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歴史に関するyuisekiのブックマーク (125)

  • 人類館事件 - Wikipedia

    人類館事件(じんるいかんじけん、「学術人類館事件」、「大阪博覧会事件」とも)は、1903年に大阪・天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、アイヌ・台湾高山族(生蕃)・沖縄県(琉球人)・朝鮮(大韓帝国)・清国・インド・ジャワ・バルガリー(ベンガル)・トルコ・アフリカなど合計32名の人々が、民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国が自分たちの展示に抗議し、問題となった事件である。 19世紀半ばから20世紀初頭における博覧会は「帝国主義の巨大なディスプレイ装置」であったといわれる。博覧会は元々その開催国の国力を誇示するという性格を有していたが、帝国主義列強の植民地支配が拡大すると、その支配領域の広大さを内外に示すために様々な物品が集められ展示されるようになる。生きた植民地住民の展示もその延長上にあった。 人間そのものの展示が博覧会

  • 『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』はスゴ本

    「役に立たない人を安楽死させよう」という世の中になるなら、それはどんなプロセスを経るか? これが、嫌と言うほど書いてある。ヒトラーの秘密命令書から始まったT4作戦[Wikipedia]を中心に、医師が「生きるに値しない」と選別・抹殺していった歴史が緻密に書かれている。 対象となった人は多岐に渡る。うつ病、知的障害、小人症、てんかんに始まり、性的錯誤、アル中、反社会的行動も含まれていた。こうした人びとが何万人も、ガス室に送られ、効率的に殺されていった。ユダヤ人の迫害にばかり目が行っていて、書を読むまで、ほとんど知らなかった自分を恥じる。書は、不治の精神病者はガス室へ『夜と霧の隅で』で教えていただいた(hachiro86さん、ありがとうございます)。 問題は、ナチスに限らないところ。優生学をナチスに押し付け断罪することで、「消滅した」という図式にならない。社会システム化された「安楽死」(と

    『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』はスゴ本
  • ロシア

    ロシア ロシア歴史の概略 9世紀のノルマン系ルーシの南下と東スラヴ人との同化によって形成された国家。一時モンゴルの支配を受けたが15世紀のモスクワ大公国の独立以来、東ヨーロッパの大国として成長し、現代では世界最初の社会主義国となった。 <概略> ノルマン人の移動の一環として、バルト海方面から南下したルーシが、先住のスラヴ人に同化して成立した国家。中世のキエフ公国以降はギリシア正教を国教とし、スラヴ人の国家として意識される。13世紀からモンゴル人の支配を受けていたが、15世紀にモスクワ大公が自立し、16世紀のイヴァン4世の時に封建社会を基盤として皇帝ツァーリが支配するツァーリズム国家としての体制を作りあげた。その後内紛が続いたが、17世紀にロマノフ朝が成立、18世紀前半にピョートル大帝の時「バルトの覇者」として大国となり、シベリア方面への進出も続けて有数の大国ロシア帝国となった。18世紀の

  • アメリカ合衆国

    アメリカ合衆国/USA 1776年独立を宣言した13州からなる連邦国家で世界史上最初の近代的共和制国家。領土を西方に広げ、19世紀中頃までに太平洋岸に達し大国となる。南北戦争の危機を克服し、豊かな資源と労働力を持つ資主義国として急成長、第一次世界大戦後に覇権的な地位を占める。 独立までの概要 15世紀末のコロンブスの北アメリカ大陸到達以来、初めはスペイン人、その後、フランス人やイギリス人などヨーロッパから移住、入植した白人の移民は、東部の海岸地方を現地人インディアンから奪い、定住していった。北米大陸でのイギリス人の殖民の最初は1607年のヴァージニア、に始まり、最後の1732年のジョージアまでに13植民地が大陸東部の大西洋岸に形成された。この間、1620年には、イギリスでの宗教的迫害を逃れたピューリタン(清教徒)がメイフラワー号に乗ってプリマスに上陸した。彼らは新天地にコミュニティ(タウ

  • フランス

    フランス(2) カペー朝・ヴァロア朝 11世紀ごろから農業生産力が高まり、十字軍時代に商業が復活して封建社会が変質するとともに封建領主層が没落し、カペー朝の王権が強化される。フィリップ4世はローマ教皇と争い優位に立った。ヴァロワ朝への継承をめぐってイギリス王家との百年戦争が展開されたが、この14~15世紀にわたる戦争の長期化で、封建領主の没落が決定的になり、ヴァロワ朝のもとで絶対王政が成立する。 カペー朝の成立 987年にカロリング朝の王家が断絶し、パリ伯ユーグ=カペーが王位を各地の豪族に押されて王に選出され、カペー朝が創始された。このときから、「フランス」と称するようになる。カペー朝の王位は世襲されたが、王権は周辺の諸侯に押されて、強くはなかった。カペー家の他にノルマンディー公やアンジュー伯、ブルゴーニュ公などの有力諸侯が分権的な力を振っており、またローマ教皇もフランス王よりも強大な力を

  • イギリス

    ・ページ内の見だしリスト (1)古代のイギリス (2)七王国からノルマンの征服へ (3) 中世のイギリス (4) 16世紀 絶対王政 (5) 17世紀 イギリス革命の時代 (6)18世紀 植民地帝国の繁栄 (7)ウィーン体制からヴィクトリア朝へ (8)イギリスの帝国主義 (9) 第一次世界大戦と戦間期のイギリス (10) 世界恐慌からファシズムの台頭へ (11)第二次世界大戦 (12)戦後のイギリス (13)1950~70年代のイギリス 巨石文化の時代 ブリテン島は氷河期には大陸と地続きであったのでネアンデルタール人など旧人が居住したことが遺跡で判っている。約1万年前には新人が大型獣を追ってやってくるようになり、約6000年前に大陸から分離して島になった。前2200年前から前1300年前の時期に、有名なストーンヘンジという巨石文化を残したのは、ビーカ人と呼ばれる人びとで、青銅器と農耕文明を

  • イギリス連邦/英領コモンウェルス

    イギリス連邦/英領コモンウェルス 1931年のウェストミンスター憲章で成立した、イギリス国と自治領、植民地を結ぶ緩やかな連合体。 イギリスは17世紀から広大な海外植民地を獲得し、18世紀後半には植民地帝国として繁栄し、第一帝国ともいわれた。 19世紀後半からの帝国主義になると、イギリス(この時期はイギリス第二帝国と言われる)ではインドなどの非白人地域の植民地に対しては直接支配を強めながら、白人入植者が主体となった地域は自治領(ドミニオン)として実質的な独立国とするようになった。自治領諸国に対しては、1887年からはイギリス植民地会議、1907年からはイギリス帝国会議としてイギリス国とのつながりの維持に努めていた。 第一次世界大戦後には国と自治領との関係は、対等な関係と意識されるようになった。そのような傾向を受けて、1926年の帝国会議で提起され、それを受けたイギリス元首相バルフォアを

  • 100人の男達が漂着した島、住居跡で発見したこと HONZ特選本『漂流の島 江戸時代の鳥島漂流民たちを追う』 | JBpress (ジェイビープレス)

    (文:野坂 美帆) ロビンソン・クルーソーのモデル、スコットランドの船乗りアレクサンダー・セルカーク。南太平洋の無人島に漂着した彼は、4年4カ月を1人きりで生き延びた。彼が漂着した島はチリにあり、現在ではロビンソン・クルーソー島と名付けられている。 『漂流の島 江戸時代の鳥島漂流民たちを追う』の著者・高橋大輔氏は、広告代理店の職を辞してセルカーク住居跡の発掘プロジェクト推し進め、13年かけて遂にそれを発見した。そんな高橋氏が日のロビンソンに興味を持つのは必然だったのかもしれない。

    100人の男達が漂着した島、住居跡で発見したこと HONZ特選本『漂流の島 江戸時代の鳥島漂流民たちを追う』 | JBpress (ジェイビープレス)
  • 「都市と暴動の民衆史」書評 暴力を誘発、「男らしさ」の論理|好書好日

    都市と暴動の民衆史―東京・1905—1923年 [著]藤野裕子 1905年、日露戦争の講和条約に反対する集会をきっかけとして、日比谷焼打(やきうち)事件が起こった。この事件から18年の米騒動までの間、東京をはじめとする都市では民衆暴動が相次いだ。だが普通選挙運動が活発となる20年代になると秩序化が進み、表面上は暴動が見られなくなる。それはなぜかを解き明かそうとしたのが書である。 日比谷焼打事件の背景には政治集会の屋外化というべき時代の変化があった。集会が開園間もない日比谷公園で行われ、参加者が増えたことが暴動を誘発したのだ。しかもその参加者は、ほぼ全員が若年労働者を中心とする男性だった。著者は「男らしさ」をキーワードに、この時代に起こった暴動に共通する論理を掘り下げてゆく。 ところが20年代になると、民衆自身が政治主体となる権利を要求するため、暴力を抑えようとした。つまり普通選挙運動それ

    「都市と暴動の民衆史」書評 暴力を誘発、「男らしさ」の論理|好書好日
  • 【ファッション】なぜ囚人の服は縞模様なのか - 歴ログ -世界史専門ブログ-

    Photo by Patrick Denker 忌み嫌われた「縞模様」の歴史 囚人といえば、なぜか上下縞模様の服を思い浮かべます。 最近だと、漫画「プリズンスクール」の男子生徒たちもそうだし、アニメ「ウサビッチ」のキャラもそうだし、ゲーム「ストリートファイター」シリーズに出てくるコーディーもそう。 なんで囚人は縞模様の服がステレオタイプになっているんでしょうか。 単純に、脱獄された時にそれと分かりやすいという実利的な面もあるでしょうが、歴史を紐解いてみれば、そもそも西洋で「縞模様」が忌み嫌われ、ある種「不吉」や「排斥」のシンボルだったのが根にあるようなのです。 1. 聖書の記述と「愚か者」たち 「 レビ記」第19章19節にこうあります。 二種の糸の交ぜ織りの衣服を身につけてはならない 曖昧な書き方で、素材が同じなら色が違ってもいいのか、二種の「色の」糸の交ぜ織りなのかよく分かりません。こ

    【ファッション】なぜ囚人の服は縞模様なのか - 歴ログ -世界史専門ブログ-
  • 「世界を変えた6つの飲み物 - ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、紅茶、コーラが語るもうひとつの歴史」 - もぎゃろぐ

    最近読んで面白かったの話。世界を変えた6つの飲み物 - ビール、ワイン、蒸留酒、コーヒー、紅茶、コーラが語るもうひとつの歴史。 ビールやワイン、蒸留酒、コーヒー紅茶にコーラまで、その飲み物がどうやって開発されて、なぜヒットしたのか、社会にどんな影響を与えたのか、といった具合に、飲み物を通して歴史を語ったです。 例えば、古代メソポタミアで最初に一般化したアルコールはビールでした。 なぜかというと、穀物を水につけておけば勝手に出来上がったから。穀物を水につけておくと麦芽糖ができて甘くなります。これが空気中の酵母と偶然触れ合ってアルコールに変化したのです。 原理的には果物とか蜂蜜でも可能なはずだったのですが、当時穀物はたくさんあったので、人類はこの偶然に改良を繰り返してビールを造る方法を学習しました。 7000年くらい経って都市が成立すると、ビールは一種の通貨として使われるようになりま

  • 「現代」を知るためにこれだけは読んどけっていうWikipediaの記事 - デマこい!

    で最初の神前結婚式は、明治33年(1900年)に東京大神宮で行われた。神道は日古来の伝統的なものだと考えられがちだが、組織宗教として体系化されたのは明治以降だ。現代の私たちにとって当たり前の常識や習慣は、ほんの少し昔まで常識でも習慣でもなかった。 「現代」を理解するためには、過去を知ることが欠かせない。 病気にならなければ健康の大切さが分からないように、過去と照らし合わさなければ現代がどのような時代か分からない。現代を理解するための過去の知識のことを、教養という。 教養を身につけるには、相応のを読むのがいちばんだ。が、いまの私たちは膨大な文献を読めるほどヒマではない。そこで威力を発揮するのがWikipediaだ。たしかにWikipediaの情報は正しいとは限らないし、どんなに読み込んでも「つまみい」程度の知識しか身に付かない。しかし、聞きかじりの知識であっても、何も知らないよりは

    「現代」を知るためにこれだけは読んどけっていうWikipediaの記事 - デマこい!
  • 世界史教室

    2024年度・合格者の再現答案 (再現答案について) どんな答案を書いたから合格したのか知ることができないものです。そこで実際に合格されたかたに受験場で書いた答案を、試験が終わってから時間のあまり経過していない段階で再現していただきました。合格者人から掲載の許可をえています。答案として完全ではありませんが、合格に寄与した答案であることは確かです(もちろん世界史だけで合格できるわけでもないことは言うまでもありません)。ただ予備校の細かい知識を駆使(ひけらか)した答案ではなく、高校生・高卒生が書ける合格答案とはどういうものかを知ることができます。受験場ではカンニングする教科書・参考書・用語集はなく、それまで勉強してきたことを精一杯発揮した貴重なものです。(なお下線の必要な答案に下線が引いてありません) 東大 第1問 (1)アジア。ベトナム。インドシナ戦争終結後も東西対立を基軸として南北が対立

    世界史教室
  • 十二表法 - Wikipedia #第4表

    十二表法(じゅうにひょうほう、Lex Duodecim Tabularum)は、古代ローマにおいて初めて定められた成文法。名前は12枚の銅版に記されたとする伝承に由来する。十二銅板法とも呼ばれる[1][2]。 伝承によれば、十二表法の制定以前のローマにおいては法知識はパトリキ(貴族)に独占されており、そのことに対するプレブス(平民)の不満は強かった。プレブスの強まる成文法への要求に対しパトリキ側もその作成を約束し、ギリシアのアテナイに使節を派遣しローマの成文法の参考とした。 ティトゥス・リウィウスによれば、紀元前486年の土地分配法提出以降、毎年のように護民官の提出するプレブスの権利拡大や、パトリキの権限制限を狙った法案を巡って争いが起きており、その妥結点として、パトリキとプレブス双方から責任者を選出して新しい法を定める事が提案され、責任者についてはひとまず置き、ソロンの法や社会制度の研究

    yuiseki
    yuiseki 2013/10/31
    成文法 貴族に独占されていた法知識の解放
  • 『偶然を飼いならす:統計学と第二次科学革命』

    イアン・ハッキング著  石原英樹・重田園江訳 『偶然を飼いならす:統計学と第二次科学革命』 木鐸社 1999年刊 The Taming of Chance by Ian Hacking Cambridge University Press 1990 目次 以下は、ハッキング自身による内容紹介である。 第1章 書の概要 決定論は19世紀中に衰退し、偶然chanceという自律的な法則のために空間が開かれた。また、人間性human natureという概念はばらつきdispersionの法則に従う正常人n

    yuiseki
    yuiseki 2013/10/31
    ナポレオンと統計
  • Amazon.co.jp: リスク 上: 神々への反逆: ピーターバーンスタイン (著), 青山護 (翻訳): 本

    Amazon.co.jp: リスク 上: 神々への反逆: ピーターバーンスタイン (著), 青山護 (翻訳): 本
    yuiseki
    yuiseki 2013/10/31
    ナポレオンと統計
  • イアン・ハッキング「偶然を飼いならす」

    サブプライムローン問題に続くユーロ危機という現在の混乱は、 偶然の飼いならしに失敗し、ブラックスワンが羽ばたいた結果とも言える。 いつからなのか? 偶然を「まぐれ」のまま放っておけなくなったのは? 確率・統計を駆使して「偶然を飼いならそう」としはじめたのは? そしてどのようにゆがんでいったのか? そんな疑問に答えてくれるのがこの。難解だが重要だ。 ピーター・バーンスタイン「リスク」と併読すると理解が深まりそう。 現時点で理解できた範囲で、いったんまとめておこう。 ヨーロッパは長らく、この世は普遍的な自然法則にしたがっているはず、 といういわゆる「決定論」に支配されていた。(宗教的な影響か?) 偶然について考えること自体が、神々への反逆であり、バカげた行為。 そんな社会的背景をひっくり返すきっかけになったのがナポレオン。 「統計は事物の予算である。そして予算なくしては公共の福祉もない。」

    yuiseki
    yuiseki 2013/10/31
    ナポレオンと統計
  • 1.人口成長の長期的動態

    yuiseki
    yuiseki 2013/10/31
    ナポレオンと統計
  • イギリスで最初の国勢調査が発表された。 | 1801-06-29 | Time-AZ

    yuiseki
    yuiseki 2013/10/31
    ナポレオンと統計
  • 統計 - Wikipedia

    ウィキペディア日語版の記事数の統計 統計(とうけい、英: statistic)は、社会の状態を数値によって精確に知りたいという要求に応えるため、実測したデータを元に計算した数値、あるいはそれを多数ひとまとめにしたものである。通常、関心の対象となる人々や事物の全数もしくはその一部について個別に情報を集め、計算をおこない、その結果を印刷物または機械可読な電子ファイルなどのかたちで公表する。この結果がじゅうぶんな信頼を得ている場合、それ自体で対象の状態を精確に反映したものとみなされる。たとえば、ある地域の人口統計の示す人口の数値が年々上昇しているということが、すなわちその地域において人口が当に増加しているということだと解釈されるのである。 実現可能な範囲で精確な統計をつくる努力が重ねられてきた結果、統計の元となるデータの収集から結果の公表にいたるまでの手続きについて、標準的な考えかたが確立し

    統計 - Wikipedia
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    yuiseki 2013/10/31
    ナポレオンと統計