ブランチ・リッキー
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | オハイオ州 |
生年月日 | 1881年12月20日 |
没年月日 | 1965年12月9日(83歳没) |
身長 体重 |
5' 9" =約175.3 cm 175 lb =約79.4 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 捕手、外野手、一塁手 |
プロ入り | 1903年 |
初出場 | 1905年6月16日 |
最終出場 | 1914年8月25日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督歴 | |
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選出年 | 1967年 |
選出方法 | ベテランズ委員会選出 |
この表について
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ブランチ・リッキー(Wesley Branch Rickey , 1881年12月20日 - 1965年12月9日)は、アメリカ合衆国オハイオ州出身の元プロ野球選手(捕手)・監督・プロ野球球団経営者。
マイナー組織の改革や初のアフリカ系アメリカ人選手ジャッキー・ロビンソンと契約を結んだ等、革新的なメジャーリーグ球団幹部であったことでよく知られている。ファーム制度や科学的なトレーニングの導入でも有名である。"The Mahatma"(マハトマ・ガンディーになぞらえたもの)のニックネームで呼ばれた。大卒後、弁護士業を数年行っていた。
来歴・人物
1903年にシカゴ・ホワイトソックスと契約するが、ホワイトソックスではメジャーでの出場はなく、1905年6月にセントルイス・ブラウンズ(現:ボルチモア・オリオールズ)にトレードされ、ブラウンズでメジャーデビューを果たす(デビュー戦では3打数ノーヒット)。選手としてはそれほど芳しい成績を残していない。1914年にブラウンズで2試合に出場したのがメジャーでの選手歴の最後で、その後はブラウンズの監督として活動することとなる。
引退後は監督としてブラウンズに残留したが(1914年は選手兼任監督)、1915年オフに解雇された。1919年にセントルイス・カージナルスの監督に就任すると1921年に若き二塁手、ロジャース・ホーンスビーらを擁してチームを4年ぶりの勝率5割以上に導き、1923年まで勝率5割を維持した。その後、1924年には再び勝率4割台に戻ってしまい、1925年にはホーンスビーがプレイングマネージャーとなり監督業からも離れることになる。翌1926年にカージナルスは初のワールドシリーズ出場を果たし、シリーズを制覇した。それから後、リッキーが監督として球界に戻ってくることはなかった。
マイナー組織の整備
現役引退後の彼はミシガン大学のコーチとして数年過ごした。このとき後の大打者ジョージ・シスラーと運命の出会いを果たす。1913年ブラウンズにフロントの一員として復帰した時にジョージ・シスラーの契約にかかわった(当時のシスラーは先発投手)。
その後、カージナルスに転身しゼネラル・マネージャー(GM)専任となるとマイナー組織の拡充に努めた。マイナーチームをファームとして選手の育成機関としてしまうことに当時のコミッショナー、ケネソー・マウンテン・ランディスはマイナーチームを破壊してしまうものとして嫌った。しかしカージナルスはイーノス・スローター、スタン・ミュージアル、マーティ・マリオン、ビリー・サウスワース等を輩出し強豪チームとなると他の球団も追従し現在のファームシステムの基となった。
人種差別の壁の撤廃
1942年、ブルックリン・ドジャースの総支配人で友人のラリー・マクフェイルが徴兵されるとリッキーはドジャースに社長とGMを兼ねた後任として招かれる。1944年に人種差別の撤廃に消極的だったランディスコミッショナーが急逝すると、翌1945年にユナイテッド・ステート・リーグという黒人選手を受け入れるマイナーリーグ組織を創設。1945年8月28日にジャッキー・ロビンソンとマイナー契約を結んだのをはじめ、ドジャース支配下のマイナーリーグのチームに多くの黒人選手やニグロ・リーグ経験者を集めた。このことがメジャーリーグにおける新時代の幕開けになった。
- ただし、リッキーが人種問題について特別優れた人権感覚を持ち合わせていたわけではない。リッキーが黒人選手のメジャー入りを推し進めた真意は、白人選手と同等かあるいはそれに勝る才能を効率的に安価に手に入れられる供給源を確保するためであった。そのため、リッキーはニグロ・リーグの存在そのものは無価値なものとして軽視し、スター選手を大量に引き抜いても補償には応じなかった。それが後のニグロ・リーグ消滅につながっている。
晩年
リッキーは最晩年、古巣カージナルスにアドバイザーとして招かれるが、頑固で偏狭な老人に変貌していた。加えて全権を握ることに固執し、オーナーのオーガスト・ブッシュに、監督のジョニー・キーンとGMのビング・ディヴァインを解任するように仕向けた。ブッシュはディヴァインGMとキーン監督双方を解任すると影響が大きいとディヴァイン一人を解職した。
1964年の解任当時のカージナルスはフィラデルフィア・フィリーズに大きく水をあけられていたが秋に盛り返し、その後にナショナルリーグを制し、ワールドシリーズではニューヨーク・ヤンキースとの戦いを制し、ワールドチャンピオンとなった。キーン監督はその年のオフに続投要請を断り、対戦相手のヤンキース監督に就任。またディヴァインGMが入手したプレーヤーの多くがその後の1967年、1968年のリーグ優勝に貢献し、ディヴァイン自身はニューヨーク・メッツに転身して1969年の『ミラクル・メッツ』の礎を築いた。後にブッシュオーナーはリッキーの助言を聞くべきでなかったとコメントしている。
なお、リッキーは1965年11月にミズーリ州のスポーツ栄誉の殿堂に選出されたが、そのスピーチの途中で倒れ、翌月没した。
1967年、アメリカ野球殿堂入り。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1905 | SLB | 1 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | -- | 0 | -- | -- | .000 | .000 | .000 | .000 |
1906 | 65 | 223 | 201 | 22 | 57 | 7 | 3 | 3 | 79 | 24 | 4 | -- | 3 | -- | 16 | -- | 3 | -- | -- | .284 | .345 | .393 | .738 | |
1907 | NYY | 52 | 152 | 137 | 16 | 25 | 1 | 3 | 0 | 32 | 15 | 4 | -- | 2 | -- | 11 | -- | 2 | -- | -- | .182 | .253 | .234 | .487 |
1914 | SLB | 2 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 1 | -- | .000 | .000 | .000 | .000 |
通算:4年 | 120 | 380 | 343 | 38 | 82 | 8 | 6 | 3 | 111 | 39 | 8 | 0 | 5 | -- | 27 | -- | 5 | 1 | -- | .239 | .304 | .324 | .628 |
監督成績
年度 | 球団 | リーグ | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 備考 |
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1913年 | STB | AL | 8位 | 12 | 5 | 6 | .455 | 9月17日~ |
1914年 | 5位 | 159 | 71 | 82 | .464 | |||
1915年 | 6位 | 159 | 63 | 91 | .409 | |||
1919年 | STL | NL | 7位 | 138 | 54 | 83 | .394 | |
1920年 | 5位 | 155 | 75 | 79 | .487 | |||
1921年 | 3位 | 154 | 87 | 66 | .569 | |||
1922年 | 3位 | 154 | 85 | 69 | .552 | |||
1923年 | 5位 | 154 | 79 | 74 | .516 | |||
1924年 | 6位 | 154 | 65 | 89 | .422 | |||
1925年 | 8位 | 38 | 13 | 25 | .342 | 開幕~5月30日 | ||
通算:10年 | 1277 | 597 | 664 | .473 |
出典・外部リンク
- Baseballhalloffame.org – アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 監督の通算成績と情報 Baseball-reference.com
- 選手の通算成績と情報 ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)