嫉妬
休日が終わり、いつもの朝が戻ってきた。教室の空気は少しだけ湿り気を帯びていて、窓の外から差し込む光はぼんやりと薄い。わたしは自分の席に座って、教室の様子をぼんやりと眺めていた。友達同士が楽しそうに話している声、窓際の席で本を読んでいる子、まだ半分寝ぼけた顔で机に突っ伏している子。変わらない日常が、変わらないリズムで動いている。
そんな空気に溶け込むように、わたしはただ静かにその場にいるだけだった。手元にノートを開いたまま、何をするでもなく、ただその場に「いる」という事実だけを感じていた。心のどこかに引っかかっているのは、首元に触れるチョーカーの存在。それが、自分だけに目立っていると錯覚させられているように感じ、誰かが気づいているのではないかとそわそわしてしまう。
「……ほんと、なんでこんなもの……」
小さく呟いてみても、それは当然返事をするわけでもなく、ただそこにあるだけだった。
そのとき、突然背後から温かい手が伸びてきて、わたしの視界が覆われる。
「だーれだ!」
明るい声が耳元で響く。声の主は一瞬で分かった。毎日聞き慣れた、その元気いっぱいな声。
「……胡桃でしょ?」
答えた瞬間、わたしの目を覆っていた手が、パッと離れた。
「ピンポーン!さすが椎名ちゃん!」
胡桃ちゃんは、目の前にひょいと現れて嬉しそうに笑っている。その笑顔がまぶしすぎて、自然とこちらまで顔がほころんでしまう。
「どうして分かったの?」
「分かるよ、いつもと同じ元気な声だから」
そう言うと、胡桃ちゃんは「そっかー」と嬉しそうにうなずいた。
でも、その視線がふとわたしの顔から少し下に動いた。
「ねえ、それ……チョーカーだよね?」
やっぱり気づかれた。わたしはとっさに首元を手で隠す。でも、それがかえって目立ってしまったみたいで、胡桃ちゃんはさらに好奇心を強めた様子で近づいてくる。
「へぇ~、なんか可愛いじゃん!」
その言葉に、胸がドキリとする。
「ただの……アクセサリーっていうか」
どう返せばいいのか迷っていると、彼女はさらに一言付け加える。
「えー、いいなあ、似合ってるよ!ちょっと病み系っぽくて可愛い!」
胡桃ちゃんは無邪気にそう言ったけれど、「病み系」という言葉が胸に刺さる。そんなつもりは全然なかったのに、周りからはそう見えていたのか。意識すればするほど、頬が熱くなるのが分かった。ああ、やっぱり美琴さんのせいだ。
「これ、美琴さんに買ってもらったんだよ」
なんとなく言い訳がましくそう伝えると、胡桃ちゃんの目がぱっと輝いた。
「えっ、椎名ちゃんだけズルい!私も欲しい!」
「……ズルいって言われても」
彼女の子どもみたいな言い方に、思わず笑いそうになる。胡桃ちゃんは頬を膨らませ、わたしの肩に軽く寄りかかるようにして言った。
「いいなあ……じゃあ、今度一緒に買いに行こうよ!」
「え、わたしが?」
「うん、次の休みでいいでしょ?」
唐突な提案に少し戸惑いながらも、胡桃ちゃんの期待に満ちた目を見ていると断れなかった。
「分かった、じゃあ次の休みにね」
「やったー!」
胡桃ちゃんは両手を小さく挙げて喜ぶ。その無邪気な姿に、思わずわたしもつられて笑ってしまう。
「せっかくだし、美琴さんも誘おうか?」
わたしがそう提案すると、胡桃ちゃんは少しだけ眉を下げて、首を横に振った。
「ううん、美琴ちゃんとは2人だけで出かけたでしょ?だから次は私と2人きりで遊ぼうよ」
胡桃ちゃんならってきり、「3人で遊ぼう!!」と言うと思っていたので、少しだけ驚いてしまった。胡桃ちゃんと美琴さんは親友同士だし、何かあるのでは?邪推してしまう。なぜ、わたしにこだわるのか分からないが、断る理由もない。
「……分かった」
「椎名ちゃんありがとう!!」
笑顔のまま席に戻る胡桃ちゃんの後ろ姿を見送りながら、わたしは心の中でそっとため息をついた。
◇◇◇
午前中の授業が終わり、昼休みが訪れる。教室のざわめきが一層大きくなり、机を囲んで弁当を広げるグループや、教科書を片付ける音が飛び交う。わたしは、席を立つと「ちょっとトイレ」と友達に一言残して教室を出た。
トイレに入り、鏡の前に立つ。反射する自分の姿。制服はちゃんと整えているけど、少し乱れた前髪が気になる。指先で直そうとした瞬間、チョーカーが目に入った。こうして学校にまで身につけてくると、やっぱりちょっと目立つ気がする。黒いリボンに小さな飾りがついたデザインは、どう見ても「わたしの趣味」とは違う。
『病み系ファッションみたい』
胡桃ちゃんの無邪気な言葉が脳裏に浮かぶ。あのときはただ笑って流したけど、周りからそんな風に見られているのかと思うと少し居心地が悪い。
「先生にはバレなかったけど、これ思ったより目立つよね……」
友達から「イメチェン?」と聞かれる場面もあった。イメチェンって言うなら、せめてピアスとかだよね。
可愛いと言えば可愛いのかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えながら、指先でチョーカーの表面をなぞる。飾りが小さく揺れた。それが、まるで「これ見よがし」に自己主張しているように見えるのは気のせいだろうか。
でも、実際に美琴さんは「これで誰にも取られない」なんて言っていた。そんなつもりはなかったけど、これが何かの「印」みたいに思えてくる。気にしない方がいいと分かっているのに、一度意識してしまうと、どんどん気になってしまう。
入口のドアが開く音がして、誰かが入ってくる気配がした。その人物が何の前触れもなく声をかけてきた。
「どう? チョーカー、馴染んできた?」
「美琴さん……さすがに学校では恥ずかしいです」
そう言うと、美琴さんは口元を手で隠して笑った。
「でも、みんなから可愛いって言われてるみたいじゃない?」
「そ、それは……あまり嬉しくないです」
素直に答えたつもりだったけど、美琴さんの笑みはますます深まっていく。
「そうよね。だってこれは『私のモノ』って周りに知らせるためのものだもの」
「誰もそんな風に見てませんよ!」
わたしの頬が一気に熱くなる。
「椎名は気づいてないかもしれないけど、あなたは男子から結構人気なのよ」
「へえ……興味ないです」
「そう、ならよかった」
彼女は目を細めわたしを見つめてくる。なんだか落ち着かない。この話題から早く逃れたいと思っていると、彼女がぽつりとつぶやいた。
「胡桃が嬉しそうに言ってたわよ。今度椎名と2人きりで遊ぶって」
「え?」
思わず声が漏れる。一番知られたくない人に情報が渡ってしまった。しかも、胡桃ちゃんを通して。
「わたし、美琴さんも誘おうとしたんですけど……」
慌てて弁解しようとすると、美琴さんはクスリと笑った。
「何を怯えてるの? 別に怒ってないわよ。胡桃が決めたことだから」
美琴さんの口調は穏やかで、そこに怒りの気配はない。けれど、どこか棘のあるニュアンスが混ざっているように感じたのは気のせいだろうか。
「ただ、ちょっとした嫉妬くらいは感じるかな」
嫉妬……美琴さんから聞けると思わなかった言葉。それはどっちに向けられた感情なのか。親友を独占するわたし?それとも奴隷を奪った胡桃ちゃん?でも、一つだけ分かることがある。このあと言われる言葉は命令だ。
「だから、今日、私の家に来て」
◇◇◇
放課後の空は、わずかに赤みを帯び始めている。美琴さんと並んで歩く廊下は、いつもより少しだけ静かに感じた。人の気配が少ないせいだろうか。それとも、わたし自身が緊張しているからだろうか。
校門を抜けると、美琴さんは振り返りもしないで先を歩いていく。その背中を追うわたしは、生まれたてのアヒルのようにぎこちなく、ただ付いていくことしかできなかった。
彼女の家に行くのは初めてだった。足取りは確かに進んでいるのに、心は今すぐ引き返したい気持ちでいっぱいだった。けれど、背を向ける勇気もなければ、彼女を拒む言葉も見つからない。
アレをしているところを見せる、足を舐める、無理やり吐く。全て学校で行われたこと。学校だからこの程度に収まっている。彼女の家に行ったら、これより過酷な命令が待っているのは明白。怖いなあ……
「ねえ、胡桃と二人きりで遊ぶの、楽しみ?」
突然、美琴さんが振り返らずに問いかけてきた。その声は、どこか柔らかいのに、妙に鋭く感じられる。
「……まあ、楽しみにはしてます」
嘘ではないけれど、本心からそうと言い切れるわけでもない。自分の答えが正解なのか、間違いなのかも分からない。ただ、美琴さんの言葉に応えなければいけない気がして、それだけを優先して口を開いた。
「そうよね。だって好きな人と一緒なんだもの」
美琴さんがそう言った瞬間、まるで足元の石につまずいたような感覚がした。「好き」という言葉が、胸に直接突き刺さる。その痛みが思考を曇らせた。
「……好き、なんですかね」
自分の口からこぼれた言葉は、意識するよりも先に出ていた。気づいたときには、もう遅い。
美琴さんは立ち止まり振り返る。
「最近はよく分からない、ってこと?」
彼女の問いかけに小さく頷く。
「でも、友達以上の感情はたぶんまだあると思います」
言いながら自分でも不思議に思う。どうして美琴さんにこんな話をしているんだろう。彼女に話したところで、どうにかなるでもないのに。それでも、答えを探るように言葉を続けた。
「でも、付き合えるわけないって、分かり切っているから諦めているんだと思います」
「付きあえるわけない?どうしてそう思ったの」
「遠くから眺めているときは、胡桃ちゃんのことよく知らなかったから、もしかしたら……って思えたんですよ。でも、友達になって、胡桃ちゃんのことを少しずつ知る機会が増えて……なんとなく、友達のままで終わるんだろうなって」
自分でも驚くほど素直に、正直に言葉が出てくる。そのたびに胸が締め付けられるような感覚があった。それでも話さずにはいられなかった。
わたしの話を聞いた彼女は微笑んでいた。けれど、その笑みの奥にあるものは、何か別の感情だった。薄く、冷たさすら感じさせるような――そんな笑顔。
「でも、そもそも付き合える資格なんて、あなたにはないでしょ?」
「………」
「あら、黙るのね」
美琴さんの言葉は刃物のようだった。わたしは黙るしかない。
「いつか償いができるといいわね」
彼女はスッとわたしの手を取った。痛いほど力強く、不快感を覚えるのに十分だった。
「行きましょう」
それだけを告げて、美琴さんは再び歩き始めた。手を引かれたわたしは、逆らうこともできず、ただ彼女の後ろをついて行く。
◇◇◇
沈黙が続いたまま、美琴さんの家の前にたどり着いた。玄関前で美琴さんは立ち止まり、振り返る。その表情は真剣そのもので、どこか張り詰めたものを感じさせる。
「嫉妬しているから、ちょっと今日は乱暴になっちゃうかも」
その言葉がただの冗談で済まないことを、わたしは知っている。
わたしの反応を見ていた美琴さんは、ふっと小さく笑うと、再び言葉を続けた。
「でもね、これだけは言っておくわ。今から言うのは命令じゃないの。あなたが決めること」
そう言うと、美琴さんはゆっくりとドアノブに手をかけた。しかし、開けることはせず、ただ静かに立ち尽くす。
「引き返したかったら、ここが最後よ。どうする?」
その問いかけは、ただの確認ではなかった。わたしに選択肢を与えるようでいて、実際には何も選べない状況を作り出している。そう感じるのは、彼女の声の調子や、その微笑みによるものだろう。
「ついでに言うけど、今日は両親の帰りが遅くなるみたい」
その一言が、トドメのように響いた。意味するところは明白だった。それを理解した瞬間、心臓が大きく脈打つ。
「言いたいこと……分かるよね?」
彼女の言葉は静かだったけれど、確実にわたしの心を縛っていく。
「それを踏まえて、答えを聞かせて」
わたしは、喉が渇くのを感じながら、ゆっくりと口を開いた。
「……わかりました」
それが正しい答えなのかは分からない。けれど、美琴さんの表情が微かに緩むのを見て、わたしは自分がもう後戻りできない場所に足を踏み入れたのだと確信した。
静かに開いた扉の向こうは、まるで別世界のように暗く静まり返っている。足を踏み入れると、家の中の空気が肌にまとわりつくような気がした。
「上がって」
促されるまま靴を脱ぎ、彼女の後に続く。美琴さんの部屋は生活感がほとんど感じられなかった。整然としていて、どこか冷たさを感じる空間。その場にいるだけで、まるで自分の存在が否定されるような錯覚を覚える。
「飲み物、いる?」
「……お茶をお願いします」
かすれた声で答えると、彼女は頷きながら静かに準備を始めた。リビングから戻ってきた彼女のその動作には無駄がなく、どこか機械的ですらある。カップを手渡されたとき、わたしの手はわずかに震えていた。
「緊張してる?」
緊張しているかと問われて、何と答えるべきか迷った。
緊張という言葉で済ませられるほど単純な感情ではない。恐怖とも違う。これは、わたしの中で生まれた美琴さんへの複雑な感情が、形を持たないまま膨れ上がり、行き場を失った結果だ。
「そんなに怖がらないで。今日はあなたにとって大事な時間になるはずだから」
美琴さんがそう言いながらベットに腰掛ける。彼女はポンポンとベッドを叩き、隣に座ることを促す。距離は近い。息を呑むほどに近い。
「ねえ、胡桃のこと、本当に好きだった?」
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