William Burgoyine Cowper-Coles
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 09:24 UTC 版)
「メンダイン」の記事における「William Burgoyine Cowper-Coles」の解説
Coombeは、1894年にMENDINEを開発してW.B. Cowper-Colesという者に供給したと言っている:712。 イギリスでの"MENDINE"の商標登録は1902年、登録者名は"Frederick Hermann"。 1903年にMendine Company Limitedが会社登記される。経営者名は不明。MENDINEをイギリス国内で広告・販売し、輸出も行なった:712。Mendine Company Limitedは1905年に解散。 Cowper-Colesは1906年時点ではMendine Manufacturing Companyという商号を称している:713。 引き続き1906年にMendine Limited (Mendine Ld)が会社登記された。経営者名は不明。設立主旨は「W.B. Cowper Colesが"Mendine Manufacturing Company"として行なっていた事業の継承、および"cement"製造等の事業」、所在地もW.B. Cowper-Colesの所在地のままである。1907年に"Cole's satin photo mountant"という、写真用の金属チューブ入り接着剤を発売。"Liquid Scotch glue"も継続して販売。しかしMendine Limitedは1911年に倒産した。 William Burgoyine Cowper-ColesすなわちW.B. Cowper-Coles (以後"W.B.")は、19世紀のイギリス海軍士官Cowper Phipps Coles (英語版)の息子。Cowper Phipps Colesは軍艦用の回転砲塔を設計した発明家でもあったが、1870年に自分の設計した軍艦の航海に乗船中、船が転覆沈没して死者480名の大惨事となりCowperも死亡。W.B.(1867年生)はまだ幼少の頃であった。Cowper Phipps Colesの子孫はCowper-Coles姓を名乗り、息子のうちW.B.ら4人は金属工業関連の発明家や事業家となって1894年の"The Cowper-Coles Galvanizing Syndicate"社など、たくさんの会社を起こした。しかし1910年頃から会社は次々と倒産し、W.B.は行方をくらました。W.B.を含めて兄弟3人が個人破産。W.B.は妻子とともにアルゼンチンに移住した。 MENDINEの発売から1911年までの間、原液製造とチューブ詰め製造は各々誰が担当していたのか曖昧である。Cowper-Colesの商号に"Manufacturing"(製造)という文言が見られる。いっぽうCoombeはFrancis Worthy Rigby Dewdneyという者と共同経営でThe Adhesives Supply Companyという商号で接着剤製造をしていた。この商号は1907年頃から使われ、紙類製造販売業者であった"W.R.Dewdney"の所在地内にあった。1910年に共同経営は解消してCoombe単独の事業となった。Coombeは1908年以降のMendineの生産本数を把握している:716ことから、少なくも1908年以降にはチューブ詰め製造にまで関与している。Coombeは1911年までは販売には関知していなかった:719L15。
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