選手として活躍
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当時全国有数の強豪校であった明大中野高校での練習は明治大学や講道館への出稽古が多かったが、藤原を含め1年生は最初ひたすら受け身の練習を課された。「受け身を徹底的にやる事で首の周囲や腹筋、背筋、大腿筋が鍛えられた」と藤原。入部早々の5月には台東区の紅白試合で中学時代を上回る17人抜きの離れ業をやってのけた。しかし、自分の兄や、同じ和気中学校から一緒に明大中野高校へ進学した同級生と共同生活をしてはいたものの、15歳の藤原は1年次の7月頃までホームシックにも掛かり、金鷲旗大会への出場のため九州に向かう時に山陽本線の和気駅を通った際には故郷への想いも一入(ひとしお)だったという。それでも夏の合宿を終えて9月の新人戦が始まった頃から藤原の快進撃が始まり、得意とする左組からの払腰に磨きをかけて高校2年次のインターハイでは個人戦重量級で準々決勝戦まで進出しベスト8。高校3年次には、入学時に身長187cm・体重67kgだった体格も身長190cm・体重100kgまで増量し、インターハイでは前年と同様に重量級で出場して決勝に進出。しかし決勝戦で相対した天理高校の角田博英は体重150kgの巨漢で、藤原は「組んだ瞬間に『あぁ重い...』と感じた」「自分の力では動かせませんでした」と語っている。結果は判定負で、高校時代の締め括りとしてはインターハイ準優勝という結果であった。 1977年3月に高校を卒業し明治大学に進学。大学時代は山下泰裕率いる東海大学の黄金時代と丁度重なっていたためにあまり目立った成績はないが、それでも新たに習得した支釣込足を武器に個人戦では1978年2月の全日本新人体重別選手権で重量級準優勝、シニアでも1980年4月の講道館杯3位といった戦績が光る。 1981年4月に大学を卒業すると新日本製鐵に所属し、全日本実業団体対抗大会では同社の6連覇に貢献。同時に、東京代表で出場した国民体育大会でも4度の優勝を果たした。同社には後に滝吉直樹や須貝等らの後輩も続き、藤原はその人毎に鎬を削った。個人戦では9年間の全日本強化選手を通じて全日本選手権に5年連続を含む6回出場のキャリアを持ち、1983年には準決勝戦で山下泰裕5段に敗れたものの3位入賞。大会9連覇を達成した絶対王者・山下の引退直後の1986年同大会では10年振の全日本王者が誰になるかという事で注目を集める中、藤原は磯田雅博5段と桶川純4段を破って順調に勝ち上がり、準決勝戦では優勝候補筆頭の世界王者・斉藤仁5段を降して優勝が確実視されたが、決勝戦で新進気鋭の正木嘉美5段にあっさり敗れて悲願の初優勝は成らず。過去の対正木の戦績では圧倒的に分が良かっただけに日本武道館には暫くどよめきが起こった。 国際大会においては1983年の太平洋選手権優勝に加え、フランス国際柔道大会で趙容徹を払腰で一閃、1982年のアメリカ国際では河亨柱を支釣込足で破った試合等が特筆される。
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