1千年紀
1千年紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:59 UTC 版)
キリスト教信仰は、政府の弾圧にもかかわらず西暦64年から313年の間にローマ帝国内で花開いた。聖書以外で「クリスチャン」という言葉が出てくる最古例は、タキトゥスによる記録で、皇帝ネロが64年のローマの大火をキリスト教徒の犯行だと非難したとするもの。 200年頃にはテルトゥリアヌスがキリスト教徒迫害について「殉教者の血は(教会)の種となる」と語った言葉が引用された。エウセビオスの『教会史』2巻25章4節の記述(英文)では ローマ人テルトゥリアヌスもまた(ネロがキリスト教の敵となった最初の皇帝であることの)証人である。彼は次のように書いている記録を調べてみよ。そうすればこの教義を最初に弾圧したのがネロで、東方を征服したあと今まで以上にローマで残酷の限りを尽くしたことがわかるだろう。彼のような男が我々を迫害するリーダーであったことを誇りに思う。なぜならネロを知っている人間ならわかることだが、あの男は非常に素晴らしいものは必ずつぶしにかかるからだ。 313年、皇帝コンスタンティヌス1世の発布した ミラノ勅令によりキリスト教が公認され、正式に弾圧が終わった。同皇帝の下で、第1ニカイア公会議(コンスタンティヌス大帝の宗教政策 Constantinian shiftとも呼ばれる)に始まり、キリスト教徒は政治への強い影響力を手に入れた。その結果起こった様々な出来事は今日までも論争の的になっている。 380年にはテオドシウス1世がニカイアのキリスト教を国教と定め、392年には他宗教を禁止し、キリスト教は古代ローマ帝国で完全に国教化した。かつての迫害期から考えれば、とてつもない変化である。 キリスト教徒達は目に見える普遍教会を統率し指導していくために、何世紀もかかってヒエラルキーを作り上げた。教会の成立時から1054年の大シスマ(東西教会の分裂)までの期間、全てのキリスト教徒は主教(司教)という地元の、そして総主教(総大司教)という地域の指導者の下、目に見える1つの組織である唯一の教会に属していた。 しかし451年のカルケドン公会議の頃から既に教義の解釈の違いから小さな分裂が起こっており、全地公会議が続く間も続いていた。
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