防火帯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/25 01:51 UTC 版)
防火帯(ぼうかたい、英語:firebreak)とは、防災上設けられる延焼被害を食い止めるための帯状の地域。
- ^ a b 糸井川栄一. “3.市街地の分節化 / 防火ブロック”. 日本都市計画学会. pp. 76-79. 2023年6月13日閲覧。
- ^ a b c “第1章 建築防火関係法制史”. 東京理科大学 研究推進機構総合研究院 火災科学研究所. 2023年6月13日閲覧。
- ^ 杉山 大志. “山火事は地球温暖化のせいなのか?”. 国際環境経済研究所. 2023年6月13日閲覧。
- ^ a b c “林野火災の発生・拡大防止と安全確保に向けた火入れ作業の手引き”. 森林火災対策協議会. 2023年6月13日閲覧。
防火帯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:36 UTC 版)
1937年(昭和12年)防空法制定、広島市でも防空態勢の充実が図られるようになる。太平洋戦争末期になると、戦況の悪化によりアメリカ軍による本土空爆が激しくなっていった。そこで、市街での延焼を防ぐため防火帯を設けることになり建物疎開が全国で実施される。1944年(昭和19年)11月、広島市において建物疎開実施が決定し、内務省により疎開地区が決められ、国民義勇隊や学童勤労奉仕隊(学徒動員)により作業が行われた。 現在の平和大通りにあたる道は、この時に鶴見町から福島町を結ぶ全長3,570m幅員100mの防災道路として計画されたものである。現在の平和大通り周辺の約16,000戸の立ち退き作業が行われ、上の空中写真のとおりほとんど終えていた地区もあり、防火帯の中央は幅20mほどの砂利道として整備されていた。 1945年(昭和20年)8月6日8時15分、アメリカ軍の投下した原爆により右の被害分布図や被爆後の各写真から、原爆の前では防火帯として全く意味がなかったとわかる。一瞬で全市に燃え広がったわけではなく、6日9時頃から拡大しその後14時まで勢いよく燃え広がり夕方には衰えたが、3日間燃え続けた。それでもこの防火帯の中央付近は火が及ばなかったため、多くの人がこの道から比治山へ向かって逃げていった。当時、風は南西方向から吹いていたため、爆心地付近でかろうじて生き残った多数が火を逃れるため風上にあたる西あるいは南へ逃げ、一部が東である比治山方面へ逃げている。防火帯に存在していた橋としては新橋が焼失したが、鶴見橋・新大橋、そして現在の平和大通り西端にあたる広島電鉄本線の鉄橋は落橋しなかったため、避難路となった。 またこの日は第6次建物疎開作業中で、この沿道に限れば鶴見橋西側付近・広島県庁付近(現在の中島町/加古町)・土橋付近の3箇所、その他広島市役所付近、八丁堀付近、電信隊付近(現在の比治山本町)、楠木町で行われていた。学徒動員は、この沿道含めた全体で約8,200人が動員されうち約5,900人が死亡した。国民義勇隊は明快な資料が残っていないため推定ではあるが、同様にこの沿道含めた全体で約11,600人が動員されうち約4,600人が死亡した(県社会援護課推測)。疎開地点でもあり比治山への避難経路だった鶴見橋両岸は、凄惨を極めた。 以下、この沿道に限った被爆当日における建物疎開の動員状況を示す。 疎開動員状況 疎開作業場所区分義勇隊名あるいは学校名鶴見橋付近国民義勇隊 市内義勇隊 尾長、矢賀、荒神、段原、比治山、楠那、白島、竹屋 郡部義勇隊 坂村、中野村 職域義勇隊 東洋工業、鈴木化学工業 学童勤労奉仕隊(学校報国隊) 広島女子商、比治山高女、進徳高女、市立第一工、広島電気、松本工業、県立第一中、広陵中、第一国民学校、楠那国民学校、牛田国民学校、白島国民学校 県庁付近国民義勇隊 市内義勇隊 本川、中島、観音 郡部義勇隊 安村、川内村 職域義勇隊 住宅営団、川本組、芸備銀行、油谷重工業、県義勇隊本部事務隊、宇品造船所、広島瓦斯、広島県庁、藤川製鋼所、勧銀広島支店、中国新聞、広島県水産業会、県加計土木出張所 学童勤労奉仕隊(学校報国隊) 第二国民学校、県立第二中、県工、市立第一工、市立造船工、市立第一高女、崇徳中、松本工業、安田高女、山陽商業、新庄中 土橋付近国民義勇隊 市内義勇隊 草津、神崎、大芝、三篠、天満、古田、広瀬、本川 郡部義勇隊 大竹町、小方村、玖波町 職域義勇隊 広島醤油KK、内務省中四国土木、帝人広島工場、昭和金属、住野工業、三菱重工業、高密機械製作所、広島機械製作所、広島食料品組合、広島工業、広島航空機KK、広島工業KK(廿日市)、東亜有機化学工業所、県加計土木出張所 学童勤労奉仕隊(学校報国隊) 本川国民学校、千田国民学校、草津国民学校、天満国民学校、県立第一中、県立第一高女、市立中、崇徳中、西高、安芸高女、県立商業 アメリカ軍が撮影した被爆後の広島市写真 現在の中区河原町付近から東方向を望む。中央に縦断する道がのちの平和大通り。手前左部分が後に平和公園。当日の建物疎開地点の一つ、県庁付近にあたる。なお左上のサインはポール・ティベッツのもの。 現在の広島駅付近から西方向を望む。写真中央を横断する道がのちの平和大通りになる。この道の写真右端が当日の建物疎開地点の一つである土橋付近、そこから左側の川を超えたところが県庁付近にあたる。 現在の中区寺町・広瀬から東方向を望む。中央の丘が比治山で中央の橋が鶴見橋、そこから右下へ伸びる道がのちの平和大通り。カーブ地点より向こう側が当日の建物疎開地点の一つ、鶴見橋付近にあたる。 現在の中区吉島付近から北方向を望む。写真中央やや右を縦断する太い道が鯉城通り、その下の橋が南大橋。その一つ上の交差点が鷹野橋交差点、その一つ上が白神社交差点であり、そこを横断する道がのちの平和大通り。 同1945年9月には大型の枕崎台風・同年10月には阿久根台風を伴って豪雨が広島市内を直撃し、更に被害は拡大した。
※この「防火帯」の解説は、「平和大通り」の解説の一部です。
「防火帯」を含む「平和大通り」の記事については、「平和大通り」の概要を参照ください。
- 防火帯のページへのリンク