シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

それが起こったとしても、誰も第三次世界大戦と呼ばないし、そんな風にも見えない

 
2025年が始まった。私は正月に放談をやるのが好きで、今年も例外じゃない。世界全体について、めちゃくちゃなことを書きたい。
 
去年のお正月に私は、『正月放談・2024年は戦前か?』という文章を書いた。ウクライナ情勢をはじめ、世の中はだんだんきな臭いほうに傾いていて、第三次世界大戦前になってきているのではないか、みたいなことを書いたわけだ。
 
で、2024年の間にはさらに色々なことが起こった。
ウクライナ情勢ではウクライナが劣勢、北朝鮮軍の姿がみられるようになったと聞く。中東ではハマスのテロをきっかけに、イスラエルによる破壊が繰り返された。国際情勢はビリヤードの球のように連鎖する。私たちが見聞きできる範囲でも、ロシアより南、イスラエルより北では色んなことが起こっているようにみえる。
 
アメリカではトランプ大統領が再選した。帰ってくるトランプ大統領は介入主義者ではなく、アメリカ軍があちこちで人員や金銭を消費しないよう望んでいると聞く。となると、2025年から2029年まで、アメリカは“世界の警察”を降りる可能性が高く、そのことはアメリカのライバル国家をエンカレッジし、従来の国際秩序を改変したい勢力をもエンカレッジするだろう。
 
ってことは、2025年以降は2024年以前よりも“力による現状の変更”がやりやすく、“地図の引き直し”が起こりやすくなるんじゃないか? 実際、2024年の段階でも素行不良国家による現状変更の試みが行われてきた。それらが成功裏に進めば、国際社会はそのような試みを許容する、あるいは、試みを止めるすべを失っていると皆は見るだろう。コロナ禍とそれに引き続くインフレーションに苦しむ国は多い。なかには、国内問題を国外問題に転換したいと望む国/指導者/国民もあるかもしれない。
 
そうしたなかで、国防力を急速につけようとしている東欧諸国や北欧諸国の痛みは想像するにあまりある。このインフレーション下で国防力に力をまわすのは、かなりしんどいはず。それでも国防力に力を注ぐ国々の姿に、背筋の寒いものを感じずにいられない。そういえば日本も、いつの間にか国防力の拡充に舵を切っている。国民はいざ知らず、指導層はそういう判断をしているということか? いや、案外日本人の多くが軍靴の足音を聞く思いを持っているのかもしれない。
 
 

第三次世界大戦は来ない/来る

 
私は楽観的/悲観的なので、第三次世界大戦は来ない/来ると思っている。まずは以下を。
 
去年の正月に id:ka-ka_xyz さんに教えていただいた、国会図書館の資料からの抜粋だ。以下のグラフは「第二次世界大戦」というキーワードの出現頻度を引っこ抜いたものだ。
 

※出典:Ngram viewer
 
「第二次世界大戦」というキーワードの出現頻度は1939年から上昇している。興味深いのは、「第二次世界大戦」という言葉がいよいよ語られるようになったのは戦後になってからという点だ。出版状況の違いや言論を巡る体制の変化のせいかもしれないが、日本で第二次世界大戦というキーワードが本当に人口に膾炙したのは、それを通り過ぎた後だった。そして21世紀になって第二次世界大戦はあまり登場しなくなっている。
 
ついでに「第三次世界大戦」というキーワードも見てみる。


※出典:Ngram viewer
 
これも興味深い。グラフからは、朝鮮戦争やベトナム戦争といった対立局面で「第三次世界大戦」というキーワードが頻出していることが読み取れる。それはそれで面白いのだが、一層興味を惹くのは、「第三次世界大戦」というキーワードも、21世紀以降は出番が少なくなっていることだ。眺めるに、「第二次世界大戦」「第三次世界大戦」といった概念は、20世紀的な概念だったのだろうか。その影におびえる度合いは、21世紀になってからはあまりない様子である。第一次世界大戦も20世紀的な概念だから、いわゆる第〇次世界大戦という概念じたい、前世紀の遺物なのかもしれない。私が「第三次世界大戦は来ない」と言う時、その理由のひとつはこれだ。
追記:ryou-takano さんから、資料の年限がぜんぜん手前だよとはてなブックマークでご指摘いただきました。ありがとうございます&訂正線を入れておきます。googleトレンドを見てきたところ、第二次世界大戦という言葉はちゃんと使われているし、第三次世界大戦という語彙はロシアがウクライナに侵攻した時にはかなり使われている様子でした。
 
 
ついでに言えば、20世紀の架空戦記モノにあったようなNBC兵器使いまくりの第三次世界大戦、赤軍戦車軍団がヨーロッパを蹂躙し、西側諸国が戦術核兵器で応戦しながら戦われるような第三次世界大戦もあり得ない*1。世界じゅうの巨大都市に核兵器が降り注ぎ、核の冬がやって来るような第三次世界大戦もあまり起こりそうにない。それらは20世紀に説得力を持ちえたイマジネーションだったのであって、ソ連崩壊からしばらくはもちろん、21世紀以降に似合うものとも思えない。
 
と同時に、私は「第三次世界大戦は起こる」とも書いた。
ただ先にも書いたように、それが第三次世界大戦と呼ばれる可能性は低く、世界大戦として皆に知られるのは事後かもしれない。そもそも今の国際情勢下において、第一次世界大戦や第二次世界大戦のようなかたちで戦争が始まるとは思えない。もし、これから世界大戦が起こるとしたら、それは世界大戦という体裁では始まらないだろう。戦争、という体裁で始まるとさえ思えない。
 
現に、ロシアはウクライナ侵攻のあれを「特別軍事作戦」などと呼び、戦争ではない風を装っている。だからというわけでもあるまいが、英語圏では「Russia-Ukline war」という表現に並んで「Ukline War」や「War In Ukline」といった少し曖昧な呼び方をしばしば見かける。日本でも、あの侵攻を「イラン・イラク戦争」のように「ロシア・ウクライナ戦争」と呼んでいるさまはあまり見かけない。ざっと見た感じでは、「ウクライナ情勢」「ロシアのウクライナ侵攻」「ロシアウクライナ危機」といった具合に、少し曖昧な表現が多い。
 
であれば、これから起こる国際紛争も単刀直入に戦争と呼ばれる可能性は低そうに思える。そもそも、わざわざ戦争という語彙を用いたい人が今どこにどれだけいるのか見当がつかない。みんな、戦争という語彙から逃げたくて、認めたくなくて、仕方がないんじゃないだろうか。
 
戦争は起こっていない。よろしい、世界は平常運転で株価が毀損されるような事態はやって来ない。他方で、戦争という呼び名を与えない限りにおいて、2020年代の国際社会はまだまだ無茶苦茶なことがまかり通ってしまいそうで、国境線の引き直しはできてしまいそうだ。戦争と呼びさえしなければ、戦争未満でさえあれば、国境線は力づくで引き直せる──世界じゅうの国がそのように認識したら? いや、既に世界じゅうの国々がそのように認識した後の世界が、2024年だったとしたら?
 
過去の歴史を振り返ると、皆がくたくたになって、こりごりになるまで現状変更の季節、調整局面の季節は続くのだろう。誰もくたくたになっておらず、誰もこりごりになっていないなら、政治判断としての軍事行動は選択肢として活き続ける。過去との相違点は、経済がものすごくグローバル化していること、人間の値段が高くなっていること、テクノロジーが軍事面でも統治面でも20世紀とはだいぶ違っていることぐらいだろうか。
 
2017年の正月に書いた『2010年代とはどういう時代だった(である)のか』という放談を、私は以下のように締めくくっていた。
 

言うまでもなく、ここに書き散らかした放言は私自身の主観に基づいた、きっと自分自身の年齢だから考えてしまうものなのだろう。これらが良い意味で外れて、「ハハハ、2017年の俺は心配性だなぁ、空を見上げて空が降って来ると思い込んでいるよ、この人は。」と笑い飛ばせるような2020年が来て欲しい。世界が平和で、日本も平和で、「秩序」が思ったほど動揺しなくて、みんなが健康で、インターネットが楽しい、そんな未来が来て欲しい。

2020年代の世界は、8年前よりもはっきり混沌としてきた。欧米中心の体制は2017年よりも動揺しているし、であるから、それに誰もが敬意を払い服従するとは到底思えない。個人では決して逆らえない大河の流れに、私(たち)自身はどのように適応すべきなのか、個人として何が選択し得るのか? そうした憂慮が加速するばかりの2025年の新年だったことを、ここに書き留めておく。
 
 

*1:してみれば、『マブラヴ』シリーズや『ガンパレードマーチ』の終末観とは優れて20世紀的な終末観だったのだ、と今は思える