結成へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 03:57 UTC 版)
ロプケが最初に取り掛かったのは部隊名の変更である。かつてアメリーが考案した「セント・ジョージ・イギリス軍団」の名称は宗教色が強く、ドイツ政府当局から不適切な名称と考えられていた為である。新しい部隊名には、当時SSに存在していた各国の義勇兵部隊に倣ったイギリス自由軍団(Britisches Freikorps, British Free Corps)が選ばれた。またSS隊員らが必ず入れていた血液型の入墨も、英国人義勇兵に対しては施さない事が決定された。1944年1月1日、イギリス自由軍団が公的に発足する。それから1か月後、部隊はベルリンからヒルデスハイムに移り、同地のミカエリス修道院(Michaelis-Kloster)内に駐屯した。また修道院からは労働収容所が近く、隊員のうち3名が部隊を離れ収容所内に派遣された。 4月、制服用の徽章等が制定される。左袖には「British Free Corps」と英語で刺繍された袖章と盾形のユニオンジャックのワッペンが縫い付けられ、イングランド王室紋章に倣った3頭のライオンがデザインされた襟章を着用していた。夏になるまでに、部隊の規模は23人まで拡大された。ドイツ側では規模が30名に達した段階でヴィーキング師団の一部として東部戦線に派遣しようと計画していた。この計画はまもなく隊員らに伝えられたが、東部戦線への従軍を不満に思う隊員も少なくなかった。例えば隊員の1人だったトーマス・フリーマン(Thomas Freeman)は、共に参加した14名を代表して計画への不満を表明した為に捕虜収容所へ送り返されている。 1944年8月までに、さらに4名の隊員が加わった。3名は明らかな非自発的志願者で、うち2名はドイツ人女性との不適切な性的関係の為に罰せられた者だった。最後の1名ウィリアム・シアラー(英語版)元中尉だけは自発的志願者で、率先して部隊の統率を行なっていた為、ロプケからの信頼も勝ち取っていた。しかしシアラーは何らかの重大な精神病を患っており、実際の任務には不適格な隊員と見なされていた。彼はまたドイツの軍服を着用する事にも何ら抵抗を示さなかった。採用から数週間後、症状が悪化し始めたシアラーは元々入院していた精神病院へ送り返される。彼は症状があまりにも悪化した為、戦争が終わるよりも前にイギリスへ送還された。ひどく精神を病んでいたとはいえ、一応は士官として隊員をまとめていたシアラーを失った事に加え、連合軍のノルマンディ上陸成功のニュースが伝えられると部隊の士気は徐々に低下していった。 ノルマンディのニュースの後、部隊からは数名の脱走者が出ている。徴募はさらに続けられたものの、志願者はごく少数しか集まらなかった。この際、6名のマオリ人捕虜が志願している。彼らはいずれもイギリスにおいて人種的な理由から差別を受けた経験があったという。
※この「結成へ」の解説は、「イギリス自由軍団」の解説の一部です。
「結成へ」を含む「イギリス自由軍団」の記事については、「イギリス自由軍団」の概要を参照ください。
- 結成へのページへのリンク