〒912-0203 福井県大野市後野
〒629-2404 京都府与謝郡与謝野町後野
〒811-1241 福岡県那珂川市後野
後野(うしろの)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 00:47 UTC 版)
旧加悦町域のほぼ中央に位置する後野区は、野田川の東西両岸にまたがり、氏神とする愛宕神社は算所区・加悦区から続く旧街道が通る西岸の山の斜面を造成した土地に鎮座する。かつては古愛宕と称され、江戸時代には将軍地蔵菩薩を祀り、愛宕地蔵大権現と称した。臨済宗宝勝寺の裏山から、1680年(延宝8年)に現在地に奉遷、1690年(元禄3年)に真言宗西光寺が愛宕権現を勧請して愛宕社を再建したことにより、西光寺の住持が愛宕神社の社僧となった。かつての本殿は、境内から社殿の裏山に続く山道を登った尾根線上にあり、人里から離れていたため拝礼が容易でなく、1896年(明治29年)に現在地に本殿を新築した。残された元の本殿は、「愛宕神社奥の院」と称されている。拝殿は本殿新築以前の、明治維新の後の1874年~1875年(明治7~8年)頃に、宮津城の本丸舘を譲渡され流用したもので、これは与謝野町指定文化財(建造物)となっている。 祭神は火産霊命で、1869年(明治2年)8月に山城国愛宕神社から神霊を分祀した。明治中期に加悦谷祭の4月に移行する前の、本来の例祭日は夏であったと伝えられる。なお、後野区は、もともとは加悦区・算所区とともに天満神社を氏神としていたが、1869年(明治2年)の神社御改を機に愛宕神社の氏子となった。 現在の加悦谷祭での祭礼は、両日とも午後に、ほぼ同じような内容で行われる。愛宕神社参道下での修祓、行列による区内巡行、愛宕神社での神事、囃子奉納で構成されるものである。なかでも、ちりりん棒の先導のもと、傘鉾、神楽、高張、神主、氏子総代、区役員、各町の代表、5台の屋台が旧街道を中心にそろって神社に向かう荘厳な行列は「後野の屋台行事」として1987年(昭和62年)4月に京都府登録無形民俗文化財に登録され、1992年(平成4年)12月に加悦町無形文化財に指定されている。 神楽の「カマド清め」は他地区と同じく宵宮に区内の全戸をまわり、鈴と御幣を用いて、家にはあがらず、土間や玄関先などから、床の間と、カマドや水神の2カ所を清める。 囃子は、笛,太鼓,二丁鉦,三味線で構成され、「イッケンショ」「ロクダン」「オッピキ」「タケバヤシ」など後野区全町で17曲が伝承され、各町がこのうちの7曲から14曲を伝える。このほか、大下町には古来伝統の奉納曲がある。加悦区から金屋区へ向かう時には神を奉じる時に奏じる曲とされる神聖な「ロクダン」を必ず演奏するなど、巡行におけるいくつかの場面では特定の曲が演奏されるが、とくに定まっていない場所での選曲は太鼓役の掛け声で決まる。各町の囃子は、伝承の経緯などにより、同じ曲名でも微妙に異なる。 芸屋台を持つ町では、それぞれの山車の名称に関係する御神体を町内のどこかで、通りからよく見えるように祀る。宮本町では、江戸時代に本地仏とした将軍地蔵を、町内の家で順番に祀る。上之町では、蛭子が鯛を釣る様子を描いた像を、新築などの祝い事があった家の希望者宅に飾る。中之町では、大黒の像を飾り、場所は班ごとの持ち回りとして班で巡行の道に面した一戸を指定し、「大黒さんの家」とする。下之町では竜の姿をした三輪明神を飾り、この御神体を飾る家は班ごとの当番制とされる。各々飾りつけ方にも細かい決まりごとがある。 祭事の担当地区、団体は以下の通り。 神楽舞 - 後野神楽保存会 「起(おこし)」「しょうがかり」「剣の舞」「鈴の舞」「乱舞」の5種の舞があり、このうち「起」はカマド清めに出る前の愛宕神社での納める「舞始め」の舞でのみ舞う。保存会は1978年(昭和53年)に結成されたもので、それ以前は嗎町が神楽組を務めた。神楽は、明治期の中頃の冬の農閑期に、4人ほどが他地域から習得した。温江区から伝わったとも、岩滝まで習いに行ったとも伝わる。現在は途絶えているが、かつては天狗の役もあった。 芸屋台「愛宕山」巡行 - 宮本町 屋台は、明治初期に建造された。見送り幕は1954年(昭和29年)に新調され、金糸で愛宕山と刺繍が入る。御神体は将軍地蔵。 子ども歌舞伎 - 宮本町愛宕山子供歌舞伎保存会(隔年) 子ども歌舞伎のない年には、子ども屋台が巡行する。 囃子屋台「蛭子山」巡行 - 上之町 屋台の創設年は不詳であるが、1861年(文久元年)に再建し、1909年(明治42年)に大幅に修理を行う。1948年(昭和23年)に新造する際に、古い屋台は金屋区に売却された。1790年(寛政2年)に西陣で織られた古い見送り幕もともに金屋区に移り、関羽と張飛を描いた現在使用される見送り幕は1906年(明治39年)に日露戦争紀念に作られたものである。上之町にはこのほか、1932年(昭和7年)に製造された子ども屋台がある。担い太鼓は1908年(明治41年)2月5日付で全廃の記録が残る。御神体は蛭子像。 囃子屋台「大黒山」巡行 - 中之町 江戸時代後半の寛政期に屋台と見送りを整えた記録が残るが、現存・活用されている屋台は明治30年代に製造されたものである。1856年(安政3年)に子ども役者2人を雇った記録が残り、幕末には芸屋台であったとみられる。御神体は大黒天。 囃子屋台「三輪山」巡行 - 下之町 かつては御神体を載せていた山屋台を芸屋台に改造したもので、1893年(明治26年)に新調された。見送り幕は1919年(大正8年)に新調されている。囃子道具に関する記録は1889年(明治22年)には残されており、祭礼の起源は古いと考えられる。御神体は龍体の三輪明神。 鼓屋台「建部山」巡行 - 大下町 1947年(昭和22年)に買い入れた中古の白木屋台を、1980年(昭和55年)から1年がかりで漆塗りを施した子ども屋台である。以前には担い屋台があった記録が残る。 ウィキメディア・コモンズには、愛宕神社(後野区)に関するカテゴリがあります。 屋台の巡行 屋台の巡行 加悦谷祭当日の拝殿 氏子宅での神楽舞の奉納(所望舞) 愛宕神社下での神楽の奉納 道中の無格社もともに祀られる。(ちりめん街道)
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