大浦兼武
大浦 兼武 おおうら かねたけ | |
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生年月日 |
1850年6月15日 (嘉永3年5月6日) |
出生地 | 日本 薩摩国薩摩郡宮之城郷[1] |
没年月日 | 1918年9月30日(68歳没) |
前職 |
武士(薩摩藩士) 内務官僚 |
称号 |
陸軍中尉 従二位・勲一等・子爵 |
配偶者 | 大浦コウ |
子女 | 大浦兼一(長男) |
親族 | 大浦兼次(孫) |
第24・27代 内務大臣 | |
内閣 |
第3次桂内閣 第2次大隈内閣 |
在任期間 |
1912年12月21日 - 1913年2月20日 1915年1月7日 - 1915年7月30日 |
第21・25代 農商務大臣 | |
内閣 |
第2次桂内閣 第2次大隈内閣 |
在任期間 |
1908年7月14日 - 1911年8月30日 1914年4月16日 - 1915年1月7日 |
第14代 逓信大臣 | |
内閣 | 第1次桂内閣 |
在任期間 | 1903年9月22日 - 1906年1月7日 |
第12・14代 警視総監 | |
在任期間 |
1898年11月9日 - 1900年10月19日 1901年6月2日 - 1903年9月22日 |
その他の職歴 | |
官選第6代 宮城県知事 (1898年7月28日 - 1898年8月9日) | |
官選第4代 熊本県知事 (1896年12月1日 - 1898年7月28日) | |
官選第4代 山口県知事 (1895年3月26日 - 1896年12月1日) | |
官選第10代 島根県知事 (1893年3月21日 - 1895年3月27日) |
大浦 兼武(おおうら かねたけ、嘉永3年5月6日(1850年6月15日) - 大正7年(1918年)9月30日)は、明治・大正期の日本の官僚、政治家[2]。
島根県知事(第10代)、山口県知事(第4代)、熊本県知事(第4代)、宮城県知事(第6代)、警視総監(第12・14代)、貴族院議員(勅選)、逓信大臣(第14代)、農商務大臣(第22・26代)、内務大臣(第24・27代)、大日本武徳会会長を歴任した。
経歴
[編集]薩摩藩主島津家の分家である宮之城島津家の家臣として生まれる。戊辰戦争では薩摩藩軍に参加し、奥羽方面に出征。
明治維新後は警察官となり、邏卒から累進して明治8年(1875年)、警視庁警部補に昇任。明治10年(1877年)、西南戦争で抜刀隊を率いて功績を挙げた。このとき陸軍中尉兼三等小警部となる。
明治15年(1882年)、大阪府警部長(現在の警察本部長)に就任。明治17年(1884年)に起きた松島事件(陸軍兵士と警察官の乱闘事件)に際しては、軍服姿で双方の上官として現場を鎮定し、評価を高めた。明治21年(1888年)、警保局次長に就任。
明治26年(1893年)以降、島根県・山口県・熊本県・宮城県の知事を歴任。明治31年(1898年)、警視総監に就任。明治33年(1900年)3月19日、貴族院議員に勅選される[3]。
明治36年(1903年)、第1次桂内閣で逓信大臣として初入閣。その後も第2次桂内閣の農商務大臣、第3次桂内閣の内務大臣、第2次大隈内閣の農商務大臣・内務大臣を歴任。立憲同志会の創立にも加わる。
選挙干渉のプロとして「物騒な人物」扱いされていたが[4]、ついに大隈内閣の内相時代に選挙違反の嫌疑で取り調べを受けることになり、そこからかつて第2次桂内閣で農商相だったときに二個師団増設案を通過させるために議員を買収していたことが発覚。これで内相を辞任することになり、政治生命を絶たれることとなった(大浦事件)。
大正4年(1915年)8月3日に貴族院議員を辞職し[5]、翌日に隠居した[6]。
大正7年(1918年)9月30日、神奈川県鎌倉市長谷の別荘に於いて死去。享年68。墓所は青山霊園(1イ2-25)。
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大浦兼武(1898年)
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大浦兼武
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大浦兼武・コウ夫妻の墓
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日英博覧会のためにしたためた書。1910年
栄典
[編集]- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 正七位[7]
- 1891年(明治24年)12月10日 - 従六位[8]
- 1893年(明治26年)4月11日 - 正五位[9]
- 1898年(明治31年)4月30日 - 従四位[10]
- 1900年(明治33年)12月10日 - 正四位[11]
- 1903年(明治36年)10月30日 - 従三位[12]
- 1909年(明治42年)6月11日 - 正三位[13]
- 1918年(大正7年)10月1日 - 従二位[14]
- 勲章等
- 1886年(明治19年)5月29日 - 勲四等旭日小綬章[15]
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[16]
- 1893年(明治26年)12月28日 - 勲三等瑞宝章[17]
- 1904年(明治37年)6月28日 - 勲一等瑞宝章[18]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日大綬章[19]・明治三十七八年従軍記章[20]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [21]
- 1911年(明治44年)8月24日 - 子爵[22]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[23]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[24]
- 外国勲章佩用允許
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 大浦兼武とは - コトバンク、2013年7月28日閲覧。
- ^ 朝日日本歴史人物事典「大浦兼武」
- ^ 『官報』第5012号、明治33年3月20日。
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、608頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 『官報』第902号、大正4年8月4日。
- ^ 『官報』第911号、大正4年8月14日。
- ^ 『官報』第908号「叙任及辞令」1886年7月12日。
- ^ 『官報』第2536号「叙任及辞令」1891年12月11日。
- ^ 『官報』第2932号「叙任及辞令」1893年4月12日。
- ^ 『官報』第4448号「叙任及辞令」1898年5月2日。
- ^ 『官報』第5234号「叙任及辞令」1900年12月11日。
- ^ 『官報』第6101号「叙任及辞令」1903年10月31日。
- ^ 『官報』第7788号「叙任及辞令」1909年6月12日。
- ^ 『官報』第1851号「叙任及辞令」1918年10月3日。
- ^ 『官報』第904号「賞勲叙任」1886年7月7日。
- ^ 『官報』第1943号「叙任及辞令」1889年12月18日。
- ^ 『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第7578号・付録「辞令」1908年9月28日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第4990号「叙任及辞令」1900年2月22日。
- ^ 『官報』第6599号「叙任及辞令」1905年6月30日。
- ^ a b 『官報』第8195号「叙任及辞令」1910年10月13日。
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、266頁。
参考文献
[編集]- 香川悦次、松井広吉編『大浦兼武伝』、大浦氏記念事業会
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
外部リンク
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公職 | ||
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先代 原敬 大隈重信 |
内務大臣 第28代:1912年12月21日 - 1913年2月20日 第31代:1915年1月7日 - 1915年7月30日 |
次代 原敬 大隈重信 |
先代 松岡康毅 山本達雄 |
農商務大臣 第22代:1908年7月14日 - 1911年8月30日 第26代:1914年4月16日 - 1915年1月7日 |
次代 牧野伸顕 河野広中 |
先代 曾禰荒助 |
逓信大臣 第14代:1903年9月22日 - 1906年1月7日 |
次代 山縣伊三郎 |
日本の爵位 | ||
先代 陞爵 |
子爵 大浦(兼武)家初代 1911年 - 1915年 |
次代 大浦兼一 |
先代 叙爵 |
男爵 大浦(兼武)家初代 1907年 - 1911年 |
次代 陞爵 |