政変の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 23:51 UTC 版)
「アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ」の記事における「政変の時代」の解説
サンタ・アナはイトゥルビデの支援に関しては曖昧であった。イトゥルビデはけして人気があるわけでもなかったし、権力維持のための軍事力を必要としていた。サンタ・アナのいつもの癖は裕福で特権を持つものと手を結ぶことであったが、彼のよくある心配事はどの戦いでも勝ち馬に乗ることであった。 変節はけして彼にとって問題ではなかった。彼は自身に宣言した「祖国は私を必要としない限り」1822年サンタ・アナはイトゥルビデ打倒の計画を支援している軍閥のリーダのキャンプに移った。同年12月、彼とグアダルーペ・ビクトリア将軍は君主制を打倒し、メキシコを共和国に転換する「カサ・マタ綱領」に署名した。1823年5月、イトゥルビデの退位の後、ビクトリアはメキシコの初代大統領になった。彼らはサンタ・アナの日和見主義的な性格を知っていながら、サンタ・アナのイトゥルビデ打倒の役割は他の指導者からの支援を得た。 1824年、第2代メキシコ大統領のビセンテ・ゲレロはサンタ・アナをユカタン州の知事に任命した。彼のイニシアチブで彼はキューバ侵攻の準備をした。キューバはスペインの統治下のままであったが、そのような冒険のための資金も十分な支援もどちらもなかった。 1828年、サンタ・アナ、ビセンテ・ゲレロ、 ロレンソ・デ・サバレラと他の政治家は選挙で選ばれた大統領のマヌエル・ゴメス・ペドラサに対してクーデターを起こした。 同年12月3日、軍は宮殿に発砲した。はたして、選挙の結果は反故にされゲレロが大統領に返り咲いた。 1829年、スペインはタンピコで 2,600の兵力での侵攻で、メキシコ再征服の最後の試みをした。サンタ・アナは寡兵を以ってバラダス遠征に進軍し、スペイン軍を破った。スペイン軍の多くが黄熱病で苦しんでいた。 スペイン軍の敗北はサンタアンナの人気を高めただけでなく、新生メキシコ共和国の独立と結びつけられた。彼は英雄と言われた。それからというもの、彼は自身のことを「タンピコの勝利者」「祖国の救世主」と豪語した。彼の主な自己演出は自身を「西半球のナポレオン」と呼ぶことであった。1829年12月、アナスタシオ・ブスタマンテ副大統領がゲレロ大統領に反乱を起こし、彼を処刑し、翌年1月1日には大統領になった。1832年にたいする反乱がおきた。マヌエル・ゴメス・ペドラサを大統領にするためにである。彼の1828年の選挙は反乱を正当と認めた。反乱はサンタ・アナ将軍への命令を提供した。同年8月にブスタマンテは一時的にメルチョール・ムスキスを任命した。 彼は反乱に対して動き、これをガリネロで破った。ドローレス・イダルゴ、グアナフアトとプエブラからの軍はサンタ・アナの軍と合流するために進軍してきた。そのときサンタ・アナはプエブラに接近していた。2度以上にわたる戦いの後ブスタマンテ、ペドラサとサンタ・アナはペドラサを大統領とする「サバレタ協定 (1832年12月21日 - 23日)」に署名した。 ブスタマンテは亡命した。 サンタ・アナは新大統領につき従い、1833年に首都に入城した。
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