<大正から昭和へ>第2回 アジア民族へ衝撃波
完了しました
ボルシェヴィズムの風圧
第1次世界大戦の結果、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシア、オスマンの4つの帝国が滅び、新しい国家が続々と誕生し、ヨーロッパから中東にかけての地図は大きく塗り替わりました。
パリ講和会議にあたって、戦勝国の首脳らは、ロシア革命を引き起こしたボルシェヴィズムをどのように防止するかに重大な関心を払っていました。当時、日本をはじめ各国は、ロシア革命への干渉戦争を続けており、敗戦国・ドイツなどで吹き荒れる「革命の嵐」の行方も気になるところでした(佐々木雄太著『国際政治史』)。
ドイツでは終戦をもたらした1918(大正7)年11月の「ドイツ革命」の後、与党の多数派社会民主党と、「革命」の進展を目指す独立社会民主党左派およびスパルタクス団との対立が深まっていました。翌19年1月1日、ベルリンでは、スパルタクス団を中心とするドイツ共産党が創立大会を開きました。
同月4日、共産党と独立社民党などがベルリン市内で激しいデモや暴動を起こすと、多数派社民党の首脳グスタフ・ノスケ(1868~1946年)は、反共の義勇軍を招集して鎮圧、無差別な逮捕と処刑で臨みました。
潜伏していたスパルタクス団首脳の女性革命家・ローザ・ルクセンブルク(1870~1919年)は同月15日、兵士によって射殺されました。ルクセンブルクは、マルクス主義のすぐれた理論家で、反戦運動のため投獄され、前年のドイツ革命の前日、釈放されたばかりでした。ルクセンブルクの同志のカール・リープクネヒトも同じような死を遂げました。(山上正太郎著『第一次世界大戦』)
19日に行われたドイツ国民議会選挙で、多数派社民党が第1党となります。新政府は、南ドイツのワイマールに国民議会を招集し、8月には男女普通選挙、労働者の団結権などを容認した、先進的かつ民主的な新憲法を制定しました。これが「ワイマール憲法」や「ワイマール共和国」と言われるものです。ノスケとともに左翼革命グループを弾圧したエーベルト(元社民党党首)が大統領に選ばれました。
ドイツなどにおける革命は、ごく短期間で鎮圧されました。その一方で、ロシアでは同年3月、モスクワに、ロシア革命とソヴィエト政府を支持する各国組織の代表者を集め、コミンテルン(共産主義インターナショナル、第3インターナショナル)が創設されます。これは、ボルシェヴィキ革命を各国に持ち込む共産党をつくり出すことになります。(和田春樹著『ロシア』)
コミンテルンは20年4月、中国に使者を派遣し、共産党結成の工作を行い、翌21年、
朝鮮「3・1独立運動」
一方、ウィルソン米大統領が唱えた「14か条の平和原則」を契機に民族運動が激発しました。もともと、「14か条」はドイツなど同盟国側の支配下にあった諸民族の民族自決の提唱でしたが、ウィルソンの意図を超えて連合国支配下の植民地民族運動をも刺激したのです。(姜在彦著『朝鮮近代史』)
1910年の韓国併合で日本の植民地となった朝鮮では、日本の軍政下、朝鮮人への差別に対する不満が
日本国内では19年2月8日、東京で朝鮮人留学生らが独立宣言書を採択、各国大使館、各大臣、貴衆両院議員、朝鮮総督府などに送付。留学生は続々と帰国し、独立運動をけん引します。