世の中に絶望していた。
自分の可能性に心の底から失望していた。
四六時中息苦しかった。
考えなければいけないけど、考えるのは辛く、かといって考えることから逃げてもまた辛かった。
そんな時、知り合いにされて嬉しかったのは、挨拶と世間話だった。
小栗旬がどうだ、AKBがどうだ、という世間話をして気を紛らわすこと、
それらの、はてな界隈では「中身が無い」とされているようなことが、
疲れ果て、煮詰まり、逃げ出したくてしょうがないときの救いや癒しになった。
同じところをぐるぐる回り、衰弱し、怠惰に、逃げ腰になっている私に、
厳しい言葉をかけ、将来と向き合わせてくれたのは、親であり、恩師であり、親友だった。
相手が産み育ててくれた親であり、就職などの世話をしてくれた恩師であり、
精神的に煮詰まったときには部屋に呼んで、徹夜で飲んで愚痴を聞いて
酔い潰れたら寝かせて毛布をかけてやることをお互いに何度も経験した間柄の親友であるから、
彼、彼女らの言葉は力を持ち、辛い現実や不明瞭な将来について向き合うことができた。
心から感謝することができた。
厳しい言葉をただの知り合いに言われたところで、泥沼に落ち込むだけだった。
ただの知り合いに、落ち込んでいるときだけしゃしゃり出てこられて、
いきなり本質をぶつけられても、通り魔にボコボコにされたような気分になり、沈み、憎悪に繋がるだけだった。
「お前に何がわかる」としか思えないのだ。
私の苦しみを面白がっているとしか思えないのだ。知り合いに言われても。
私にとっての特別な存在からの言葉でないと、上から目線としか感じないのだ。
誰に対しても本質を突こうとするのは、自分の立ち位置が見えていない人の行動だと思った。
自分が弱ったとき、他人からされてみて、初めてそういった行動の有害さがわかった。
昔は私自身も、問題には早急に向かい合うべきだし、世間話やあいさつには中身も意味も無く、
誰に対しても本気で本題をぶつけるべきだと思っていたのだけれど、
信頼関係が出来ていれば「本質的な話」がその人を救うことになるし、
信頼関係がお粗末であれば、「本質的な話」は相手を不快にし憂鬱にし恨まれるだけなのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20100716145433 とりあえずこれ読んで考えなよ。 自分が相手にとって、シビアに現実を突き付ける資格がある人間なのかどうか。
読んで考えてみた。 シビアに現実を突き付けずに世間話で水を濁すのは相手にとって「優しい虐待」行為。癒されてる気分のままどんどんダメになっていく。アル中患者に酒を酌するに...