ハンナ・リデル
ハンナ・リデル(英: Hannah Riddell、1855年10月17日 - 1932年2月3日)は、イギリスの宣教師で、1895年熊本に熊本初のハンセン病病院、回春病院を作っただけでなく、日本のハンセン病の歴史に大きな影響を与えた。後継者はエダ・ハンナ・ライトである。エダによるとイギリスでのRiddellの発音はリデールであるが、文献等ではリデルが多いのでここではリデルを使う[1]。
略歴
[編集]1855年、ロンドン北方郊外バーネットに生まれた。生下時、父親(Daniel Riddell)は43歳、母親(Hannah Wright, 旧姓はHunt)は41歳、再婚同志で両方とも子持ちであった。
労働者階級の出身である。母親の連れ子がエダ・ハンナ・ライトの父親である[2]。リデルの父親は以前インドなどにも派遣された軍曹であったが、慢性肝炎を患い一時除隊した。しかし生活には年金だけでは不足で、補充兵の教育を開始した。リデルはその兵舎または宿舎(バラック)で生まれた。1877年、南ウェールズのザ・マンブルズに引っ越し、母親と共に、小規模の女子用の私立学校を経営した[3]。20歳そこそこの少女が全科目を教えている。リデルの教育の記録は現在見当たらないが、当時の状況から考えると堅実な教育をうけていたと思われる[4]。一時は学校経営はうまくいっていた。母は1886年に他界。学校は競合校が出現し、父が他界したと同時に1889年、破産した。生活を立て直そうと英国聖公会宣教協会(CMS ,Church Missionary Society、1799年創立の英国国教教会の組織)に入り、リバプールのYWCA協会の婦人校長をつとめた。35歳の時、日本に伝道に派遣された。その時女性宣教師5名が派遣され、リデルが最年長であった。宣教師グレース・ノットと共に熊本に落ち着き、彼女とは同志的な友情で結ばれた[5][6]。リデルは1891年に熊本市郊外の本妙寺でハンセン病患者と遭遇し、患者救護の決心をする。その年の12月協会本部にハンセン病の患者を見たと手紙に書いた。
彼女は新しい組織をつくることに興味があった。また、権力のある人に近づくという本能的才能があった[7][8][9]。教会によりハンセン病病院を作らせようと、力量を発揮した。経過は簡単にはいかなかったが、1895年11月12日に回春病院が完成した。しかし、色々の交渉の経緯において、組織のトップと交渉するので、中間管理職的な[10]ジョン・ブランドラム主教[11]は、リデルとの仲が悪化し、1897年から精神状態がおかしくなり、療養のため、香港行きの船に乗ったが、1900年12月29日船上で他界した。リデルは当時はイギリスにいた[12]。 リデルと対立しているヘンリー・エヴィントン主教ははっきりブランドラムの精神錯乱はリデルのせいであると書いている[13]。リデルは教会組織にたくさん敵を作ったので、教会から離れて回春病院を経営せざるを得なかった。しかし離れたことが、自由な寄付を可能にした。日露戦争のため、寄付金を送っていたイギリス人は、送金に障害がでると考え、寄付が止まった[14]。大隈重信は以前から回春病院の園内美化のために桜、楓を寄付した。リデルの経済危機に際し、全国的にハンセン病問題を訴えた方が効果的であると忠告した。また、渋沢栄一は、代表的な実業家であり、ハンセン病に積極的に関心を持った。リデルが最初に来た時は僅かではあるが1万5600円の金を寄付したと書いている[15]。大隈重信は相談にのり、銀行会館で全国的なハンセン病の会議を開いた。経済的危機に陥ったリデルの経済的支援のため、1905年に銀行会館で、有識者の会議があり[16]、同時に日本のハンセン病問題が討議された。公的なハンセン病対策が開始されたが、リデルは公的にも補助を受け、経済的にも一息ついた。この会議を機会にリデルはひのき舞台に上がったのである[17]。回春病院は非営利の団体と認められ、非課税となった。
リデルは衣装も着飾り、上京すれば帝国ホテルに宿泊し、有力者とここで会合をし、夏は軽井沢で避暑をする。リデル自身貴族らしい生活を送ることが病院を支える資力をもった人間に対等に扱ってもらえる唯一の道だと確信していた[18]。募金活動のために、多くの講演もこなし一日2回に及ぶこともあった。日本におけるハンセン病政策にも影響を与える。実業家、政治家、皇族にも会えるようになる。ハンセン病の権威である光田健輔のハンセン病隔離政策にたいして、リデルはキリスト教に基づいた主張をした。彼女は性的なことには潔癖であり、回春病院内では療養者に対して徹底した禁欲を強制し、男女が言葉を交わすのも禁じた。挙句の果ては療養者が雌雄のカナリアを同じ籠で飼うことさえ禁止した。
沖縄の患者への助力を考え患者でクリスチャンの青木恵哉を派遣した。リデルが大病した時は当時の医長である神宮良一も診察したが、ライトが心配して神戸から外人医師を招いた。巨体であったので、歩行困難をきたし、ある人はハンセン病を疑った。光田健輔によると、回春病院医師の三宅俊輔からハンセン病は誤伝と聞いたと記録し、彼女にリウマチがあったと書いている[19]。ハンセン病九州療養所長の河村正之は、熊本県庁における天皇拝謁に際し、長い廊下をリデルは河村の肩を杖として歩いたという。しかしリデルは天皇の前に出た途端、練習していたお時儀の仕方を忘れてしまい、膝が痛むにもかかわらず、西洋婦人式のお時儀をしていた。1932年2月3日午後1時10分、リデルは逝去し、翌日盛大な葬儀が営まれた[20]。
人物像と謎
[編集]リデルの教育
[編集]ジュリア・ボイドはリデルの子供時代については彼女が父親の信仰に従いパーネットの会衆派[21]の礼拝堂で洗礼を受けたことしかわからないとしている[22]。父が下士官で慢性肝炎があり、一家はロンドンから離れて、空気のいい南ウェールズの漁村マンブルスに移住した。そこで小さな女性用の私立学校を母と共に経営したのは1877年である。生徒募集の新聞広告によるとHigh-class Education for girls とある。課目は美術、ピアノ、ハープ、バイオリン、声楽、体操、美容体操、数学などがある。教師はほかにも雇ったが、ハンナと母は学校を経営し子供を教育した。しかしライバルが出現し、父ダニエルが死亡したとたん学校は破産宣告を受けた。猪飼隆明はエダをスイスに留学させたことに注目し、教育を受けることを重視する家族であったとしている[23]。
リデルのハンセン病患者救済の動機
[編集]リデルがハンセン病の患者を初めてみた話
[編集]この文献は種々あり、最初は1891年12月1日リデルがCMSに送った文章である。ここには桜が満開であることは書いておらず、ハンセン病を救済したダミアン神父に相当する人が必要である、CMSでもやらないかと示唆している。
街から45分ほど歩くと何百年か前に当地に城を建てた人物の墓があります。そこに行くのには、お寺に着いてから舗装の荒い、桜並木の道をずっと歩いていきます。道すがら、左右どちらをみても、お寺や社(やしろ)、そしてその住職たちの住居が並んでいます。それから200段ほどの石段を登ると加藤清正の墓なのですが、その前に寺があります。寺の中、廟の前では常に香が焚かれて、ロウソクが灯っています。そしてそこにはさまざまな惨状を呈したハンセン病患者がいて、廟に眠る霊に清めを求めているのです。(中略)この間は、16歳くらいのひどく青ざめた少年が太鼓の前に座り、目を固く閉じ、太鼓の響きに合わせて首を激しく左右に振りながら祈りを繰り返しているのを目にしました。(中略)彼らにはダミアン神父が必要なのです。CMSには、そんな人物はいないのでしょうか。私自身には医療の経験はありませんが、医療面のアドバイスは効果的でしょうし、彼らの苦しみを多少なりとも癒すことになるのです。
[24][25] リデルは生涯に亘ってこの話をしているが、内容がすこしずつ変容している。次に記載するのは、大正4年2月21日付「日本の医界」による。この文章の前には英文がある[26]。この文章の前の明治35年12月6日の大日本婦人衛生会例会における講演がある。内容的にはこの下の文章と同じであるが、4月3日のことは明示していない。
回春病院設立の動機 此の動機は至極簡単なものであった。中には私の向かって、らい患者を看護するために,はるばると此の国へ渡って来たのかと訊ねる方もあるが、決して左様ではない。私は今より25年程前に日本に来た。来た当座は、日本にもらい患者がいることとは少しも知らなかった。しかるに2年ほど経って初めてらい患者の居ることが判った。そしてある時偶然にも、熊本市の付近に一つの寺があって、年々、沢山のらい患者が此処に巡礼にくるということを聞いた。私は幼い時から聖書を読んで、基督が世に助けのない人即ち、らい患者に特別の憐れみを垂れたというのを知っていたので、其れ聞いて深い深い興味を覚えた。そこで私は即座にその寺、即ち本妙寺を訪れたのである。
今考えてみたら、その日は神武天皇祭の日(注:4月3日)であった。それ故いつにもなく、沢山のらい患者が集まっていた。天は麗らかであった。一歩また一歩、寺に向って進むと、両側に桜の並木があり、まさに見ごろの桜花は紺青色の空に照り輝いている。辺りの光景は最も感銘的であってー今日なお脳裏を去らずー私は唯恍惚として見とれておった。何事ぞ!かくも麗しき桜樹の根元に坐して、見るも哀れなる病人が傍目も振らず、不断のお題目を唱えているではないか。歓楽の情は一変して悲哀の念となった。並木の下をくぐって、見るともなしに見ると、既に重態に陥っている病人が声を限りに救いを呼んでいる。約二百段ばかり、石段を登ると数え切らない程沢山のらい病人がいる。多くは婦人であって、幼い小児を抱いておった。段々寺に近寄ると、太鼓の音、これに調子を合わせているお題目の声が聞こえる。げに御堂は凄惨な声を張り揚げて、己がため、また愛人のため仏の加護を祈りつつある、世に最も哀れむべき人で充満されておった。
次に大正8年6月15日大阪で第72回救済事業研究会では、熊本にきてから1年半後の神武天皇祭に本妙寺を訪れたとある。内容は最も詳しい[27]。なお熊本にきたリデルやノットの世話をしたブランドラム夫妻は1891年4月に「熊本および近傍の景観」と題しスケッチ入りの英文記事を書いているがその中に本妙寺があった[28]。
救済の動機にまつわる謎
[編集]最初にリデルの伝記を書いたのは、事務長を務めた飛松甚吾である[29][30]。彼は神戸の税関に勤務したことがあり英語が達者であった。望んでリデルの下で勤務した。しかし、不思議なことをたくさん書いている。最初に本妙寺で患者をみたのは1890年(明治23年)4月3日とある。しかし来日は1891年(明治24年)である。新しく調査し、1995年にリデルの伝記を書いたジュリア・ボイドは、1891年12月1日の本部への手紙に書かれているが、4月1日は大阪にいて、長崎によらねばならないので、同年4月3日はあり得ないと主張している(なお、当時の外国人は日本において、3カ月の旅行免状しか持たず、それを過ぎると領事館(一番近い所で長崎)に旅行免状を再交付しなければならなかった。当時は熊本―長崎間の鉄道も開始されておらず、旅行は大変であった)。そして、皆を説得することができて、その後の仕事がうまくいくなら、作り話でもいいとしている[31]。後の調査でも同行しているとされる本田教授はその年には着任していないし、また新聞記事による天候の調査も、リデルの作り話説に加担している。即ち、天候が書かれた通りであると明治26年しか合致しない。しかし、猪飼隆明は花見をしたのは明治24年4月3日としている[32]。しかし書かれている事が全部真実であるとは考えていない。これらの問題が真剣に論じられたのはジュリア・ボイドの本の発行後である[33][34]。
リデルの貴族趣味と回春病院
[編集]リデルには極端な貴族趣味があった。黒いボンネットを冠り黒のドレスで身を飾り、犬が大好きであった。日本にくる時も船で犬を連れてきている。避暑先として好んでいた軽井沢には、避暑中に亡くなった愛犬「プリンス」の小さな墓が現在でも彼女の別荘跡に残されている。貴族の出と飛松甚吾は書いているが、レデイ・ボイドがイギリスに遺されている文章等を調べたら父親はうだつの上がらない下士官であった。なお、リデルは自分のことに関して外の人に喋らなかった。
彼女は政治的にうまく働いた。リデルの応援団の一人本田増次郎は[35]御殿場のハンセン病病院神山復生園を訪問し、また、日本医学の進歩に貢献した東京大学内科のベルツに会い、病院構想を練った[36]。協力者金沢久[37]はリデルより英語を習得、後東京高等師範学校の教授になったが、この2人と聖公会の衣笠景徳の3人で4,000坪の土地を1894年に手に入れた。また回春病院設立後であるが、細川家から3000坪の寄贈を受けている。リデルとCMSと病院の設立と経営に関しての交渉は長く続いたが、結局CMSから離れてリデルの経営ということになった。しかし、リデルは独力で募金を続けるという役割を課せられた。彼女は積極的に政治家、実業家、富裕な人々に寄付を求め、また学者と討論した。日本の皇族は彼女の仕事を認めて、寄付を行った。リデルはいつもトップと会うので、他の人とはうまくいかない場合もある。実際に仕事をした仲間は、彼女とは一緒に働きたくないという人が多い。猪飼隆明は、病院設立に関して、CMSがいろいろ反対したのだろうとしている。しかし、それでも創立させたのだから、リデルは尋常な能力の持ち主ではない。しかし、リデルには手柄を独り占めする傾向があるという。
リデルはCMSから離れて英国に帰ったあとも回春病院に関わることができた。施設の土地所有者がリデルの協力者だったからである。それでも心配して、外人の土地所有が999年認められるようになって、その手続きをしている。また、自分が死んだとき施設がどうなるかもCMSと交渉している。
リデルは大柄で六尺豊かであった。人力車をやとったが、必ず2人が必要であった。草津では4人の駕籠かきを雇っている[38]。1928年には熊本では珍しい運転手つきの黒塗りの車を使用した[39]。リデルの体格が余り大きいので、なくなる前に火葬できるかどうか本人が確かめたというエピソードがある。
患者からみたリデル
[編集]回春病院の患者、本田天外は、慈善事業にありがちな事を述べ、「リデルはこの点には十分も十二分にも考えていられたようで、言葉の端々にでにだも、決していささかも病者を汚すようなことはなさらなかった」、と述べている。(中略)[40]。ある人はここは病院でなく、修道院だとつぶやいたとあるが、信仰は重んじられても強いられなかった。歌人でもある患者の玉木愛子は冬の寒い時に、リデルから忠臣蔵の長袴に似た奇抜なネルのズボンを頂き、ダンスをしたり、また、玉木愛子の歌で讃美歌を歌ったことを記録している[41]。回春病院から無断で抜け出る患者もいたが、リデルが怒ることはなかったという。いたずらで、人力車の車輪に棒を入れた子供がいたが、強い叱責はなかった。表向きには公式に否定されていたが、全員に洗礼を受けさせようという強いプレッシャーもあった[42]。
岩下壮一神父のリデル観
[編集]回春病院より早く創立した「神山復生病院」6代目院長の岩下壮一は、1931年(昭和6年)4月にハンナ・リデルを訪れている。彼はリデルに関して次のように述べている。
リデル自ら如何なる考えを有せられたかは知る由もないが、今日その生涯を歴史的に観察するときに、リデルはそれを自覚しておられたと否とに関わらず、一の大なる使命が遂行されたとのを認めざるを得ない。神はリデル嬢を選んでらい問題に関する日本の朝野の良心を覚醒せしめ給うた。なるほど復生病院の創立は回春病院のそれに年代的には先んじている。しかし御殿場のフランス人はあまりに隠忍にすぎた。ベルトラン師などが地元の悪者共にいじめられて警察署へ嘆願書を出したり訴訟をして敗れたりしている間にリデルは故渋沢子爵を動かし、上京する毎に内務大臣を訪問されたそうである。当時の当局者にとってこの英国人はたしかに苦手であったに相違ない。リデルはこうした人たちを相手にして十分太刀打ちのできる貫禄が具わっていた。外国人で婦人で身分があって、よき意味での政治的才幹を有したリデルの前には全ての門戸が容易に解放された。リデルはこれを善用することを忘れなかった。試みに、明治20年ころ官辺に縁故のない一日本人が救らい運動を志して、内務大臣を訪問したと考えて見給へ。彼はおそらく終日「人民控所」で待たされた挙句追い返されたであろう。
リデルは昔神山復生病院におけるころを、岩下にストレートに文句を言ったが、話が打ち解けたらミスターイワシタからファーザーイワシタに変わり、食事をしていけと打ち解けたという。
リデルに対する批判
[編集]ジュリア・ボイドの記載
[編集]リデルは何が問題なのかをはっきり突き詰めた上で単刀直入に問題に対処するやりかたを好んでいた。心得違いの人々が彼女の邪魔をしようとする場合には彼女は見事な手腕で(人によっては「マキャヴェリズム的な」と称するかもしれない)そうした障害を回避するのだった[43]。ジュリア・ボイドは「リデルが通常のルートを無視して直接トップに訴える策にはしった」と記載している[44]。リデルが沖縄に派遣した青木恵哉に対する対応で、自転車や土地代を送らなかったことにつき、ボイドはハンナのひねくれた対応にコメントし、リデルは何でも自分のやり方で処理し、それ以上に自分が主導権を握りたがったと批判している[45]。
草津の救らい事業に関して
[編集]58歳になって日本に渡ってハンセン病患者の救済を志し、1914年から回春病院に3年勤務した牧師アルフレッド・ヒューレットはだんだんリデルの方針に疑問を生じ、その後、草津のコンウォール・リーの所にいっている。彼は「草津の救らい事業は熊本から1000マイルも離れているのに、リデルは隙あらば潰そうと、いや控え目にいっても妨害しようとしている」と書いている。しかし、冷却期間の後、1923年にこのように訂正した。「リデルがリーの所に訪ねてきて楽しかった。過去の行き違いが今やすべて、許され、忘れられたと考えたい」[46]。
回春病院職員にたいして
[編集]ハンセン病歴史研究家森幹郎は、回春病院に30年勤務し、功績があった三宅俊輔[47]が亡くなったのに、リデルが軽井沢にいっていて、葬儀に参列しなかったことを批判している。亡くなってから葬儀に4日あるのは、リデルが帰ってくるものと予想していただろう、30年の功労者でも、リデルにとっては、一使用人にすぎなかったと批判している。リデルは、患者から慈父のように慕われていた三宅院長にも嫉妬していたのかもしれない[48]。 リデルの晩年、やもめであった病院付牧師、70歳近い荒砥琢哉が少女と結婚しようとしたときリデルは反対したが病院の教会で式を挙げた。リデルの祝辞は嫌味がこめられており10日で離婚した話であった。荒砥夫妻は病院を去ってしまった[49]。
回春病院
[編集]イギリス本国では最初はLeper Hospitalと紹介されたが、名称を回春病院にすることに苦心があった。英語にするとResurrection of Hope(希望の復活)となるというが、回春病院の名前は本田増次郎の助言になる。熊本の江戸時代の医育機関である再春館 (学校)が意識されていたのでないかという[50]。この病院の設立にはリデルやノットの訴えでCMSの位の高い宣教師が自らも拠金した。本田増次郎がベルツに相談にいったり、またリデルの協力者たちが1894年に4000坪の土地を購入したこと、リデルたちの募金などが功を奏した。設計図は日本赤字病院の勤務医岩井禎三であった。診察室、薬局、事務室、礼拝室、男子病棟、女子病棟、医師住宅、伝染病室、重症病室、看護室、炊事場、職員用の浴場、洗濯場、消毒場、物置、患者用の浴室など10棟で計138坪。和風の建築である。創立記念日の写真にはエヴィントン、ブランドラム、リデル、ノットその他大勢の人が記念写真に写っている。
宣教師でリデルやライトの友人のメイ・フリース[51][52]は発足1年後の1896年12月に回春病院を訪れ、くわしい報告書を残している。それには、お茶をふるまわれ、患者は日光浴をしていること、但し患者は楽しげに笑っていたが、体は不自由で醜いと書いている。クリスマスの日に3人が洗礼を受けたという[53]。病院の定員は79名であった。回春病院の患者たちは、他のハンセン病療養所の患者たちに比べ、身なりもずっとよかった。許可なしに街中に出ているところを警官に見咎められても、すぐ回春病院の患者とわかるのだった。警察当局がリデルに注意すると「私の患者がそんなことをするはずがありません」と断言していた。リデルは高圧的で、院内の秩序や服装についても非常に厳格であったため、時には患者も不平をもらすこともあった。とはいえ、患者たちはこうして文明的な水準の高い環境に暮らし、身なりもきちんとすることによって、この恐ろしい病気に罹ったことで、一度は失ってしまった人間としての誇りや尊厳を、新たに取り戻すことだできたのだと理解していた[54]。
回春病院の詳しい経理報告が残っているのは1903年、1904年からである[55]。昭和5年の経常費、食糧費(一人一日あたり)、治療費の文献も残っている[56]。
リデルのハンセン病政策
[編集]リデルは大正4年4月21日付「日本の医界」に次の様に述べている[57]。
如何にしてもこれら無辜の病人を救わんとの志望が突如私の脳裏に浮かんできた。調査の結果、此の国においれはらい患者を非人と卑しみ、精神的にも肉体的にも救済法、慰安法がととのっていないことを発見したので、挺身事に当たる必要をかためたのでここに決心の臍を固めたのである。最初に本妙寺付近に一宿屋を借り入れて無資力患者の収容に充てた。土地を購い回春病院を新築したのは約一年半後のことであって、資金は皆故国の知人が喜捨してくれたものである。(中略)五、六百年前には英国にも数は多くはないがらい患者がいました。らい患者は男女に分って収容し、短期間でらい患者はいなくなりました。ハンセン病患者は偽名を使うのを許されるべきである。各県に男女別々に施設を作り、医師以外はハンセン病患者から選ぶべきである。このことは多額の費用が必要であるが、小型砲艦1隻(a single gun boat)の費用にも満たないし、毎年の費用はこの国の人一人1戦の税で十分だと思います。
日本のハンセン病患者への隔離政策は批判を浴びているが、リデルもまた隔離政策を唱えていた。しかし、医学では素人であり、医学の発展していない当時であれば、いたしかたないことである[58]。ハンセン病の拡大を防ぐには完全な禁欲こそ唯一の方法であるという根拠により、性の要素を根絶することを正当化していた。らい研究所を作ったが動物実験で動物を犠牲にするのにも反対していた。私立施設ということで、夫婦生活をしたければ、他の施設に勝手にいきなさいという隔離政策であった。「土塀の花」という「愛生」という雑誌に連載された記録がある。回春病院で仲がよかった同志が国立療養所長島愛生園に無断でいくという話がでている。この記録は患者の死後発見された。比較的高い学歴の患者が多く、キリスト教の伝道も熱心であったが、入所している患者自身には、この隔離政策は受け入れられていた。光田健輔[59]によるリデルの隔離政策の説明は、「熊本回春病院長リデルは立った。リデルは曰く、中世紀欧州、ことに英国のライを根絶せしめた大なる力は結婚禁止男女別居の法律的制裁である」と述べている[60]。
雑誌「警監之友」発行
[編集]リデルはCMSへ辞表を出した後、長安寺の居を引きはらって熊本市新屋敷に新居を構えたのは1898年であった。その後、屋敷に泥棒が入ったのを切っ掛けとして警察官および監獄官吏の人格向上、宗教心を涵養せしめる「警監之友」(Police and Warders' Friend)を知り、別の人が発行していたが、その本部を東京から熊本へ移した。その時期は1902年である。その内容は、精神修養・法律・英語会話であった。主幹はリデルで、精神修養はリデルが筆をとり、法律は専門家を煩わせたが、英語会話は最初第5高等学校の木村教授が担当し、その後、遠山参良教授が担当した[61]。このリデルの事業は今日の免囚保護事業の先駆をなすものであった。日本全国で1400部ほど出回っていた。読者からのエッセイもあった。当時は日露戦争で捕虜が日本で歓待されている話題もあった[62][63][64]。
ハンセン病菌研究所
[編集]最初はらい菌研究所といったが、ハンセン病菌研究所ともいう[65]。英文ではlaboratoryといったが本格的な研究所を立ち上げた[66]。細菌学の権威である北里研究所の宮嶋幹之助と建築界の泰斗中條精一郎(宮本百合子の父)がそれぞれ専門の立場から検討、研究所の設計図を仕上げ、清水組が建築を受け持って1918年に出来上がった[67]。初代研究所所長は北里研究所の当時26歳の内田三千太郎である。北里柴三郎、宮嶋幹之助らの推挙があり、今まで北里研究所で月給20円のところ、リデルは年俸1000円とした。最初は建築物が間に合わず熊本大学で研究したが、1年余りを経て建物が完成した。リデルがマスクをかけず病室に入り握手するのをみて彼は吃驚したと書いている。内田は鼠のらいをみつけ、「人らい、鼠らい菌の研究」で、出身大学の新潟医専で学位をとり、研究所入所後3年して慶応大学に転じた。その後田宮貞亮が1919年から1921年にかけ、神宮良一が1926年より1933年に、また池尻慎一が1934年から1937年にかけ在籍し研究した。内田三千太郎と神宮良一はそこでの研究で医学博士号を得ている。[68]また第五高等学校時代の宮崎松記もここで勉強した写真が残されている[69]。ハンセン病研究所は現在熊本市のリデル・ライト両女史記念館となり、種々の資料が展示してある。
草津と沖縄
[編集]日本の他の地のハンセン病問題に取り組んだらどうかとリデルを吹き込んだのは大隈重信である[18]。
草津温泉
[編集]リデルは1900年、エダ、ライトと共に草津を訪れている[70]。草津温泉では明治初年の大火のあとハンセン病患者が集まり、エルヴィン・フォン・ベルツが梅毒、ハンセン病にいいと宣伝した。ハンナ・リデルは1913年回春病院の米原馨児を派遣し、キリスト教に関心がある人々が光塩会(こうえんかい)を設立した。これはバルナバ教会の前身である。その後コンウォール・リー[71]は、1915年草津を視察、以降、多くの施設を立ち上げ、ハンセン病患者のために患者のための生活、教育、医療に力を注いだ。1916年聖バルナバ教団のアメリカ主教区としての認定を受けた。私費を投じたリーの取り組みはリデルとまったく違ったものであった。リデルはその地はリーに任せた[72]。
沖縄
[編集]沖縄でのハンセン病患者が悲惨であると知り、リデルは回春病院の軽症のハンセン病患者でクリスチャンである青木恵哉を1927年沖縄に送った[73]。彼は玉木愛子への愛情の苦しみから一歩でも遠くとの気持ちで沖縄伝道を決意、1927年2月聖歌の中、荒砥牧師と共に那覇に向かった。沖縄本島の離島伊江島を拠点とした。洞窟や山に隠れている患者を発見し、食べ物、衣服を与え共に礼拝した。リデルからは月給として25円が送られていた。荒砥牧師は洗礼を施した。屋部に本拠地を移した。1935年は焼き討ち事件に遭い、屋我地島の沖の無人島ジャルマに達した。人の住める平地は約300平方メートル。ここで子供3人を含む40人ほどが暮らした。その後屋我地島に安住の地を求めた。1938年にその地を基にして国頭愛楽園、現国立療養所沖縄愛楽園が誕生した。
回春病院のための募金活動
[編集]リデルは回春病院に関わって以来、募金活動に終始した。リデルは広報宣伝活動には尋常ならざる勘を有していた。日本国内では渋沢栄一、大隈重信を知ったのは大変助けになった。1905年の銀行会館での会議をへて、公的な機関からの寄付を受けることになった。避暑のために有力者が集まる軽井沢へ回春病院事務長飛松甚吾を伴い毎年でかけ、募金活動を行った。寄付をした名簿には著名な政治家や文学者が名を連ね、まるで国際的な紳士録といった趣である。例を挙げれば、オーガスタ伯フェレール夫人、ベンティング伯爵、大山公爵夫人、カナダ大司教、アーネスト・サトウ、岩倉公爵夫人、貞明皇后、武藤山治(鐘淵紡績社長)、エルヴィン・フォン・ベルツなどの名前がある[74]。また、老齢になっても世界一周の募金活動の旅にでている。
経歴
[編集](出典:『ユーカリの実るを待ちてーリデルとライトの生涯』内田守、志賀一親著 リデル・ライト記念老人ホーム 1976年発行、1990年復刊、一部は 猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』 熊本文化出版会館 2005年発行、ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』1995 による。)
- 1855年10月17日 - ハンナ・リデル、ロンドンのバーネット街にて出生。
- 1870年2月13日 - 姪ライト、ロンドンのバーネット街にて出生。
- 1889年 秋、リデルは単身リヴァプールに移る。YMWCAの校長に推挙される。
- 1890年 4月29日- Church Missionary Society の宣教師として認められた。
- 1890年 - 日本に向け出発。
- 1891年 - 熊本に派遣される。本妙寺のハンセン病患者をみて、救済を志す。住居は長安寺町。
- 1895年11月12日 - 回春病院開院式を挙げる。
- 1896年 - ライト来日。水戸で教鞭をとる。
- 1897年 - リデル一時帰英。C.M.S.伝道師の辞表提出。
- 1898年 - 私人として来日、救らい事業に専念。新屋敷町に転居。
- 1900年 - リデル、ライトを伴い草津を視察。12月5日、リデルのCMSの辞表受理[75]。同年グレース・ノットもライトもCMSから離れた。
- 1901年 - 細川侯爵より隣接の土地3000坪無償譲渡。
- 1905年 - 東京日本銀行集会所で渋沢子爵の斡旋で経済危機に陥ったリデルに救済の手がさしのばされる。同時にハンセン病問題が討議される。
- 1906年 - 藍綬褒章下賜。
- 1915年 - 沖縄、鹿児島県下の諸島にらい救済事業開始。
- 1917年 - 貞明皇后より御下賜金を賜る。
- 1918年 - 回春病院内にらい病研究所を創設(日本初)。
- 1919年 - 男女分離説を政府に進言。
- 1921年 - この年より毎年宮内省より御下賜金を受ける。
- 1924年 - 皇太子裕仁親王の成婚に際し、銀杯と御下賜金を賜る。
- 1925年 - 勲六等、瑞宝章を賜る。
- 1927年-1928年 欧米旅行。
- 1928年 - 内務大臣より表彰、銀杯。
- 1930年 - 大宮御所に伺候、皇太后(貞明皇后)より下賜金。
- 1931年 - 熊本県庁にて昭和天皇と単独拝謁。
- 1932年2月3日 - リデル腸管麻痺、心臓麻痺にて熊本市古新屋敷町にて逝去。78歳。ライト2代目院長就任。
- 1935年 - ライト大宮御所に参内。御下賜金を賜る。
- 1941年1月13日 - 評議員会で回春病院の解散を決定。
- 1941年4月2日 - ライトは神戸出航。フリースと共にオーストラリア、パースに居住。
- 1948年6月11日 - ライト再来日。
- 1950年2月26日 - 死去。80歳。勲四等、瑞宝章を賜る。
- 1995年 - 回春病院開院100周年記念祭がおこなわれる。
出典・脚注
[編集]- ^ 森幹郎『ハンセン病史上のキリスト者たち 足跡は消えても』p.52
- ^ 猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』p.23
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』pp.11-21
- ^ 猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』pp.60-61
- ^ グレース・ノット - (Grace Nott)小柄な、リデルより9歳年下のイギリス人宣教師である。リデルと共に熊本に派遣された。ノットはリデルと親しく回春病院設立には同志として協力した。ジュリア・ボイドの著書の英文版、邦文版の両方に4枚の写真が掲載されているが集合写真では大柄のリデルの向かって右に写っている。リデルは英語会話を教えたが、ノットはドイツ語会話を教えた。1900年、CMSと対立、リデル同様離れることになった。しかしその後も回春病院へ協力、1906年讃美歌に合わせて弾琴したとある。
- ^ 猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』p.174
- ^ 前者に関しては回春病院や、日本初のハンセン病研究所の設立や、警監之友の発行がある。リデルを本部のCMSから日本のCMSに紹介する文章で「当人の話だと組織作りが最も得意だそうです」とある。ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』pp26 line6なお英文の方はCMSのFennの手紙で、The works she likes best, she says, is that of "organizing".とありま。Boyd Julia Hannah Riddell pp26
- ^ 後者に関しては、「ハンナは終生、有力者の知遇を得るという才能に恵まれた」と書かれている。All her life, Hannah displayed an instinct for getting to know people of influence. とあります。Boyd Julia Hannah Riddell pp23
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』pp.22 line 8
- ^ ブランドラムのこと。CMSでのリデルの先輩で既に日本での布教経験は7年となっていた。リデルやノットとの行き来も頻繁であった。
- ^ ジョン ブランドラム - (John Brandrum) ケンブリッジ出身でリデルを迎えた先輩の在住司祭。リデルの3歳年下である。当時新婚1年目であるが妻も宣教師であった。リデルやノットに熊本の説明をしたので本妙寺についても説明したと思われる。リデルのハンセン病病院設立の考えに協力して、回春病院落成式にはリデルと並んで写真に写っている。
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』(ページはあちらこちらに亘る)
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.113,130
- ^ 1905年11月14日九州日日新聞社説によると日露戦争の結果、イギリスよりの寄付金も送金する汽船獲得の恐れがあるために、その送金を見合わせた。本邦人の寄付は益々減少し、ついに回春病院は今日3000円の負債を生じるに至ったとある。
- ^ 猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』p.196(なお元の文献は「渋沢栄一伝記資料24巻」)
- ^ 山本俊一 『日本らい史』東京大学出版会 ISBN 4-13-060404-X 「リデルの活躍」 p.51
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.155
- ^ a b ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.185
- ^ 内田守編集『ユーカリの実るを待ちて』p.1113
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.205
- ^ (プロテスタントの一派で英国教会とは異なる宗派)
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.15
- ^ 猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』pp.58-62
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』pp.59-60
- ^ Julia Boyd Hannah Riddell, An Englishwoman in Japan Charles E. Tuttle, 1996. p57.
- ^ H Riddell, 『らいの救済及び予防問題』 日本の医界 大正4年2月21日 英文と邦文がある。
- ^ 猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』pp.94-98
- ^ 猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』p.99
- ^ 飛松甚吾 『ミス ハンナ リデル』 熊本回春病院事務局 1934年発行、1993年復刻
- ^ 飛松甚吾 - リデル・ライト時代の回春病院の事務長を勤めた。以前税関に勤務していたせいか英語が達者であった。リデルとライトの時代は、募金のため軽井沢までついていっている。ライト時代の末期、日英の関係悪化をうけて、警察に抑留され、健康を害した。警察に抑留された理由は、5人の娘全員を高等教育を受けさせたのでなにか悪事をしたに違いないということであった。リデルの伝記を書いた。1945年4月逝去
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.71
- ^ 『新熊本市史』通史編 第6巻 近代2 ハンナリデルと回春病院 p.383 猪飼隆明 によると、彼はリデルが熊本に到着したのは3月としている。
- ^ Julia Boyd - 生存人物。1947年生。結婚前はVictoria and Albert Museum に勤務。結婚後夫につき、ボン、ニューヨーク、香港、東京に勤務。1995年当時は、イギリス駐日大使のSir Boyd の夫人でLadyの称号を持つ。回春病院100年祭に出席、リデルの英国における文献を調べて Hannah Riddell, An Englishwoman in Japan 1996, Charles E. Tuttle を書いた。その後英国に帰国。
- ^ http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736%2809%2960845-X/fulltext
- ^ 本田増次郎 - 1866年1月15日生。第五高等学校の助教授、教授に招聘される。大阪の高等英学校、高等師範学校、東京外国語学校 (旧制)、立教女学校、女子英学塾(新制津田塾大学の前身)、早稲田大学で教鞭をとり、英語教育に貢献する一方、清国留学生教育の立ち上げ、ハンナ・リデルの回春病院開設への協力、動物虐待防止会の運動などに力を注ぐ。回春病院土地入手に協力した。
- ^ 猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』pp119
- ^ 金沢久 - 1866年生。ブランドラム、後リデルより英語を習得した。日清戦争で電信部隊員。ロンドンに留学。回春病院土地入手に協力。後東京高等師範の教授となる。銀行会館ではリデルの代わりに、再春病院は寄付に値する病院であると演説した。なお、リデルは演説はしていない。
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』表紙の写真
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.184
- ^ 内田守編集『ユーカリの実るを待ちて』p.131
- ^ 内田守編集『ユーカリの実るを待ちて』p.136
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』pp169
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』pp70
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.84
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.197
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』pp.191-193
- ^ *三宅俊輔 - 1854年島根県の生。1874年上京。桑田衡平の家塾、ベルツの指導をえて、1878年内務省医師開業免状をえる。故郷に近い津和野で開業、1890年山口に移動。1893年長崎へ、翌年谷山(鹿児島県)や指宿へ。伝道師としても活躍。1897年リデルに招かれ回春病院に医師として赴任。30年その職にあった。リデルは病院に週2回しかこなかったが、彼が病院をまかせられていた。たいへん真面目な性格で、時には、リデルと患者の間に入って、患者を守り、皆から信頼されていた。1926年没。
- ^ 森幹郎『足跡は消えても ハンセン病史上のキリスト者たち』p.69
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.159
- ^ 猪飼隆明『ハンナ・リデルと再春病院』pp.127-128
- ^ メイ・フリース - (May Freeth)イギリス人宣教師でリデル、ライトの友人である。回春病院開院1年後、同院を訪れその記録を残した。エダと伝道師学校時代からの友人で、福岡県、後に阿蘇で活動した。のち弟が居住するオーストラリアのパースに行き、回春病院閉鎖後亡命したエダを受け入れた
- ^ 猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』p.130
- ^ 猪飼隆明『ハンナ・リデルと再春病院』pp.130-132
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.167
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.148
- ^ 『近代庶民生活誌 20 病気・衛生』 1995, pp.453-455(これはレプラ第3巻1号からとある)
- ^ 猪飼隆明『性の隔離と隔離政策』pp69-75
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』pp.156-157
- ^ 光田健輔 - 若い時、本妙寺を見学し、また回春病院にリデルを尋ね討論している。彼が最初に作った「回春病室」はリデルの「回春病院」にちなんで命名された。
- ^ 愛生第6巻4号『ワゼクトミー20年』光田健輔 1936年発行
- ^ 遠山参良(1866-1932)(とうやまさんりょう)- 熊本県鏡町生まれ。1892年、アメリカのオハイオ・ウエスレヤン大学を卒業。帰国後、長崎県私立鎮西学院教師、活水高等女学校講師をつとめ、明治32年、第五高等学校(現・熊本大学)の教授になった。1911年、私立九州学院を創立した。熊本におけるリデルの最も親しい日本人であった。
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』pp.141-147
- ^ 飛松甚吾『ミス・ハンナリデル』pp.32-34
- ^ 猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』p.166
- ^ 猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』pp.1229-1240
- ^ Boyd Julia Hannah Riddell pp162
- ^ 猪飼隆明『ハンナ・リデルと回春病院』pp.229-240
- ^ 内田守[1976:293-303]
- ^ * 宮崎松記 - 第五高等学校学生時代、回春病院で実習をして、ハンセン病に興味を覚えた。九州療養所所長となり、回春病院と密接な交流があった。回春病院廃止後は、その患者を引き取った。
- ^ 猪飼隆明『性の隔離と隔離政策』p.137
- ^ Mary Helena Cornwall Legh、1857年5月20日-1941年12月18日。英国女性。英国教会(英国聖公会)福音宣布教会(SPG)派遣の宣教師。CMSとは系列が異なる。
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.191
- ^ 青木恵哉 - 23歳時ハンセン病のため、大島療養所に入所。2年後に受洗。のち回春病院に転院。1927年、回春病院のハンナ・リデルから、伝道のために沖縄に派遣された。リデルは色々指導したり、資金を送ったりした。青木は無人島などにいって、沖縄の患者を守り、その努力の結果、1938年に国頭愛楽園ができた。
- ^ 飛松甚吾『ミス・ハンナリデル』p.179
- ^ ジュリア・ボイド『ハンナ・リデル』p.129
参考文献
[編集]文献は多いが、ここには基本になる文献を掲げる。
- 猪飼隆明 『ハンナ・リデルと回春病院』 熊本出版文化会館、2005年 ISBN 4-915796-52-3 (英国において多くの一次史料を見つけている)
- 猪飼隆明 『性の隔離と隔離政策 ハンナ・リデルと日本の選択』 熊本出版文化会館、2005年 ISBN 4-915796-53-1
- 内田守編集 『ユーカリの実るを待ちて』リデル・ライト記念老人ホーム、1976年 (詳しい資料集で、また関係者の人物などにも詳しい)
- 飛松甚吾 『ミス ハンナリデル』熊本回春病院、1934年(1993年に復刻版が発行)
- Tobimatsu Jingo Hannah Riddell , 1937, Kumamoto. Reprinted in 1993. 序文はエダ・ハンナ・ライトが書いているが、翻訳はエバンス牧師とチャッペル牧師とある。
- ボイド ジュリア 『ハンナ・リデル ハンセン病救済に捧げた一生』日本経済新聞社、1995年 ISBN 4-532-16180-0
- Boyd Julia Hannah Riddell An Englishwoman in Japan. Charles E. Tuttle Company. 1996 ISBN 0-8048-2050-3 (上記の本の原本であるが、写真の枚数が倍あり、また、文献が載っている。英国において多くの一次史料を基本としている)
- 森幹郎 『ハンセン病史上のキリスト者たち 足跡は消えても』 ヨルダン社、1996年 ISBN 4-8428-0214-6
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ハンセン病のリンク集 - ウェイバックマシン(2019年3月13日アーカイブ分)
- 社会福祉法人リデルライトホーム