壊してほしい
「好きだったから……あんなことしたんですよ」
「もし、その好きが勘違いだとしたら?」
「は?」
美琴さんの言葉が一瞬でわたしの思考をかき乱す。言葉そのものが理解できな訳じゃない。ただ、言われた意味を受け止めるのに時間がかかる。
勘違い?わたしが?いや、そんなはずない。でも、心当たりがないわけじゃないのが厄介だ。実際わたしは、勘違いの恋に近い事例を体験している。
美琴さんに命令されたあと、優しくされると一時的に恋に近い感情が芽生える。それは分かっている。自分の心が安直に揺さぶられているだけだとも。でも、それは永続的じゃない。わたしは美琴さんのを本当に好きになったことはない。むしろ、今日の彼女はあまり好きじゃない。
「たまにないかしら、真っ白なキャンバスを色とりどりの絵の具で汚したくなること」
彼女はそう言いながら、わたしの手に自分の手を重ねた。触れた瞬間、ひやりとした感触が伝わる。
「分かりません、考えたこともないので」
「そう、私は無性にむしゃくしゃするよ」
美琴さんの目がどこか感情的な光を宿しているのが気になる。今日はやけに不安定だ。何かがいつもと違う。
「椎名の手は白くて綺麗な手をしてるよね」
「それがどうしたんですか?」
そう返すと、わたしの手を掴んだまま彼女はその指先に力を込める。爪がわたしの肌にじわじわと食い込んでくる。最初は少しチクっとするだけ。それが徐々に鋭さが増していき、確かに「痛み」と呼べる感覚に変わる。
なのに、どこか現実味が薄い。痛いはずなのに、ぼんやりとしている。自分の体が自分のものではないような、不思議な感覚に陥る。
「美琴さん、やめてください……」
そう言ったつもりだった。でも、自分の声は想像以上に小さく、かすれていて、彼女の耳には届いていないように思えた。もしかしたら聞こえていても、彼女はそれを無視しているのかもしれない。
「あなたも同じなのよ。胡桃のこと汚したかった、そうでしょ?」
「……っ!」
美琴さんの爪が深く食い込むたびに、血がじわりと滲み出す。赤い液体がわたしの白い肌を染めていくのを、彼女は興味深そうに見つめている。何かを確かめるようなその視線に、ぞっとするほどの寒気が背筋を駆け抜けた。
「好きだから追っていたわけじゃないのよね。あなたは、自分の欲望のはけ口を探していたに過ぎない」
彼女の言葉に胸がぎゅっと締め付けられる。何かを言い返さなければと思うのに、喉が詰まって声が出ない。美琴さんはさらに言葉を重ねる。
「その中で、誰よりも真っ白で純粋な胡桃に目を付けた。ねえ、そうでしょ?」
「違う……違います……」
自分の声が震えているのがわかる。必死に否定しようとするが、わたしの言葉はまるで虚空に消えるようだった。美琴さんは、そんなわたしの弱々しい抵抗を無視して話を続ける。
「あなたはチャンスとばかりに、あの子を汚した。だって、混じれ気のないものほど汚す価値があると思ったんじゃない?」
わたしの心に遠慮も無しに入り込んでくる。凄く苦しい、自分の中の「好き」がどんどん解剖され、内部を晒されていくような感覚。
「本当に最低ね。あなたって、本当に気持ち悪いわよね」
胸の奥に鋭い痛みが走る。心臓がぎゅっと握り潰されるような感覚に襲われた。
「でも、それがあなたの本質なのよ。気づきなさいよ、椎名さん。自分の醜さに」
「違う!そんなはずない……わたしのことを知った気にならないでよ!」
言い終わると同時に、美琴さんの表情が一瞬だけ驚きに染まり、次の瞬間には呆れたような冷たい笑みを浮かべていた。彼女はゆっくりと首を傾げながら、面白がるような視線を向ける。
「だったら、私を拒絶したら?」
美琴さんの声は、挑発的でありながらどこか冷徹だった。
「そして自分が正しいって証明しなよ」
次の瞬間、美琴さんは私の肩を押し、あっけなくベッドに倒れ込む形になった。
「どうして抵抗しないの?」
耳元で囁かれるその声は、蛇が獲物を絡め取るかのような息苦しさを覚える。
抵抗――?
その言葉が頭に響いた瞬間、心の中で自問自答が始まる。
抵抗するには、美琴さんと距離を取る必要がある。
どうやって?
手を振り払えばいいだけ。
じゃあ、なんで行動に移さないの?
なんでって……あれ、なんでだろう?
「ほら、やっぱりできないじゃない」
美琴さんが鼻で笑いながら、さらに顔を近づけてきた。彼女の瞳は、わたしを見透かすようにじっとこちらを見つめている。
「ねえ、椎名……あなた、本当に気づいてないんだね」
耳元で囁く美琴さんの声が、肌に絡みつくように冷たい。言葉の端々に嘲笑が混じっているように聞こえる。
「あなたは、結局のところ私に依存しているの。だから拒絶なんてできないのよ」
依存、という言葉が耳に刺さり、鼓膜を貫くようだった。頭の中で何度もその言葉が反響する。依存。そんなはずはない。わたしはそんな弱い人間じゃない。けれど、否定しようとしても、なぜか言葉が喉の奥で引っかかる。
わたしが、依存? 彼女に?
考えたくないその可能性に、脳が警報を鳴らしている。無意識のうちに息が荒くなり、胸が詰まるような感覚が広がる。でも、それを認めるわけにはいかない。美琴さんにだけは、そんな姿を見せたくない。
「私がいなければ、あなたはどうするつもり?」
「どうするって……」
「誰にも愛されない、何の価値もない存在なのに」
価値がない……そんなことを自分では考えたくない。でも、その言葉が一度頭に植え付けられると、まるで染み込むようにわたしの中に広がっていく。
わたしは言葉を探そうとする。反論しなくてはならない。美琴さんの言葉は間違っている、と言わなくてはならない。でも、探しても探しても、言葉が見つからない。どれも中途半端で、口に出す前に霧散してしまう。
「あなたは私を嫌いだと言いながら、実際は私に縋っているだけなのよ。だからこうして私に支配されるのが心地いいんでしょ。自分で選ぶ責任を放棄して、他人に操られることを選んだ」
痛みとともに、わたしの中の何かが崩れ去っていくのを感じた。
「どうして……どうしてそんなこと言うんですか……」
震える声で問いかけるが、美琴さんはただ冷たく笑うだけだった。彼女の笑顔は、美しくも残酷だった。
わたしは子供のように泣きじゃくっていた。自分がこんなにも脆い存在だったなんて、思いもしなかった。目の前の美琴さんに何も言い返せない自分が、ただただ情けない。
涙は止めどなく流れ続け、ポタポタと落ちていく。こんな姿、見せたくなかった。必死に手で拭い、袖で隠そうとするけれど、涙は一向に止まる気配を見せない。
「本当に、弱いね」
美琴さんの声がまた心に刺さる。慰めの言葉を期待していたわけじゃない。けれど、この冷たい態度に、また胸が締め付けられる。
すると、突然彼女が顔を近づけてきた。気づいた時にはもう遅かった。美琴さんの唇が、わたしのそれに触れていた。
――キス?
頭が真っ白になる。さっきまでの冷たさはどこへ行ったのか。ほんの一瞬の触れ合いだったのに、それは焼き付くように強烈で、体が硬直する。唇が離れた瞬間、現実に引き戻される。
「もう、楽になろうよ」
美琴さんはそう言った。まるで重荷を下ろすことを勧めるような、甘く、けれどぞっとする声だった。
「辛いです……どうしたら……いいですか?」
嗚咽混じりに絞り出した声が、自分でも驚くほど弱々しかった。どうすればこの痛みから解放されるのか、何かしらの答えが欲しくて、縋るように彼女を見つめた。
美琴さんは少しだけ考える素振りを見せ、そして無情にもさらりと言い放つ。
「じゃあ、胡桃と絶交してよ」
「え……?」
耳を疑うような言葉に、反射的に声が漏れた。
「罪悪感を覚えながら一緒にいる辛いでしょ。無邪気に絡んできて、それでいて自分の思いにも全然気づいてくれない。汚れたあなたと、真っ白なあの子は決して交わることなんてないのよ」
美琴さんの目は、まるで命令を伝えるだけのロボットのように、無機質な光を宿している。
「そ、それは……」
わたしの声が震える。胡桃は大切な友達だ。そんな簡単に絶交なんてできるはずがない。でも、美琴さんの言葉には逆らえない。
「できるよね?」
美琴さんの声は優しいようでいて、有無を言わせない冷徹さが含まれている。その視線に、抗う気力を奪われていく。
「絶交します……」
気づけば、そう口にしていた。自分の声なのに他人事のように響く。心のどこかで拒絶したい気持ちはあるのに、その一言がわたしを裏切る。
美琴さんは満足そうに微笑んだ。
「そう。いい子だね」
どこか歪んで見える。部屋には静寂が広がり、わたしの心臓の音だけが耳に響いていた。
「たまには、椎名にもご褒美をあげないとね」
美琴さんがふいに口を開く。その言葉に、不意打ちのようなときめきが胸を突いた。
「何が欲しい?」
問いかける声は甘く、まるで罠のようだった。けれど、それでもわたしは、その誘惑から目を背けられない。唇が震えながら言葉を紡ぐ。
「美琴さんが欲しいです……」
自分でも驚くほど率直な答えだった。普段なら絶対に言えない。けれど、この場では隠す必要がないと感じてしまった。
美琴さんは一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐにまたあの冷たい笑みを浮かべた。
「私が欲しいって……欲張りさんだね」
「……わたしには、美琴さんしかいないんです」
心の底からの本音だった。どれだけ苦しくても、冷たくされても、結局わたしは美琴さんを必要としている。
彼女は黙ったまま、わたしを見つめている。その瞳はまるで獲物を観察するようで、逃げ場がない。
「わたしを……壊してください」
「分かった」
美琴さんの返事は、驚くほどあっさりとしていた。
「最後に聞くけど、いいの?私が初めての相手で」
彼女の問いかけに、わたしは静かに頷く。
美琴さんはわたしの涙を指で拭い、優しく微笑んだ。その微笑みはどこか狂おしく、それでも美しかった。まるで暗闇の中で輝く月のように、手の届かない光だった。
彼女の指先がそっとわたしの頬を撫で、次の瞬間、彼女は静かに言った。
「じゃあ、壊してあげる」
その言葉は甘美で、まるで魔法の呪文のようにわたしの心に響いた。もう後戻りはできない。全てを委ねる覚悟を決めた瞬間だった。
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