​大学で学ぶ、ということ

2025.01.03

ライフ・ソーシャル

​大学で学ぶ、ということ

純丘曜彰 教授博士
大阪芸術大学 哲学教授

/若いときに学ぶべきは、情報ではない。生き方だ。だから、それは、大学に限らない。バイトでも、徒弟修行でも、遍歴の旅でも、よく生きている人、うまく生きられていない人を見ることで、自分の生き方を模索し体得する。/

理系はともかく、文系は、大学で教わることなんか、たいていどこかの本に書いてある。もちろん自分で資料から集めて研究している真摯な先生もいるが、大半はだれかの受け売り。その水増しを研究だと称している。だから、通信制で十分、それどころか、大学なんか行く必要が無い、というのも一理ある。が、そんなことを言っているやつが、醜悪な顔で、堀の中に落ちたりすると、その一理はどこかおかしいことに気づくだろう。

自分も大学で教えて、かれこれ四十年。通信制もずいぶんやった。レポートは、褒めたり、戒めたり、真っ赤にペンを入れて返していたが、再提出して来ても、まったく改善しない学生が少なくなかった。しかし、通信制でもスクーリングという数日の教室講義もあって、そのときに説明すると、これに出席した学生は、その後、きちんとしたレポートが書けるようになる。

どうも大学で学ぶのは、情報ではないようだ。上述のように、いまの時代、情報は溢れている。だが、それは多すぎて、自分で取捨選択が難しく、むしろ奇矯な話の方が人々の関心を惹きがちだ。だから、スクーリングを含め、むしろ大学は、情報ではなく、情報に対する接し方を教える場なのかもしれない。

自分を振り返るに、結局、研究そのものは自分でやった。だが、研究の取り組み方、楽しみ方は、諸先生から学ぶところが大きかった。そして、このことは、理系でも同じだろうし、仕事もそうだろう。若いころ、非常勤講師と報道制作の仕事を掛け持ちしていたが、テレビ局の諸先輩から学んだことは、あまりに多い。ずっと大学の中だけにいたら、きっと自分も、大学によくいる、出汁殻のような、しょぼくれた、やる気の無い教員になってしまっていただろう。

つまり、若いときに学ぶべきは、情報ではない。生き方だ。だから、それは、大学に限らない。バイトでも、徒弟修行でも、遍歴の旅でも、よく生きている人、うまく生きられていない人を見ることで、自分の生き方を模索し体得する。

幕末、明治、そして戦後。そこでは、知識を得ることが目的ではなく、よく生きるために知ることを学ばせる学校が多くできた。次の時代の生き方を若者に教えようとする意欲的な先生方、志高い学校創設者達が多くいた。しかし、それも、高度経済成長とともに、どこもマスプロ化し、はや半世紀以上。ただカリキュラムに従って単位を取らせて学位を与えて卒業させるだけの処理システムに、生き方、学び方を教えられる人間的な教員や学校が、どれだけあるのだろうか。

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純丘曜彰 教授博士

大阪芸術大学 哲学教授

美術博士(東京藝大)、文学修士(東大)。東大卒。テレビ朝日ブレーン として『朝まで生テレビ!』を立ち上げ、東海大学総合経営学部准教授、グーテンベルク大学メディア学部客員教授などを経て現職。

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