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Nobutaka Katahira's Archives and Career as an Engineer of Road

2016, Journal of Japan Society of Civil Engineers, Ser. D2 (Historical Studies in Civil Engineering)

土木学会論文集D2(土木史), Vol. 72, No. 1, 40-49, 2016. 道路技術者片平信貴の足跡とアーカイブズ 橋本 1正会員 政子1 公益財団法人高速道路調査会研究員(〒106-0047 東京都港区南麻布2-11-10) E-mail: [email protected] わが国の近代道路計画史上のエポックメーキングとなった日本初の高速道路の完成から半世紀を経た. 片平信貴(1913-1989)は,戦前から高速道路の調査計画に携わり,戦後の本格的高速道路建設時代には, 名神高速道路部長,高速道路静岡建設局長等を歴任し,名神・東名高速道路建設の現場を率いた.本稿で は,道路技術者として活躍した片平の著・編による98編の報文・論文・文献とこれら資料の引用や他者が 片平について記述した記録や文書等を含めて網羅的に収集した計198編を一次資料として片平と周縁の技 術者との関係性に着目しつつ,片平の50年余にわたる高速道路への取り組みの全容を明らかにするととも に日本の高速道路史における技術者としての系譜や位置づけについて考察することを目的とする. Key Words : Nobutaka Katahira, Meishin and Tomei Expressway, archives, genealogy, engineer 1. はじめに (3) 研究方法 研究方法は,資料分析と関係者へのヒアリングに基づ (1) 背景と目的 いている.片平が著した98編におよぶ報文・論文・文献 日本初の高速道路として建設された名神高速道路の栗 とそれらの引用や他者が片平について記述した記録や文 東(滋賀県)-尼崎(兵庫県)間の開通から半世紀を経 書等を含め網羅的に収集した計198編を一次資料として た2013年秋,日本の本格的高速道路計画建設を牽引した 用いた.高速道路の計画技術については既往文献を基礎 道路技術者の一人である片平信貴(1913-1989)は生誕 資料として用いた. 100年を刻んだ.本研究では,片平と周縁の技術者との 一次資料は,(a)片平信貴アーカイブズとしてI)〜V)に整 関係性に着目しつつ,片平の50年余にわたる高速道路へ 理した.なお,(a)の資料名は補注に記し,引用する際 の取り組みの全容を明らかにするとともに日本の高速道 は○○(No)と記すことで,参考文献として用いた(b)基礎 路史における技術者としての系譜や位置づけについて考 資料と区別している. (a) 片平信貴アーカイブズ(198編) 察することを目的とする. I) 片平が著した論文,報文-共著・対談を含む86編 II) 片平の著・編による冊子,文献類12編 (2) 研究の位置づけ III) 他者が片平について紹介,論評した文書18編 名神・東名高速道路建設に着目し,片平の経歴と仕事 IV) 片平を追慕,追悼した文・冊子類76編 の概要を調べ,さらに片平の計画と設計に関する思想を (110) V) その他:I)~IV)の引用等による記録類編6編 分析した香川の論文 がある.香川は「高速道路のよ うな大規模かつ多くの技術者が関わるインフラに関して, (b) 基礎資料 個人の計画・設計思想を明らかにする研究は存在しない」 高速道路の計画・建設に関しては,名神高速道路建設 との問題意識のもと片平の設計思想の特徴を明らかにす 誌(総論)1),同(各論)2),東名高速道路建設誌3),日 ることを試みている. 本道路公団三十年史4),日本土木史-大正元年〜昭和15 一方,本研究は,片平に関する資料を収集し,道路技 年5),同-昭和16年〜昭和40年6)の他,関連の文献7),8),9)を 術者としての足跡を明らかにしようとする点でアプロー 参照した. (c) ヒアリング チは類似するが,日本の高速道路黎明期の進展と片平の 活動年譜,そして周縁の技術者群像に着目するとともに, 日本道路公団時代に名神・東名高速道路の建設に携わ それらを重ね合わせた上で片平の道路技術者としての系 り,後に片平エンジニアリングに入った武部健一氏[1], 譜や位置づけについて考察している点に特徴がある. 大泉紀男氏[2]と大学卒業後に設立間もない片平エンジ ニアリングに入った浅見邦和氏[3]のご協力を仰いだ. 40 土木学会論文集D2(土木史), Vol. 72, No. 1, 40-49, 2016. 2. 道路技術 術者との出会 会いと影響(表 表-1) 本章では,片平の道路技 技術者としての活動に影響 響を与 えた5人の道 道路技術者らと との出会いと関 関係性を概括 括する. (1) 東京帝国 国大学土木工学 学科での恩師 師との出会い 片平は,11913(T2)年9月 月13日,福島県 県信夫郡渡利 利村に (103) 生まれた.「成績が良くイヂメラレッ ッコ」 だっ った宮 城第二中学校 校(四修),第二 二高等学校(仙 仙台)理科甲類 類を卒 業し,1933(S S8)年に東京帝 帝国大学工学部 部土木工学科 科に入 学する(写真 真-1).そこで1922(T11)年か から1942(S17)年ま で同学科で道 道路工学を教 教えていた藤井 井真透[4]と出 出会う. 藤井は片平を を道路工学の分 分野へ導いた最初の人物で であり, 日本で初めて ての高速道路事 事業の計画か から建設までを を牽引 すした教え子 子の片平を見守 守った土木技 技術者である. 写真-1 写 大学入学 学時 (196) 写 写真-2 技官時 時代-30 代 (196) (2) 内務省・建設省での2 20年と先輩技 技術者との出会 会い 1936(S11)年 年,大学卒業 業後に内務省雇 雇となった片 片平は 技手補(荒川 川上流改修事務 務所),内務 務技手(東京土 土木出 張所)を経て て1939(S14)年 年に内務技師(土木局)となる. 片平が大学 学を卒業した同じ年,恩師 師の藤井は第44代土 木試験所長に に就任し,19952(S27)年まで での16年間在 在籍し た.また,同 同時期,片平は は日本初の高速道路建設に に向け [5] て奔走する114才年上の先輩技術者の菊 菊池明 と出 出会う. (3) 大学での の10年間の講義 義と『道路工 工学』刊行 官吏時代の の1942(S17)か から1953(S28)年 年の約10年間,藤井 の後任として て母校で道路工 工学の講師を を兼任する(写真 真-2). 恩師の教育者 者としての姿勢 勢を習い,片平も「建設省 省在任 中から東京大 大学の講師として道路工学 学の講義を担当 当して (117)) 日本の建設界 界を支えてい いる多くの人材 材を育成」 した. そして,兼任 任講師を離職後 後に『道路工 工学概論』(88)と『道 と (89) 1931(S6)年に 路工学』 を刊行する. を に牧野雅楽之丞 丞[6] が刊行した同 同名の書を片平 平は「わが国 国における“近 近代道 路工学”とし して体系付けられた原点の一つ」と評価 価して いる(108).牧野 野の書から255年後に刊行さ された片平の の『道 路工学』の序 序には,菊池が が「道路全般 般を見つめ,そ その本 (89) 質を常に見失 失わない技術者 者」 の言葉を記している. (4) 道路公団 団時代の 14 年間と外国人技 年 技術者との出会 会い 日本道路公 公団設立 1956(S31)年から 2 年後の 1958(S33) 年 7 月に西ド ドイツから線形 形設計の専門家 家,11 月に米 米国か ら土質・舗装 装の専門家が招 招請された. a) X.ドルシ シュとの出会い いと影響(写真 真-3) 西ドイツか から線形コンサ サルタントとして招請され れたの Xaver は,ドルシュ・ゲルマン ン社代表のX..ドルシュ(X (113) Dorsch)氏で であった .片 片平は「ドルシュ氏によっ っても たらされたク クロソイド曲線 線と立体的な線形設計の思 思想は 41 写真-3 写 名神高速 速道路開通式で での X.ドルシュ ュと片平信貴 (東日本 本高速道路株式 式会社提供) 何と といっても日本 本の道路技術史 史における画期 期的な収穫で で あっ った」(44)と評し し,この平面曲 曲線と縦断曲線 線の組合わせ せ の基 基本的な考え方 方を習得して“線形の片平” ”と呼称され れ る所 所以となった.ドルシュは約 約10年間に11回 回来日し調査 査 0(S35)年の2回 を実 実施しており,片平は1959((S34)年と1960 回, 西ド ドイツのDorschhコンサルタン ントを訪れてい いる. また,来日時に ま に「ドルシュ氏 氏が常にほこらしげに口に に (97) H.ローレンツ した た人の名がローレンツ博士 士」 ことH ツ ans Lorenz)は X.ドルシュの (Ha は,ドイツ政府 府の技術者でX の 同僚 僚である.19300年代に開始さ されたアウトバ バーンの初期 期 から らの計画整備に に従事し,戦後 後,高速道路局 局長となった た 人物 物である.19766年に発行され れた博士の著書 書『道路の線 線 (977) 形と と環境設計』 に片平は次の のような巻頭言 言を記してい い る.「此の本は“人間と自然と とのかかわりあいにおける る 道路 路設計”の定本 本として,今後 後も生きつづける価値を持 持 つも ものであり,従 従来,ドルシュ ュ氏を通じて, ,その“部分 分” を学 学習して来た我 我々にとって“全体”を見ることの出来 来 る唯 唯一の書として て貴重なものに になることであろう」. 片平にとって, 片 ドルシュとの の出会いとロー ーレンツの存 存 在は は,線形設計や や景観設計の思 思想の上で影響 響を与え,生 生 涯を を通して理想を を実現する道具 具の習得の機会 会となった. b) P.ソンデレガ ガーとの親交 米国から土質・ 米 ・舗装コンサル ルタントとして招請された た 土木学会論文集D2(土木史), Vol. 72, No. 1, 40-49, 2016. のは,ミラー・ワーデン・ウェスタン社代表のP.ソンデ レガー(Paul.E.Sonderegger)氏であった.片平は,ソン デレガーの功績について「名神の末期には,なお多くの 未解決の問題を残しながらも土質工学と土工との結びつ きは完全に常識となり,土の処理については自信に似た ものを全ての技術者が持って,東名に移行した」(44)と述 写真-4 『高速自動車道路』 写真-5 『高速自動車道路』 べている.片平がコンサルタントを設立した後もソンデ 表紙 (87) アメリカの Freeway(87) レガー氏はプロジェクトマネージャーとして片平エンジ ニアリングの技術者たちと共にフィリピンで仕事を行い, どんなものかわからないような1953(S28)年3月に,関東, 親交を深めた(107). 中部,近畿の地方建設局の担当者が集められ」11),片平 から高速道路の説明を受けた折,資料の中にあったイン 3. 高速道路の誕生と道路技術者片平信貴の仕事 ターチェンジの写真に魅入られたと話す.これが,武部 と片平,武部とインターチェンジの出会いであった.建 (1) 高速道路胎動期,官吏時代の片平信貴 設省から設立直後の日本道路公団に移った武部は,イン a) 戦前:重要道路整備調査と大東亜道路会議出席 ターチェンジの計画設計をテーマに調査研究を続け, 1933(S8)年に発表されたアウトバーンの計画整備は, 1967(S42)年1月に京都大学で工学博士の学位を取得した. 5年後には3,000km開通式が行われる程進展した.日本で も1940(S15)年から1942(S17)年に内務省国土局道路課を 中心に土木出張所,府県庁諸機関等動員のもと「重要道 路整備調査」が行われた.1943(S18)年から1944(S19)年 には名古屋―神戸間の測量が行われ「全国自動車国道網 計画」が策定されるに至った.この間の1942(S17)年に国 土局に配属となった片平は,菊池と共に同年5月に東京 で開催された第一回大東亜道路技術会議に出席する.自 動車道路に関する部会では「朝鮮半島から大陸へ渡り中 国,タイ,インド,ビルマ, 東南アジアの諸国を経て遠 くヨーロッパの道路網とも結ぶ計画」8)等が説明された. しかし,戦況悪化に伴い調査は打ち切りとなった. b) 戦後:高速自動車道路調査と米国出張120日間(57) 「昭和20年,荒廃の果ての終戦を迎えて連合軍の管理 の下に置かれたわが国では,何もかもが再出発のための 陣痛を味わっていた」.このような状況下で「戦争中, 疎開しておいた自動車国道関係の資料も次第に集められ, 高速道路建設への動きがはっきりした陣痛の形で開拓さ れ」ていった.1950(S25)年,道路局道路企画課長補佐 になって半年後に片平は米国に120日間出張する.米国 の30州以上で進められていた有料道路計画・建設の「舗 装設計,施工技術,交通安全施設の設計,運用方法,高 速道路の計画,各州道路局の組織・運営方法」の調査と 概況の把握を目的とした出張であった (写真-4,5) . 帰国の翌1951(S26)年から「東京-神戸間自動車国道調 査」が再開された.当時,片平の下で係長として調査を 担当し,後に日本道路公団に転じた大塚勝美[7]は, 「現在のこんなすばらしい高速道路ができたきっかけを つくった人,夢の実現に邁進した人は,当時の菊池明道 路局長であり,もう一人は片平信貴道路企画課長補佐で あった」10)と述懐している.また,武部は「高速道路が 42 (2) 高速道路誕生期,日本道路公団時代の片平信貴 1956(S31)年に日本道路公団が設立されると,建設省 から公団(計画部技術課長)へ転じる.前半の8年の間 (40代),名神高速道路部第一課長(菊池が部長と理事を 兼務),名神高速道路部長,高速道路計画部長と計画整 備の急進に合わせるかのように役職も変転する.公団へ 転じて7年の後,栗東–尼崎間が部分開通する. 公団勤務後半の6年間(50代)のうち,1964(S39)年から 約4年間,理事と静岡建設局長を併任する.この時期, 日本は高度成長期の時勢を受け,国土開発の勢いを増し ていく中で東京オリンピック開催,東海道新幹線開業, 名神高速道路全線開通と躍進を遂げていった. a) 「陣痛前期」と「陣痛後期」の牽引(写真-6) 片平は,戦後から公団設立までを「陣痛前期」とし, 1957(S32)年から名神高速道路が供用される1963(S38)年 までを「陣痛後期」と区分している.片平が公団に転じ て以降を片平の言説から整理すると次のようになる(57). 「昭和31年の日本道路公団設立,世界銀行との具体的借 款交渉,名古屋-神戸間にしぼった路線の確定,具体的 な建設設計の開始など,昭和30〜32年の3年間は,最も あわただしい,言うならば最も期待に満ちた,最も激し い陣痛の時期」であり「昭和32年以降は具体的な建設の ための陣痛の時期といえる.世界銀行との借款条件の交 渉,用地買収を中心とした地元との協議,そして技術的 な諸問題の検討等がその内容で,いわばすでに生まれる ことの決まったものに対する準備であった」. 片平は,世界銀行の調査団来日の際は名神高速道路部 長として予備交渉を行い,初代総裁の岸道三や菊池らと ともに2度訪米した際にも交渉を行い,調印に臨んだ. 土木学会論文集D2(土木史), Vol. 72, No. 1, 40-49, 2016. 写真-6 デレガー:筆者記)が残した功績は大きかった」(82)と評 する海外技術者らによる影響を推し量ることができる. 日本初の高速道路建設に際して招請された海外の技術 者らとの実直な関係は,日本道路公団を退任し自らがコ ンサルタントとなってからも長きにわたり続いた. 片平は「ドルシュさんこそが“コンサルタント”であ ったと思う.われわれは軽々しくコンサルタントと称し ているが実は設計専門屋であったり,計算屋であったり, まことのコンサルタントは数えるほどしかいないことを 痛感し,今更ながらドルシュさんの大きさを思う」(84)と コンサルタントの理想の姿をドルシュ氏にみていた. 「片平さんは,外国のコンサルタントのように知的なア ドバイスによって計画や設計の基本が決められるような 仕事を望んでおられたようだったが,日本の現実はそれ からは遠かった」(119). 日本でのコンサルタントの役割に対する限界を感じな がら,1987(S62)年に片平エンジニアリング・インター ナショナル会長となった片平は,海外の技術支援を本格 化させていった.その実績は「国内のみならず東南アジ アを中心に開発途上国の道路計画や道路技術の向上に努 力され,相手国の深い信頼を受けられた.そして,関係 諸国の会員の推挙により58年から3年間,アジア・オー ストラリア道路技術協会の会長を務め」(110)るほどに評 価された. 右より,片平信貴氏,菊池明氏,岸道三総裁, X.ドルシュ氏12) b) 名神高速道路「誕生」を迎えて 起工式から 5 年後の 1963(S38)年 7 月,日本初の高速 道路が完成した.片平は戦前からの夢を実現した瞬間を 「胎動をはじめてから約 23 年の歳月と,その間の実に 多くの人びとの努力が,名神を生んだ」(57),その高速道 路を「毎時一〇〇キロの速度で,日本の風土の中を,四 次元のリズムに乗って走る.それは,久しい間,日本の 自動車交通の夢であった.日本の道路の悲願でもあった. 名神高速道路はその夢の実現であり,日本における本格 的な「高速道路」の長男誕生である」(91)と表現した. 戦前から戦後にかけて,日本の本格的高速道路建設時 代を牽引した片平ならではの苦悩と喜びが「努力」「夢」 4. 道路技術者片平信貴の系譜と位置づけ 「悲願」「長男誕生」の言葉から読み取れる. 本章では,日本の道路技術者の系譜という視点から, 高速道路史における片平の位置づけについて考察する. (3) 日本人技術者の自負 東名高速道路の完成 東名高速道路建設に際して,片平は理事と静岡建設局 長を併任して現場を率いた.そして,東名高速道路全線 開通の翌1970(S45)年に片平は公団を去る.名神高速道 路建設の過程において海外技術者による技術指導を習得 した若き技術者たちの成長と彼らとともに日本人技術者 自らが計画し建設を推進した東名高速道路の完成を見届 け,56才の片平は後進に道を譲り,コンサルタント会社 設立への一歩を踏み出す. (1) 日本の近代道路を築いた土木技術者 1962(S37)年6月,片平は高速道路第一部長となり名神 高速道路の現場責任者として藤井を案内した.藤井は片 平の労を笑顔でねぎらった.愛弟子の仕事と成長を確認 したその2ヶ月余後,藤井は逝去した.片平は「過ちを 犯そうとすると“危ない!”と心の奥の声が聞こえる. 考えに行き詰まると“そうだねぇ”と一緒に考えてくれ る.仕事が順調に進んでいる時はただ静かな笑顔だけが 見守っていてくれる」,「藤井先生は私にとって数少な い“心の中に生きている人”」と述懐している(37). 『道路工学概論』の自序に記された「最後にこの書が, 著者一人の所産ではなく,わが国の道路工学を築き上げ, わが国の道路を愛して来た牧彦七,藤井真透,牧野雅楽 之丞,岩沢忠恭,菊池明その他の諸先輩につながる道路 技術系列の現代の断面を示したにすぎない」には,先覚 者への敬意と系譜を継ぐ者としての自覚のような思いが 読み取れる.篠原修[8]の言葉を借りると「片平は役人 (4) 道路コンサルタント設立の理想と現実 日本道路公団退任から2ヵ月を経て,小規模・道路専 門・国際的なコンサルタント会社を拓く.設立時の片平 は「土木というよりはむしろ道路専門のシンクタンクみ たいなものをつくろう」(63),そして「あらゆるものに対 してインデペンデントであるということが最も大切」(63) という理想を抱いていた.その発意と仕事への取り組み の姿勢には,名神高速道路建設時に「渋々依頼したコン サルタントであったが,この2人(X.ドルシュとP.ソン 43 土木学会論文集D2(土木史), Vol. 72, No. 1, 40-49, 2016. ではなく,その前に道路のエンジニア」であり「土木エ 路公団に入団した理由を「片平という人物の中に自分と (108) ンジニアの伝統を受け継ぐエンジニア」と表される . 同じ体質,自分がこれから向かおうとする志をすでに実 践していることを見てとったからではなかったか.温厚, (2) 高速道路建設を牽引した道路技術者の一員として 教養人,そして高い志,これだ,と中村は直感したに違 1933(S8)年に発表されたアウトバーン計画は,日本で いない」と記している(108). も話題であった13)[9] .アウトバーンに対する高い関心を 片平は戦前から道路景観に対する理解を示し,日本の 持ち,日本における高速道路建設の夢を抱いていた藤井 高速道路黎明期の現場で景観設計の実践を試みた第一人 と菊池は,国際道路問題調査委員会のメンバーとして戦 者といえる.その思いは「私も片平さんとの出会いが道 前から高速道路計画を牽引した.1940(S15)年,藤井は 路景観に大きな興味を持つきっかけ」と述べる大泉らに アウトバーンの計画理念,幾何構造,風致と郷土美に関 継承されていった. 14) する内容を新聞に紹介している .菊池は1942(S17)年に (4) 国内外で活躍した道路コンサルタントの第一人者 帝国アウトバーン道路総監F.トット博士が事故で急逝し た折,新聞に追悼文を寄せている15).彼らの記事は若き 世界を見据えた片平のまなざしは,戦前から戦後にか 片平の高速道路への関心を高めた.片平は東名高速道路 けて進められた一連の高速道路調査計画,具体的には, (44) 開通後にその当時の思いを振り返っている . 自動車国道網策定における「いわゆるアジア・ハイウェ 片平の報文では道路技術者は常に複数形で表記されて イ」(34)の頃から芽生えていたのではないだろうか.名神 いる.また,KATAHIRA & ENGINEERS INC.の社名表記 高速道路建設を通じて海外から導入することとなった新 には「片平と技術者たち」の意味が込められているとい しい技術と思想の習得は,片平エンジニアリング時代の う.片平は「一人一人の技術者がその専門分野で本当の 海外への支援にも惜しみなく活かされた.片平の「ロー (57) 意味でのコンサルタントであるように」 との思いを抱 カルのマテリアルについてとか,ローカルのいろいろな くとともに「僕はね,梁山泊(有志の巣窟の意:筆者記) コンディションについては彼らの方が上で,われわれも をつくりたいんだよねぇ」11)の言説を残している. その知識を入れながら,こんどは,われわれの知識を彼 これらの表現から,技術者の一人一人が確固たる存在 らの中につぎ込んで一緒にものをつくりあげてゆくとい でありながらチーム・集団として事業を推進することを うコンサルテーション,頭からお前たちを指導するとい 理想とし,自ら実践に努めた片平の思いがうかがえる. うのではなくて,一緒にやるのだというヒロソフィを前 から持っているものですから」(63)の言説には相手を尊重 (3) 高速道路の景観設計の実践を試みた第一人者 した上で一緒に取り組むという姿勢が読み取れる.これ 片平の道路景観に対する明確な関心は,1951(S26)年 は名神・東名高速道路においてX.ドルシュが示した姿勢 の報文に確認できる.戦前に書かれた報文は「最後に, と重なる.片平は,壮大なスケールの高速道路網を描き 道路が果す観光への役割を,更に完璧に果すために, つつ,海外での技術支援の模範をX.ドルシュに見出し, (中略)観光の人たちと共に「道路美学」と云ったものを 理想とする道路コンサルタントとなるべく尽力した.そ 確立したいと望んでいる事を附記したい.それは日本の の技術支援の功績はフィリピンでの評価やREAAA会長と 変化高い風光に適合した道路の構造,近代的な構造美と して選任されたことからも伺い知る事ができる.片平は, 自然美との共鳴方法等は勿論であるが,新しい考え方と 1989(H1)年7月3日朝,技術支援のため滞在していたマニ して,自動車の速度,方向変換等と,窓外風景の変化速 ラ市内で急逝した. 度との関係を求め,人の眼に映る風景変化の最も快適な 速度を探求する事など,将来の道路工学に導入されるべ 5. まとめ (19) きだと考えているのである」 と結ばれている. 1964(S39)年に設立された高速道路調査会景観部会 片平は,戦前の調査計画を端緒に戦後は名神高速道路, (設立時の名称:風致工学研究部会)の初代部会長であ 続く東名高速道路の計画建設を牽引した.片平と恩師の った菊池の後を片平が継いだ.片平の後,第三代景観部 藤井,先輩の菊池,海外技術者のドルシュ,ソンデレー [9] 会長となった中村良夫 は日本道路公団に「片平さん ガーらとの出会いは,高速道路における景観設計の実践 に触発されて入団した」と話す. や道路コンサルタントとしての国内外における技術支援 第四代景観部会長となった篠原の著には「戦後土木の の糧となり,道路技術者としての50年の歩みの基盤にな 景観,デザインをリードしたのは道路公団」であり,日 ったといえる.片平は日本の高速道路黎明期の主軸を担 本道路公団は「景観工学の実質的創始者となる中村が在 った道路技術者であり,近代道路を築いた土木技術者の 籍した所」の記述がある.さらに,篠原は中村が日本道 系譜を継ぐ技術者といえる. 44 土木学会論文集D2(土木史), Vol. 72, No. 1, 40-49, 2016. 表-1 片平信貴の活動年譜(1913-1989)(参考文献 1)〜9),補注(107),(115)をもとに筆者作成) 45 土木学会論文集D2(土木史), Vol. 72, No. 1, 40-49, 2016. (5) 国土省設置の基礎理念(続建設論覚書):『道路』, pp.124-128,1946年2月. (6) 知事に道路行政を聴く:『道路』,pp.249-251,1949年9月. (7) ソイルセメント舗装の実績:『道路』,ワトキンスC.L.,片平 信貴訳,浅井新一郎訳,pp.252-253,1949年9月. (8) ダーウィン道路-これはダーウィンへの道路の苦難の歴史 と現在の沿道案内である-:『道路』,p.253,1949年9月. 補注: (9) 知事に道路行政を聞く(2)栃木県の巻:『道路』,pp.112[1]武部健一:1948年京都大学土木工学科卒業.特別調達庁, 113,1950年4月. 建設省関東地方建設局を経て,56年日本道路公団へ.名神高速 (10) 知事に道路行政を聞く(2)長崎県の巻:『道路』,pp.113道路部第一課,東名高速道路計画課長,静岡建設所調査役,東 114,1950年4月. 京建設局長,常任参与等を歴任.81年片平エンジニアリング. (11) 米国通信第1報:『道路』,pp.378-380,1950年12月. 代表取締役社長,会長を歴任した.99年道路文化研究所を設立, (12) 米国通信第2報:『道路』,pp.12-19,1951年1月. 理事長として道路の歴史や文化に関する研究,執筆,講演活動 (13) 米国の道路視察の印象-斜視的第1報-:『道路』,pp.78を行っている. 79,1951年3月. [2]大泉紀男:1963年東京農業大学農学部造園学科卒業後, (14) 道路改良順位決定の基礎としての要改良度算定方法:『道 日本道路公団に入る.92年片平エンジニアリングへ.取締役, 路』,pp.102-105,1951年4月. 専務取締役,現在,特別技術顧問.講演会,委員会活動の他, (15) 米国の道路行政について:『土木学会誌』36(9),pp.26宮城県仙台市を中心に地域コミュニティ活動を行っている. 29,1951年9月. [3]浅見邦和:1972年中央大学土木工学科卒業後,片平エン (16) 高速自動車道路:『建設月報』4(11),pp.14-16,1951年11月. ジニアリングに入社.現在,理事. (17) 高速自動車道路の夢:『道路』,pp.178-181,1952年5月. [4]藤井真透(1889(M22)年-1963(S38)年):1914年東京帝国大 (18) 道路構造の最近の考え方について:『土木学会年次学術講 学工科大学土木工学科卒業後,大阪府庁に入る.明治神宮造営 演会講演概要Vol.18, pp.43-44,1952年. 局技師-神宮外苑道路工事,内務省土木試験所第4代所長を歴任. (19) 道路事業と観光:『国際観光』15(15),pp.6-9,1952年. 東大,日大で講師を兼務し,退官後は日大理工学部大学院で教 (20) 我国の道路事情より見た自動車諸元の限界に就て:『日本 授として生涯道路工学を教え続けた. 道路会議論文集論文』No.113, 第1回特定課題,建設省道路 [5]菊池明(1899(M32)年-1973(S48)年):1925年東京帝国大学 局,1952年11月. 工学部土木工学科卒業.内務省土木局,下関土木出張所,国土 (21) 有料道路の諸問題:『建設月報』4(8),pp.17-20,1952年11月. 局,興亜院を経て,国土局土木課長,建設省初代道路局長,建 (22) 高速自動車道路:『建設月報』6(1),pp.1-5,1953年1月. 設省技監を歴任.土木学会会長,日本道路公団理事,高速道路 (23) 我国の高速自動車道路の構想:『国土開発』2(2),pp.6-8, 調査会風致工学研究部会初代部会長,社団法人日本道路協会第 1953年2月. 二代会長,社団法人道路緑化保全協会初代会長,第13回国際道 (24) 台湾の印象:『建設月報』6(4),pp.19-22,1953年4月. 路会議(東京)議長等をつとめた. (25) 台湾視察報告:『道路』,pp.158-165,1953年4月. [6]牧野雅楽之丞(1883(M16)年-1967(S42)年):1909年東京帝 (26) 道路と速度-主として設計速度について-:『道路』24(9), 国大学工科大学土木工学科卒業後,内務省入省.内務技師任官, pp.98-103,1955年3月. 東京土木出張所,下関土木出張所長,土木試験所第2代所長を (27) 建設の機械化について〔1〕:『土木学会誌』40(7),p.28, 歴任.退官後,メキシコや東南アジア諸国等に対し道路技術に 1955年7月. よる海外協力の端緒を開いた. -日本道路公団時代(1956〜1970)22 編[7]大塚勝美:1946年東京帝国大学第二工学部土木工学科卒 (28) 道路協会 10 年の歩み:『道路』,pp.567-569,1957年 10 月. 業,同年戦災復興院入省.1951(S26)年から建設省道路局,東 (29)「道路交通の現況と将来の見通しについて」の座談会報 京-神戸間高速自動車道路の調査計画に携わる.1958(S33)年日 告:『道路』,pp.37-39,1958年 1 月. 本道路公団に転じる.名神高速道路部第一課,理事等を歴任. (30)わが国高速道路の技術的諸問題:『高速道路』創刊 [8]篠原修:1968(S43)年東京大学工学部土木工学科卒業,東 号,pp.16-19, 1958年 5月. 京大学農学部林学科助手,東京大学大学院工学系社会基盤学専 (31) 名神高速道路計画の概要:『日本道路会議論文集論文』 攻教授等を歴任,2006年より名誉教授. No.15, 第 5回一般論文,1959年 10 月. [9]藤井真透,菊池明らが参画し,国際道路会議の議題や (32)高速道路の計画:『最近の道路問題と高速道路』, 欧米の道路計画整備に関する調査研究を進めていた. pp.155-168,社団法人土木学会編,1960年 8月. [10]中村良夫:1963(S38)年東京大学工学部土木工学科卒業 (33) 高速道路とともに:『道しるべ』,1961 年. 後,日本道路公団に入る.東京大学助手,東京工業大学教授, (34) 名神高速道路の一部完成までをかえりみて:『道路』, 2002年より名誉教授. pp.606-610, 1963 年. (35) 第 7 回日本道路会議 第 4 部会報告:『道路』,pp.978-979, 1963 年 12 月. 片平信貴アーカイブズ(198編) (36) 座談会 欧州の道路事情を聞く:『道路』,pp.1056-1067, I) 片平信貴の著による論文,報文-共著・対談を含む-(86編) 1963 年 12 月. -官吏時代(1936〜1956)27編(37) 藤井先生の想い出:『土木技術』18(12),pp.7-8,1963 年 (1)「時距圖表による街路交叉點の解析」:『道路の改良』,第 12 月. 20巻第3号,土木学会,pp.38-50,1938年1月. (38) IRF東京会議を顧みて:『道路』,pp.688-700,1964年 8月. (2)「道路輸送に就て」の謬見を匡す:『道路』,pp. 155-163, (39) 座談会 日本の高速道路を造る-20 年のあゆみ-:『高速道 1944年3月. 路と自動車』12(10),pp.32-48,1964年 9月. (3) 道路の輸送能力主として集団輸送の諸問題に就て:『道 (40) 高速道路建設における土質工学上の諸問題:『土と基礎』 路』,pp.46-53,1945年11月. 12(12):pp.1-2,1964 年 12 月. (4) 建設論覚書:『道路』,pp.86-94,1946年1月. 謝辞:本稿をまとめるに際して,道路文化研究所理事長 武部健一氏,大泉紀男氏,浅見邦和氏,大澤聡氏,向山 花織氏をはじめとする株式会社片平エンジニアリング関 係者各位にご協力を賜りました.厚く謝意を表します. 46 土木学会論文集D2(土木史), Vol. 72, No. 1, 40-49, 2016. (41) 東京〜神戸間高速道路:『土木学会誌』49(11),pp.3034,1964年. (42) 舗装考 数字の魔力:『舗装』第 2 巻,p.7,1967 年 7月. (43) 座談会 協会 20 年の歩みと明日への課題:『道路』,pp.821, 1967年 9月. (44) 東名高速道路開通に際して—回顧と展望-:『高速道路と自 動車』11(5),pp.18-22,1968年 5月. (45) ハイウェー対談:『道路』,pp.40-47, 1968 年 8 月. (46) 座談会 東名高速道路建設ものがたり:『高速道路と自動 車』12(6), pp.39-50,1969年 6 月. (47) シンポジウム 高速道路と自動車交通:『高速道路と自動 車』12(10),pp.37-58,1969年 10 月. (48) 道路交通問題ノート:『建設月報』23(2),pp.12-14,1970年 2 月. (49) 東名高速道路建設誌の序文:日本道路公団東名高速道路 建設誌編さん委員会,1970年 3月. -道路コンサルタント時代(1970〜1989)37 編(50) 花々と庶民:『道路』,pp.42-43, 1971年 8月. (51) 海外の技術協力の問題点を探る-道路建設を中心として-: 『高速道路と自動車』14(12),pp.34-45,1971 年 12 月. (52) 座談会 自動車道と鉄道における有効利用の問題点:『高 速道路と自動車』15(11),pp.34-44,1972年 11月. (53) ブラジルの印象:『道路』,pp.71-74, 1973 年 1 月. (54) 座談会 道路技術の問題点と今後の方向:『道路』,pp.3446, 1973年 7 月. (55) 随想 10 年後を楽観する(高速道路,高速道路調査会の歩 み):『高速道路と自動車』16(11),pp.35-36,1973年 11 月. (56) 高速道路網建設の問題点と今後の方向—新しい道路づくり (道路交通の未来像):『高速道路と自動車』17(3),pp.1215,1974 年 3 月. (57) 名神高速道路を生んだもの:『土木学会誌』60(1),pp.6365,1975 年 1 月. (58) 道路計画に対する姿勢:『高速道路と自動車』19(10), pp.7-10,1976年 10 月. (59) 座談会 道路協会のあゆみと今後の展望:『道路』(436) , pp.14-25,1977 年 6 月. (60) 知事に道路行政を聴く 福島県の巻:『道路』,pp.33-34, 1977 年 6 月. (61) 知事に道路行政を聴く 長野県の巻:『道路』,p.34, 1977 年 6 月. (62) 国際協調と道路建設:『高速道路と自動車』21(5),pp.710,1978 年 5 月. (63) (株)片平エンジニアリング社長 片平信貴氏に訊く:『建 設コンサルタント 会報』通巻 No.102,pp.2-14,1978年 9,10 月. (64) 第 2 回アジア・オーストラレーシア道路技術会議 (REAAA)出席報告(舗装特集):『道路』(456) ,pp.45-49, 1979 年 2 月. (65) アジア・オーストラレーシア道路協会 シンポジウムおよ び総会出席報告:『道路』(460) ,pp.94-95,1979年 6 月. (66) REAAA 第 16 回 Council Meeting 報告:『道路』(462) , pp.90-92,1979 年 8 月. (67) REAAA 第 17 回評議員会報告(海外情報):『道路』 (469) ,pp.86-88,1980 年 3月. (68) 国際協力と海外活動の現状(国際協力特集):『道路』 (473) ,pp.2-5,1980年 7月. (69) アジア・オーストラレーシア道路技術会議第 18 回評議員 会:『道路』(474) ,pp.86-87,1980年 8月. (70) 季節と花と技術協力:『高速道路と自動車』24(3),pp.1617,1981 年 3 月. (71) 座談会 わが国における高速道路の発展と自動車の技術進 歩をめぐって:『高速道路と自動車』24(6),pp.16-23,1981年 6 月. (72) REAAA 第 3 回道路会議・会議総会ならびに第 20 および 47 第 21 回評議員会報告:『道路』(485) ,pp.85-87,1981年 7月. (73) REAAA 第 22 評議員会報告(海外情報):『道路』(490), pp.58-60,1981年 12 月. (74) 待宵の小侍従:『道路』(495) ,p.58,1982年 5 月. (75) REAAA 第 23 回評議員会出席報告(海外情報):『道路』 (497) ,pp.77-78,1982 年 7月. (76) REAAA 第 24 回評議員会出席報告(海外情報):『道路』 (501) ,pp.70-72,1982 年 11 月. (77) 道路 -トンネル等を含む(部門別にみた事業と人物譜 7官学主導による向上一直線):『土木学会誌』67(11),pp.4143,1982年 10 月. (78) 日本の道路会議(論壇):『道路』,p.2,1983年 12 月. (79) 牧野雅楽之丞:『土木学会誌』69(6),p.38,1984年 6月. (80) 肩に力を入れないで--主に海外だより--: KATAHIRA WORLD No.1 創刊号,1984 年. (81) ことばとこころ(随想):『高速道路と自動車』28(7), pp.16-17,1985 年 7 月. (82) 道路の体温(随想):『高速道路と自動車』29(4),pp.2021,1986 年 4月. (83) OUR REGION(ひとこと):『道路』,p.71,1986 年 11 月. (84) コンサルタント・ドルシュさん(追悼):『高速道路と自 動車』30(3),p.11,1987年 3 月. (85) 大先輩に聞く-富樫凱一名誉会員(インタビュー)-:『土 木学会誌』74(1),pp.2-6,1989年 1 月. (86) 景観設計に色を:『高速道路と自動車』32(6),pp.2021,1989 年 6月. II) 片平信貴の著・編による冊子,文献類(序文含む)(12編) -官吏時代(1936〜1956)1編(87) 高速自動車道路 Freeway Autobahn Motorway,建設省,1952. -日本道路公団時代(1956〜1970)8編(88) 道路工学概論:共立全書,1956. (89) 道路工学:技報堂,1956 . (90) 高速道路の計画:『最近の道路問題と高速道路』,土木学 会,pp.155-168,1960. (91) 片平信貴編,早川精,武部健一:名神高速道路-日本のア ウトバーン誕生の記録-,1965. (92) 日本道路公団名神高速道路建設誌編さん委員会:名神高速 道路建設誌(総論),1966. (93)日本道路公団名神高速道路建設誌編さん委員会:名神高速 道路建設誌(各論),1967. (94)武部健一,八木寿:『インターチェンジの計画と設計』の 序文,鹿島研究所出版会,1969. (95) 日本道路公団東名高速道路建設誌編さん委員会:東名高 速道路建設誌(編),1970. -道路コンサルタント時代(1970〜1989)2編(96) 高速道路における最近の技術的諸問題:片平信貴氏退任記 念論文集,片平氏退任記念事業実行委員会編,技術書院,1971. (97) ローレンツ博士とドルシュ氏:『道路の線形と環境設計』 の序文,ハンス・ローレンツ著/中村英夫・中村良夫編訳,鹿 島出版会,1976. -私人(俳人)としての活動(1940〜1989)1編(98) 片平杜翠『ブーゲンビリア 片平杜翠遺句集』,卯辰山文 庫,1995. III) 他者が片平について紹介,論評した文書(18編) (99) 読売新聞:日本坂トンネル貫通式〔カメラ・ニュース〕, 1967年6月14日夕刊. (100)読売新聞:「東名高速道」開通するが…〔都市をわれら の手に〕,1968年4月23日夕刊. (101) 読売新聞:高速時代-慣れない運転者:1968年4月25日夕刊. (102) 読売新聞:つぎは東北,北陸道だ“ハイウェー男”片平 さん:1969年5月26日夕刊. 土木学会論文集D2(土木史), Vol. 72, No. 1, 40-49, 2016. (103) 旬刊「高速道路」人物記採録 1966-1995:あの人・この 道・30年,高速道路技術センター,1995. (104) 高速道路技術センター:はじめての挑戦,2000年6月. (105) 加藤宣利(共同通信社元論説委員):回想のハイウェイ -夢に挑んだ男たち-,ぎょうせい,2000年9月. (106) 中村良夫:回遊庭園国土を構想しよう,『高速道路と自 動車』43(10),pp.7-8,2000年10月. (107) 株式会社片平エンジニアリング:30周年記念誌(座談会, 社友からのメッセージ,役員からのメッセージ),2001年3月. (108) 国土政策機構:国土を創った土木技術者たち(道路と土 木技術者:通史,人物紹介,武部健一),鹿島出版会,2002年2月. (109) 社団法人土木学会土木史研究委員会:オーラル・ヒスト リー試行編武部健一,2006年3月. (110) 香川周平:片平信貴の仕事と道路計画・設計思想 –名 神・東名高速道路の建設に着目して-,東京大学大学院工学系 研究科社会基盤学専攻景観研究室 修士論文,2008年3月. (111) 篠原修:ピカソを超える者は,技報堂出版,2008年9月. (112) 松本洋:地球建築士,柏艪社,2008年12月. (113) 橋本政子・齋藤潮:名神・東名高速道路におけるドイツ 人技師ドルシュの設計思想に関する研究,土木学会『景観・デ ザイン研究論文集No.8』,pp.41-49,2010年6月. (114) 名神高速道路全通45周年にあたって:『土木学会誌』 95(7), pp.45-52,2010年7月(学会誌では,片平信貴について語ら れた部分は省略されている) (PDF)http://www.jsce.or.jp/journal/topics/topics20100705.pdf. (115) 株式会社片平エンジニアリング:第44期創立記念式典片 平信貴氏生誕100年記念講演会(配布資料),2013年9月. (116) 中村正人:片平信貴氏生誕100年に思う,『高速道路と 自動車』56(9),pp.16-17,2013年9月. IV) 片平を追慕, 追悼した文・冊子類(76編) (117) 三野定(住友建設株式会社代表取締役):「故 名誉会 員 片 平 信 貴 氏 の ご 逝 去 を い た む 」 , 『 土 木 学 会誌』 74(11),p.75, 1989年9月. (118) 浅井新一郎(社団法人交通工学研究会会長,首都高速道 路公団理事長):「片平信貴前会長のご逝去を悼む」,『交通 工学』, 1989 No.5. (119) 武部健一(片平エンジニアリング取締役社長):「天命 を知る人-片平信貴さん」,『高速道路と自動車』33(3),1990. (120) 戸谷是公(財団法人高速道路技術センター理事長): 「ある道路技術者と俳句の道-片平信貴氏を偲ぶ-」,『EXTEC』 1989年12月号. (121) アジアオーストラレイシア道路技術協会:「故片平信貴 氏を讃える」,REAAA総会にて,1990年3月. 『旧交会会報』第 22 号(1989年 11月) *旧交会:内務省・建設院・建設省・運輸省・国土庁・北海道 開発庁・国土交通省の勅任官であった者・一級官・その他技術 職者の退職者で構成 (122) 井関正雄「片平信貴君の思い出」 (123) 伊吹山四郎(大林道路株式会社取締役相談役)「まめだっ た片平信貴さんを悼む」 (124) 内田襄(大成工務株式会社代表取締役社長)「惜しい人」 (125) 大串満馬「片平信貴氏と私」 (126) 大塚勝美(東京道路エンジニア株式会社 代表取締役社 長)「高速道路の夢を自ら実現した人」 (127) 小栗良知(国際建設技術協会理事長)「追想の言葉」 (128) 尾之内由紀夫(三菱地所株式会社顧問)「片平信貴さん のこと」 (129) 河北正治(古河金属機械株式会社常任顧問)「片平君と 高速道路」 (130) 熊本政晴(全国土木部長会名誉会長)「灯(片平くんと の最後の会話)」 48 (131) 小林元橡(新日本土木株式会社相談役)「片平先輩を偲 ぶ」 (132) 斎藤義治(三井建設株式会社相談役)「高速道路の先駆 者片平さん」 (133) 坂田中「高速道路の草分け」 (134) 住友彰(株式会社橋梁コンサルタント代表取締役社長) 「片平君を偲う」 (135) 多田安夫(川鉄鉄構株式会社常勤顧問)「年賀状の俳句」 (136) 田中淳七郎「故片平信貴博士」 (137) 田邊末信(新日本製鉄株式会社参与)「片平信貴さんを 偲んで」 (138) 谷藤正三(セントラルコンサルタント株式会社取締役相 談役)「片平信貴さんを偲んで」 (139) 藤森謙一(株式会社八洲建設コンサルタント取締役会長, 株式会社極東鋼弦コンクリート振興顧問)「俊秀片平信貴君を 悼む」 (140) 深井浩三(日本技術開発株式会社顧問)「片平信貴さん の思い出」 (141) 堀内弘顕(株式会社大本組顧問)「片平さんと東名の思 い出」 (142) 三野定(住友建設株式会社代表取締役副会長)「片平信 貴さんを偲ぶ」 (143) 山本三郎(財団法人日本住宅総合センター副理事長) 「片平信貴君を憶う」 (144) 吉田喜市(飛島建設株式会社代表取締役副社長兼日本大 学理工学研究所教授)「片平信貴さんを偲びて」 (145) 渡邊修自(日本道路公団副総裁)「片平さんを偲ぶ」 『KATAHIRAWORLD』片平名誉会長追悼号(1989年11月5日) 株式会社片平エンジニアリング (146) 武部健一(代表取締役社長)「弔辞」 (147) 土肥正彦(副社長,株式会社片平エンジニアリング・イ ンターナショナル社長)「片平さんの思い出」 (148) 河合洋一(元常務取締役)「今は亡き片平会長との出会い」 (149) 大西淳(常務取締役)「片平名誉会長との出会いと思い出」 (150) 入野正(株式会社片平エンジニアリング)「会長の思い出」 (151) 河北正治(友人代表)「弔辞」 (152) 亀卦川振興(日本舗道株式会社相談役)「片平さんの思い出」 (153) 漆山えり子(元秘書)「片平社長の想い出(ひとりごと)」 (154) 小川恵子(元社員)「芝ビル」 (155) 山梨悦子(元社員)「片平会長の想い出」 (156) 浅井新一郎(社団法人交通工学研究会会長,首都高速道 路公団理事長):「片平信貴前会長のご逝去を悼む」(『交通 工学』1989 No.5より一部抜粋) (157) 曲尾 晃「片平会長を偲んで」 (158) 岩井 健「会長とシャツ」 (159) 浅見邦和「会長の思い出」 (160) 野本吉憲「思い出の2コマ」 (161) 熊谷明芳「片平会長との出会い」 (162) 川崎 寿「出来の悪い社員」 (163) 泉本綾子「じっちゃんの思い出」 (164) 戸次庸夫(株式会社片平エンジニアリング・インターナ ショナル副社長)「ボニファショへの道」 『片平信貴氏を偲ぶ』(1990年7月3日) (165) 足立 洪(株式会社復建エンジニヤリング社長)「片平 さんの思い出」 (166) 稲田倍穂(東海大学工学部教授)「片平さんの思い出」 (167) 大泉紀男(日本道路公団仙台管理局古川管理事務所長) 「にこやかな笑顔」 (168) 桂木睦夫(五洋建設株式会社常務取締役)「片平さんの サイン」 (169) 金谷重亮(日本道路公団常任参与)「片平さんの思い出」 土木学会論文集D2(土木史), Vol. 72, No. 1, 40-49, 2016. (170) 河島恒(日本高速通信株式会社常務取締役)「交通技術の 先駆者を偲ぶ」 (171) 北村照喜(大成建設株式会社常務取締役)「片平さんの思 い出ふたつ」 (172) 久野悟郎(中央大学理工学部教授)「片平先生を偲ぶ」 (173) 熊谷和夫(中日本ハイウェイ・パトロール株式会社社長) 「片平(元)高速道路静岡建設局長を偲ぶ」 (174) 倉沢真也(日本道路公団東京第一管理局技術部長)「ヤン グパワーの片平さん」 (175) 近藤正(西松建設株式会社常務取締役)「ライク・マ イ・サン–わが息子のような-」 (176) A・I・ゴコ(プロコンサルタント社長)「忘れ得ぬ人」 (177) P・A・ゴンザレス(テクニクスグループ・コーポレーシ ョン会長)「片平信貴さん,人間として,友として」 (178) 杉田美昭(日本道路公団理事)「片平さんを偲ぶ」 (179) 鈴木渓二(株式会社復建エンジニヤリング相談役)「片 平信貴さんの思い出」 (180) 関根栄一(浦和土建工業株式会社土木部理事)「温かい 思いやり」 (181) 武田文夫(帝京科学技術大学教授,財団法人高速道路調 査会参与)「片平信貴氏を偲ぶ」 (182) 多勢隆(株式会社日本建設技術社常務取締役)「遠くて 近い片平さん」 (183) 中大路為昭(ピー・エス・コンクリート株式会社)「交 通工学の師, 片平さん」 (184) 中村文男(株式会社浅沼組常務取締役)「片平さんのお 蔭で」 (185) 七宮 大(大日コンサルタント株式会社副社長)「高邁 なる老師“片平信貴さん”」 (186) 橋本弘之(日本道路公団東京第二建設局局長)「偉大な 先輩」 (187) 長谷義明(日本道路公団技術部長)「片平さんの思い出」 (188) 早川精(大豊建設株式会社顧問)「片平さんとのこと」 (189) 平永博(名古屋道路エンジニア株式会社 社長)「片平 さんを偲んで-片平さんに教えられたこと-」 (190) 平野實(日本道路公団維持施設部維持企画課長)「静かな 微笑を浮べて」 (191) 星埜和(東京大学名誉教授)「技術者として良心に従い信 念を通した人」 (192) 三瀬純(大旺建設株式会社専務取締役)「ゴライ河架橋 調査の想い出」 V) その他: I)~IV)の引用や派生による記録類(6編) (193)『少年の科学日本縦貫ハイウェイ』: 鹿島研究所出版会, 村上永一,神戸淳吉,1968年6月. (194)『片平信貴氏を偲ぶ』:片平信貴氏を偲ぶ会,1990年7月 (195)『はじめての挑戦 高速道路づくりの物語』: 財団法人高 速道路技術センター,2000年6月. (196)『片平信貴のすべて』(CD-ROM): 株式会社片平エン ジニアリング(非売品),2001年7月. (197)『日本初のハイウェイ 勝負は天王山』(DVD/映像版): NHKプロジェクトX,第121回 2003年7月15日放送,2004年. (198) 『日本初のハイウェー 勝負は天王山』(コミック版プ ロジェクトX挑戦者たち): NHKプロジェクトX 制作班,宙出 版,2004年. 参考文献 1) 2) 3) 4) 5) 6) 7) 8) 9) 10) 11) 12) 13) 14) 15) 日本道路公団名神高速道路建設誌編さん委員会:名 神高速道路建設誌(総論),1966. 日本道路公団名神高速道路建設誌編さん委員会:名 神高速道路建設誌(各論),1967. 日本道路公団東名高速道路建設誌編さん委員会:東 名高速道路建設誌,1970. 日本道路公団三十年史編纂委員会:日本道路公団三 十年史,p.470,1986. 日本土木史編集委員会:日本土木史-大正元年~昭 和 15 年,日本土木学会,1965. 日本土木史編集委員会:日本土木史-昭和 16 年~昭 和 40 年,日本土木学会,1965. 池上雅夫:東名高速道路,中央公論社,1969. 吉田喜市:高速道路建設史,旬刊高速道路編集局, 1972. 三野定:高速道路のプランニング,全国加除法令出 版刊,1973. 大塚勝美:私の高速道路建設史,旬刊高速道路新聞, 「高速道路」6 号,1966.3. 武部健一:片平信貴と高速道路,片平信貴氏生誕 100 年記念講演会,2013.9. 橋本乙次編:岸道三,岸道三追悼録刊行会,1964. 国際道路問題調査委員会:道路の改良,Vol. 15, No. 1, pp. 196-197, 1933. 藤井真透:ドイツの自動車國道,読売新聞,1940 年 10 月 1 日朝刊. 菊池明:トットの業績,朝日新聞,1942 年 2 月 13 日 朝刊. (2014. 10. 3 受付) NOBUTAKA KATAHIRA’S ARCHIVES AND CAREER AS AN ENGINEER OF ROAD Masako HASHIMOTO Nobutaka Katahira (1913-1989) was engaged in the planning and investigation of the site from prewar days, and directed the construction of Meishin Expressway and Tomei Expressway after World War II, as a division manager in the Shizuoka Construction Bureau. Katahira wrote 98 pieces of report and papers, literature and so on. I collected records, and documents, which describes him comprehensively. With these 198 primary source, I will make a research of his fifty years works, and look into the planning and design concept of the dawn of highways in Japan. And I try to consider about Katahira's positioning in the history of highways in Japan. Five decades have passed since the completion of the first highway in Japan, that was epoch-making in the modern history of planning roads. 49