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橋本清吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
橋本 清吉
はしもと せいきち
生年月日 1898年(明治31年)8月14日
出生地 三重県
没年月日 1955年(昭和30年)7月2日
出身校 東京帝国大学
所属政党 改進党

選挙区 旧三重2区
当選回数 1回
在任期間 1953年4月19日 - 1955年1月24日
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橋本 清吉(はしもと せいきち、1898年(明治31年)8月14日 - 1955年(昭和30年)7月2日)は、日本内務官僚政治家。元衆議院議員改進党、当選1回[1])。

経歴

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三重県出身[1]

東京帝国大学を卒業後内務省に入り、その後、1939年(昭和14年)9月5日 - 1940年(昭和15年)12月23日福島県知事1940年(昭和15年) - 1942年(昭和17年)第2・3近衛内閣警保局長を務める。1942年(昭和17年)6月10日岡山県知事に就任[2]1944年8月1日、知事を依願免本官となり退官した[3]

敗戦後GHQにより公職追放となったが、その後復帰し、衆議院議員選挙旧三重2区から立候補する。1952年(昭和27年)の総選挙では無所属で出馬したが次点で落選[4]。次の1953年(昭和28年)の総選挙改進党の公認候補として出馬し当選[4]衆議院議員を1期務め、中央常任委員として活動。1954年7月に改進党を離党し、小山倉之助山下春江らと新党同志クラブを結成[5]、11月末に中野四郎町村金五らが加わり新党同志会を結成した[6]1955年2月の第27回総選挙において無所属から出馬したが落選した[4]正五位 勲四等を授章。

1955年、56歳で逝去。

埋葬場所は多磨霊園である。

栄典

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脚注

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  1. ^ a b 新訂 政治家人名事典 明治~昭和』482頁
  2. ^ コンサイス日本人名事典
  3. ^ 『官報』第5265号、昭和19年8月2日。
  4. ^ a b c 『朝日選挙大観』517頁。
  5. ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』638頁。
  6. ^ 『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』641頁。
  7. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

関連項目

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参考文献

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  • 朝日新聞選挙本部編『朝日選挙大観』朝日新聞社、1997年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 院内会派編衆議院の部』大蔵省印刷局、1990年。

外部リンク

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官職
先代
横溝光暉
日本の旗 岡山県知事
官選第28代:1942年 - 1944年
次代
小泉梧郎
先代
藤原孝夫
日本の旗 内務省警保局長
1940年 - 1941年
次代
今松治郎
先代
君島清吉
福島県の旗 福島県知事
官選第37代:1939年 - 1940年
次代
江辺清夫