西寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/08 06:15 UTC 版)
概要
東西両寺の造立がいつ頃始まったかは定かではないが、『類聚国史』の延暦16年4月4日(797年5月4日)条に笠江人が造西寺次官として記載されているのが記録上の初見とされる。弘仁6年(815年)に造西寺司が任命されて以降、関連する人事記録は見られないため、これ以降に一応の完成をみたとされている。
嵯峨天皇の時の弘仁14年(823年)、東寺は空海、西寺は守敏に下賜されたとされる[3]が、『高野春秋編年輯録』に記されたこの記録は伝説性が強いとされている。天長9年(832年)には講堂が完成した。その後貞観6年(864年)までに薬師寺から僧綱所が西寺に移転された。醍醐寺縁起には延喜6年(906年)に聖宝が西寺別当となったという記述があり、西寺の整備を行ったとある。これ以降、他寺出身者が西寺の別当となることがはじまった。
正暦元年(990年)に火災があった[3]が、ほどなく再建されたと見られる。建久年間(1190年代)には文覚が塔の修理を行った。この建築作業を明恵が見物している。しかしその後荒廃し、再建された塔も天福元年(1233年)に再び焼失、以降に廃寺になったと考えられている[3]。しかし、たなかしげひさは『二水記』大永7年10月27日(1527年12月7日)条に「西寺に陣を敷いた」という記録があることから、戦国時代の中期頃まで西寺は存続していたと推測している。
西寺の衰退原因は立地である右京の水はけが悪く、平安後期には住民がいなくなったために環境が悪化したことや[4]、朝廷の支援を受けられなくなったことも指摘されている[5]。
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