平野町 (名古屋市)
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平野町(ひらのまち)は、愛知県名古屋市西区の町名[1]。現在の名西一丁目、則武新町一丁目の各一部に存在した[2]。穢多部落であった[3][4]。
地理
[編集]平野町は押切町7、8丁目の南に位し、東南西の三面は南押切町に境する[5]。名古屋城の西、美濃路から南に入った小路沿いを町域とした[6]。1941年に現在の国道22号沿いが菊ノ尾通となったため、町域が南北に分断されていた[1]。
歴史
[編集]いにしえより押切村に属す[5]。かつて村内に3人の穢多が住んでいたが、慶長、元和の頃に清洲より3人、小幡村より1人移住し、その後戸口が増えた[3]。穢多ヶ小路、穢多輪中、細工人町の名称をもつ[3]。屠児の首領を平野小市といい、家の棟に御太鼓所と書いた看板をかかげた[5]。明治初年、平野鉄五郎は零落し、一家を挙げて京都に移住した[4]。
町名の由来
[編集]当地に住んだ平野小市に由来する[1]。
町名・町界の変遷
[編集]- 1878年(明治11年)12月28日 - 愛知郡押切村の一部が名古屋区に編入され、編入された区域の一部が名古屋区平野町となる[1]。
- 1889年(明治22年)10月1日 - 市制施行により名古屋市が成立し、同市平野町となる[1]。
- 1908年(明治41年)4月1日 - 名古屋市が市制に基づく区を設置し、西区平野町となる[1]。
- 1941年(昭和16年)10月14日 - 南押切・南押切町の各一部を編入する[1]。また、一部が菊ノ尾通・縁場町・大道町にそれぞれ編入される[1]。
- 1994年(平成6年)2月14日 - 住居表示に伴い、名西一丁目、則武新町一丁目の各一部となる[2]。
経済
[編集]大正時代の平野町の人々の職業は、下駄表製造186人、下駄の歯入110人、靴職51人、草履作り30人、洋傘直27人、犬殺し14人である[4]。
地域
[編集]他の部落同様に犯罪者が多数おり、正常な生活者は少なかった[4]。
施設
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 角川書店 1992, pp. 235, 759.
- ^ a b 「名古屋市告示第2号 町の区域の設定及び変更(西区上更地区)」『名古屋市公報』第181号、名古屋市役所、7–8頁、1994年1月15日。
- ^ a b c 『講座部落 第1(部落の歴史 上)』101頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月29日閲覧。
- ^ a b c d e f 『同朋学報(18/19)』207 - 210頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月30日閲覧。
- ^ a b c 『名古屋市史 第8巻(地理編)』281頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月29日閲覧。
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1989, p. 1147.
参考文献
[編集]- 部落問題研究所編『講座部落 第1(部落の歴史 上)』三一書房、1960年。
- 『同朋学報(18/19)』同朋学会、1968年。
- 『名古屋市史 第8巻(地理編)』愛知県郷土資料刊行会、1980年。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 23巻《愛知県》、角川書店、1989年3月8日。ISBN 4-04-001230-5。
- 角川書店 編『なごやの町名』名古屋市計画局、1992年3月31日。全国書誌番号:93012879。