新しい基盤となって都市の生活を再建し、キリスト教が普及するまでそれが続いた。
日本語訳
脚注
- ^ 後年フュステルは、「ジュール・シモン (Jules Simon) がデカルトの『方法序説』を30年ほど前に説明してくれたことが、私のすべての著作の始まりで、私は彼が手ほどきをしてくれたデカルト的懐疑の方法を歴史に応用してみたのである」と述べている。 (J. W. Thompson, A History of Historical Writing, vol. 2, New York: Macmillan, 1942, p. 363)
外部リンク
- Fustel de Coulanges, La Cité antique - remacle.org(2011年11月16日閲覧)
古代都市
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「ラトポリス」という地名はナイルパーチの学名 Lates niloticus と関係が深い。ナイルパーチはナイル川にすむ52種の魚の中で最も大きく、古代にはこの近辺に多数生息していた。彫刻の題材としてもよく見られ、女神ネイトの象徴の1つとして、王権や神性を表す卵形の盾または環で囲んで描かれることが多かった。生贄として捧げられた Lates niloticus は町の西にある墓地に埋葬された。 ラトポリスの守護神は、クヌム、ネイトと彼らの子である Hak の3柱だったと見られている。エスナの神殿はこの3柱の神々に捧げられたもので、その建築の美しさと壮大さは特筆に値する。建材には赤みがかった砂岩が使われており、6本の柱が4列並んだポルチコのそれぞれの柱の柱頭はハスの葉形で、しかも柱ごとに柱頭の形状が微妙に異なる。 エスナから南に12キロメートルほど行ったところにほぼ同時代の神殿が見つかっているが、その上に町があるため発掘調査されていない。 エスナから北に2キロメートルほど行ったところにもラトポリスの3柱の守護神の小神殿がある(現在は el-Dayr という村になっている)。その近くにはプトレマイオス3世の時代(紀元前246年-221年)の黄道十二星座の小神殿もあった。しかし後者の建物は19世紀に新たな運河を建設する際に取り壊された。エスナの神殿は19世紀中ごろに中に充満していた土や屑を取り除かれ、綿の倉庫として使われていた。 神殿の入口の脇柱(現状の土台部分)はトトメス2世(エジプト第18王朝)のものだが、それ以外の部分は全てプトレマイオス朝やローマ帝国時代のものである。プトレマイオス3世は上エジプトで多くの神殿を修復している。ラトポリスの神殿の壁にもその姿が描かれており、その後ろでライオンがプトレマイオス3世の敵に襲いかかろうとしている。プトレマイオス5世の名も戸口に刻まれている。遺跡の大きさは印象的だが、その彫刻やヒエログリフはエジプト美術が衰退しつつあったことを示している。西側の壁にはプトレマイオス6世とプトレマイオス8世のレリーフがある。中央に1つだけ入口がある様式はエドフの神殿に似ている。この現在の姿で再建されたのはクラウディウス帝の治世(41年-54年)以降のことで、ウェスパシアヌス帝のころに完成した。ウェスパシアヌス帝の名や肩書きは入口の奉納銘に刻まれている。入口の天井にはやや大きな黄道十二宮図がある。皇帝ゲタの名もヒエログリフで書かれているが、部分的に兄で暗殺者のカラカラが消している。それでもこの神殿に書かれた最後の皇帝の名であり、読みやすい。ローマ人たちは神殿の再建にあたって、従来の神殿の基礎部分から除去したと見られている。埠頭と神殿とを結ぶ儀礼用の道はこのころにはなくなっていたと見られる。埠頭にはマルクス・アウレリウス・アントニヌスのカルトゥーシュがある。 町の西にある墓地には Lates niloticus(ナイルパーチ)が埋葬されている。また、エジプト中王国時代から末期王朝までの人間の墓もある。
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「古代都市」の例文・使い方・用例・文例
- その発掘により古代都市の遺跡が見つかった
- ビザンチン帝国の、ビザンチン帝国に関する、または、ビザンチン帝国に特徴的な、あるいは、ビザンチウムの古代都市
- 小アジアの古代都市ニカイアの、または、小アジアの古代都市ニカイアに関する
- 古代都市トロイまたはその住民の、あるいは、古代都市トロイまたはその住民に関する
- ローマ人によって創設された古代都市
- 西ギリシャの岬の古代都市
- ギリシア南東部の古代都市
- パルナッソス山の斜面にあったギリシアの古代都市
- 古代都市はギリシャ南部にある
- 小アジアの古代都市でトロイア戦争の戦場
- パレスチナ中央の古代都市で、紀元前9世紀にイスラエルの北ヘブライの王国の首都として設立された
- ボスポラス海峡に臨む、ギリシアが創設した古代都市
- ナポリの南東にあった古代都市でウェスウィウス山の噴火で埋没
- 古代都市
- エジプトのナイル川沿岸の古代都市
- カイロの反対側のナイル川西岸にあったエジプトの古代都市
- エジプトのナイル川に面した古代都市(カイロの南)
- イラン南東部の古代都市
- 北西イランの古代都市
- 現在のチュニス付近のアフリカ北岸にあった古代都市国家
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