平陽昭公主とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 平陽昭公主の意味・解説 

平陽昭公主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 03:42 UTC 版)

平陽公主
続柄 高祖第三皇女

称号 平陽公主(諡:平陽昭公主)
身位 公主
出生 不詳
死去 武徳6年(623年
配偶者 柴紹
子女 柴哲威
柴令武
父親 高祖
母親 竇皇后
テンプレートを表示

平陽公主(へいよう こうしゅ)は、中国の高祖李淵の三女。本名は不詳、封号が平陽諡号で、通常はこれをひとつにして平陽昭公主(へいよう しょう こうしゅ)と呼んでいる。娘子軍を率いて父を助けたことで知られる。

生涯

李淵と竇皇后の間に生まれた。本名は知られていない。成人すると、柴紹に嫁いだ。

大業13年(617年)、父の李淵が太原で起兵したとき、夫の柴紹とともに長安にいた。公主は一計を案じ、柴紹には間道を抜けて太原に向かわせ、自分は鄠県に逃れた。家財を散じて兵を募り、数百人を得て、父の起兵に呼応した。ときに何潘仁が司竹園に拠って総管を称していたが、公主は家奴の馬三宝を派遣して降し、ともに鄠県を攻めた。また武功・盩厔・始平を経略して、李仲文・向善志・丘師利らを下した。部衆に法の遵守を誓わせ、略奪を禁じたので、関中近隣で公主につくものが多く、兵7万に及んだという。李淵の唐軍が黄河を渡ると、公主は渭北で李世民の軍と合流した。柴紹と公主は幕府を対置して、長安の平定にあたり、公主の部衆を娘子軍と号した。李淵が唐朝を建てると、平陽公主に封ぜられた。

武徳6年(623年)、亡くなった。公主の葬儀にあたって、李淵は羽葆・鼓吹・大路・麾幢・虎賁・甲卒・班剣の礼を加えた。葬礼をつかさどる太常は「婦人の葬儀に、昔から鼓吹の礼はない」といって反対したが、李淵は聞き入れず、「鼓吹は軍楽である。公主の身で金鼓をとり、軍命に参じたものが、昔にいたか。鼓吹を用いるにふさわしいではないか」と答えた。

伝記資料

  • 新唐書』巻83 列伝第8「諸帝公主伝」



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「平陽昭公主」の関連用語

平陽昭公主のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



平陽昭公主のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの平陽昭公主 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS