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藤 (駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

同型艦の「栗」
艦歴
計画 1917年度(八四艦隊計画
起工 1919年12月6日
進水 1920年11月27日
就役 1921年5月31日
その後 戦後オランダに譲渡、解体
除籍
性能諸元
排水量 基準:770t
全長 83.82m
全幅 7.93m
吃水 2.44m
主缶 ロ号艦本式罐・重油焚3缶
主機 オールギアードタービン2基2軸 21,500hp
最大速力 36.0kt
航続距離 14ktで3000海里
燃料 重油250t
乗員 107名
兵装 12cm単装砲3門
53cm連装魚雷発射管2基4門
6.5mm単装機銃2基
爆雷×60個

(ふじ、ふぢ)は、日本海軍駆逐艦樅型駆逐艦の13番艦である。

艦歴

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1921年5月31日、駆逐艦建造で有名な藤永田造船所が手掛けた初の駆逐艦として竣工。二等駆逐艦に類別され、以降は艦隊任務や水雷学校練習艦任務に従事した。

1926年3月の大沽口事件で、「藤」は姉妹艦の「薄」、「萩」、「蔦」らとともに蒲田静三司令が率いる第15駆逐隊に所属しており、中国の大沽沖に停泊していたが、大沽沖に停泊していては迅速な連絡ができないうえに風波が強いとして、蒲田司令は艦隊司令の許可を待たずに駆逐艦「藤」、「薄」からなる艦隊で大沽口への侵入を強行した。その遡行中に中国国民軍から猛烈な射撃を受けたため、「藤」の機銃で中国側の陸上砲台に反撃し、艦隊は大沽沖に戻った。この戦闘で藤に座乗していた蒲田司令以下3名が負傷している。

1940年4月1日には哨戒艇に類別され、「第三十六号哨戒艇」と改名された。1942年からはソロモン方面に進出して船団護衛を行った。また、1942年8月17日のアメリカ軍によるマキン奇襲上陸を受けて駆逐艦2隻と「第三十六号哨戒艇」によるトラックからマキンへの増援の陸戦隊輸送が行われ、「第三十六号哨戒艇」は8月17日にトラックを出発して8月22日にマキンに着いた[1]


1944年3月30日にパラオで敵機の攻撃を受け損傷、そのままスラバヤで終戦を迎えた。

戦後、復員船として引き上げ作業に従事中、ジャワ島付近でインドネシア海軍に奪取されるが、後にイギリス・オランダ海軍が出動し奪還された。その後、1946年7月に戦時賠償艦としてオランダに譲渡され、解体された。

歴代艦長

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※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長

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  • 神山忠 少佐:1921年3月1日[2] -

駆逐艦長

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  • 神山忠 少佐:1921年5月31日[3] - 1922年12月1日[4]
  • 若木元次 少佐:1922年12月1日[4] - 1923年5月1日[5]
  • 佐竹義男 少佐:1923年5月1日[5] - 1923年12月1日[6]
  • 岩原盛恵 少佐:1923年12月1日[6] - 1924年8月20日[7]
  • 藤田類太郎 少佐:1924年8月20日 - 1926年2月1日
  • 武田喜代吾 少佐:1926年2月1日[8] - 1928年12月10日[9]
  • 島崎利雄 少佐:1928年12月10日 - 1930年12月1日
  • 門田健吾 大尉:1930年12月1日[10] - 1931年10月5日[11]
  • (兼)広瀬貞年 大尉:1931年10月5日[11] - 1931年12月1日[12]
  • 岡本義助 少佐:1931年12月1日 - 1932年3月10日
  • 篠原弘 大尉:1932年3月10日[13] - 1933年9月30日[14]
  • 高橋亀四郎 大尉:1933年9月30日 - 1934年11月15日
  • 宇垣環 大尉:1934年11月15日[15] - 1936年5月26日[16]
  • 愛甲文雄 大尉:1936年5月26日[16] - 1936年12月1日[17]
  • 上杉義男 少佐:1936年12月1日[17] - 1937年4月6日[18]
  • 愛甲文雄 少佐:1937年4月6日[18] - 1937年12月1日[19]
  • 川崎睦郎 少佐:1937年12月1日[19] - 1938年9月15日[20]
  • 成沢千直 少佐:1938年9月15日 - 1939年2月20日[21]

脚注

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  1. ^ 戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、123ページ
  2. ^ 『官報』第2572号、大正10年3月2日。
  3. ^ 『官報』第2650号、大正10年6月2日。
  4. ^ a b 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
  5. ^ a b 『官報』第3224号、大正12年5月2日。
  6. ^ a b 『官報』第3385号、大正12年12月4日。
  7. ^ 『官報』第3599号、大正13年8月21日。
  8. ^ 『官報』第4030号、大正15年2月2日。
  9. ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
  10. ^ 『官報』第1179号、昭和5年12月2日。
  11. ^ a b 『官報』第1432号、昭和6年10月6日。
  12. ^ 『官報』第1478号、昭和6年12月2日。
  13. ^ 『官報』第1557号、昭和7年3月11日。
  14. ^ 『官報』第2027号、昭和8年10月2日。
  15. ^ 『官報』第2364号、昭和9年11月16日。
  16. ^ a b 『官報』第2818号、昭和11年5月27日。
  17. ^ a b 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。
  18. ^ a b 『官報』第3076号、昭和12年4月7日。
  19. ^ a b 海軍辞令公報 号外 第99号 昭和12年12月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700 
  20. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第239号 昭和13年9月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074300 
  21. ^ 海軍辞令公報(部内限)第303号 昭和14年2月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075400 

参考文献

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関連項目

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