待庵とは? わかりやすく解説

妙喜庵

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/03 05:02 UTC 版)

妙喜庵

正面
所在地 京都府乙訓郡大山崎町大山崎小字龍光56
位置 北緯34度53分32.11秒 東経135度40分49.27秒 / 北緯34.8922528度 東経135.6803528度 / 34.8922528; 135.6803528座標: 北緯34度53分32.11秒 東経135度40分49.27秒 / 北緯34.8922528度 東経135.6803528度 / 34.8922528; 135.6803528
山号 豊興山
宗派 臨済宗東福寺派
本尊 聖観音
創建年 明応年間(1492年 - 1501年
開基 春嶽士芳
正式名 豊興山妙喜禅庵
豐興山妙喜禪庵
文化財 待庵(国宝)
書院(重要文化財)
法人番号 2130005006473
妙喜庵
妙喜庵 (京都府)
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妙喜庵(みょうきあん)は、京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院。山号は豊興山。妙喜禅庵とも称する。別名「待庵(たいあん)」。日本最古の茶室建築で、草庵茶室の完成形といわれる[1]

妙喜庵=待庵

江戸時代一時地蔵寺の塔頭であったが、現在は;臨済宗東福寺派に属する。

室町時代明応年間(1492年 - 1501年)の開創。開山は東福寺開創聖一国師法嗣・春嶽士芳。国宝茶室待庵(たいあん)」があることで知られる。連歌師山崎宗鑑の屋敷(對月庵)を宗鑑が退去した(大永3年(1524年)ごろ)後寺庵に改めたとの伝えもあるが、春嶽は永正6年(1510年)にすでに没している。また、大山崎集落の大阪府側(島本町山崎)には宗鑑旧居跡(宗鑑井戸)の伝えもある。これらのことから「妙喜庵=宗鑑旧居跡」説は成立しがたい。

2018年6月18日、大阪府北部地震により土壁に亀裂が入った。 [2]

待庵

国宝。日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作と信じうる唯一の現存茶室である。現在一般化している、にじり口が設けられた小間(こま)の茶室の原型かつ数奇屋建築の原型とされる。寺伝には、天正10年(1582年)の山崎の戦いのおり羽柴秀吉の陣中に千利休により建てられた二畳隅炉の茶室を解体し移築したとある。慶長11年(1606年)に描かれた「宝積寺絵図」には、現在の妙喜庵の位置あたりに「かこひ」(囲い)の書き込みがありこのときにはすでに現在地に移築されていたものと考えられる。同図には、妙喜庵の西方、現在の島本町の宗鑑旧居跡付近に「宗鑑やしき」そして「利休」の書き込みもあり、利休がこの付近に住んでいたことをうかがわせる。したがって待庵はこの利休屋敷から移築されたとも考えられる[3]

茶室は切妻造杮葺きで、書院の南側に接して建つ。茶席は二畳、次の間と勝手の間を含んだ全体の広さが四畳半大という、狭小な空間である。南東隅ににじり口を開け、にじり口から見た正面に床(とこ)を設ける[4]。室内の壁は黒ずんだ荒壁仕上げで、藁すさの見える草庵風とする。この荒壁は仕上げ塗りを施さない民家では当たり前の手法であったが、細い部材を使用したため壁厚に制限を受ける草庵茶室では当然の選択でもあった。床は4尺幅(内法3尺8寸)で、隅、天井とも柱や廻り縁が表面に見えないように土で塗りまわした「室床(むろどこ)」である。天井高は5尺2寸ほどで、一般的な掛け軸は掛けられないほど低い。これは利休の意図というより屋根の勾配に制限されてのことと考えられる。床柱は杉の細い丸太、床框は桐材で、3つの節がある。室内東壁は2箇所に下地窓、南壁には連子窓を開ける。

下地窓とは、草案茶室の土壁の一部を塗り残し、下地をそのまま露出させることでつくられる窓の形式である[5]

下地窓の小舞には葭が皮付きのまま使用されている。炉はにじり口から見て部屋の左奥に隅切りとする。現在では炉と畳縁の間に必ず入れる「小板」はない。この炉に接した北西隅の柱も、壁を塗り回して隠しており、これは室床とともに2畳の室内を少しでも広く見せようとする工夫とされている。ただ隅炉でしかも小板がないのだから、炉の熱から隅柱を保護する目的もあったと考えられる。天井は、わずか2畳の広さながら、3つの部分に分かれている。すなわち、床の間前は床の間の格を示して平天井、炉のある点前座側はこれと直交する平天井とし、残りの部分(にじり口側)を東から西へと高くなる掛け込みの化粧屋根裏とする。この掛け込み天井は、にじりから入った客に少しでも圧迫感を感じさせない工夫と解せられる。二つの平天井を分ける南北に渡された桁材の一方は床柱が支えていて、この桁材が手前座と客座の掛け込み天井の境をも区切っている。つまり一見複雑な待庵の天井の中心には床柱があり、この明晰性が二畳の天井を三つに区切っていても煩わしさを感じさせない理由となっている。平天井の竿縁や化粧屋根裏の垂木などには竹が使用されており、障子の桟にも竹が使われている。このように竹材の多用が目立ち、下地窓、荒壁の採用と合わせ、当時の民家の影響を感じさせる。二畳茶室の西隣には襖を隔てて1畳に幅8寸ほどの板敷きを添えた「次の間」が設けられ、続けて次の間の北側に一畳の「勝手の間」がある。一重棚を備えた次の間と、三重棚を備え、ひと隅をやはり塗り回しとする勝手の間の用途については、江戸時代以来茶人や研究者がさまざま説を唱えているが、いまだ明らかになっていない[6]

書院

玄関

国の重要文化財書院造、桁行二間、梁間三間、一重、切妻造、杮(こけら)葺き。室町時代の文明年間(1469年 - 1487年)に妙心寺の霊雲院書院を模して建てられたとされ、連歌の祖である山崎宗鑑の旧居と伝わる。前庭(待庵東側)には秀吉ゆかりの「袖摺りの松」(2代目)の切り株が残る。明月堂は同じく山崎宗鑑の旧居とされるが、今あるのは昭和初期に新築されたものである。旧明月堂は明治時代に関東の好事家に買い取られ現在所在不明であるが、室町時代にさかのぼるものではなく、桃山期後期(慶長年間)のものではなかったかとされている[7]

見学

待庵を見学するには、およそ1か月前までに往復はがきによる予約が必要であり、見学が許可された場合も、にじり口からの見学で、内部に立ち入ることはできない。また高校生以上でないと申し込めない。

近くの大山崎町歴史資料館には待庵の創建当時の姿の原寸大復元模型が展示されている。

所在地

〒618-0071 京都府乙訓郡大山崎町大山崎小字龍光56番地

交通アクセス

周辺情報

参考文献

  • 中村昌生『京都茶室細見』平凡社、昭和59年(1984年
  • 中村昌生『待庵-侘び数寄の世界』淡交社、平成5年(1993年)
  • 岡田孝男『京の茶室 西山・北山編』学芸出版社、平成元年(1989年
  • 週刊朝日百科『日本の国宝』75号、朝日新聞社、平成10年(1998年

待庵を参考にした茶室

脚注

  1. ^ 戸谷英世・竹山清明『建築物・様式ビジュアルハンドブック』株式会社エクスナレッジ、2009年、37頁。 
  2. ^ “秀吉の命で千利休が建てた国宝の茶室「待庵」壁にひび 京都・大山崎町の妙喜庵”. 産経WEST. (2018年6月19日). https://www.sankei.com/article/20180619-XEISNP7NXNISNBFBWSIPXE3VPE/ 
  3. ^ 中村昌生『待庵-侘び数寄の世界』
  4. ^ 待庵の建物は真南には面していないが、説明の都合上、にじり口のある側を「南」とする。
  5. ^ 五十嵐太郎、東北大学五十嵐太郎研究室、市川紘司『窓から建築を考える』彰国社、2014年、86頁。 
  6. ^ 次の間に炉が切られていたという伝えもあり、ここが茶立て処であったのではないかという説や、勝手の間に塗り回しがあるからここに炉が切られていたのではないかなど、諸説がある
  7. ^ 中村、前掲書
  8. ^ 『国宝待庵を参考にした茶室再現』 パシフィコ横浜、JCI日本芸術協会主催(『神奈川新聞平成20年(2008年7月20日号)
  9. ^ 『We Believe』(平成20年(2008年)9月号、日本青年会議所)

関連項目

外部リンク


待庵

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妙喜庵」の記事における「待庵」の解説

国宝日本最古茶室建造物であると同時に千利休作と信じうる唯一の現存茶室である。現在一般化している、にじり口設けられ小間(こま)の茶室原型かつ数奇屋建築原型とされる寺伝には、天正10年1582年)の山崎の戦いのおり羽柴秀吉陣中千利休により建てられた二畳隅炉茶室解体し移築したとある。慶長11年1606年)に描かれた「宝積寺絵図」には、現在の妙喜庵位置あたりに「かこひ」(囲い)の書き込みがありこのときにはすでに現在地移築されいたもの考えられる。同図には、妙喜庵西方現在の島本町宗鑑旧居跡付近に「宗鑑やしき」そして「利休」の書き込みもあり、利休がこの付近に住んでいたことを伺わせる。したがって待庵はこの利休屋敷から移築されたとも考えられる茶室切妻造杮葺きで、書院南側接して建つ。茶席は二畳、次の間と勝手の間を含んだ全体広さ四畳半大という、狭小な空間である。南東隅ににじり口開けにじり口から見た正面に床(とこ)を設ける。室内の壁は黒ずんだ荒壁仕上げで、藁すさ見え草庵風とする。この荒壁仕上げ塗り施さない民家では当たり前の手であったが、細い部材使用したため壁厚に制限を受ける草庵茶室では当然の選択でもあった。床は4尺幅(内法3尺8寸)で、隅、天井とも廻り縁表面見えないように土で塗りまわした「室床むろどこ)」である。天井高は5尺2寸ほどで、一般的な掛け軸掛けられないほど低い。これは利休意図というより屋根の勾配制限されてのことと考えられる床柱の細い丸太床框桐材で、3つの節がある室内東壁は2箇所下地窓南壁には連子窓開ける。下地窓塗り残し)の小舞には葭が皮付きのまま使用されている。炉はにじり口から見て部屋の左奥に隅切りとする。現在では炉と畳縁の間に必ず入れる「小板」はない。この炉に接した北西隅のも、壁を塗り回し隠しており、これは室床とともに2畳の室内を少しでも広く見せようとする工夫とされている。ただ隅炉でしかも小板がないのだから、炉の熱から隅柱保護する目的もあったと考えられる天井は、わずか2畳の広さながら、3つの部分分かれている。すなわち、床の間前は床の間の格を示して天井、炉のある点前座側はこれと直交する天井とし、残り部分にじり口側)を東から西へと高くなる掛け込み化粧屋根裏とする。この掛け込み天井は、にじりから入った客に少しでも圧迫感感じさせない工夫解せられる。二つの平天井分け南北渡され材の一方床柱支えていて、この材が手前座と客座掛け込み天井の境をも区切っている。つまり一見複雑な待庵の天井中心に床柱があり、この明晰性が二畳の天井三つ区切っていても煩わしさ感じさせない理由となっている。平天井竿縁化粧屋根裏垂木などには竹が使用されており、障子にも竹が使われている。このように竹材の多用目立ち下地窓荒壁採用合わせ当時民家影響感じさせる。二畳茶室の西隣には襖を隔てて1畳に幅8寸ほどの板敷き添えた次の間」が設けられ続けて次の間北側一畳の「勝手の間」がある。一重備えた次の間と、三重棚備え、ひと隅をやはり塗り回しとする勝手の間の用途については、江戸時代以来茶人研究者がさまざま説を唱えているが、いまだ明らかになっていない

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