益子 安宗(ましこ やすむね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士下野宇都宮氏の家臣。下野国芳賀郡西明寺城主。

 
益子安宗
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄5年(1562年
死没 寛永12年3月25日1635年5月11日[1]
別名 紀安宗、紀四郎、左兵衛頭
官位 宮内大輔
主君 下野宇都宮氏
氏族 益子氏
父母 父:益子勝宗、母:佐竹氏
兄弟 信勝安宗芳賀高定賢仁
七井勝忠、女子4人
笠間美作守の娘
家宗重綱
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出自

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元々、益子氏は紀党といい、清党の芳賀氏共々紀清両党と称される下野の有力武士団として下野守護・宇都宮氏の主要な軍事力であった。その後、芳賀氏が宇都宮氏との縁戚関係を背景に台頭し、一方の益子氏は重い軍役に強いられると、次第に半独立化を志向するようになっていた。

略歴

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益子勝宗の子として誕生。

長兄で嫡男であった信勝が、武田信玄から偏諱を受けた事を宇都宮広綱の正室・南呂院に疎まれ那須氏の有力家臣・大関氏の下に走ったため、庶子であった安宗が嫡男となる。

しかし天正7年(1579年)、益子氏の重臣・加藤上総の讒言により幽閉され、家督は子の家宗に継承された。以後、隠居の身分として余生を過ごした。

寛永12年(1635年)、死去。

脚注

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  1. ^ 『栃木県史 史料編 中世 4』(栃木県、1979年)p.511