最終弁論
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1995年(平成7年)2月24日、第26回公判が開かれ、13時30分に弁護側の最終弁論が始まった。弁論は「本件事件の特徴と真犯人像」から始まり、捜査段階や第一審での輿掛の不利益供述の任意性と信用性、102号室の住民の水音に関する証言の信用性、輿掛の身体にあった傷の評価、科警研の毛髪鑑定、三澤教授によるDNA鑑定の証拠能力や信用性などについて、安東・徳田・千野・鈴木・荷宮・古田・岡村邦彦の各弁護士が順に弁護側の主張を述べていった。 弁論の結びとなる「結語」は徳田弁護士が行った。徳田弁護士は、第一審から弁護についた者として自ら担当を願い出て、誰にも相談することなく一人で「結語」を書き上げていた。その内容は、自らの第一審での弁護活動を痛烈に自己批判するものであった。 原審第一回公判が開かれたのは、昭和五十七年四月二十六日である。既に十三年の歳月が経過した。 その第一回公判調書には、本件公訴事実に対する弁護人の意見が次のように記載されている。「被告人に犯行当時の記憶がないということであり、検察官請求予定の証拠では、本件の証明は不十分と思料されますし、有罪とは言えないと考えます。」 本弁論のため、本件各証拠の再検討を進める過程で原審弁護人らが何度この意見陳述を悔悟と苦渋をもって読み返したことであろうか。 これほどの重大事件の第一回公判期日を迎えながら、私達には深い霧の中を彷徨うが如き戸惑いがあった。その戸惑いは、被告人の供述調書を開示され、その異様さに直面した時から始まった。 ここには、新聞報道で全面自供と伝えられていたその「かけら」も認められなかった。「犯人は自分に違いない」との結論だけが強調され、何一つとして具体的な犯行状況が語られていないばかりか、何の脈絡もなく突然「気がついたら二〇三号室にいた」との供述に始まる調書は、私達の理解をはるかに超えていた。 被告人がその不利益供述に至る過程で、三日間以上にわたって絶食状態であったことを私達は知らなかった。 その故に、その被告人に対し連日十時間以上の取調べがなされたことの過酷さを私達は理解できていなかった。 指紋が犯行現場に遺留されていた等という虚偽の事実が突きつけられ、「科学の名に値しない」毛髪鑑定結果の告知とともに被告人をがんじがらめに呪縛していたことを私達は予想だにしていなかった。 母に合わせてくれと泣き崩れる被告人に対し、卑劣にもその「特別措置」の代償として、このような不利益供述が強制されたのだということを私達は知るよしもなかった。 弁護人として、恥ずべきことに、私達は供述調書へのその疑問を、被告人との会話の中で、被告人との人間関係を樹立する過程で解きほぐしていく努力を全面的に怠ってしまった。報道されたところの被告人は「自閉症」との先入観が、私達自らの許し難い偏見の故に私達からその努力を萎えさせてしまったのである。 その結果として、私達は、被告人との接見の確保を怠り、原審の審理を迎えるにあたって、被告人に対し、その強制された思い込みが虚偽であることに気付かせる契機を与えることができなかった。 被告人が、原審公判廷で「被害者の部屋にいたことは覚えている」との不利益供述を維持した責任の一半はまさしく私達にある。原審第十二回公判における被告人に対する強引な誘導尋問を含めて、私達は、自らの弁護人としての基本姿勢の誤りを何度か責め苛んできた。 本弁論における被告人の不利益供述の任意性に関する分析は、その苦渋と悔悟と謝罪の所産である。 — みどり荘事件弁護団 「控訴審弁論要旨」 そして、裁判所に対して、科警研の毛髪鑑定や三澤教授によるDNA鑑定といった「科学を装った非科学的鑑定」を厳しく明確に批判した上での完全無罪判決を求めて弁論を締めくくった。徳田弁護士が弁論を終えると、2時間にわたる弁護側の最終弁論を静かに聞いていた傍聴席から大きな拍手が沸き起こった。永松裁判長は、「静かにしなさい」と拍手を制止した。そして、「こんな立派な弁論に対して失礼でしょう」と付け加えた。 続いて検察側の最終弁論が行われたが、傍聴していたノンフィクション作家の小林道雄によれば、「弁護側が論破した問題点に対して、聞くべき反論はいささかもなかった」。 この公判で控訴審は結審し、判決公判は6月30日と指定された。
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