家茂の墓と遺体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:26 UTC 版)
昭和33年(1958年)から35年(1960年)に増上寺の徳川将軍家墓地改葬の際、徳川家の人々の遺骨の調査を行った鈴木尚の著書『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』によれば、家茂は月代を剃っておらず、若々しく豊富な髪の持ち主であったという。ただ、虫歯の度合いが酷く、残存する31本の歯のうち30本が虫歯にかかっていた。記録などから総合するに、家茂は元々、歯のエナメル質が極端に薄い体質であった上に大の甘党でもあった。その虫歯が家茂の体力を弱め、脚気衝心、さらには医師間の診断内容の相違(高階ら漢方の典医は脚気との診断を下したが、西洋医の幕府奥医師達はこれをリウマチだとして譲らなかった)も加わり、家茂の命を奪ったのではないか、と指摘している。 また墓地改葬の際に、和宮の墓の中から家茂と思われる男性の肖像写真が発見された。それまで、家茂は義兄の孝明天皇に倣って写真は撮影していなかったと思われていた。この写真は死の直前に大坂で撮影され、江戸にいる和宮に贈られたものとみられる。しかし写真は湿板写真だったため、発見の翌日に検証しようとしたところ、日光のためか画像は失われてしまっていた。発掘した歴史学者の山辺知行によると、写真の男性は「長袴の直垂に烏帽子をかぶった若い男性」で「豊頬でまだ童顔を残していた」という。写真はその後和宮の墓に戻された。
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