ISSN 2434-4710
The Bulletin of the School of Cultural and Social Studies
Tokai University
Issue 4, October 2020
【Articles】
A Vitreous Medallion from the Tomb of Khnumit, Middle Kingdom
1
- Its Byblite Connection and a Hypothesis of Manufacture -
YAMAHANA Kyoko
“Life”History Research Methods and Environment
25
: Alain Corbin and Digital Archives
MIZUSHIMA Hisamitsu
【Research Notes】
FDI Type Urbanization and Development of Commercial Area in Indonesia
39
: In the Case of Karawang Regency, West Java
NAITO Tagayasu
Les Églises Romanes dans le Département du Gard
61
; La Vallée de la Cèze.
NAKAGAWA Hisashi
【Research Report】
Report on a Research Exhibition of Present Cults of Inari (a God of Harvests)
83
SUGIMOTO Kiyoshi
【Translation】
A Translation of Dora Thorne by Charlotte M. Brame, 18
HORI Keiko
102
DO1 10 18995/2434471041
論
文 (査 読 付 )
古代 エ ジプ ト中王 国時代 クヌ ム イ ト墓 出 土 の
ガ ラス質 メダ リオ ン
― ビブ ロス との交 易 関係 と物 質 の解 明 を中心 と して一
rJrlEH+
A Vitreous Medallion from the Tomb of Khnumit, Middle Kingdom
-Its Byblite Connection and a Hypothesis of Manufacture-
YAMAHANAKyoko
Abstract
ln November 2019, the authOr had a chance to examine one of the jewelry
(SR6009,CG53018)ofKhnumit from Dahshur as a part ofajoint program between
Egyptian and」 apanese research on ancient craft techn010gyI In this article,the
author would like to focus On a medalliOn2 0f Khnumit with a cow representation
(SR6009・
5).
ThemaJorityofKhumirsjewelryindicatesthattheywereperhapsbroughtinto
Egypt iOm Outside The cow's depiction of a medalliOn alsO indicates that it was
likely a foreign manufacture.
BOth textual and epigraphic evidence during the 12th to 13th dynasties show
that there seems to have been active trade between Egypt and the eastern
Mediterranean cOastal areas through Byblos,a city strongly influenced by NIiddle
KIngdom Egypt.A stylistic analysis on the rosette and eight‐
pointed stars tells that
their motifs came ttom Mesopotamia and spread throughout the eastern
Mediterranean as attributes of goddess lshtar(Astarte)by the Middle Bronze Age.
On the Other hand,the circular geometric pattern enclosed in eight・ pointed star
gold ornament indicates the Cretan origin The cOmbination of rOsette, eight・
pointed stars, and circular geometric patterns scarcely occur in Mesopotamia or
Crete,butin the■ evant The author thus speculates the Khnumit's ornament with
a cow's representation depicts a goddess Hathor‐
Astarte,a maJor goddess ofByblos
The origin Ofthe particular medallion might be Byblos
There is yet another problem to claritt C10Ser look Of the cow's medallion
第
4号 (2020年 10月
)
filEH.+
revealed that there were two layers, the upper layer being vitreous, and the lower
layer being unidentified. A scientific analysis with a portable XRF was performed
and revealed that the vitreous surface was made of almost pure silica. Thus the
surface layer was most probably made of pure quartz. On the other hand, the
material of the bottom layer with a representation of a cow was unidentified. A
microscopic study was conducted, and the medallion was compared with other
Middle Kingdom faience, a modern replicated faience and a New Kingdom glass.
The overall appearance of Khnumit's cow medallion resembled that of faience. The
author, therefore, concludes that the most potential underlying material of the
medallion is faience.
In sum, the study on Khnumit's jewelry (SR6009-5) reveals that Byblos was
a
possible manufacturing place, and the cow's medallion was made of a quartz layer
on top ofthe colored faience layer.
1.序
章
1‑1 研究の概 要 (図 1、 図 2)
2019年 11月 にエ ジプ トのカ イ ロ博物館 にて遺物調 査 の機 会 を得 た
3。
この調査 は古代 エ ジプ
トの金 属 工芸 技術 を研 究す るた めに複数 の 黄金製 品 を対象 と して行 われ たが 、本稿 で はそ の う
ち、SR6009‐ 5の 登録番 号4を 持 つ 遺物 に焦点 を当てた。
この装飾 品は中王国時代第 12王 朝 の王 ア メ ンエ ムハ ト2世 (紀 元前 1877〜 1842年 頃 )5の
ピラ ミッ ド複合体 に埋 葬 され た 「王 の 娘」の称 号 を持 つ クヌムイ ト6の 墓 か ら出土 して い る。ク
ヌ ムイ トの 墓 は 1895年 2月 にデ ・ モル ガ ン(de Morgan)7に よって ダハ シ ュール のア メ ンヘ ム
ハ ト2世 の ピラ ミッ ド西側 と周壁 との間の地 下 6mの 地 点で未 盗掘 の状態 で発 見 され た。 ア メ
ンエ ムハ ト2世 の ピラ ミッ ド複合体 には 4人 の 「王の娘」 の 称 号 を持 つ クヌ ム イ ト、イ タ 、イ
タ・ ウェ レ ト、サ ァ ト・ ハ トホル ・ メ リ トが埋 葬 され てお り、前者 3人 の 墓 か らは 中王 国時代
を代表す る黄金製 の装飾 品が 出土 してい る。デ 。モル ガ ンは クヌ ムイ ト墓 よ り出土 した 黄金製
品 を 61項 目挙 げて い る8が 、 これ らの うち ウセ ク広 襟飾 りや ブ レス レ ッ トには エ ジプ ト古来 の
意 匠 が使 われ てい る ものが あ る一 方 、非 エ ジプ ト的 な意 匠 あ るい は工芸技法 が 見 られ る金 細 工
製 品 も多 い (CG52865、
52975‐ 9)。 そ の 中で も象嵌 七宝 に よる と思 われ る襟飾 り
(JE31113)
や 、粒金細 工の ネ ック レス な どは 当時 の西ア ジアにあつた工 芸技術 9を 駆使 して 作 られ た もの で
あ り、古代 エ ジプ トにお いては初現 にあた る。
図 1の
SR6009に は黄金製 鳥形 ビー ズ、蝶形 、花弁 文 と星形 文 の粒金細 工 、 ガ ラス質 の メダ
リオ ン、五亡星 粒金 細 工 、貝形 、 ハエ を象 つた と思 われ る逆 ハ ー ト形装飾 品が あ る。 これ らの
中にはネ ック レスの よ うに鎖 で繋 がれ てい る もの もあ るが、鎖 もな く本来 の 用途 が不 明な もの
もあ る。 特筆す べ きは、鎖 を含 めて 、図 1の 装飾 品 の 意 匠 はそれ まで のエ ジプ トには存在 して
い なか つた ので あ る。 つ ま り、SR6009の 黄金製装飾 品は ほぼ全 てが エ ジプ トの 外部 か らもた
2
東海大学紀要文化社会学部
古代エジプ ト中王国時代クヌムイ ト墓出土の
ガラス質メダリオン
らされ た 、あるいは 非 エ ジプ ト人 の職 人 に よって作 られ た と考 えて よい。 王族 の墓 か らこの よ
うな非 エ ジプ ト的意 匠 を も つた装飾 品が 出土 した事 実は、 当時 の エ ジプ トと外部地 域 との間 の
交流 が少 なか らず行 われ ていた こ とが推測 で きる。 中王 国時代 は後 の 新 王 国時代 ほ ど歴 史的 な
記録 が 充実 してい な いた め、長 い 間 、研 究 が進 んで い なか ったが 、近年 の新 史料 の発 見や 考古
学資料 の 再考察 に よつて 、第 1中 間期 か ら中王国時 代 にか けての国内の政 治的情勢や 対外 関係
な どが 徐 々 に明 らか に な つ て い る (Moreno Garcia,2017;Cline and Har五
Willems,2014)。
s‐
Cline,1998;
彼 らの研 究 に よる と、 中王 国時代 の統 一 王朝 が始 ま る以前 よ り、紅海 沿岸 の
メル サ または ワデ ィ・ ガ ワシ ス (Mersa/Wadi Gawasis)や デル タのテル・エル・ ダバ ァ (Tell
el‐
Dab'a)な どを拠 点 と して 、南 方 のヌ ビア 地域 、そ して 北方 の レバ ン トとの交易 が行 われ て
いた (MorenO Garcia,2017:92)。
南方 との主要 な交易品は金 、象牙 、黒檀 、香料 な どで 、北
方 か らは羊毛の織物 (ibid.,:119‐ 120)、 銅 、 トル コ石 、 ラ ピス ラ ズ リ、没薬 、杉 (材 木 )な ど
が もた らされ ていた。 しか し、南方 か らエ ジプ トに搬入 され るの は、加 工前 の原材料 で あ る。
本稿 で考察 を行 うメダ リオ ン と伴 出す る黄金製装飾 品は、 当時 の エ ジプ トにはない加 工技術 を
持 って 細 工 され た もので あ るた め、原材 料 供給 地 で あ った 南方 よ りも、北方 の レバ ン ト10を 含
む東 地 中海 沿岸 地域 を加 工地 の候 補 と して考 え るのが妥 当で あろ うと考 える。
図
1 クヌムイ トの 黄 金製 副葬 品 カイ ロ エ ジプ ト博
物 館 収 蔵 番 号 SR6009 (筆 者 撮 影 )photograph by
図 2 中央メダ リオ ン部分 クローズア ッ
プ (筆 者撮影)
courtesy ofthe Egyptian Museum,Cairo
1‑2 調査 方法
まず第 1章 では考古資料や 図像 資料 を もとに、当時 のエ ジプ トと周辺地 域 につ いて検 証す る。
ここで は第 12王 朝 ア メンエ ムハ ト2世 の「メンフ ィ ス碑」、トー ドの メンチ ュ神殿 へ の奉納物 、
セ ン ウセル ト2世 治 下 の上 エ ジプ ト第 16ノ モ ス (オ リックス州 )と ナイル川 東部 の砂漠 地域
を治 めた知 事で あ つた クヌ ム ヘ テ プ 2世 の 墓壁 画 な どか ら、第 12〜 第 13王 朝 の エ ジプ トと東
地 中海 沿岸 地域 との交流 を探 る。 次 に、第 2章 では クヌ ムイ トの メダ リオ ン (SR6009‐
5)(図
2)を 詳細 に調 査 し、この 図像 の意 味お よびそ こか ら類推 で きるエ ジプ トと外 部地域 との関連 を
第 4号 (2020年 10月
)
山花京子
検討す る。 そ して 、考察 を牛 の 図像 だ けではな く、SR6009‐ 5を 構成す るす べ ての花形 文 と星
形 文 の 装飾 品 につ いて も視 野 を広 げ、そ の 文様 の特 徴 をエ ジプ ト以外 の東地 中海 沿岸 地域 と比
較 しなが ら述 べ 、果 た して この メ ダ リオ ンの 起源 が どこにあ るのか を推 察す る。次 に第 3章 で
は、
理 化学的 な分析 結果 を参考 に しなが ら、メダ リオ ンの材 質 と製法 につ いて試 論 を述 べ たい。
2.中 王 国 時 代 の 外 部 地 域
との 交 流
2‑1 エ ジプ トと ビブ ロス
古 王 国時代 が 終わ り、諸侯林 立 の第 1中 間期 には エ ジプ トと外 部地域 との コ ンタク トは非 常
に限定的 であった。 しか し、そ の 中で もヘ ラク レオ ポ リス に拠 点 を置 く勢 力 はアイ ン・ ス フナ
(Ayn Sukhna)な どの港湾 を利 用 し、対外 交易 を積極 的 に行 っていた と考 え られ てい る。そ の
後 、 メ ンチ ュヘ テプ に よ り国土が統一 され て 中 王 国時代 にな る と、 レバ ン トとの 交易 関係 は一
層 活性 化 され る。
当時 の 対外 関係 に つ いては 、 あま り多 くの記録 は存在 しない。 しか しなが ら、エ ジプ トと ビ
ブ ロス Hと の 関連 は、第 1中 間期 には成 立 してお り、 当時 の エ ジプ トは香料 で ある没薬 を ビブ
ロス か ら輸入 していた (Edel,2008:1743‐ 4,1814,ig.24)。
中王 国時代 には、 ビブ ロス は エ ジ
プ トの 従属国 と して東地 中海 沿岸及 び メ ソポ タ ミア地域 との交 易 を行 う際 の トレー デ ィ ングポ
ス トと見徴 され ていた。 古 バ ビロニア期 の マ リか ら出土 した楔形 文書 に よる と、エ ジプ トの 文
物 は g口Iay″
(「
ビブ ロス か らの 文物 」 の意 )と 記 され て いた こ とか ら、エ ジプ トは ビブ ロス を
仲介 と して外部地 域 と交易 を行 つていた こ とが推 測 で き る (Durand,1999;Ahrens,2011:35)。
ビブ ロスの 支配者 はエ ジプ ト語 で 「ビブ ロス の王子 」の 称 号 を持 ち、「王 家 の 墓」I〜 ⅡI墓 には
同時代 のア メンエ ムハ ト3世 や 4世 の銘 の あ る遺物 も遺 され ていた。彼 らの墓 の レイ ア ウ トは
第 12〜 13王 朝時代 の エ ジプ トの岩窟 墓 と類似 し、 出土 した 副葬 品は ビプ ロス的 な特徴 を残 し
な が ら も エ ジ プ トの 支 配 階 級 の 副 葬 品 と 強 い 相 関 を 示 し て い る (Montet,1928;
Kopetzky2012:393‐
4)。
この よ うなエ ジプ トと ビブ ロスの 密接 な関係 は少 な く とも第
12王 朝
か ら 13王 朝 の 間は続 いた よ うで あ る(Ryholt,1997:86‐ 90)。
上記 よ リエ ジプ トは ビブ ロス とい う港湾都 市 を交 易 の 中心地 と していた こ とがわか るが、そ
れ で は も う少 し年代 を狭 めて 第 12王 朝 の特 にアメ ンエ ムハ ト 2世 の治世 下 では どの よ うな国
12王 朝 時代 は、現在 の編年 では レバ ン トで
は 中期 青銅器 時代 IIA(Middle BrOnze Age I‐ IIA)に あた り、北 メ ソポ タ ミアでは古 ア ッシ
ギ リシア本 土で は 中期 ヘ ラデ ィ ック (Middle Helladic,紀 元
リア (紀 元前 1920‑1740年 頃
際関係 を築 いていたのだ ろ うか。 古代 エ ジプ ト第
I‐
)、
前
2090‑1625年 頃
紀 元前
2‐
2
)、
ク レタ島及 び キ クラデ ス諸 島では 中期 ミノア期 IAmiddle Minoan IA,
1950‑1750年 頃)に あた る
12。
ア メンエムハ ト2世 治世 下の エ ジプ トと外部地域 との交流
ア メ ンエ ムハ ト2世 の 治世 にお いて 西 ア ジア との関連 を記 したテ ク ス トに「メンフ ィス碑 13」
が あ る。碑 文 はア メ ンエ ムハ ト2世 の年代記 と考 え られ 、同 王の 治世 に行 われ た葬祭儀 礼 、宗
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古代エ ジプ ト中王国時代クヌムイ ト墓出土の
ガラス質メダリオン
教儀 式 、戦役 、そ して 諸外 国 か らの搬 入 品 Mリ ス トな どが時 系列 的 にま とめ られ てい る。碑 文
に よる と、「イ ウアイ」 と 「イ ア シ ィ」 の 土地 (現 在 の 地名 不 明 )を 破壊 し、ア ジア人 「ア ァム
ゥ15」 、武器 、 ラ ピス ラズ リ、銅 、金 な ど多 くの 戦利 品 を持 ち帰 つてい る。碑 文 にはその ほか に
もい くつ かの地 名 が 記 され てお り、エ ジプ ト語 で表 記 され た これ らの 地名 の 同定 には 多 くの研
究者 が試 論 を述 べ てい るが、東地 中海 沿岸 地域
(ク
レタ島、 アナ トリア 半島南 、 レバ ン ト地 方
を含 む地域 )を 指 し示 してい る とい う点 で一致 して い るlAltenmtller and Mousa,1991:Malek
and Quirke,1992:de Fidanza,1998:Marcs,2007)。 そ して 、 この 時代 にエ ジプ トヘ は東地 中海
沿岸 地域 か らの搬 入 品が もた らされ てい るだ けでは な く、 エ ジプ ト美術 の影 響 を受 けた工芸 品
も レバ ン トや ク レタ島な どで発 見 され お り、双 方 向 の コ ン タク トが あ った こ とが伺 え る。
ア メ ンエ ムハ ト2世 は上記 の東地 中海 沿岸地域 よ り持 ち帰 つた もの をエ ジプ トの神殿 に捧 げ
てお り、 アルマ ン トや トー ドの メ ンチ ュ神殿 には 「アジアの銅 」 で作 られ た器 を奉納 した こ と
が記録 され てい る (GrttetZky 2006:46;L」 yquist,2015:36D。 また 、 トー ドの メンチ ュ神殿
にはア メンエ ムハ ト2世 の銘 が あ る箱 が奉納 され てお り、内容物 には銀 器 や未加 工の ラ ピス ラ
ズ リ、印章 、浮彫 の施 され た ラ ピス ラ ズ リな どがあ った。 メ ンチ ュ神殿 の奉納物 の うち、印章
に施 され た図柄 は フ ァイ ス トス
(ク
レタ島 、Middle Minoan IB‐ Ⅱ)よ り発 見 され た もの と酷 似
し (Bisson de la Roque,1953:pl.21:Lン quiSt,2015:35fl、 銀器 の一 部 は ミケー ネ あ るいは
アナ トリアに起 源 を持 つ 形 で あろ うと推測 してい る (Lttyquist,2015:35t citing Da宙 s1977)。
つ ま り、 トー ドの メ ンチ ュ神殿 の 奉納物構成 は西 ア ジア
(ラ
ピス ラズ リ)、 アナ トリア (銀 器 )
及 び ク レタ (印 章 の一 部 )に て製 作 され た可能性 を示唆 してい る。 この事 実 は上記 のア メ ンエ
ム ハ ト2世 の戦記 に よ り推測 され た 当時 エ ジプ トと コ ンタク トが あ つ た地域 と合致す る こ とに
な る。
2‑3 セ ンウセル ト2世 治世 下の エ ジ プ トと外部地域 との交 流 (表 1)
ア メンエ ムハ ト 2世 の後継者 で あ るセ ン ウセル ト 2世 の治世 下 で上 エ ジプ ト第 16ノ モ ス と
ナイ ル 川東部 の砂漠 砂漠 地域 を治 めた知事 の クヌ ムヘ テ プ 2世 は、ベ ニ・ ハ サ ンに岩窟 墓 を造
営 してい るが、そ の墓 の 北側壁 面 に明 らか に非 エ ジプ ト的 な着衣 と面立 ちで表現 され た ア ジア
人 「ア ァム ウ」 が描 かれ てい る。 ア ァム ウは クヌ ムヘ テ プ 2世 の 面前 に立 ち、族長 と思 しき人
物イ ブ・ サ ァ (セ ム語 のア ビシ ャ レも しくはア ビシ ャイ 16)の 後 ろには レイ ヨ ウを連れ た男性
や武器 を持 つ 男性 、鮮 や かな衣 装 をま と う女性 、 ロバの 背 に載せ た子供 な どが描 かれ てい る。
族長 の前 にはエ ジプ ト人書記 がお り、彼 が持つ パ ピル ス紙 には シュ ウのア ジア人
デム ゥ ト
(メ
37人 が メ ス
スデ メ ト)(お そ らくは方鉛鉱 )を 持 参 した こ とが記 され てい る。
この壁 画 はセ ン ウセル ト2世 の治世 6年 目に到来 したア ジア人 た ちを描 いてお り、
東部砂漠 、
つ ま り紅海 に抜 け る重 要 な交易路 を掌握 してい るクヌ ムヘ テ プ 2世 に 対 して敵 意 を抱 いて い る
わ けで はな く、交易相 手 として エ ジプ トにや って きて い る との見解 もあ る。カ ム リンに よる と、
彼 らの一 団 の男性 た ちは 当時 はまだエ ジプ ト人 が使 用 していない武器 (斧 や槍 )を 持 ち、それ
らの うちダ ック ビル ア ック ス (ア ヒル 嘴状斧 )は レバ ン トの 中期青銅 器 時代
徴 を示 してい る(Kamrin,2013:pp.158‐
第 4号 (2020年 10月
)
161)。
(MBIIA)期 の特
さらに、 シュ ウ とい う地名 につい ては 、他 のエ
山花京子
ジプ ト語及 び セ ム語 資料 よ リ レバ ン ト南部
考 え られ てい る (Kamrin,2013:162)。
(ヨ
ル ダ ン川 東部 か ら死海 周辺 )の 民族 で あ ろ うと
彼 らが エ ジプ トにや って きた 目的 につ いて は、 これ ま
で交 易者説 (mebs,1922:ig.6,162二 五gs.120‐ 21;Wilson,1950:229)あ る いは外 国 の使節 団
⊂ ayes,1971:503‐ 4)説 が様 々 な研 究者 に よ り唱 え られ て きたが、 カム リンは彼 らは冶金 技術者
の集 団で はないか との推 察 を してい る。 中王 国時代 初頭 では 、 エ ジプ トの 冶金技術 は西 ア ジア
と比 較 して劣 つて いた こ とは確 か で 、西 ア ジアの 冶金技術 は先進 技術 を取 り入れ て軍事 大国 を
目指す エ ジプ トには喉 か ら手 が 出 るほ ど欲 しい もので あ った。壁 画 に示 され て い る ロバ の 背 に
は「革製 のふ い ご」が描 かれ てお り17(Kamrin,2013:160;Shea1981:222・ 23,Nibbi,1987:33)、
彼 らが持参 した 「方鉛鉱 」 は冶金 に とつて重 要 な鉱 物 で あ るため (Kamrin,20131163)、 これ
らのア ジア人 一 団 は冶金 技術者 と して エ ジプ トヘ や って きた人 々 な の ではないか と推 察 して い
るので あ る。 つ ま り、 当時 の エ ジプ トにや つて くる外 国人 は戦争捕虜 と して エ ジプ トヘ 連行 さ
れ る人 々 だ けで はな く、西 ア ジア よ り最 先端 の 技術 を持 ち、エ ジプ トヘ 国益 を もた らす た めに
入 国す る人 た ちの 存在 もあ つた こ とが推 察 され る。
また 、ア メンエ ムハ ト2世 よ り 2代 後 のセ ン ウセル ト3世 に仕 えた クヌムヘ テプ 3世 の ダハ
シュール のマ ス タバ 墓 よ り発 見 され た文 書 には、 ビブ ロス とゥラ ッザ の 間 の紛争 をエ ジプ トが
仲介 して 鎮 めた こ とが記録 され てい るfAllen,2008;Wimme■ 2005:131;Rainey 2006:281‐
2,
285)。
表
1
第 12王 朝 〜 13王 朝 時代 の エ ジプ トと東地 中海 沿岸 地域 との関連 がわか る遺物
王 の名
ア メ ンエ ムハ ト2世
イ タ (ア
c 2181‑
o 1961‑1917
BC
アメンエムハ ト雄
〜セ ンクセル ト2世
o 1919 ‑
1878 BC
ア メ ンエ ムハ ト2世
〜セ ン ウセ ル ト3世
lE, l8d
発 見場 所
タ)の 銘のあるスフィンクス
トー ドの メ ンチ ュ神 殿 よ り発 見 され た銀 器 や ラ ビス ラズ リ、印 章 な ど
1991BC
センクセル ト1世
ceo.
BC
アメンエムハ ト3世
発 見 され た遺 物
実年代
o 1859‑1813
カ トナ
トー ド
ア メ ンエ ムハ ト2世 の年 代 記
メンフィス
ハ ビジェフ ァの影像
テル・ヒジン
王妃 の頭部を持つスフ ィンクス片
ローマ近郊、おそらくテ ィポ リのハ
ドリアヌスの ヴィラ
ジ ェ フテ ィヘ テ プの 影 像
メギド
スパル トゥ (北 部 シ リア)や アラシア (キ プ ロス)な どとの金製 品、
布、油などの交易が記 されたア ッカ ド語 の根形 文書
テル・ シアメ
王銘付黒曜石 製壺
€ae\ll*og
黄金製自衛 り
(「 ピプロスの王子J「 イプシェムアピ」
がある)
スフィンクス
(ア
ピシェムの息子)の 表記
(レ
バント)
rlr)
ピプロス 「王家の基 I」
ネイラブ、ウガリト、ハツォール
ア メ ンエ ムハ ト4世
c 1813‑1805
BC
箱
ピプロス「王家 の墓
スフ ィンクス
ベイルー ト
ネフェルヘテプ1世
(第 13王 朝)
c 1720‑1711
ビプ ロ ス王 の浮 彫
I IJ
後 の新 王国時代による東地中海沿岸地域 とのかかわ りほど記録 がないため、中王国時代 にエ
ジプ トが同地域 とどれほ どの関わ りを持つていたのか不明な点が多 いが、第 12〜 13王 朝当時
のエ ジプ トの遺物 とエ ジプ ト美術に影響を受けた ものが東地中海沿岸地域に数多 く拡散 してい
る。表 1は 中王国時代第 12〜 13王 朝 の頃に東地中海沿岸地域でエ ジプ トの遺物 が発見 された
東海 大学紀要文化社会学部
古代エジプ ト中王国時代クヌムイ ト墓出土の
ガラス質メダリオン
例 、そ して エ ジプ トの文献資料 にお いて 言及 され てい る地域 を記 した。表 1で は 、 レバ ン トに
お いて 大型 のス フ ィ ンクス像 が合 計 4体 もエ ジプ ト外 で発 見 され てい る こ とがわか る。大型遺
物 の 出土 は、その土地 とエ ジプ トが 国家規模 で何 らか のつ なが りを持 っていた こ とを示唆 して
い る。
また、表 1か らは エ ジプ トと前述 の ビブ ロス との明確 な繋 が りが示 され てい るほか、メ ソポ
タ ミア との交 易路 上 にあ る都 市 カ トナや 、 アナ トリア半島や キプ ロス との 関連 も見 て取れ る。
3.ク ヌムイ トのメダ リオン
3‑1
クヌム イ トの 黄金 製装飾 品 (表 2)
黄金製 品が古代 エ ジプ トの 代名 詞 とみ な され るの は、新王 国時代第
18王 朝以降 で あ り、そ
れ以前 の 時代 にお いて 黄金 の使 用 は限定的 であ つた。 古 王 国時代 には神殿や 王 、 王族 の 葬祭 用
品に も数 えるほ ど しか使 用 され て い な い。 ところが 、中 王 国時代 第
12王 朝 の特 にア メンエ ム
ハ ト 1世 時代以 降、女性 の副葬 品 (生 前 の使用 につ いて は定かで はない)に 黄金製 品 が 目立 つ
よ うにな る。 中 王 国時代 の都 がお かれ たイチ ィ タ ウイ近郊 の リシ ュ トか ら発 見 され たア メ ンエ
ムハ ト 1世 時代 のセ ネ ブテ ィシの 墓 よ り発 見 され た装 飾 品 を皮切 りに、ダハ シュール のア メ ン
エ ムハ ト2世 の ピラ ミッ ド複 合 体 よ り上記 の 4人 の王 女 た ちの移 しい数 の黄金製装飾 品が発 見
され 、 王の 廷臣た ち の墓 か らも少 なか らず発 見 され るよ うにな る。 これ らの 黄金装飾 品 には、
パ ピル ス と ロー タ ス な どを組 み合 わせ た冠 、 ブ レス レ ッ トや ア ンク レ ッ トな ど、古王国時代 よ
り使 われ てい る伝 統 的 な形態 の 装飾 品以外 に 、ス カ ラベ 指輪や 花冠、胸飾 り (ペ ク トラル )、 ペ
ン ダ ン トな どの新 た な形態 が加 わ る。 そ して 、それ らの 新 た な形態 の装飾 品 にはそれ までエ ジ
プ トに存在 していなか った粒金 細 工 、象嵌 細 工 な どを施 した所謂 「舶 来」 の工 芸技術 の粋 を極
めた ものが 多 くあ らわれ てい る。
クヌ ムイ トの 時代 か ら約
墓 か ら出土 した副 葬 品 (表
50年 後 のセ ン ウセル ト 3世 の王 妃 で あ つた メ レ ト (メ レレ ト)の
2)に は 二枚 貝 を模 した 装飾 品が 7枚 あ る。 そ の うち、象嵌 細 工の
施 され てい る 1枚 18は 上述 の ビブ ロス 王 墓 (Royal Tomb Ⅱ)よ り出土 してい る貝形 のペ ン ダ ン
ト19と 酷似 してい る。ビブ ロスの ペ ン ダ ン トは メ レ トの もの と同様 、大型 二枚 員 を模 してお り、
いずれ も地金 を金線 で仕 切 つて象嵌
(ク
ロ ワゾンネ )を 施 してい る。 メ レ トの二枚 貝 の 装飾 は
殻頂部分 にエ ジプ トの伝 統 的 な ロー タ ス文様 、そ して外周 にはデ フ ォル メ され た花弁文 が赤 褐
色 、 (青 )緑 、濃紺 の 3色 の 貴石 で象嵌 され て い る。 一 方 、 ビプ ロス 王墓 (Royal Tomb Ⅱ)よ
り出土 した 黄金製 二 枚 貝 の象嵌細 工は色 使 いが メ レ トの もの と全 く同 じあ る。 貝 の外周 には連
続 七宝 文 (後 述 参照 )の 象嵌 が施 され 、内側 には王権 の 象徴 で あ るハ ヤブサ、 日輪 、 ウラエ ウ
ス 、そ して カル トゥー シュ内にはイ プ シェムア ビ とい うビブ ロス の 支配者 の名 が 同 じく赤褐 色 、
(青 )緑 、濃紺 の
3色 の象嵌 細 工で 表現 され てい る。 この よ うな黄金製 二枚 員 の象嵌 細 工は エ
ジプ ト (ダ ハ シュール )と ビブ ロス に しか例 が な い。 当時 の エ ジプ ト王 宮 と ビブ ロスの 支配者
との緊密 な関係 が示 され てい るが 、特 に ビブ ロス 出土 の もの につい ては 、 エ ジプ トか ら ビブ ロ
スヘ の贈物 とは考 えに くい。 なぜ な らば、 ビブ ロスの 当該 装飾 品にはエ ジプ ト風 のモ チ ー フが
第 4号 (2020年 10月
)
山花京子
使 われ て い るが 、例 え ば本 来 な らば 図像 の 最 も上 に配 置 され る べ き 日輪 が 、 ビブ ロス の 例 で は
ウラエ ウ スの胴 体 の 脇 に置 かれ 、 王 名 枠 に 対 して イ プ シ ェム ア ビの 名 が 逆 に記 され て い るか ら
で あ る(Kopetzky 2012:3980。
さ らに、 ビブ ロス の例 にお いて は連続 七宝 文、 エ ジプ トの 例 にお い てはデ フ ォル メ され た花
弁文 が あ るが、 これ らはエ ジプ トの伝統 的 な文様 ではない。 中 王 国時代第
12王 朝以 降 にな っ
て初 めて エ ジプ トに もた らされ た文様 であ る。
これ らを考 え合 わせ る と、黄金製 二枚 貝 のベ ン ダ ン トは ビプ ロス経 由で エ ジプ トヘ ともた ら
され た と考 える方が 自然 であ ろ う。
表 2 中王国時代に黄金製品が副葬 された墓 と黄金製品 リス ト
第 121朝
縦
鰤
をつに,)
(Circa.К )
開
アメンエムハ
ト1世
アメンエムハ ト犯
センゥセル ト
泄
センウセルト泄
アメンエムハ ト鑓
21811991
1929‑1895
1897198
18781843
18421797
サフ ト・ハ
議
者 の名
発 見組所
ト
ウェレ
セネプティン
イタ
クヌムイト イタ ト
ホル・ イウネ
ハ
ー
ハシ
ー
リシュト ダ シュ ル ダ ュ ル ダハシュール
ト
ラフン
期
臓
ジ ェ ト形留め
具
ピーズネ ッ ト
帽麟摯り
臓
ア ンク レク ト
ビーズ
冠
■麟摯り
赫
趙薔り
ベンダント
使用 された鋼
de Ho… ,18945
Petrie,1914
冠
摯
口餞│り
タカ ラガイ形
■鵬│り
スカラベ指輪
的爪形ベンダ
ント
麟
留め具
ライオン形護
符
メレト
ダハシュール
J口
ベ
スカラ
'り
ブレスレット
の留め具
ベンダント
ライオン形霞
符
タカラガイ形
ピーズ
日麟│り
円
ンダント
…
アンクレット
用鈍爪形鰤 り
J口│り
スカラベ
請
¨
ンダン ト
ヒョウ形ピー
…
ズ
ライオン形霞
符
アンクレット
用角爪形縛 り
ワーイプ
ラー・ ホル
ハ ワラ
ネブヘチプ
ティ・ ケレド
ハ ワラ
de Joran,1895
電 の 曜び
目J BFt
側 6倫 勘
ビー ズ
ハ ヤプサ頭形
裸飾 り部分
期
殉
嚇
―
de HOr8an.18945
trL
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ャ
講観
ヽ
冠騰鮮′
‑
イ
麟勝葡剛
浦購″鳳酪
Hace.19
,7r.r\r
Wi lLittoll,1,1975,pp 50‑55を 基に改変
3‑2
ク ヌム イ トの ガ ラス 質 メダ リオ ン
対象 の メダ リオ ンは 直径約
18.00 11ullで
、枠 部 の厚 み は
1.80 11ull、
中央部分 の厚み は 2.40
11ull
で あ る。 1円 玉の大 き さにほぼ等 しい。 表 面 は透 明 なガ ラ ス質被 膜 で覆 われ てい る。 一 見す る
とガ ラス製 の よ うに見 え るが、 クヌ ム イ トが生 きた時代 にお いて 、古代 オ リエ ン ト全域 を見渡
して もガ ラスの 生産 に着 手 していたのは メ ソポ タ ミア地域 しか知 られ てお らず 、エ ジプ ト人 に
とつて は未 知 の物質 で あ つた。 メ ソポ タ ミア地域 にお いて も、紀 元前
23世 紀 頃 にガ ラ ス が初
めて現れ て以来 、 ガ ラ スづ く りの技術 は次 第 に洗練 され てはいたが 、 ガ ラスの原材料 に含 まれ
る微 量 の鉄 のた めに ど う して も緑 〜 黄緑 色 の色 が つ いて しまい 、無色透 明 のガ ラス は未 だ 作 り
だせ ていない。 したが って 、 この メダ リオ ンの よ うな透 明で平 面的 なガ ラ ス を作 る技術 はまだ
持 ち合 わせ てい な い。 も しこの メダ リオ ンが ガ ラ ス で 作 られ て い る と した ら、世界 で最 も早 い
ガ ラ ス エ芸 作品 とな る。
発掘者 デ 。モル ガ ン は、本対象遺物 の メダ リオ ン を 「粒金 細 工の枠 の 中に座 した牛 ?が モ ザ
イ クで表 現 され てお り、そ の上 に保護 の層 が あ る。 モ ザイ クは現存す る中で最 も古 く、非 常 に
東海大学紀要文化社会学部
古代エ ジプ ト中王国時代クヌムイ ト墓出土の
ガラス質メダリオン
精緻 な作 りで あ るが、拡 大鏡 でみ る とつ な ぎ 目に隙間が見 え る。 メダ リオ ンの背景 は 1枚 の石
でで きてお り、 モ ザ イ ク とい うよ りは石 の 象嵌細 工の よ うで あ る(de MOrgan,1903:67)。 」 と
し、 メダ リオ ン は石製 であ る と してい る。 しか し、石 製 の象嵌細 工で あれ ば、文様 の縁 辺部 に
見 られ る よ うな滲 み が あ るはず がな く、色 と色 とが混 ざ り合 うこ とはない。 む しろ、砂絵 の よ
うに色 の粒 が混 じ りあ つた 部分 が見 て取れ る。 ただ、砂絵 で あれ ば糊 で砂粒 を固定 していた と
して も、4000年 の 間 に経年 劣化 に よつて糊 は剥 がれ 、大小 の砂粒 が動 く結果 とな る。本 資料 は
そ の よ うな原位 置 か ら外れ た砂粒 の 動 き もな いの で ある。
クヌ ムイ トの メダ リオ ンの周 りの 黄金枠や粒金細 工につ いて は別稿 で扱 うこ とと し、 まず メ
ダ リオ ンに表現 され た 意 匠 につ いての 検討 を行 う。
メダ リオ ン は粒金 の施 され た 枠 内全体 に淡 い青色 (青 と自の斑 )の 地色 が あ り、周 囲 をボ ー
ダー (縁 飾 )が 取 り囲んで い る。 中央 には牛 の よ うに見 える四足 動物 が眸 つて お り、その胴 体
は 白地 に黒 の斑 が あ る。 大 き く外反 す る角 、大 きな耳、不 自然 に細 い胴 体 、長 く反 りあが る尾
が特 徴 的で あ る。 文様 は全体 が滲 んでい る よ うに見 え、同時 代 の 象嵌 細 工の シ ャー プな色 の コ
ン トラ ス ト表現 とは趣 を異 に してい る。
メダ リオ ンの縁辺 部分 には赤 ・ 白 。黒 。黄緑 の 4色 で 帯状 の 文様 が施 され てい る。 古代 エ ジ
プ トでは 、古 王 国時代 か ら中王 国時代 の 墓 に描 かれ る縁飾 帯 は赤・ 白・ 緑 (青 緑 )の 3色 で 彩
色 され る こ とが多 く、黒 はあま り用 い られ てい な い。 クヌムイ トの墓 よ り出土 した他 の ブ レス
レ ッ トや襟飾 りな どの 黄金製 品 の彩 色 には共通 して赤・ 緑 。濃青 の 3色 が使 われ てお り、 これ
らの装飾 品が少数 の職 人 た ちに よ つて 同時期 に制作 され た可能性 を示唆 してい る。
中央 の牛 は古代 エ ジプ トで主要 な神 であ つた 牝牛姿 の ハ トホル 女神 を表現 してい るのだ ろ う
か。描 写 され た牛 に神性 が付 与 され てい る牛 で あ る と推測す る と、 ハ トホル 女神 か牝牛 の形 を
とる他 の 女神 の 可能性 が あ る。 同定 の 手掛 か りとな るのが頸飾 りであ るが、小 さい上 に不 明瞭
で あ るた め、正確 な同定 は不 可能 で あ る。 しか し、下部 が広 が る形状 はバ ー ト(Bθ の女神 の象徴
物 に似 てい る。 クヌ ム イ トの墓 か ら出土 した装飾 品 にはバ ー ト女神 を象嵌 で表 わ した類例 が あ
り20(de Morgan,1903,Pl.V43; Egyptian Museum,Cairo,Catalogue Nos.52920‐
21)、
そ
の形 状 は本 メダ リオ ンの牛 の頸 に つ いた飾 りと酷似 してい る。 バ ー ト女神 は第 1王 朝 時代 か ら
牝牛 (水 牛 )の 頭 を持 つ 女神 と表 現 され ていた (Rashed,2009:338)。 形態 的 な特徴 と しては、
牝牛 の頭 部 よ り上部分 しか表 現 され な い こ とと、角 が大 き く内湾 してい る こ とであ る。 バ ー ト
女神 は天空 、守護 、豊穣 (豊 饒 )な どを司 る女神 として現れ たが 、次第 に同 じ牝牛 の頭 を持 つ
ハ トホル 女神 と習合す る よ うにな る。 新 王 国時代 が 始 ま る ころにはバ ー ト女神 の表現 は見 られ
な くな り、代 わ りに同 じ牝牛 で外 反す る角 の 間 に 日輪 を戴 くハ トホル 女神 に吸収 され てい つた
と考 え られ てい る (ibid.,20091337)。
この他 に も第 12王 朝 時代 の王 妃や 王女 の 墓 よ り出土 し
た 黄金 製 品 には同形 状 の バ ー ト女神 を表現 した もの21が 見 られ る。 また、 バ ー ト女神 の メダ リ
オ ン (ヘ カ ー・バー ト)は 古 王 国時代 第 4王 朝時代 の クフ・カー フ王 子 の墓 に描 かれ た よ うに、
王 の 寵 愛 を受 けた 王子 や 高官 の み が身 に つ け る こ とがで きた シ ンボル で あ った (Helck,1954:
340。
本 メダ リオ ンの 意 匠 の よ うに、牛 がバ ー ト女神 の象徴 を頸 に付 けて い る例 は初 期 王 朝 時
代 のナー ガ・エル・デ ール よ り出土 した金 製 の メダ リオ ンが挙 げ られ る22。 っ ま り、クヌ ム イ ト
第
4号 (2020年 10月
)
山花京子
の メダ リオ ンがバ ー ト女神 の象徴物 を頸飾 りと してい る牛 (牝 牛 )と 考 えるな らば、 この よ う
な意 匠は初期 王 朝時代 か ら存在す る こ とにな り、クヌ ム イ トよ り 500年 以上前 よ り存在 してい
る伝 統 的 な意 匠で あ る こ とが言 え る。
しか し、本 メダ リオ ンの意 匠 にはエ ジプ トの厳格 な美術様 式 には則 つてい な い箇所 がい くつ
か あ る。 それ は、全体 の プ ロポー シ ョンが崩れ て い る こ と、牛 の尾 が上 に反 りあが つてい る こ
と、そ して牛が眸 ってい る こ とで あ る。 エ ジプ ト式美術規 範 では 、表現 され る対象 は厳密 な格
子枠 の比率 によつて表 現 方法 が決 め られ てい るた め、 ステ レオ タイ プに描 かれ る。本遺物 の よ
うに小 さな もので あ って も、 この慣 習 は厳 密 に守 られ るはず で あ る。 そ して 、古代 エ ジプ トの
牛 の 表現 では 、尾 が 反 りあが つてい る例 はない。神 聖 な牛 は四肢 が 見 えるよ う立 ってい る姿勢
を とる こ とが多 い。 つ ま り、本 メ ダ リオ ンの意 匠 は一 見 エ ジプ ト風 ではあ りなが らも、 エ ジプ
ト人 で はな い工 人 に よつて作 られ た と考 え る こ とが で き る。 一 方 、 メ ソポ タ ミアで は紀 元前
2800年 頃 の ウ ル ク
(ワ ル カ )よ り眸 っ た 牛 の 小 像 が
2体
(Das Vorderasiatische
Museum,Berhn,VAl1025,VA 10108)(Sttatliche Museum zu Berlin,1992)と 紀元前 2500年
頃 の 石製小像 (VA 7442)も 出土 してお り、古 くか ら眸 った牛 の 図像 は比 較 的多 くみ られ る こ
とがわか る。
3‑2 クヌム イ トの黄金 製 品の製作地 推定
(図 3)
それ では 、 この工芸 品は どこで作 られ たのだ ろ うか。 図 1を 見 る と、 この メダ リオ ン は鎖 で
繋 がれ た 2片 の花弁 文 の粒金 装飾 品 とメダ リオ ンの 下には同 じく鎖 で 繋 がれ た 3片 の 8苫 星形
文粒金装飾 品23が っ ぃてぃ る。 この よ うに一 連 の 状態 で発 見 され てい る ところか ら、 この 装飾
品は 1セ ッ トと して特 定 の場所 で作 られ た と考 えて よいだ ろ う。以 下では、 これ らの 装飾 品 の
類例 を探 り、意 匠 の意 味 と製 作地 を探 つてみ たい。
まず 、図 1の 牛 の 図柄 の あ る装飾 品 を中心 の メダ リオ ン とす るな らば、そ こか ら一 方 に 二股
に分 かれ た鎖 があ り、そ の端 には粒金 細 工 の花弁 文装飾 品が つ いてい る。 さらに、牛 の 図柄 の
あ るメダ リオ ンか らも う一 方 の鎖 が 出てお り、それ は 3つ の粒金 細 工の星 形 文装飾 品 へ と繋 が
つてい る。鎖 の端 に付 け られ た花弁 文形 は最 大径 2.50 cm、 そ して星形 文の最 大径
1.30 clllで
あ
る。花弁 文 の装飾 品 は外側 が 8弁 の 花弁 で表 現 され てい る。花弁形 の 装飾 品 は メ ソポ タ ミア に
多 く、紀 元前
3千 年紀 後期 か ら 2千 年 紀初期 のプ ラ ク、 ウル 、 ウル クな どか ら出土 してお り、
アナ トリア半島 、 レバ ン ト、東地 中海 島嶼部 、 パ レスチナ 南部 、 エ ジプ トにまで影 響 が到達 し
てい る (Maxwell‐ Hyslop,1971:p.47)。 特 に初期 王 朝 時代 の ウル に現れ た会1菱 形 8花 弁 の 文
様 は後 の サル ゴ ン王 時代 (紀 元前 2334〜 2279年 頃 )に は標 準形 とな る
において花弁文の使 用 は紀元前
(ibid.,:26)。
エ ジプ ト
2千 年紀 中庸 か ら始 ま る新 王 国時代以 降 に急激 に増 えるが、そ
れ以前 の 時代 に も存在 は してい る。 初期 王 朝時代 の ア ビュ ドス 出土 か らは
21花 弁 の花弁 文 ブ
レス レ ッ トが発 見 され 、古 王 国時代 第 3王 朝 の スネ フェル 王 複合体 (ダ ハ シュール )よ り 12花
弁 文 の あ る浮彫 断片 が 出土 してい る こ とか ら、花弁 文 はエ ジプ ト人 に とつて 旧知 の文様 で あ つ
た。 したが って 、花弁 文 をキー ワー ドと して クヌ ム イ トの メダ リオ ンの製作地 を探 るの は不 可
能 で あ る。
東海大学紀要文化社会学部
古代エジプ ト中王国時代クヌムイ ト墓出上の
ガラス質メダリオン
ー 方 、星形 文 は初期 の エ ジプ トの美 術表現 には見 られ ない もので あ る。 クヌ ムイ トの 時代 以
前 に表現 され た星形 文 と言 えば、古王 国時代 末期 に王墓 の 天丼 に刻 まれ るよ うにな った星 で あ
るが、 これ は 5本 の 直線 で ヒ トデ の よ うに表現 され ていた。 中王 国時代 以降 にお いて も、古代
エ ジプ ト人 は天体 の星 を表現す る際以外 に星形 文 を使 用す る こ とは稀 で あ る。 しか し、視 点 を
メ ソポ タ ミアに移 してみ る と、4亡 星 、6苫 星 、8苫 星 の形 を した類例 は非常 に 多 く存在 す る。
星形 文 の起源 はア ッカ ド王朝 サ ル ゴ ン王 時代 にあ り、以降西 ア ジア全域 に広 まった とされ る。
サル ゴ ンの孫ナ ラム・ シン (紀 元前 2254〜 2218年 頃 )の 碑 には 、イ シュタル 女神 24の 象徴 で
あ る 8苫 星 と月 の神 で あ る シン神 の三 日月、そ して太 陽神 の シ ャマ シ ュが表現 され 、古 バ ビロ
ニ ア と古 ア ッシ リア時代 (紀 元前 2000〜 1600年 頃 )に は メ ソポ タ ミアの伝統 的 な神 の象徴 と
な った (ibid.,:142)。
しか もそれ らの星形文 の 中心 には必ず 円形 の 凹凸が あ り、尖 つた 花弁 を
持 つ 花文 とみなす こ ともで きるた め 、 マ ックス ウェル・ ハ イ ス ロ ップは 8苫 星 と同様 に 4苫 星
や
6苫 星 は 花 弁 文 と同 一 視 され イ シ ュ タル 女 神 を表 象 す る文 様 とな っ た と説 明 して い る
(ibid。
,:142)。
一 方 、小林 に よる と、花弁 文 はイナ ンナ 女神 の持 つ ナ ツメヤ シの花 を図案 化 し
た もの で あ る と し、金 星 を 司 る同女 神 の 象徴 と して
8苫 星 が 使 われ るの だ とい う
(小 林 、
2019:108)。
メ ソポ タ ミアだ けでは な く、 エ ジプ トか ら距離 的 に近 い南 パ レスチナ のテル・ エ ル・ ア ジュ
ール か らは黄金 の 8苫 星 メダ リオ ン と粒 金細 工の 8苫 星装 飾 品が発見 され てお り、 レバ ン トの
ウガ リ トか らは同 じく黄金 の
8苫 星 、6苫 星 、4亡 星 装飾 品が発 見 され てい る。 これ らはす べ
てその土地 の太陽神 と関連深 い 女神 (テ ル・エ ル・ アジ ュール ではイ シュ タル 女神 25)と の 関連
性 が指摘 され てい る。
以上 か ら、古代 エ ジプ トの 中 王 国時代 とはぼ同時 代 にあた るメ ソポ タ ミア の ウル 第 3王 朝 と
続 く古 バ ビロニ ア 、古 ア ッシ リア時代 にお いて は、この花 文/星 形 文は西 ア ジア及 び レバ ン トで
は広 く信仰 を集 めたイ シ ュ タル 女神 の 象徴 として汎 オ リエ ン ト世界 に一般 的 な文様 とな ってい
た こ とがわか る。 マ リか ら出土 した文書 に よる と、鉄器 時代初期 の 北 レバ ン トの ウガ リ トには
ミケ ー ネ人 、 ク レタ人 、 ヒ ッタイ ト人 、 エ ジプ ト人 な どが居 住す る国際都 市 で あ った こ とが記
され てい る (Tubb,1998:73)。 そ の ウガ リ トにお いて も、アス タル テ
(イ
シュ タル )は 法 と正 義
の女神 と して崇 め られ てお り、最 高神 エ ル 26の 配偶神 で あ るアテ ィラ トゥ (旧 約 聖書 にお け る
ア シェラ)と 時 に同一視 され ていた (Tubb,1998:74)。
また 、 当時 エ ジプ トと密接 な関係 を保 って いた 港湾都 市 ビプ ロス にお いて 、主神 バ アル の 配
偶神 はバ ア ラア トで あ り、 この 女神 は牝牛 の 姿 で表 され るエ ジプ トの ハ トホル 女神 と同一 視 さ
れ 、「ビブ ロスの 女 主 ハ トホル 女神 27」 と呼 ばれ ていた (Elaガ ,2018,p.40‐ 41)。 レバ ン ト全般
にお いて は、ア ス タル テ
(イ
シ ュ タル )は 牛 の 角 を頭 上 に戴 く姿で表 され る(Patai,1990,p.57)。
つ ま り、星形 文 とイ シュタル 女神 、そ して牝牛 の 意 匠は レバ ン トにお いて一連 の 意味 を持 っ
て結 び つ いてい る こ とが明 らか とな るので あ る。
それ では クヌ ムイ トの メダ リオ ンの 中で未 だ検討 が残 され てい る七宝 文 について 考察す る。
七宝 文 は メ ソポ タ ミアでは殆 ど類例 がない。 また、 レバ ン トにお いての発 見例 は現在 の ところ
2例 で 、前述 の ビブ ロス の王 家 の 墓 よ り出土 した貝形 装飾 品 の縁 取 り部 分 に七宝連続 文 が金 の
第 4号 (2020年 10月
)
山花京子
有線 象 嵌 で施 され て い る例 と、 テ ル ・ エ ル・ プ ラー ク
(Tell el‐
Burak)の 宮 殿 壁 画 に描 かれ て
い た エ ジプ ト風 の 狩 猟 場 面 に表 れ る七 宝 連 続 文 で あ る (Sader and Kamlah,2010:136‐
8)。
い
ず れ もエ ジプ トと関連 の あ る場 所 か らの 発 見 で あ り、 しか も事 例 数 が 限 られ て い る こ とか ら、
文様 の 起 源 は レバ ン トで は な い と考 え る。 そ れ で は 、 エ ー ゲ海 方 面 の 可能性 は あ るだ ろ うか。
中王 国時代 の研 究者 グラジ ェツ キ (Grajetzky)は 、 トー ド神殿 へ の奉納物 の銀器 とクヌ ム イ
トの 墓 装 飾 品 は お そ ら くエ ー ゲ海 地 域 か ら もた ら され た も の と推 測 して い る (GrttetZkヌ
2006:47)。 確 か に トー ド出土 の銀製 品 には波状連続 文が施 され た ものが あ り、エー ゲ海 地域 (特
にギ リシア )の 美術様 式 に頻繁 にあ らわれ る文様 であ る。 ギ リシア世界 は波 状 文や 渦巻 き文 、
雷文 な どの 幾何学 文様 が伝統 的 に土器 な どの装飾 に使 われ て いた。特 にクヌ ム イ トと同時 代 の
中期 ミノア期 で は 、 カ マ レス 土器 と呼 ばれ る大胆 な幾何 学 文様や海 洋 文が器 面 に描 かれ た土器
が東地 中海 沿岸 地域 に流通 して い た。 ク レタ島で生産 され たカ マ レス 土器 は、 ク レタ島での祭
祀施設 で 多 く発 見 され るほか 、前述 の ビブ ロスの 王 家 の 墓や ウガ リ ト、キプ ロス、 エ ジプ トな
どで も出土 してい る(Stewart,1962:Kemp and Mer五 llees,1980)。 カ マ レス 土器 には主 に円形
の連続 文 を基礎 と した文様 が 多 く、七宝文 の類 例 もあ る28こ とか ら、七宝 文 に 関 して は 当時 ク
レタ島か らの影響 の 可能性 もあ る。 一 方 、同時代 の ギ リシア本 土周辺 の 中期 ヘ ラデ ィ ック時代
に使 用 され ていた文 様 には直線 と円弧 の組 み合 わせ が 多 く、後 の 幾何 学文様様 式 に直接 的 につ
なが る文様 であ る。 中期 ヘ ラデ ィ ック期 の 土器 装飾 には、カ マ レス 土器 と同様 に円を基本 に し
た ものが あ るが、円の 中は直線 文 で埋 め られ る こ とが 多 く (Buck,1944,pls.42‐
44)、
七 宝文 の
よ うな 円 と円が重 な る文様 は探す こ とがで きな い。
以 上 をま とめ、クヌ ムイ ト
の メ ダ リオ ンの 製 作 地 に つ
い て は 以 下 の よ うな推 察 が
で きる。 当時 の レバ ン トには
花 弁 文 や 星 形 文 は 広 く知 ら
れ てお り、特 に星形 文 はア ス
タル テ
(イ
シ ュ タル )女 神 と
関連 が あ る。 さ らに レバ ン ト
の ア ス タル テ 女 神 は 牛 の 角
図 3 クヌムイ トの装飾品文様 の生成過程模式図
を持 つ て 表 現 され る こ とが
多 く、特 に ビブ ロス にお いて
は 牝 牛 の 姿 と して の ハ トホ
ル =ア ス タルテ 女神 の信仰 が盛 んで あ つた。 さらに、幾何学 文で ある七宝文 は ク レタ島 に源流
が あ る とす る と、 これ らの意 匠がす べ て組 み合 わせ て メダ リオ ン を作 るこ とがで きた場所 は レ
バ ン トの東地 中海 沿岸地域 の貿 易都 市 で あ る と考 える こ とがで きる。 そ こでや は り当時 エ ジプ
トに とつて最 も重 要 な交易都 市 で あ つた ビブ ロス が候補 と して 浮上す る。
当時 は、ア ッシ リア の 商人 に よる一 大交易 ネ ッ トワー クが 存在 してお り、縦横 に伸 び る交易
路 に よつて小ア ジアや シ リア、そ して レバ ン トとエ ジプ トとの 間 で活発 な物 資 のや り取 りが行
東海大学紀要文化社会学部
古代エ ジプ ト中王国時代クヌムイ ト墓出土の
ガラス質メダリオン
われ ていた こ とが知 られ てい る (Moreno Garcia,
2017:115)。
ビブ ロス は メ ソポ タ ミア及 びアナ ト
リア半 島か らエ ジプ トヘ の 交 易 ルー ト上 にあ り、
北方 か らの金 属塊や 武器 、木材 、織物 、 な どがそ
こに集積 され 、そ して エ ジプ トヘ と運 ばれ ていた
こ とは明 らかで 、 ビブ ロス をエ ジプ トが半 ば植 民
地 の よ うに影響 を与 えた理 由 も このた めであ ろ う。
紀 元前 2050年 頃以 降 、 ク レタ島の 中期 ミノア IA
期
(MMIA)の 特徴 を持 つ 土器 が キプ ロスや サ モ
ス 島で出土 し、 さらに ク レタ島の もの と類似 した
図
4
形 の剣 や宝飾 品 な どが キ リキア (ア ナ トリア 半 島
分析箇所
南部 の東地 中海 沿岸 地域 )、 ウガ リ ト、ビプ ロス な
どで 出土す るよ うに な る。 上述 のカマ レス土器 な
どもク レタ島 と ビプ ロス との交 易 を示唆す る。 一 方 、 この 当時 は ク レタ島 とエ ジプ トの 直接 コ
ンタク トを立証す る もの は殆 どな く、 レバ ン トで 作 られ た エ ジプ ト風 の 品が ク レタ島 へ と運 ば
れ てい るので あ るCWatrous,1998,p.21)。
つ ま り、 ク レタ島 か らの交易品は ビプ ロスや ウガ リ
トな どの レバ ン トの 沿岸 に一旦運 ばれ 、それ か ら北 の メ ソポ タ ミアや アナ トリア方面や南 のエ
ジプ ト方 面 に運 ばれ た と考 えて よい。
中王 国時代 の ダハ シ ュール か ら発 見 され た クヌ ム イ トの メダ リオ ンは 、図 3の 模 式 図で示 し
た よ うに、 当時 の 東地 中海世 界 で広 く使 われ ていた花弁文 とク レタ島 由来 の七宝 文 、そ して汎
レバ ン トの星形文
(こ
の場合 は 8苫 星 )と 七宝 文が組 み合 わ さる こ とに よって生 まれ た文様 で
あ る と推 測 で きる。 そ して、バ ー ト女神 の 頸飾 りをつ けた牛 は、エ ジプ トと深 い 結び つ きの あ
る ビブ ロス を指示 してお り、同時 に この装飾 品 の製 作地 が ビブ ロス で ある こ とを示唆 してい る
と考 える。 クヌ ムイ トの メダ リオ ンは ビプ ロス で ェ ジプ ト風 に作 られ た ものが 、外交 の贈物 と
して エ ジプ トに運 ばれ たのではな いだ ろ うか。
4.メ
ダ リオ ン の 分 析 結 果 と顕 微 鏡 観 察
4‑1 メ ダ リオ ン部分 の分析結 果 (図
4〜 図
7、
表
3)
本稿 にお いては 、 クヌ ムイ トの墓 よ り発 見 され た黄金 製装飾 品 (CG53018:SR6009)の メダ
リオ ン部分 を考察 の 対象 とす る。 この金 製 装飾 品はデ 。モル ガ ンの発 見以来 、カイ ロのエ ジプ
ト博物館 に収蔵 され てお り、未 だか つ て詳細 な調 査研 究 の 対象 とな った こ とがな い。 今 回 はエ
ジプ ト考古庁博物館 セ クター 長 モー メン・オ スマ ン博 士 (Pr01 D■
Of the Museum Sectot Ministry of Antiquities)、
Momen Othman,Chairman
カイ ロ博物館館 長 サ バハ・ アブデル・ ラゼ
ク・ サデ ィ ク博 士 (Dtt Sabah Abdel Razek Saddik,Director ofthe Egyptian Museum,Cairo)
の許 可 と協力 に よ り長 く研 究が手 つ かず で あ った クヌ ムイ トの金 製装飾 品 を実見調査及 び蛍 光
X線 分析 に よる調 査 を行 うこ とがで きた
29。
第
4号 (2020年 10月
)
以 下で は クヌ ム イ トの メダ リオ ンのポー タブル 蛍
山花京子
光 X線 分析 30及 び顕微鏡 に よる観 察 に よる成分 分析 を通 して 、 メダ リオ ンに使 われ てい る材 質
を考察 してみた い。
まず 、蛍 光 X線 分析 に よる分析 は図 3に 示 した よ うに分析番 号 1の 青色 、分析番 号 2の 赤色
部 分 、分析番 号 3の 自色部分 、そ して 分析番 号 4の 黒色部分 につ いて行 われ た。分析 はイ ー ド・
メル タハ 博 士 に よ り行 われ 、分析装置 に よる結果 が表 3で あ る。
表
分析箇所
分析 した0
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3
クヌムイ トの メダ リオ ン分析結果 ま とめ
SItⅢ 。
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表 3の 灰 色部分 は測 定器 の誤 差値 内であ るた め 、考察 には含 まない。そ うす る と、どの色部分
を測 定 して もほぼ ケイ素 (Si)だ け しか検 出 され ていない こ とにな る (平 均値 98.95wt%)。
こ
れ はガ ラ ス な のだ ろ うか。
まず 、 ガ ラスの組成 を考 えてみた い。 フ ォー プスに よる と、古代 ガ ラ スの 平均 的 な組 成 はケ
ヵル シ ウム (CaO)3‑10wt%、 アル カ リ (Na02ま たは 聰 0)9
‑24wt%が 主成 分 とな ってい る。古代 エ ジプ トのガ ラ ス も近似 してお り、ケイ素 55‑65wt%、
カル シ ウム 3‑10wt%、 アル カ リ 16‑25wt%が 主成 分で あ る (Forbes,1966,p.116,Tablel)。
イ素 (Si02)57‑72wt%31、
この成分比 は数 多 くの先行研 究か らも立証 され てお り、ケイ素 6割 、カル シ ウム 1割 弱 、アル
カ リ 2割 強 が 古代 ガ ラ スの 大 よそ の調 合比 と言 え る。 しか し問題 は、本資 料 は経年 変化 で くす
んではい る ものの 、 ほぼ無色透 明 な ので あ る。 この 時代 には無色 透 明 なガ ラ ス を作 る技術 は ま
だ持 ち合 わせ て い なか った。 さ らに、表 面 の顕微鏡観 察 にお いて 、表 面 に細 か な ミガキの痕跡
が見 られ た (図
5)。
ガ ラス は冷 え固ま る
際 に張力 に よつて滑 らか な表 面 とな る。
本 資料 が 平 らな板 ガ ラ ス を丸 く切 つて 作
ったの で あれ ば 、表 面 に は ミガ キ痕 は な
い筈 で あ る。 メダ リオ ンが 1円 玉 とほぼ
Ⅷ
同 じ大 き さで あ る こ とを考 え る と、 この
ミガ キ痕 は現代 の #1000番 以 上の極 細 目
サ ン ドペ ー パ ー を使 わ な けれ ばで きな い
細 か さで あ る。しか し、ガ ラ ス は表 面 を研
磨 す る と自 く濁 るた め 、現 代 にお い て も
艶 消 し効 果 を出 した い 場 合 に しか使 用 し
な い。ま た 、古代 の ガ ラ ス は低倍 率 の顕微
14
図 5 表面の ミガキ痕跡
東海大学紀要文化社会学部
古代エ ジプ ト中王国時代クヌムイ ト墓出上の
ガラス質メダリオン
鏡 を使 つて も気泡 が 見 られ る (図 6‐ ④ )が 、図 5に は気泡がみ られない。それ で は、ガ ラ スの 可
能性 が な い とす る と、古代 に存在 したガ ラ ス に似 た物 質 フ ァイ ア ンスで あろ うか。 フ ァイ ア ン
スの 主成 分 は ケイ素 ・ カル シ ウム・ アル カ リで 、 これ はガ ラ スの 主成 分 と同一 で あ る(Stone,
1956:39)。
組 成成分 の比 率 が ガ ラス とフ ァイ ア ンス では若 干違 い 、 フ ァイ ア ンス はケイ素 92
‑99wt%、 カル シ ウム 1‑5wt%、 アル カ リ 0.5‑3wt%で あ る (Nicholson,1993,p.9:山 花
2006,p.7)。
,
ガ ラ ス と比較す る とケイ素 の濃度 が高 い。 も う一つ の違 い は、ガ ラス は物 質全体
が熔 融 して しま って 結 晶構 造 の な い もので ある の に対 し、 フ ァイ ア ンス は表 面部分 だ けがガ ラ
ス化 して内側 (素 地 )の 部分 は熔 融す る前 の段 階 で止 ま ってい る物質 で あ る (山 花 ,2006,pp.6‐
7)。
図 5で 示 した よ うに、顕微鏡観 察 にお いて は同倍 率 で もガ ラス よ りも気泡 が 多 く、 さ らに
熔 融 してい な い石英 (ケ イ素 )粒 が明瞭 に見 られ る。
ケイ素 の 質量比 だ け見 る と、 クヌ ムイ トの メ ダ リオ ンの表 面 はガ ラ ス ではな く、 フ ァイ ア ン
ス に近 い。 しか し、 フ ァイ ア ンスに不 可欠 なカル シ ウムや アル カ リが検 出 され ていない し、着
色成分 の銅 や鉄 な どもま った く検 出 され て い な い。 分析結果 で は、本 資料 は ほぼ純粋 なケイ素
の塊 な ので あ る。
残 る可能性 は石英 (水 晶 )を 平 らに磨 き出 して牛 の 図柄 の上 に載せ てい る と解釈す る こ とで
あ る。 石英 (水 晶 )は 99%以 上 が ケイ素 で構成 され てい る32。 無色透 明 な石英 (水 晶 )は 産地
に関係 な く純粋 な Si02で あ る。 今 回 の分析 で使 用 したポー タブル蛍 光
X線 装置 は、対象物 の
深 さ 2 11ullの 部分 まで ビー ムが届 き、分析 で きる とい うこ とで あ ったが 、石英 の板 を測 定す る場
合は、XRFの エ ネルギーが低 いために l llullの 板 を透過することができず 、それ よ り下にある物
質 の組成 を検出す ることはできない ことが判明 した33。 分析実験当初は最古のガラスか 、ある
いはガラス質物質
(フ
ァイ アンス)か 、 と考えていたが、実際はガラス質物質 ではあつて も、
人 工物ではない、天然 の石英 (水 晶)を 研磨 して板状に した ものであることがほぼ確実 となっ
た。
しか し、まだ疑間が残 る。それは、石英 (水 晶)板 の下にある牛の図柄が何で作 られてい る
か、である。本来な らば上 の石英 (水 晶)板 を外 して観察をす るべ きだが、文化財は非破壊が
大原則である。 クヌムイ トのメダ リオ ンの拡大写真は石英 (水 晶)板 の上か らの写真映像 のた
め、あま り鮮明 ではない。図 6の ② と③は同 じ中王 国時代 のカバ像 と容器片 とその拡大写真で
ある。 メダ リオ ンの青色に見える部分は、自地に青 い細粒 と気泡が見 られ る。右 の類例 の写真
にも白い部分 と青や青緑に着色 されてい る部分があ り、気泡 も多 い。 これ ら 3枚 の拡大写真は
色が斑に点在 してお り、気泡が 目立つ点で共通 している。 一方、④ の新王国時代 のガラスと比
較 してみると、ガラスは表面に風化 の傷 が見えるものの 、内部は非結晶質で気泡が浮かんでい
ることが確認できる。現状 にお いて は、① のクヌムイ トのメダ リオ ンの表面状態が最 も近 いの
がフ ァイ アンスであることが言える。
第 4号 (2020年 10月
)
山花京子
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ご
①
図
6
②
④
③
① クヌムイ トのメダリオン表面と表面の顕微鏡写真 (x50), ② と③同時代のファイアンスの
表面顕微鏡写真
(中
央上下 :Petrie Museum of Egyptian Archaeology UC45074右 側上下 :Petrie
Museum of Egyptian Archaeology UC2304)photographs by courtesy of the Petrie Museum Of
Egyptian Archaeology ④新王国時代ガラスの表面顕微鏡写真 (東 海大学文明研究所蔵 SK89‐ 20)(x
50)(写 真はすべて筆者撮影
)
また、図 7で 示 した よ うに、 メダ リオ ンの 写真 に見 られ る色 の滲み方 と、 フ ァイ ア ンスの着
色部分 の色 の滲 み方 が酷似 してい る。 フ ァイ ア ンス製 品は、粉 状 の原材料 に水 分 を含 ませ 、練
り粉状 に した もの を乾燥 して焼成 す る。 フ ァイ ア ンス作 りは基本 的 に 1回 しか焼成 を行 わな い
た め 、背景色 と上層 が焼成 の 際 に混 じ りあって しま うので あ る。 図 7右 は筆者 が 作成 した青地
フ ァイ ア ンス碗 に マ ンガ ン線 画 を施 した部分 の 顕微鏡 写真 であ る。 色 の に じみ方が本 資料 と類
似 してい る こ とがわか る。 一 方 、地 に色 ガ ラス粉 が熔 着 した場 合 は、色 ガ ラスの 部分 だ けが盛
り上 が るた め 、滲 んで混 ざ り合 うこ とは殆 どな い。
4‑2
メ ダ リオ ンの 構造 につ いての試 案 (図 8)
以 上の考察 をま とめ る と、クヌ ム イ トの メダ リオ ン
レ
は以 下 の よ うな構 造 で あ るこ とが推 察 され る。
まず。黄金 の外枠 の 高 さ (図 8)は
1.80 11ullで
に対 し、 メダ リオ ン 中央部分 の 計測値 は
あ るの
2.40 11ullで
った。 つ ま り、 メダ リオ ンは外枠 よ りも 0.60
¬
11ull盛
あ
り
上 が ってい る こ とにな る。非破壊 では 、黄金板 の厚 み
がわか らないが 、仮 に この メダ リオ ン に使 われ た金 の
図 7 色 の滲 み方 の比較 (左 :ク ヌム
イ トの メダ リオ ン部分 、右 :復 元 フ ア
イ ア ンス彩色部分 )(x50)
板 の厚 みが前述 の星 形 文 と七宝 文 を組 み合 わせ た粒金細 工の厚 み と同 じ 0.50 mullだ とす る と、
残 りの フ ァイ ア ンス と石英 (水 晶 )の 厚 み は合計
1.90 11ullで
と石 英 (水 晶)の 層 が均等 な厚 さだ とす る と、 1枚 が
あ る こ とにな る。 フ ァイ ア ンスの層
0.80 11ullで
な けれ ばな らない こ とにな る。
この よ うに薄 い フ ァイ ア ンス と石英 (水 晶 )の 板 を作 る こ とは可能 だ つたのだ ろ うか。石英 (水
16
東海 大学紀要文化社会学部
晶 )は
古代エ ジプ ト中王国時代 クヌムイ ト墓出上の
ガラス質メダ リオン
も とよ り硬 い 石 で あ るた め 、不 純 物 や 節 理 の な い 質 の 高 い 石 を慎 重 に研 磨 す る こ とで 薄
膜 を作 る こ とは で き る。フ ァイ ア ンス にお い て も、筆 者 は 自 らの 復 元 実験 にお い て薄 さ 0.48111111
の フ ァイ ア ンス 製 薄 片 を作 る こ とに成 功 して い る。 い ず れ の 製 作 に も熟 練 の 工 芸 技 術 を持 った
も の な らば 不 可 能 で は な い と思 われ る。
1.80 mml:
│
Quartz layer
Faiencc laycr
│
} 2.40 mm
図 8 メダ リオンの構造試 案 (断 面)
5。
結
び
12王 朝 の クヌ ムイ トの墓 よ り発 見 され た 黄金製装飾 品 の 中かか ら、今 回 はガ
ス
ラ 質 の メダ リオ ンに焦点 を 当てた。 中王 国時代 の外 交 あ るい は交 易 は、後 の 時代 ほ ど文字記
中 王 国時代第
録や 図像記録 が な いた め 、一 見外部 との 交流 が少 な い と見 な され が ちだが 、遺物 の 出土状 況 な
どか らは この時代 に も文化 間 の活発 な交流 が あ った こ とが認識 で きた。
また 、 クヌムイ トの 黄金製 装飾 品は多 くが 当時の エ ジプ トには 存在 していなか った工 芸技術
及 び 意 匠 を持 って お り、 当時 の外 交及 び交 易 に よって東 地 中海 沿岸地域 よ りもた らされ た こ と
が推 測 で きた。 さ らに、 メダ リオ ンの 意 匠 には 、 当時す で に汎 レバ ン トでイ シュ タル 女神 の象
徴 と認識 され ていた 8苫 星 の 文様や 、 ク レタ島 の 中期 ミノア期 に存在 していた 円形 の 幾何学 文
(七 宝文 )力 `
表 わ され てい る。 しか し、牛 の意 匠や 多色 帯 には エ ジプ ト風 の美術様式 が使 われ
て い る こ とがわか る。 つ ま り、 これ らの意 匠は エ ジプ トの美 術表現 を熟知 した 非 エ ジプ ト人 の
職 人 に よって作 られ た こ とを示 唆 してい るので あ る。 この よ うなエ ジプ ト風 の 文物 が 作 られ る
可能性 の最 も高 い場所 が 当時 の エ ジプ トと非 常 に密 接 な関係 を持 ってい た ビプ ロス なので あ る。
さ らに、 メダ リオ ンの理化学 的分析 か らは、人 工のガ ラ ス で はな く天然 の石英 (水 晶 )で あ
る こ とがほぼ確 実 とな った。残念 なのは、石 英 (水 晶 )板 の 下 にあ る物質 が 何 で あ るか 、理 化
学 的分析 では確認 で きなか った こ とで あ る。顕微鏡 写真 を比較 しなが ら検討 した結 果 、最 も近
い材 質 として フ ァイ ア ンスの 可能性 を提 示 した。 現状 では ここまでの 考察 が 限界 で あ るよ うに
思 うが、本稿 では考 古美術 的 な図像 比較 と理 化学分析 を合 わせ た結 果 、遺物 に手 を触れ るこ と
な く行 う非破壊 分析 で も比較 的詳細 な考察 を行 うこ とがで きた と言 える。
今後 は研 究対象 を本 資料 と共 伴 して出土 した他 の装飾 品 に も広 げ、 中王 国時代 の エ ジプ トと
関わ つた東地 中海 沿岸 地域 の影 響 を よ り詳細 に検討 す る こ とを考 えてい る。
引用文献
小林登志子 2019『 古代オ リエ ン トの神 々』 中公新書
山花京子
2006
『 古代エ ジプ トのファイ アンス研究』,東 海大学文学部博士号請求論文 (未 刊行 )
第 4号 (2020年 10月
)
17
山花 京 子
山花 京 子
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Goddess Bat and the confusion with Hathor"in B S ElSharkawy(ed),7カ
第 4号 (2020年 10月
)
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l This article is a part of a research collaboration between Prol D■
LIIOmen Othman of
Eid Mertah,the Egyptian
Museum,Cairo,Prol Yasunori Matsuda of Toyo lnstitute ofArts,and Yasuyuki Miyazawa
Ministry ofAntiquities,Arab Republic of Egypt,and D■
ofTokai University.
2 The Ornament that the author is focusing on this article is not suitable to wear on a
neck,because it does not xnake a loop lnstead,itlooks like a part of a head Ornament with
20
東海大学紀要文化社会学部
古代 エ ジプ ト中王国時代 クヌムイ ト墓 出上 の
ガ ラス質 メダ リオ ン
a blue宙 treous lllaterialin a centeL chained with two gold rosettes and three gOld star‐
shaped parts.Nevertheless,the author shall call the blue circular ornament as a
medalllon,for want of a better name.
3本 調査 は 2019年 度 学部等教育研 究補助 金 「学 内文化財 コ レクシ ョン を基軸 と した文理 融合
研 究一 古代 の製 作技術解 明に向 けて一 (院 )」 の 補助 を受 けた もの であ る。 また 、 カイ ロ エ
ジプ ト博物館 にての調 査許 可及 び写真 撮影許 可 は 2019年 11月 3日 に館長 サ バハ 。アブデ
ル・ ラ ズ ィク・ サデ ィ ク博 士 よ り与 え られ た。 Permission ofresearch on SR 6009 and
photograph were granted by the Director ofthe Egyptian
Ⅳruseum,CairO,D■ Sabah Abdel
Razek Saddik on Nov 3,2019.
4 catalogue generale番 号 CG53018で あ る。
5中 王 国時代 の編年 は後 の 新 王 国時代 と比較 して研 究者 に よる共 通 の コンセ ンサ スが 乏 しい時
代 だが、ア メンエ ムハ ト2世 の治世 は紀元前 1877/1876〜 1843/1942と され てい る
(GrttetZki, 2006:45)。
6リ リクイ ス ト (Lilyquist)は 、 クヌ ムイ トの 黄金製 品 は墓 の 礼拝室 よ り見 つ か つた の
も
で 、 ア メンエ ムハ ト2世 の銘 がないた め 、 これ らの遺物 を クヌムイ トと同時代 と結論 づ け る
こ とに疑 間 を呈 してお り (Lilyquist,2015:360、 次 の王 で あ るア メ ンエ ムハ ト3世 時代 に類
例 が あ る こ とか ら、 これ らの遺物 は クヌムイ トの死 後暫 く経過 してか ら墓前 に捧 げ られ た もの
で あろ うと推 察 してい る (Lilyquist,1993:37fl。
7 de MOrgan,Jaques ed.,fbui■■
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力ι力οIPrr」 894‑f∂ θaミヽen 1903
861項 目とは、デ 。モル ガ ンが発 掘 し取 り上 げた装飾 品はす で に繋 ぎ紐 が劣化 のた め切れ て
いたた め 、装飾 品 の パ ー ツ毎 に番 号 を付与 して登録 してい る もの もあれ ば、大量の ビー ズ は連
として ま とめて登録 してい る もの もあ るた めで あ る(de MOrgan,1903:58‐ 65)。
9デ 。モル ガ ンは クヌ ムイ トの 黄金製 品 をフ ェニ キアや エ トル リアの金 工 芸 と比較 してい る
(de Morgan,1903:65‐ 66)が 、時代 的 には フェニ キアや エ トル リア よ りも本 対象遺物 の 方 が 古
い。
10レ バ ン トとは 、現在 の 南 シ リア、 レバ ノン、 ヨル ダ ン、イ ス ラエ ル 、パ レスチナ ー の地
帯
域 を指す。
11現 在 のベ イ ルー トの 北 45 kmに 位 置す る港湾都 市 で、 エ ジプ ト語 では η または 劇%と 表
々
記 され た。
12編 年 は Aruz,」 .,et al eds.,2008,p.x宙 ―
x前 を参考 と した。
13「 メ ンフ ィス碑 」 は 1980年 にな つて初 めてそ の 存在 が知 られ た(Farag,1980:PosneL
1982)。
14外 部地域 か らエ ジプ トに もた らされ た もの は 、国家 的 な交 易 に よる もので あ るのか
、それ
とも王 の命 じた献 上品で あるのか定 かではない。 マー カ ス はおそ らく王主導 の 商業的交易 で あ
った と考 えてい るlMarcs,2007:170)が 、本稿 で は よ り中立的表 現 と して 「搬 入 品」 とい う言
葉 を使 用す る。
15ァ ァム ウとい う固有名詞 は、 エ ジプ ト人 た ちが東 か らや っ て きたセ ム系 の 言語 を話す異民
族 の総称 で あ った と考 え られ てい る(Kamrin,2003:161)。
16族 長 の名 がセ ム語起源 であ る こ とは、多 くの研 究者 の 見解 で あ る。 ゲー デ ィケは、「ア ビシ
ャ (イ )」 は 旧約 聖 書 (12:16)に 登場 す る ヨア ブ とアサ ヘ ル の 兄弟 の名 と一致す る と してい
る(Goedicke,1984:203)。 サ レ ッタは 「ア ビシ ャイ」 を 「我 の 父 は高 貴 な者 」 と解釈 してい る
(Saretta,1997111,n280)。
17ヵ ム リンの 主張す る 「革製 のふ い ご」 につい ては 、賛 同 しかね る点 があ
る。 クヌ ムヘ テ プ
2世 の 墓壁 画 に描 かれ てい る 「ふ い ご」 ら しき ものは 、左 右 対称形 で描 かれ てお り、「ふ い
ご」 で あれ ば片側 に 1つ の送風 口が あ るはず だが 、壁 画 には 見 当た らない。 さらに、 も しこ
れ がカム リンの 主張す るよ うに手動 式 も しくは足 踏 み式 の 「革製 ふ い ご」 であ った場合 、そ の
形状 が 後 の 時代 に伝 え られ ていないのは不 思議 で あ る。 後 の 新 王 国時代 の墓壁 画 に描 かれ るふ
い ごは 「壺形ふ い ご (pot bellow)」 であ り、蛇 腹 の 手動式 あ るい は足 踏 み式ふ い ごは 出土例
も壁 画 に描 かれ て い る例 もな い の で あ る。
第 4号 (2020年 10月 )
山花京子
18 catalogue No.53070,高 さ 4 6cmで 紅 玉 髄 、 ラ ビス ラ ズ リと トル コ石 で 象 嵌 され て い る
lAldred,1971:196)。
19 DirectiOn G6n6rale des Antiquit6s,Beirut,Lebanon,16235,Byblos Royal NecrOpolis II,
Middle Bronze Age,「 訂さ 7 5cm
20た だ し、デ 。モ ル ガ ン は この 護 符 を ハ トホ ル で あ る、 と して い る (de Morgan,1903:
64)。
21メ ダ リオ ン de Morgan,1895,Pl.Xv 3;メ ダ リオ ン Munich,Staatliche Sammlung
Agyptische Kunst As 5301;WindsoL胸 飾 り Eton College 215 P 17
22 Egyptian Museum,Cairo,No.53824‐ 5,ラ イ ズナー (Reisner)に よ る 1903年 のナー ガ 。エ
ル・ デ ール の発掘 にお いて発 見 され た。
23し か し、 これ は頸 飾 りの よ うに輪 にはな らな い。 したが って 、 メダ リオ ン とい う呼称 は適
切 では な いか も しれ な いが 、 この よ うな装飾 品 は類 例 が な いた め、現状 では メ ダ リオ ン と表記
してお く。
24ィ シ ュ タル 女神 はサル ゴ ン王 時代 にシ ュ メール のイナ ンナ 女神 (天 空の神 ア ンの 娘 、太 陽
の神 ウ トゥの妹 で あ る金 星 の 女神 )と 同一視 され る よ うにな り、天空 、戦 闘 、正 義 な どを司 る
女神 と して広 く信仰 を集 め、 ニ ップール 、 ラガ シュ、ザ バ ラマ 、 ウル 、 ウル クな どに神殿 が建
立 され た。
25 Kernpinski,1992,Fig.6.4.1
26ゥ ガ リ トにお いて信仰 を集 めていたのは 高神 エ ル
最
(セ ム語 で 「神 」 の意 )で あ る。 エ ル の
々
配偶神 は海 の女神 で あ り、生 き物 と神 を創 造 した アシ ェ ラで あ る。 また 、 ウガ リ トにお いて
信仰 され ていた神 々 は系統 立 った記録 が残 され てい る。 それ に よる と、バ アル神 は王権 と神権
を司 り、「王子 」や 「主」 と表 現 され 、「雲 に乗 る もの」 と して嵐 の神 ハ ダ ドと習合 し、バ ア
ル・ ハ ダ ト神 と して雨 と豊饒 (豊 穣 )を もた らす。 バ アル の 配偶神 は戦 闘 と愛 の 女神 で あ るア
ナ トで あ る。 太陽 の 女神 は シェ メシュ女神 、月 を司 るヤ リフ神 、
」「疫病 の神 レシェフ、「海 の
王 子」、「り
‖の 主」 で あ るヤ ム神 、冥界 の神 モ ト、穀物 の神 ダガ ンな どが 挙 げ られ る (Tubb,
1998:74)。
27ビ ブ ロス とェ ジプ トの女神 ハ トホル との結 び つ きは古 王 国時代 第 6王 朝 か ら知 られ てい る
(Hollis,2009,pl)。
28ク レタ島 フ ァイ ス トスの ハ ギア・ トリア ダ出土 Mt.XXIV8,Mt.XXIV9,Mt.XXIV9(同 じ
番 号 で 2文 様記録 され てい る)(Girella,2010)。
29本 稿 はカイ ロ博物館 に提 出 した研 究計画 A Research PropOsal tOward Understanding
History of Brazing/Soldering in Ancient Egypt(2019年
8月 12日 提 出)の 一 環 と して行 っ
た クヌ ム イ トの金製 装飾 品 (CG53018)の 調査 の うち、ガ ラ ス質 の メダ リオ ン部分 の み につ
いて考 察 を行 つた。粒 金や 黄金製 品 につ いての 考察 は別 稿 で 取 り扱 う。 また、蛍 光 X線 分析
に つ いて は、カイ ロ エ ジプ ト博物館 の保存修復部 門所 属 の イ ー ド 。メル タハ 博 士の協 力 に よ
り実現 した。
30蛍 光 X線 分析装 置 はイ タ リアの エ リオ社(Elio SpectrometeL XGlab srl,Milan,Italy)の
EDXRF分 光分析 装置 で あ る。 セ ッテ ィングは以 下 の通 りで あ る。The instrument can
detect elements from Na to U,with a tteld of analysis extending between l and 50 keヽ
こX‐
ray radiatiOn is generated using an Rh tube,with an electrOn accelerating voltage froln 10
to 50 kV and a Elamentcurrent iom 5 μA to 200 μA.(httpソ /www/xglab.it/compact‐
portable‐ xr,spectrOmeter‐ elio.shtml.)
31 wt%鮨 eight percent)は 質量 百分率 の こ とで あ る。 ただ し、上記 では微 量成 分 の記載 を省 略
して い るた め 、足 し合 わせ て も 100%に はな らな い。
(水 晶 )の 分析値 は以 下 を参照 され たい。
32石 英
https:〃 www
researchgate.net/publication/282158335 MarwitRod El̲Leqah̲QuartZ̲Depo
sits̲as̲a̲Strategic̲Source̲of High̲Purity̲QuartZ/丘 gures?lo=1
33石 英 に対す る X線 の透過 につ いて は、東京 電気 大学 工学研 究科物 質 工学 専攻 阿部 善也博
士 に以 下 の助言 を いた だいた。「XRFに お いて Siの K線 (1.7 keV)は きわ めて エ ネ ル ギー
22
東海大学紀要文化社会学部
古代エ ジプ ト中王国時代 クヌムイ ト墓出土の
ガラス質 メダ リオ ン
が低 いので ,物 質 中をほ とん ど透過 しませ ん。 Siと 原 子番 号が近 い Al金 属 の 中 で Si‐ K線 の
半減層 (強 度 が 半減す る厚 さ)は 9 μm,も つ と密度 の低 い Cの 中で も 70 μmで す。 つ ま
る ところ,lmm近 くあ る石英板 です と,検 出 され る Siの ピー クに,石 英板 の 下 にあ る物 質
か らの情報 は一 切含 まれ ませ ん。」 (2020年 4月 16日 )
第
4号 (2020年 10月
)