遷座祭
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明治3年(1870年)4月15日(旧暦)に執り行われた遷座祭にあたっては、神奈川県より前後を挟んだ5日間に渡り、市を挙げて盛大な祭礼を行なうように布告が出された。それを受けて当時の市域各町は、それぞれ人形山車や手古舞、踊りの引き屋台などを揃え、横浜中心部の本町、弁天通、馬車道一帯を練り歩き、その華美を競い合った。県庁の前には各国の公使や領事を招いて桟敷席が設けられ、東京からも多くの見物客が押し寄せたと記録が残る。 特に貿易商街として栄えた本町四ヶ町は、江戸一の山車職人と呼ばれた仲秀英にそれぞれ人形山車を注文した。横浜市の正史「横浜市史稿」には、この四基の山車について「美術技巧の粋を集め万金を投じたもの」とある。これらは関東大震災で焼失したが、川越などに残る仲秀英の山車は県文化財等に指定されており、現存していれば同等の評価を受けていたと想定される。 この盛大な祭礼の総費用は、県からの下付金五千両も合わせて十万両とも十五万両とも言われ、当時の横浜を代表する料亭「富貴楼」の女将富貴楼お倉から、この話を聞いた外務卿副島種臣は「外務省の半年分の費用に匹敵する」と驚いたと伝わる。当時、横浜に在住していた生糸商も、郷里への手紙の中で遷座祭の壮大さと賑いについて触れ、「横浜が日本第一の町となったことを内外に示すことができた」と記している。 このような大規模な祭礼が執り行われた理由であるが、一つには前述の通り、急速な近代化の最前線にあり、またキリスト教を始めとする舶来の文化や思想の流入により、日々急激な価値観の変動にさらされていた住民たちにとって、伊勢山皇大神宮の創建が精神的な支柱となることが期待されていたことがある。また、伊勢山皇大神宮が神奈川県における神道国教化の拠点となることを想定されていたためもある。 もう一つの理由としては、当時の横浜の住民たちは、その大半が他地域からの移住者であり、隣人同士の繋がりが希薄で地域共同体としての機能が低かったことがあげられる。明治元年に、横浜の生糸商の番頭が郷里へ送った手紙には「横浜は江戸より狭いが、隣に誰が住んでいるのか知らないことも多い。人付き合いが無いので楽だ。」との記述があるが、これは当時としてはかなり異例なことであり、県としても望ましい状況ではなかった。そこで住民をまとめ上げ、「市民」としての価値観、一体感を植えつける起爆剤として、祭礼の高揚と興奮が用いられた。 横浜市民には「はまっこ」という自覚や意気込みが見られるが、この意識の起源の一つは、伊勢山皇大神宮の遷座祭といわれている[誰によって?]。 なお、遷座の行なわれた4月14日(旧暦)は例祭日となり、毎年この日に大祭を執り行うことが定められたが、明治6年(1873年)の太陽暦の採用により、例祭日は月遅れの5月15日となった。この日は第二次世界大戦終結までは横浜市の祝日とされ、学校をはじめ官公庁、工場に至るまで休みとなった。
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