成立の過程
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前節で記載した他にも、『日本紀略』には同時奉幣記事が多数あるが、『摂関時代における神社行政 -二十二社の成立を主題として-』が指摘するように、奉幣社数は次第に増えて行ったのでは無く、適宜に奉幣社数が増減している。また、同書によれば、『日本紀略』での数社の表記法には、多少の異動はあれ一定の順位が守られており、京周辺の名社をある基準に基づいて配列・表記した二十二社記の原型となる帳簿があったのではないかと推測している。その帳簿を基に適宜奉幣社が選ばれ、その社数と奉幣社名の合一がしだいに慣例となって固定化し、二十二社成立の一因になったと推察している。 『摂関時代における神社行政 -二十二社の成立を主題として-』では、二十二社の選定基準についても考察している。それによれば、最初の16社の選定基準は山城国および大和国に鎮座する極位の神階を有する式内官幣大社で、各社の神徳や社運も考慮して選定されたのではないかと推定している。続く3社については、吉田神社は藤原氏の氏神のゆえ、廣田神社は住吉大社同様に皇室の守護神・護国神としての神徳に昇揚された古来の名社ゆえ選定されたと推測し、北野天満宮は北野の怨霊と神験が選定の動機になったのではないかと推察している。さらに、20社目の梅宮大社は『公事根源』に記されているように橘氏を外祖母とする摂関家の推挙によるもの、21社目の祇園社(現在の八坂神社)は疫癘鎮遏の神徳から推測し、正暦5年(994年)4~7月の悪疫流行が動機ではないかとしている。最後の日吉大社は比叡山延暦寺の守護神として崇敬されていたが、加列に要した年数をみると、十六社制が成立した康保3年(966年)から二十一社制が成立した長徳元年(995年)まではわずか30年であったのに対し、二十一社制の成立から日吉大社の加列があった長暦3年(1039年)まで45年、さらに二十二社が永例とされる永保元年(1081年)まで43年を要していることから、『扶桑略記』長暦3年(1039年)2月18日の条に見える比叡山の山門宗徒3,000人による関白への強訴や、同じく長暦3年3月16日の条に見える延暦寺法師による高陽院焼失などの事件があったため、同年8月18日に日吉大社を暫定的に加列させ、永保元年(1081年)4月からの延暦寺と園城寺の対立後に、山門宗徒の強訴もしくは彼らへの慰撫のために止むを得ず加列を永例として決定し、二十二社制が確立したのではないかとしている。
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成立の過程
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1945年から、ほぼ毎年に1巻ずつ続巻してきた本シリーズの第25巻。第20巻で少しだけ触れられていた「機関車」のデュークの事とそれにまつわる廃止されたミッド・ソドー鉄道でのエピソードを描いた内容となっている。 ただし第20巻の「デューク」は第20巻執筆時点ではサー・ハンデルやピーター・サムの旧知の機関車ではなく、「ぼくたちの知っているデュークじゃなかった」というのはこの巻の後付である。
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成立の過程
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「ちびっこ機関車パーシー」の記事における「成立の過程」の解説
1945年から、ほぼ毎年に1巻ずつ続巻してきた本シリーズの第11巻。「みどりの機関車ヘンリー」から続いた1巻1主役シリーズの最終巻であり、ダルビーが挿絵を担当した最後の巻でもある。パーシーの機関車として正しく無い描き方(楕円形のサドルタンクがボイラーの下まで回りこむ)に不満を持っていたオードリー牧師が、ダルビーに向かって「これじゃ赤線の入った芋虫だ」と発言し、ダルビーが激怒して挿絵を降板した事が理由である。
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成立の過程
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1945年から、ほぼ毎年に1巻ずつ続巻してきた本シリーズの第21巻。本線の機関車たちを主に描いた内容となっているが、ほとんどエドワードの支線が舞台となっている。
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成立の過程
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1945年から、ほぼ毎年に1巻ずつ続巻してきた本シリーズの第12巻。
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成立の過程
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汽車のえほんシリーズの第1巻であるため、成立の過程は、汽車のえほんの中で詳述。
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成立の過程
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「機関車トーマス (絵本)」の記事における「成立の過程」の解説
成立の過程は、汽車のえほんの中で詳述。 この巻では他の巻のダルビーの絵とタッチが異なり(他の巻と比較すると黒っぽくラフなタッチで、のちのケニーの絵に近い)、彼にしては珍しく機関車などの細部描写もリアルである(特に火室部分のカーブの描き方など)。これはダルビーが初版におけるペインの挿絵を、ほぼそのまま模写する形で描き直したためである。 このため、初版におけるペインの挿絵と、重版(現在の版)におけるダルビーの挿絵は大部分で一致するが、一部ダルビーにより変更された部分もある。例として「トーマスとゴードン」の5枚目の挿絵は、ペインによる挿絵ではトーマスが後ろを向き客車を引っ張っているのに対し、ダルビーによる挿絵ではトーマスが前を向き(客車の妻面に顔を向けて)バックで客車を引っ張っている。
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成立の過程
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1479年に黎朝の皇帝である黎聖宗の時代に、呉士連(ゴ・シー・リエン)によって編纂された。1272年に陳朝の黎文休(ベトナム語版)(レ・ヴァン・フー)が編纂した『大越史記』、1455年に潘孚先(ベトナム語版)(ファン・フー・ティエン)が編修した『史記続編』を元にしている。 建国神話から十二使君の乱までを記述した外記全書5巻、968年の丁朝の建国者である丁部領の即位から1427年に明朝の支配が終結するまでの時代を記述した本紀全書10巻の計15巻から成る。呉士連が『大越史記全書』を献上した後、編者不明の『本紀実録』6巻(1428年から1532年)、1665年の范公著(ベトナム語版)による『本紀続編』3巻(1533年から1662年)が編纂された。 1655年に范公著は呉士連が編纂した15巻に『本紀実録』と『本紀続編』の9巻を加えた24巻を『大越史記全書』として編集したが、頒布には至らなかった。1697年(正和18年)に黎僖が『本紀続編』追加1巻(1662年 - 1675年)を加えた25巻を出版、黎僖の正和本が現存する最古の刊本である。その後も黎朝末まで編纂が続けられ、1675年以後の歴史を記した『大越史記続編(ベトナム語版)』という写本が数種存在する。 正和本、西山朝景盛8年刊本(1800年)、阮朝のフエ国子監(ベトナム語版)覆刻本(1828年以降)、引田利章校訂鉛活字本(1884年)、東洋学文献センター校合本(1984年)の5種が現存する。 20世紀末までは引田本が通行本として使われていたが、1972年より陳荊和が校合本の作成に着手した。1978年8月、コレージュ・ド・フランス教授ドミエヴィル(戴密微)が所蔵する15冊の完本が最も古い版と判明する。ドミエヴィルの完本を元にして1984-86年に東洋学文献センター校合本が出版され、新たな通行本となった。
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「機関車トービーのかつやく」の記事における「成立の過程」の解説
1945年から、ほぼ毎年に1巻ずつ続巻してきた本シリーズの第7巻。オードリー牧師とその息子クリストファーが見た、グレート・ヤーマスで入れ替え作業をしていた路面機関車からトビーの構想が生まれた。また日本語旧版ではこの巻から字が少し小さくなった。
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成立の過程
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「赤い機関車ジェームズ」の記事における「成立の過程」の解説
成立の過程は、汽車のえほんの中で詳述。第2巻の最後の話に出てきたジェームスをクローズアップした巻。オードリー牧師は全26巻中一番気に入っていない巻として当巻を上げている。おそらく初担当のレジナルド・ダルビーの挿絵に不満があったせいと思われる。また、締め切りに追われて閃きがないまま無理に物語を作ってしまったから好きな巻ではないとも言っている。1948年1月1日からアトリー労働党内閣の基幹産業国有化政策によってイギリス国鉄が発足し、ソドー島の鉄道も例外無く国鉄の一支局に組み込まれることになり、この巻で早速設定を変更している。
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成立の過程
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「ダックとディーゼル機関車」の記事における「成立の過程」の解説
1945年から、ほぼ毎年に1巻ずつ続巻してきた本シリーズの第13巻。当時のイギリス国鉄がディーゼル化への道を歩み始めたことを反映した内容となっている。
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成立の過程
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ショア出身のアムリク人イクノ・アムラクは1268年に起こした反乱の結果、1270年に新たな王国を建設する。イクノ・アムラクは支配の正統性をメネリク1世に求め、その直系の子孫であるイクノ・アムラクの起こした王朝を復興ソロモン王朝とした。そのため、先のザグウェ朝をソロモン王朝への簒奪者と位置づけるとともに、自らの系譜を「930年までにソロモン王朝の一族がことごとく抹殺された中で、唯一ショアに逃れたデイナオド」の子孫とした。また、新たな国の首都をショアへ移し、ショア出身の王は「諸王の王(ネグサ・ナガスト、皇帝)」を名乗るようになる。イクノ・アムラクの建国と正当性の樹立には、ショアとアムリクのキリスト教徒が大きな役割を果たした。そのため、テクレ・ハイマノートとキリスト教徒に寄進された領土は全体の3分の1に及んだ。イクノ・ラムラクの没後は後継争いの後、末子のウェデム・アラド、次いでその子のアムダ・セヨン1世が後を継ぐ。アムダ・セヨン1世はエチオピア南部を根拠地を築いていたイスラム勢力へ軍事力を行使し、退けることで国内外の基礎を固めた。また、イクノ・アムラクが編纂を命じた年代記「ケブレ・ネガスト」はこの時期に完成している。1382年に皇帝となったダウィト1世はエチオピア高原東部のワラスマ王朝イファト・スルタン国に幾度も攻め入り、1402年にはスルタンを戦死させるなどの軍功を上げた。しかし、紅海沿岸のアダルを中心としたイスラム諸国(アダルの他にハデヤ、ファティガル、ドアロ、バリ)の抵抗は激しく、ダウィトの息子であるテオドロス1世、その後をついだイシャク1世と、エチオピアの皇帝はアダルとの交戦中に相次いで殺害されてしまう。この長く続いたイスラム諸国との戦いに決着をつけたのは、皇帝ザラ・ヤコブだった。ザラ・ヤコブはエジプトに妨害されていたヨーロッパからの火器購入を紅海に進出することで果たし、軍事的にも1445年のダワロの戦いにおいてアダルらの軍勢を壊滅させた。ザラ・ヤコブはアダルに朝貢を課したが、スルタン制度は温存してアダルを属国として存続させる。また、ザラ・ヤコブは海への出入り口を確実なものとするためエリトリアへ侵攻し、これを支配した。内政においては、地方にラスと呼ばれる諸侯を配置し、エチオピアに封建制度を構築する。このためエチオピア帝国の内外に安定し、皇帝は名実ともにネグサ・ネガスト(諸王の王)となった。ザラ・ヤコブの子のバエダ・マリアム1世は軍事的な野心を示さなかったが、そのためにエジプトのマムルーク朝には友好的な接近を図り、全盛期のマムルーク朝との激突を回避することができた。
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成立の過程
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「機関車トーマスのしっぱい」の記事における「成立の過程」の解説
1945年から、ほぼ毎年に1巻ずつ続巻してきた本シリーズの第16巻。トーマスの支線の機関車たちの失敗談を描いた内容となっている。
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成立の過程
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「仮面ライダーシリーズにおける変身」の記事における「成立の過程」の解説
「変身」は、シリーズ第1作『仮面ライダー』の制作にあたって、新ヒーローを一言で表現できるインパクトのある言葉を探していた渡邊亮徳が、書棚にあったフランツ・カフカの『変身』から名称を取り入れたものである。「変身」という言葉自体は『宇宙猿人ゴリ』に見られるように、ヒーロー番組で既に使用されていた。しかし当時はまだ知名度の低い表現であり、『仮面ライダー』制作スタッフによる最初の打ち合わせでは台本に書いてある「変身」の意味をだれも理解できず、スーツアクターだった岡田勝ですら「どうして面をかぶるのか」と疑問に思っていたという。 番組開始時の仮面ライダー1号 = 本郷猛の設定は、バイクに乗り風を受けて変身するというものだった。後に藤岡弘が撮影中の怪我により長期休養を余儀なくされ、急遽新たに登場した仮面ライダー2号 = 一文字隼人が「変身ポーズ」の誕生のきっかけとなった。 当初は1号ライダーと同様の変身が検討されていたが、一文字役に抜擢された佐々木剛は、当時オートバイの運転免許を持っていなかった。佐々木はそのことを事前にスタッフに知らせておらず、内田有作(東映生田スタジオ所長)がそのことを問い詰めると、佐々木は「俺は『風を受けて』とか、そういう受け身なのは好きじゃないんだよ!ここは一発、自分からやる!みたいなポーズか何かはないのか?」と言った。 ポーズの導入は毎日放送映画部長・庄野至の意向だった。また、そのときに叫ぶ「変身!」というセリフは平山亨が暫定的に入れたものだったが、結局そのまま採用された。以降、仮面ライダーシリーズにおける変身者は大半の作品で「変身!」というセリフとともにライダーに変身しており、作品ごとに固有のセリフで変身するスーパー戦隊シリーズなどと対照的なスタンスをとっている。 ポーズの内容は技斗の高橋一俊がほとんどイメージで作り上げたものである。大野剣友会が携わった1969年のテレビドラマ『柔道一直線』で主演を務めた櫻木健一は、同作中の独特の構えについて「(高橋一俊と)ふたりで考えたんです。あれが仮面ライダーやミラーマンなどの変身ポーズにつながっていくんですが、イメージとしては『宇宙の力』を自分の体の中に蓄える感じでした」と語っており、着想元として中村錦之助演ずる『源氏九郎颯爽記』3部作に出てきた二刀流の構えを挙げている。「両腕を水平にそろえて伸ばす」などの姿勢は、同じく櫻木が出演し大野剣友会が関連した1970年の柔道映画『柔の星』でもファイティングポーズとして使われているのが確認できる。これは仮面ライダー1号のファイティングポーズとしても導入されていたが、2号の登場にあたり一応前のライダーとの関連を持たせようと改めて変身ポーズとして採用された。 「変身ポーズ」の存在は、「自らの意思で変身する」という点で視聴者に「より強いヒーロー像」を与え、また「変身ブーム」と呼ばれる社会現象を起こした(詳細は変身ブームを参照)。
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成立の過程
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「牧神の午後 (バレエ)」の記事における「成立の過程」の解説
バレエ・リュスの主宰者セルゲイ・ディアギレフは、振付監督ミハイル・フォーキンの能力に限界を感じ、新しい振付師として、同団の中心的ダンサーのひとりであり、同性愛の相手でもあったニジンスキーを起用しようと考えた。ディアギレフがニジンスキーに対し、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』に基づくバレエを提案したのは1910年夏ごろと考えられており、ディアギレフの予定を記した「黒い手帖」の9月のページには、1911年の演目として『牧神』と『大いなる生贄』(後の『春の祭典』)が記されている。 この後、ニジンスキーは妹のニジンスカを助手としつつ、約2ヶ月間かけて『牧神の午後』を振付けた。ただし、バレエ・リュスの上演作品は全てフォーキンが振付ける契約になっていたため、フォーキンの離反を恐れたディアギレフは極秘裏に計画を進めた。 『牧神の午後』の振付は1910年末には完成し、1911年初めにニジンスキーのアパートでディアギレフとバクストに踊りが披露された。しかし、古典的な舞踊の訓練を受けたバレリーナにとってニジンスキーの独特な動きをマスターすることは極めて困難であり、さらに4月のモンテカルロ公演の準備が重なったため、『牧神の午後』の初演は1年後に延期された。
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成立の過程
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ユダヤ教の伝承によれば、神はモーセに対し、書かれたトーラーとは異なる、口伝で語り継ぐべき律法をも与えたとされる。これが口伝律法(口伝のトーラー)である。 時代が上って2世紀末ごろ、当時のイスラエルにおけるユダヤ人共同体の長であったユダ・ハナシー(ハナシーは称号)が、複数のラビたちを召集し、口伝律法を書物として体系的に記述する作業に着手した。その結果出来上がった文書群が「ミシュナ」である。本来、口伝で語り継ぐべき口伝律法があえて書物として編纂された理由は、一説には、第一次・第二次ユダヤ戦争を経験するに至り、ユダヤ教の存続に危機感を抱いたためであるともされる。 このミシュナに対して詳細な解説が付されるようになると、その過程において、現在それぞれ、エルサレム・タルムード(またはパレスチナ・タルムート)、バビロニア・タルムードと呼ばれる、内容の全く異なる2種類のタルムードが存在するようになる。現代においてタルムードとして認識されているものは後者のバビロニア・タルムードのことで、6世紀ごろには現在の形になったと考えられている。 当初、タルムードと呼ばれていたのはミシュナに付け加えられた膨大な解説文のことであったが、この解説部分は後に「ゲマラ」と呼ばれるようになり、やがてタルムードという言葉はミシュナとゲマラを併せた全体のことを指す言葉として使用されるようになった。
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成立の過程
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ダルマ・スートラは、バラモン教の天啓聖典であるヴェーダに付随する文献群のひとつとして成立しており、バラモン教社会の4つの種姓(ヴァルナ)それぞれの権利・義務と日常生活のあり方を規定した。ヴェーダの補助文献として成立した6種のヴェーダーンガ Vedāṅga の一つである「カルパ・スートラ」の一部分を構成する。 アーリヤ人の侵入以来、インドにはヴェーダ文化が栄え、祭式を中心とする伝統的なバラモン社会がつくりあげられた。しかし、紀元前7世紀ころより伝統的な価値観や生き方に異議を唱える禁欲主義が台頭したため、みずから「正統世界」と称した伝統社会は反省と世界観の再編成を迫られた。それは多く祭式を司ったバラモン層によって担われ、紀元前6世紀ころよりさかんに進められた。十六大国時代にあった彼らは世俗の権力者である王侯の支持をとりつけて4ヴァルナを軸とする身分制にもとづいたヴァルナ体制社会の確立をはかって、この体制下における人間の生き方、あり方(ダルマ)を追究した。ダルマ・スートラとはそのために編まれた教典である。 ダルマ・スートラは、法(ダルマ)について述べた文献としてはインドにおける最初期のものであるが、実際の裁判など実用目的のための法典ではなく、あくまでもヴェーダを補完する文献の一つとして、ヴェーダを継承する諸学派によって編まれた宗教文献であり、また、要点のみを組織的に配列する「スートラ体」という極度に簡潔な独特の散文体で叙述されている。 ダルマ・スートラは、のちに『マヌ法典』として集大成されるヒンドゥー法典の先駆けとなった文献であるが、そこにはすでに、再生族(すなわち、バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャの上位3ヴァルナ)の男性)が生涯においてたどるべき四住期(アーシュラマ)についても規定されていた。
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成立の過程
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フィンランドに独特の伝説や伝承が多数存在することは17世紀ころから知られ始め、18世紀には多くの研究が行われるようになった。1809年、フィンランドがロシア帝国に編入されたことを契機に民族意識が高まり、民族に特有の伝承が、固有の文化として認識されるようになった。 そうした中、エリアス・リョンロートがこの分野の研究を始めた。まず1827年に『ワイナミョイネン・古代フィン人の神格』という博士論文を発表。その頃から民族詩の採集旅行を行った。何度かの旅行の後、北フィンランドのカヤーニに医師として赴任、そこを本拠地に歌謡の収集を精力的に行った。1833年、アルハンゲリスクのブオッキニエミで大量の歌謡を採集した。これによってサンポにまつわる物語の大部分がそろい、彼はこれにレンミンカイネンの物語と結婚歌謡をまとめ、『ワイナミョイネンの民詩集』として発表した。これは後に「原カレワラ」と呼ばれるようになった。 彼は翌年もその地を訪れて多くの歌謡を収集し、原カレワラを補修改訂して『カレワラ・フィンランド民族太古よりの古代カレリア民詩』を発表(1835年)、これは「古カレワラ」と言われる。彼はその後、調査地域を広げ、ラップランドや南カレリア、イングリアなどからも民詩を採集、それまでのものを見直した。その後内容を増補した『カレワラ』が1849年に発表された(新カレワラ)。これが現在カレワラとして知られているものである。
※この「成立の過程」の解説は、「カレワラ」の解説の一部です。
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成立の過程
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『地下家伝』については現在のところ詳しい研究が行われておらず、三上が編纂を志した動機や刊行までの詳しい過程など未解明な点が多い。三上が巻末に記した後書によれば、天保13年9月(1842年10月)に編纂を開始、1年半後の天保15年5月1日(1844年6月16日)ごろには完成されている模様である。
※この「成立の過程」の解説は、「地下家伝」の解説の一部です。
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成立の過程
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『汽車のえほん』シリーズが巻を重ねるにつれて、作者のオードリー牧師の許には設定の矛盾について質問する愛読者からの手紙が多数届くようになった。これらに答えるための矛盾のない設定を考えるうちに、牧師は体系的な架空の舞台設定を考案し始めた。 折しも教会の仕事でマン島を訪問したオードリー牧師は、その島を管轄する教区の名が「ソドー・アンド・マン教区」であることに気づいた。教区名からは、あたかもマン(島)と並んで「ソドー(島)」という土地が実在するようであるが、これに対応する特定の島や土地はない。オードリー牧師は、マン島とイギリス本土の間に位置する「ソドー」という名前を持つ架空の島こそが、物語のための完璧な舞台環境であると考えた。 オードリー牧師は、トーマスの支線の設定とそれを具現化した地図を1949年に、続いて島全体の体系的な設定とそれを具現化した地図を1950年に自らの手で制作し、1952年には親友のウィッカム司祭の協力を得て、島全体の彩色された立体地図を作成した。 その後も、司書を務める弟ジョージの手を借りて、歴史・地理学・言語・産業・地質学に及ぶ細かな設定が絶えず補強され続けた。1987年9月にはその集大成として The Island of Sodor: Its People, History and Railways(『ソドー島 その住民・歴史・鉄道』、日本未邦訳)が二人の共著として出版された。 テレビシリーズ化に際しては、小さな子供にも分かりやすいようThe Island of Sodor: Its People, History and Railways の精密な設定は無視されており、完全な映像化はされてはいない。またエピソード上、意図的に改変された部分もある。
※この「成立の過程」の解説は、「ソドー島」の解説の一部です。
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成立の過程
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 07:15 UTC 版)
1945年から、ほぼ毎年に1巻ずつ続巻してきた本シリーズの第23巻。出版された1968年はイギリス国鉄の無煙化運動が完了し、蒸気機関車の営業運転が終了した年である。そのため、ウィルバートが執筆した全26巻中、当時イギリスで盛んだった鉄道保存運動の色合いが最も濃い巻である。なおウィルバート執筆分においては、本線と本線の機関車を中心に置いた物語はこの巻が最後で、事実上の大団円ともとれる。
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成立の過程
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パリを中心に活動していた舞踏家イダ・ルビンシュタインは、独自のバレエ・カンパニーを結成し、1928年11月にパリ・オペラ座において旗揚げ公演を行うこととなった。イダはこの公演のためにストラヴィンスキーやラヴェルにバレエ音楽を委嘱し、その結果、本作品や『ボレロ』が誕生することとなった。 1927年末に委嘱を受けたストラヴィンスキーは、イダの片腕であった美術家アレクサンドル・ブノワから、「チャイコフスキーの音楽にインスピレーションを得たバレエ音楽」を提案された。偶然にも、イダ一座の旗揚げ公演が予定されている1928年11月がチャイコフスキーの没後35年に当たっていたこともあり、ストラヴィンスキーはこのプランを採用した。 バレエの筋書きについても一任されていたストラヴィンスキーは、チャイコフスキーの音楽に合う、ロマン主義的で幻想的なテーマを持つ作品として、アンデルセンの『氷姫』を選んだ。ストラヴィンスキーは、妖精(氷姫)が少年に与える宿命の接吻は、ギリシャ神話の音楽の神ミューズがチャイコフスキーに与えた魔法の印を連想するものであり、チャイコフスキーの業績を記念する作品のテーマとしてふさわしいものだと語っている。 作曲はアヌシー湖畔のエシャルヴィヌにおいて急ピッチで進められ、出来上がったページはただちにパリに住むニジンスカの元に送られた。直前のリハーサルで振付を見たストラヴィンスキーは、ニジンスカの才能は認めつつも、イメージに合わない場所があったとしているが、断片的に送られてくる楽譜に基づいて振付を考案すること自体がニジンスカにとっては困難な仕事であった。
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成立の過程
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『結婚』を作曲していた1915年初頭に、スイスのシャトー・デにおいて、ロシアの民謡詩に基づく作品としてスケッチが始められた。その後、1916年にエドモン・ド・ポリニャック公爵夫人から、自宅で上演するための小さな劇音楽を委嘱されたストラヴィンスキーは、『狐』の存在を公爵夫人に紹介した。公爵夫人がこの作品に興味を持ったため、ストラヴィンスキーは2場までできあがっていた『結婚』の制作を後回しにして本格的に『狐』に着手し、1916年秋に完成させた。10月には歌詞がラミュによってロシア語からフランス語に翻訳された。1917年に出版された。 フランス語への翻訳は特殊なもので、詩句ごとに異なる音節数を合わせる必要があるだけでなく、母音の問題やロシア語の単語の強勢の問題など、フランス語とは大きく異なる言語上の問題に次々に遭遇した。あまりにも大変な作業だったためにラミュは翻訳料の300フランを500フランに上げてくれるようにポリニャック公爵夫人に頼んだほどだった。 この頃、ストラヴィンスキーは、ジュネーヴのレストランにおいて、ハンガリー人の楽団が使用していた民族楽器ツィンバロンに惹かれ、知り合いを通じてツィンバロンを購入して演奏方法を習得した。ストラヴィンスキーは、この楽器を『狐』および『11楽器のためのラグタイム』(1918年)に使用した。『結婚』にも使用するつもりだったが、最終的に断念した。ストラヴィンスキーはツィンバロムをロシアの民間芸人であるスコモローフがかつて使っていたグースリを思わせるものとして使用した。
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成立の過程
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1945年から、ほぼ毎年に1巻ずつ続巻してきた本シリーズの第17巻。
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成立の過程
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1343年、脱脱が宋遼金三史編纂の総裁となると、廉恵山海牙・王沂・徐昺・陳繹曾の4人が『遼史』の編纂を担当した。1343年4月から1344年3月の11カ月間と成書期間は短かった。耶律儼の『実録』や金の陳大任の『遼史』稿を基礎にして、『資治通鑑』や『契丹国志』や各正史の契丹伝なども参考に編纂された。
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成立の過程
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1925年6月にパリで初演された交響曲第2番の不評によって自信を喪失していたプロコフィエフに対し、同年夏、バレエ・リュスの主宰者セルゲイ・ディアギレフはバレエ音楽の作曲を依頼した。プロコフィエフは、当時バレエ・リュスで成功をおさめていた「フランス6人組」のメンバー(『うるさ方』(1924年)のジョルジュ・オーリック、『青列車』(同年)のダリウス・ミヨー、『牝鹿』(同年)のフランシス・プーランク)のような作品は書けないと断ったが、ディアギレフはプロコフィエフ自身のスタイルで、ソビエト連邦をテーマにした作品を作るように指示した。 台本は当初イリヤ・エレンブルグに依頼する予定であったが実現せず、舞台美術担当となったゲオルギー・ヤクロフ(1884年 - 1928年)とプロコフィエフが共同で台本を作成した。2人はバレエのテーマを、当時のソビエト連邦で進行しつつあった工業の発展とし、ハンマーや斧を振るう労働者を登場させることで合意した。ディアギレフもこれを了承し、『鋼鉄の歩み』のタイトルを与えた。
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成立の過程
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「コンスタンティノープル条約 (1832年)」の記事における「成立の過程」の解説
1827年10月20日、ギリシャ独立戦争の最中に発生したナヴァリノの海戦はギリシャの独立を決定付けた。。そして1828年当初、ギリシャ初代大統領としてイオアニス・カポディストリアスが仮首都ナフプリオに到着した。カポディストリアスはギリシャ独立のために可能な限り広い領土の確保、列強からの資金確保を行い、ギリシャを可能な限り良い条件で独立させるよう、元ロシア外交官としての国際的経験と才能を用いて東奔西走した。 しかし、ナヴァリノの海戦以降、オスマン帝国スルタンの要請でエジプトからペロポネソス半島へ遠征していたムハンマド・アリーの息子イブラーヒーム・パシャが駆逐されると列強各国はギリシャへの関心を失い、1828年ポロス島で開かれた会議ではそれまで認められていたギリシャ国境線があまりにもギリシャに都合が良い条件であるとして却下された。 さらにギリシャ領についてはペロポネソス半島は確実であったが、イギリスの外務大臣パーマストン子爵を含めたギリシャ独立支持者らが強く求めていたアテネを含む地域、アッティカでさえも除外される可能性もあった。このため、カポディストリアスは論議の余地のあるコリントス湾の北方を得るためにアッティカ、ボエオチアを通過してその北方、アカルナニアなどをそれぞれ占領、さらにクレタ島へはマブロコルダトスを派遣して占領を試み、キオス島にはギリシャ独立主義者であるフランス人、ファブヴィエに占領させた。 結局、ギリシャ軍はアルタ湾までの地域やアッティキなどの占領に成功、クレタ島、キオス島の占領には失敗したが、カポディストリアスはギリシャが生き残るにはペロポネソス半島のみでは無理であることを訴え、オスマン帝国の圧力に抵抗することは不可能であると主張した。しかし、1829年3月に開催されたロンドン会議ではクレタ島、サモス島を除いたアルタ - ボロスを結ぶ線を国境とし、ギリシャ軍が進出していたアカルナニアから撤退することを求め、一年後、アカルナニアをギリシャに含めないことが記載された外交覚書が交わされた。 しかし、条約の成立は、ロシア、オスマン帝国間で露土戦争 (1828年)が発生したことで大きく立ち遅れた。1829年、露土戦争の講和条約としてアドリアノープル条約が結ばれるとオスマン帝国は1827年7月のロンドン条約で規定されたギリシャに関する問題を全て受け入れたが、ギリシャが完全独立を目指すことで列強国はギリシャを出来うる限り小規模に止めようとしていた。そのため1829年3月、ロンドンで結ばれた外交覚書でギリシャはオスマン帝国宗主下で列強三国の保護下で王国として独立することが提案された。。 さらに条約の成立を遅らせた出来事があった。当初ギリシャ国王への就任を要請されていたレオポルド(後のベルギー王レオポルド1世)がギリシャとオスマン帝国との国境線が列強にとって都合の良いように変更されたことに強い不満を持ち、また、ギリシャ初代大統領カポディストリアスによる悲観的なギリシャの将来像について説明を受けたことで一旦、受諾していた国王への就任を1830年5月、辞退した。 1830年5月、レオポルド1世が国王候補から辞退し、またフランス7月革命の混乱などから、国境問題は最終的にギリシャの新政府がイギリスで作られるまで決着しなかった。パーマストンはアルタを西端、ヴォロスを東端とする国境線を承認した。 しかし、バイエルン王国の全権大使がイギリス、フランス、ロシア大使と交わしたクレタ島に関する秘密協定は実を結ばず、クレタ島は1830年のロンドン議定書において1840年までオスマン帝国下でなかば独立状態であったムハンマド・アリー朝エジプトの支配下となった。また、サモス島もキリスト教徒が総督に任命されたものの自治領とされ、キオス島も同様の扱いとされ、ギリシャ人が多数を占めていたイピロス、テッサリアは除外された。 1832年5月7日にバイエルン王国とイギリス、フランス、ロシアの列強三国の間でロンドン協定が結ばれ、ギリシャ王国はアルタ-ヴォロス間を北の国境とする独立王国とすることが合意され、レオポルドに提案されたものよりかは多少なりとも拡大されていた。しかし、ギリシャ王に選出されたオットーは当時まだ18歳になってまもなかったため彼が成人になるまでは摂政が政治を管理することになっており、また、2,400,000ポンドの追加借款が締結されたことで、ギリシャは独立国とは名ばかりの政治的、経済的に束縛された実質的な保護国に過ぎなかった。また、オスマン帝国は40,000,000ピアストルの補償金を得ることを条件にギリシャの独立に同意した。 ギリシャ王国とオスマン帝国との間の国境線については1832年8月30日に列強間で署名されたロンドン議定書においても繰り返し言及され、最終的にはコンスタンティノープル条約で批准された。この条約によって独立国家としての現代ギリシャが成立し、ギリシャ独立戦争が終結した。
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