下野宇都宮氏
下野宇都宮氏(しもつけうつのみやうじ)は、藤原北家道兼流の名族・宇都宮氏の嫡流。代々下野国司を務め、鬼怒川(当時は毛野川)流域一帯を治めた大身。奥州を見据える要衝の地・宇都宮及び日光の地を治める社務職(宇都宮検校等)を務め、京都との繋がりが強かった。
下野宇都宮氏 | |
---|---|
| |
本姓 |
藤原北家道兼流? 藤原北家中御門流? 下毛野朝臣? 中原朝臣? |
家祖 | 藤原宗円 |
種別 | 武家 |
出身地 | 下野国 |
主な根拠地 | 下野国 |
著名な人物 |
宇都宮朝綱 宇都宮頼綱 塩谷朝業 宇都宮泰綱 宇都宮貞綱 宇都宮公綱 宇都宮等綱 宇都宮成綱 宇都宮忠綱 宇都宮広綱 |
支流、分家 | 宇都宮氏族(武家) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
下野国は宇都宮氏の発祥地であり、当地の宇都宮氏が嫡流。庶流として豊前宇都宮氏(城井氏)があり、さらに伊予宇都宮氏、筑後宇都宮氏(蒲池氏)などがある。それらと区別するため本貫の下野の地名を付けて下野宇都宮氏と呼ばれる。
平安時代
編集宇都宮氏は藤原宗円を祖とし、中原氏あるいは下毛野氏の流れを汲むといわれる。宇都宮氏は、もともと石山寺(一説に大谷寺)座主であった藤原宗円が、前九年の役において源頼義・義家父子に従って田気郷の不動尊にて加持祈祷を行い勝利に寄与したとして、歴代宇都宮氏の拠点となった下野国一宮二荒山神社(別称: 宇都宮大明神、延喜式神名帳の下野国一宮名神大社)の座主となったことに始まる。この後、宇都宮氏は22代・500年に亘って紀清両党を率い、下野国さらには日本国土の治安維持に努めることとなる。初代宗円の子とされる2代宗綱はもともと中原姓ないし中原氏に養子で入るも藤原・宇都宮に復姓したとされ、ここで宇都宮氏と中原氏との緊密な関係が取り沙汰されている。宗円・宗綱父子は宇都宮はもとより、益子・真岡・下館にまで勢力を拡大し、益子氏、芳賀氏(以上、紀清両党)、八田氏らをその傘下に置いたと推察されている。
鎌倉時代
編集藤原宗円の孫で、源頼朝から「坂東一の弓取り」と絶賛された3代宇都宮朝綱が初めて宇都宮氏を名のり、宇都宮大明神座主および日光山別当職を兼ねる宇都宮社務検校職を司った。朝綱は当初白川北方を務め左衛門尉を受けて京に在り、醍醐局を室として4代成綱を設ける。頼朝旗揚げの際も朝綱・成綱父子は京に在り、一時は平清盛によって留置されるが、一族の八田知家らが関東で頼朝に呼応し志田義広討伐に功績を挙げたため頼朝から関東の所領を安堵されたうえ、伊賀国壬生郷の地頭を授かる。その後鎌倉に邸を設け、その前の辻は宇都宮辻子と呼ばれるようになる。奥州藤原氏討伐の際も朝綱・成綱父子が軍に加わり、配下郎党の紀清両党の活躍によって阿津賀志山の戦いで勝利するなどの功績を上げ、宇都宮氏は鎌倉幕府において政所を務める有力御家人の一つとなる。
5代当主宇都宮頼綱は、畠山重忠事件で功があったが、折からの幕府内部の政権抗争に巻き込まれ謀反の嫌疑をかけられたのを機に熊谷直実の勧めにより出家、法然とその弟子証空に師事して京の嵯峨野に住まい、直実(熊谷入道蓮生)に因んで宇都宮蓮生(実信房蓮生)と号した。宇都宮家の財力を背景に、頼綱一族は園城寺(大津の三井寺)の再建をはじめ、各地に念仏堂を建立している(西方寺(京都)、清巌寺(宇都宮)、西方寺(桐生)など)。一方、在京中に藤原定家と親交を深めて姻戚関係を結び、京都歌壇・鎌倉歌壇に比肩する宇都宮歌壇の礎を築いた。また、京の小倉山麓の別荘の襖色紙に描く詩歌の選定を定家に依頼し、これが後の小倉百人一首として受け継がれ、今でも宇都宮では正月に「百人一首(かるた)取り大会」が催され郷土芸能として根付いている。鎌倉に戻ることを許された頼綱は承久の乱で鎌倉留守居役を務めて伊予国守護を拝命した。この頃、鎌倉幕府本庁が大倉から宇都宮辻子に移転され、宇都宮辻子幕府と呼ばれるようになった。
5代当主頼綱が出家した後、頼綱の子は皆幼少であったため、鎌倉幕府への出仕は実弟の宇都宮朝業が引き継いだ。朝業は下野宇都宮氏の北の拠点として塩谷郡に進出し、河内源氏流塩谷氏の後を継いで舘の川の要害の地に山城である川崎城を築いて拠城とした。一方で朝業は兄と同様に歌人としての力量に恵まれ、同様に後世に歌人として知られる第3代将軍源実朝とは身分を越えた関係にあった様子が吾妻鏡にも描かれている。しかし実朝が公暁によって暗殺されると朝業も出家して信生法師と号し、兄・頼綱と同様に証空を師事して京に住まいその後半生は歌人として隠遁生活を送った。
朝業が隠棲した後、幕府への出仕は頼綱の次男である宇都宮頼業を経て第6代宇都宮家当主宇都宮泰綱が引き継いだ。泰綱の母は初代幕府執権北条時政の娘であったこともあり、泰綱は評定衆そして美濃国守護に任ぜられる。また朝廷からは下野守に叙任せられ官位は正五位下を授かった。泰綱が出仕していた間に征夷大将軍の職は九条頼経、九条頼嗣、宗尊親王と変わったが、泰綱は引き続き将軍家とも良好な関係を維持し、将軍家行事の際には常に供奉したが、父・頼綱が没した後間もなく、在京を命じられ京の地で没した。
泰綱の後を継いだ第7代当主宇都宮景綱は御成敗式目の下に宇都宮家式条(弘安式条)を定めるとともに、宇都宮城下に東勝寺や一向寺といった寺院を建立し、城下町・宇都宮の基礎を形成した。また景綱は歌や蹴鞠にも長けていたと伝えられる。景綱も評定衆と引付衆に任ぜられ幕府の要職を担うとともに朝廷から下野守に任ぜられたが、霜月騒動で安達泰盛が追討されると泰盛と姻戚関係を結んでいた景綱は蓮喩と号して出家した。しかし霜月騒動で権勢を揮った平頼綱が北条貞時の軍勢によって討たれると、景綱も政界に復帰した。
鎌倉時代中期、景綱の後を継いだ第8代当主宇都宮貞綱が元寇に際して鎌倉幕府六波羅探題の命を受けて討伐軍総大将として九州に赴き勝利に貢献し、引付衆に任ぜられた。貞綱は亡母の13回忌に日本国内で他に例を見ない巨大鉄製塔婆を菩提寺であった東勝寺(宇都宮氏改易とともに廃寺)に奉納した(宇都宮市清巌寺蔵、国の重要文化財)と言われている。
鎌倉時代後期、河内国で楠木正成らが挙兵、住吉・天王寺に陣を張ると、幕府側は六波羅探題が隅田・高橋ら討伐軍五千騎を差し向けたが楠木軍の軍略に翻弄されて敗れた。京に上った第9代当主宇都宮公綱以下紀清両党が小勢十数騎で討伐に向かったが、その行軍を見た楠木正成は「宇都宮一人小勢にて相向ふ志、一人も生て帰らんと思ふ者よも候はじ。其上、宇都宮は坂東一の弓矢取也。紀清両党の兵、元来戦場に臨んで命を棄る事塵芥よりも尚軽くす」とし、刃を交えること無く撤退したといわれる(太平記)。その後、幕府は新田・足利の蜂起により滅亡したため、公綱は後醍醐天皇の下、建武の新政で雑訴決断所を務めた。
南北朝時代 ~ 室町時代
編集足利尊氏が鎌倉で新政から離反した後も公綱は南朝方として動いたが、子の10代宇都宮氏綱は足利氏に属した。足利家の内紛から発展した観応の擾乱では尊氏方に就いた氏綱が武功を上げ、中央政府から上野国・越後国守護職を授かった(1352年、なおこの時期に氏綱が下野国守護に補任されたとする説もあるが、小山氏政を守護とする異説も存在しており見解が分かれている)が、その後鎌倉公方足利基氏によって関東管領上杉憲顕がその職に任じられ失職した(1363年)。11代当主宇都宮基綱は下野国守護の小山義政の攻略を受けて戦死したが、小山義政は逆に鎌倉公方足利氏満・関東管領上杉憲方率いる鎌倉軍によって討伐され、12代宇都宮満綱は無事領有権を保持した。
その後、足利持氏が鎌倉公方職に就いたが、持氏は関東管領上杉氏憲と不仲となり、氏憲の領国内で鎌倉公方に反旗を翻す国人一揆が発生し、持氏はこれら国人を一掃して勢力を誇示した(上杉禅秀の乱、1416年)。持氏の勢力拡大に危機感を持った室町幕府・足利義持は関東の有力武家をして京都扶持衆を構成し持氏を牽制した。禅秀の乱の恩賞として持氏から上総国守護を授かった13代当主宇都宮持綱は、室町幕府の命とはいえ京都扶持衆を務めたため持氏の反感を買うこととなり、同じく扶持衆の小栗満重とともに持氏によって追討されてしまった。この後、持氏は関東管領で下野国守護の上杉憲実と抗争を起こし、逆に憲実によって自害に追い込まれた(永享の乱、1440年)。
持氏の遺児らは結城氏朝に匿われ結城城で挙兵したが、幕府方の上杉軍によって鎮められた(結城合戦、1442年)。また、やはり持氏の遺児で幕府の意向を受け鎌倉公方を再興した足利成氏は、1454年、時の関東管領・上杉憲忠を殺害し、終わり無き享徳の乱が勃発した。成氏は幕府軍の追討を受けて鎌倉を失い、古河に移って古河公方と呼ばれるようになった。14代当主宇都宮等綱はこの間一貫して幕府・管領上杉氏に追従したため、成氏の命を受けた那須資持の攻撃を受け、出家して宇都宮を去り奥州白河で病死した。15代当主宇都宮明綱・16代当主宇都宮正綱は成氏に従った。
戦国時代
編集戦国時代初期、代々続いた古河公方との対立を克服した。17代当主宇都宮成綱は宇都宮氏の全盛期を築き上げた北関東の英傑である。その革新的な思想や戦略的野望、実力から宇都宮氏の中興の祖と言われており、古河公方の威光をうまく利用して強い影響力を持っていた。武茂氏や芳賀氏の反抗的な家臣を討伐して家臣団を再編し、会津の蘆名氏を関谷片角原で破り、古河公方家の内紛に介入するなど勢力を拡大し、宇都宮氏を戦国大名へと成長させた。権力が増長しすぎた家臣である芳賀氏を宇都宮錯乱を経て再び服従させた。その隙を狙って1514年に侵攻してきた常陸の佐竹義舜を筆頭とする佐竹・岩城・上下那須連合軍の2万の大軍の攻勢を巧みにかわした。さらにその2年後に再び佐竹義舜が大軍を率いて侵攻してきたが、事前に下那須氏と密かに不戦条約を結んで備えていた成綱の計略と采配が振るい、再起不能になるまでの大打撃を与えた(小川縄釣の合戦))。また、外交面でも断絶した一門である塩谷氏、武茂氏や叛乱因子の芳賀氏に子や兄弟を継がせ、娘を結城氏や古河公方に嫁がせ強力な基盤を作り勢力の安定化を図り、北関東随一の勢力にまで拡大させた。しかし成綱の死後、18代当主宇都宮忠綱は成綱の革新的な思想や戦略が伝わっていなかった。無謀な侵攻を続け、勢力を拡大させるが、周辺豪族や家臣との競合・内紛が起こるようになり、忠綱は家臣に叛乱を起こされ、宇都宮城を追放される。逃れた忠綱は鹿沼城の壬生綱房のもとに保護され、都賀の地で病没した(綱房による謀殺ともいわれている)。19代当主宇都宮興綱の頃になると芳賀高経、壬生綱房、芳賀高孝の権力が増大しすぎて当主との主従関係が逆転し始めてしまう。内紛が起きて忠綱から当主の地位を奪ったことを高経、綱房、高孝らに咎められ強制的に隠居させられ、興綱は殺害された。
20代当主宇都宮尚綱の頃も引き続き高経、綱房、高孝が権力を保持していた。弟・興綱が殺害された一件以降徐々に、尚綱と高経の関係が悪化してくる。室町幕府・足利氏の弱体化とともに後北条氏が南関東に台頭すると、宇都宮氏は常陸国の佐竹氏とともにこれを北から牽制する一大勢力となった。尚綱は佐竹義篤・那須政資・小田政治と手を結び、見かけ上、北条氏に与した小山高朝・結城政勝と対立した。1541年には芳賀高経が敵対していた小山氏と関係を持ちはじめたので古河公方足利晴氏・佐竹義篤・小田政治とともに追いつめ、殺害する。1549年には古河公方の要請で那須氏との喜連川五月女坂の戦いに出陣するも討死してしまう。尚綱の死後、綱房は宇都宮城を乗っ取ってしまった。
尚綱の子で幼少にして当主の座に就いた21代当主広綱は病弱だったが、同族で配下の芳賀高定に支えられ壬生氏から宇都宮城を奪還し、支配権を維持した。広綱は外交面で力を発揮し、後北条氏に対抗するために宇都宮氏、佐竹氏、那須氏、結城氏らと反北条連合(後北条氏は東方ノ衆と呼んでいた)を形成した。次男の朝勝が結城氏の養子として送ったりして周囲との連携をより深めるなどし、抵抗を続けていくことになる。また、広綱の子で22代当主となった国綱は、豊臣秀吉や上杉謙信に北条軍の討伐を求め、1590年の秀吉軍による小田原征伐では秀吉の軍陣に参じた。秀吉軍は北条軍を破り、国綱はその領土を認められ秀吉から羽柴姓を受けた。その後秀吉は宇都宮城に入城し、東国の支配体制を決定した(宇都宮仕置)。この折には東国の名だたる戦国大名が宇都宮に参じたという。
秀吉は1592年、朝鮮に出兵するが国綱もこれに従い参陣する。帰還後は豊臣姓を賜り爵位従五位下に任ぜられたが、1597年、突然改易処分を受け備前国へ配流された。改易の理由は石高詐称や中央における石田三成と浅野長政の確執に巻き込まれた等諸説あるが、定かではない。
江戸時代以降
編集宇都宮国綱はお家取り潰し後、常陸の佐竹氏の与力となった。その後、佐竹氏の秋田への移封後に御家再興を図るも江戸の石浜で病死する。子孫は水戸藩に仕えた。
一族
編集※ 算用数字は宇都宮朝綱を初代とした場合の数で、漢数字は藤原宗円を初代とした場合の数
藤原氏道兼流
下野宇都宮氏
- 宇都宮朝綱【三】
- 宇都宮成綱【四】
- 宇都宮頼綱【五】
- 宇都宮泰綱【六】
- 宇都宮景綱【七】
- 宇都宮貞綱【八】
- 宇都宮公綱【九】
- 宇都宮氏綱【十】
- 宇都宮基綱【十一】
- 宇都宮満綱【十二】
- 宇都宮持綱【十三】(武茂氏より入嗣、京都扶持衆)
- 宇都宮家綱 (等綱が追放されていた間、宇都宮の家督を継いでいた説あり)
- 宇都宮等綱【十四】
- 宇都宮明綱【十五】(当主に含めない場合もある)
- 宇都宮正綱【十六】(等綱二男※2)
- 宇都宮成綱【十七】
- 宇都宮忠綱【十八】※3
- 宇都宮興綱【十九】(初め芳賀氏養子)
- 宇都宮尚綱【二十】
- 宇都宮広綱【二十一】
- 宇都宮国綱【二十二】
- 宇都宮義綱【二十三】(水戸藩家臣)
他家への養子
※1 藤原宗円の出自については、通説とされる藤原道兼流、中原氏流、上毛野氏流の諸説に加え、近年新説として登場した中御門流(右大臣藤原俊家の子)説[1]などがある。また、宗円が上流貴族に出自を持つ僧侶出身であったとしても、宗円に子孫がいたか(八田宗綱と親子かどうか)は別問題である(後世において、かつての実在の僧侶が祖先として仮託された)とする説[2]もある。
※2 宇都宮正綱の出自に関して芳賀氏から入嗣という説が一般的であったが、資料として確実性の高い足利義政の御内書には「亡父等綱」と書かれている。正綱を等綱の養子として考えることも不可能ではないが、等綱は寛正元年に白河の地で没しており、その場合だと15代当主の明綱が健在な時に白河で等綱と養子縁組をしたということになる。また、等綱が当時明綱を擁して等綱に敵対していた芳賀氏出身の人間と縁組するということはないといっても過言ではない[3]。
※3 成綱の次代以降の当主の関係について、忠綱(成綱の子)→興綱(成綱の弟)→尚綱(興綱の子)とする系譜と、忠綱以降3代を兄弟として忠綱(成綱長男)→興綱(成綱末子)→尚綱(成綱次男)とする系譜があり後者を正しいとする説もある[4]。
系譜
編集- 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
兼房 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗円1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
八田宗綱2 | 中原宗房 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宇都宮朝綱3 | 知家 | 寒河尼 | 豊前宇都宮氏 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
業綱4 | 氏家公頼 | 重業[5] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
頼綱5 | 業綱 | 永綱 | 塩谷朝業 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上条時綱[6] | 秋元泰業 | 横田頼業 | 泰綱6 | 多功宗朝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
景綱7 | 経綱 | 盛綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞綱8 | 芳賀高久 | 武茂泰宗 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
公綱9 | 芳賀高貞 | 冬綱 | 時綱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
氏綱10 | 義綱 | 城井家綱 | 泰藤 | 氏泰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
基綱11 | 氏広 | 氏泰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
満綱12 | 綱家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
持綱13 | 宇都宮持綱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
等綱14 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
明綱15 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正綱16[7] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
成綱17 | 興綱[8]19 | 武茂兼綱 | 塩谷孝綱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠綱18 | 尚綱[9]20 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
広綱21 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
国綱22 | 結城朝勝→宇都宮宗安 | 芳賀高武 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
義綱23 | 則綱 | 光綱[10] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
隆綱24 | 亮綱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宏綱25 | 尾羽陳綱 | 尾羽綱利 | 典綱[11] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寿綱26 | 宇都宮征綱 | 充綱 | 真壁康幹 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
征綱27 | 武綱[12] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
熹綱28 | 綱充 | 章綱[13] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秀綱29 | 孫綱[14] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
朝綱30 | 軽部和順 | 重綱 | 渋江光音 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
憲綱31 | 孟綱 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞綱32 | 真崎宗翰 | 康甫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- ^ 野口実「下野宇都宮氏の成立とその平家政権下における存在形態」『東国武士と京都』(同成社、2015年)所収
- ^ 山本享史「鎌倉時代における在京活動と東大寺」江田郁夫 編著『中世宇都宮氏 一族の展開と信仰・文芸』<戎光祥中世史論集 第9巻>戎光祥出版、2020年1月 ISBN 978-4-86403-334-3 P206-207.
- ^ 江田郁夫 著『戦国大名宇都宮氏と家中』(岩田書院、2014年)ISBN 978-4-87294-847-9
- ^ 江田郁夫「大永期の宇都宮氏」『国史談話会雑誌』37号(1997年)など
- ^ 高階忠業の子、猶子。
- ^ 上条玄信の子。
- ^ 芳賀成高の子、宇都宮持綱の外孫。
- ^ 宇都宮成綱の末子、宇都宮忠綱・宇都宮尚綱の弟する説もある。
- ^ 宇都宮成綱の子、宇都宮忠綱の弟で宇都宮興綱の兄とする説もある。
- ^ 真壁重幹の2男。
- ^ 玉生舜宗の長男。
- ^ 佐竹東家・佐竹義智の3男。
- ^ 出羽久保田藩横手城代・戸村義孚の4男。
- ^ 出羽久保田藩廻座・梅津忠告の6男。
一門、関連氏族、家臣、陪臣
編集和歌の一族として
編集5代目の宇都宮頼綱は、同族である藤原定家と親交を深め、宇都宮歌壇を京都歌壇、鎌倉歌壇に比肩するほどの地位に引き上げ、これらを合わせて日本三大歌壇と謂わしめる礎を築いた。『明月記』の嘉禎元年(1235年)閏6月20日の記事には、京都の宇都宮邸の位置が記録されており、現在の四条通りの一筋北の錦小路と新京極の通りのやや西の富小路の交わったあたりであることが判明している。そして藤原定家の京極邸はその北東約1.5km弱の二条寺町にあったため、頼綱と定家の関係は親密さを増し、定家の子・藤原為家に頼綱の娘が嫁いだ。2人の間には御子左家嫡流の二条為氏と京極為教が生まれており、為氏が貞応元年(1222年)生まれのため、婚姻の年はそれ以前と考えられる[1]。
寛喜元年(1229年)には、藤原定家と藤原家隆の2人の歌人が、宇都宮大明神(二荒山神社)で神宮寺を作ったときに襖を飾る障子歌として、大和国の名所歌十首を色紙に書いて贈っている[1]。
嘉禎元年(1235年)の夏に、定家は頼綱に依頼されて、京都の西の郊外、嵯峨の中院に頼綱が立てた山荘の障子歌色紙を書いて贈っている。百人一首は、この際に定家に選定してもらった和歌98首をその襖絵として飾ったことに始まるといわれている[1]。
十三代集や宇都宮歌壇の歌集である『新◯和歌集(しんまるわかしゅう)』には頼綱やその子孫の作品が多数収められている[1]。
また、個人の歌集においても、頼綱の弟・塩谷朝業(信生)の『信生法師集』、朝業の子・笠間時朝の『前長門守時朝入京田舎打聞集(さきのながとのかみときともにゅうきょういなかうちぎきしゅう)』、頼綱の孫・宇都宮景綱(蓮瑜)の『沙弥蓮瑜集(しゃみれんゆしゅう)』が残されているほか、横田頼業(頼綱の二男)、八田時家(頼綱の祖父・朝綱の弟・八田知家の子)、武茂泰宗(景綱の三男)が勅撰集などに名を残している。こうした人々を中心に歌会が宇都宮や笠間などで催され、宇都宮歌壇と称される鎌倉に次ぐ地方歌壇の盛況を見せた[1]。
頼綱自身の和歌は、『新○和歌集』に59首が収められているのをはじめ、『新勅撰和歌集』(3首)、『続後撰和歌集』(6首)、『続拾遺和歌集』(6首)、『新後撰和歌集』(6首)などの勅撰和歌集には39首が撰ばれており、重複を除くと約90首ほど現存する[1]。
『新◯和歌集』
編集宇都宮一族の中には、頼綱と定家との親交のように、都の文化人との交流もあり、多くの歌人が生まれた。そうした宇都宮一族の和歌を中心にまとめられたのが『新○和歌集(しんまるわかしゅう)』である。名前の由来は、二荒山神社に伝わる寛文12年(1672年)の写本の奥書に、二条為氏が宇都宮に下向して、その際に編纂された和歌集は元は『新式和歌集』と言ったが、ある事情があって一字が除かれ「新○和歌集」となったと記されている[1]。
『新○和歌集』は藤原定家と頼綱の孫にあたる二条為氏の撰によるとされ、186人の875首が収められています。頼綱の死(正元元年(1259年)11月12日)の直前の正元元年(1259年)9月ごろに完成されたと考えられ、蓮生の59首をはじめ、信生(塩谷朝業)、蓮瑜(宇都宮景綱)などの宇都宮一族に加え、源実朝、定家と為家親子など、京都、鎌倉を代表する歌人が名を連ねており、宇都宮一族の文化レベルの高さや人脈の広さを示している[1]。